第6話 逆打ちだから、だんだんとその時が近づいてくる

 逆打ぎゃくうちだから、としや年月が反対に戻っているのだから、だんだんとその時にまで近づいてくる。

 その時とは、わたしが四十で妻が三十五の時だ。離婚したばかりの二人の時だ。作った家族を失敗しておたがいが独り身になったばかりの男と女の顔では初めてこの図書館の螺旋階段の踊り場で出逢った時だ。

 いや、妻の口を借りれば、再会したのだ。

 子どもだったころから、年の差5つのまま、わたしたちは何度もこの図書館で、この踊り場で遭遇している。わたしが小学4年生から高校3年生まで、妻の方は、幼稚園の年中さんから中学1年生までのおたがいがそれぞれの8年間、何度も何度も触れ合う寸前のすれ違いをしている。妻は何度も何度もそう話したが、いつ聞いてもわたしは素直にそれを受け入れるられない節がある。

 「小学生の仔ならともかく中学生にもなってる女の子に、そんな無視するような真似を・・・」

 わたしは幼い時から女性との接点に恵まれた人生ではない。そんな何度もわたしを意識してくれた女の子がいたのなら気づかないはずないのに・・・と口ごたえするわたしに、妻は横ぐしを入れてくる。

 女の子を匂いと唇の感覚でしか見ていない中学生高校生の男子が細っそいツインテールしてる二の腕も太腿も瘦せてガリガリの年下女子とししたじょしに「目が向くはずなんてない」と、ずっとシルエットの変わらない妻は攻めてくる。

 そうだねと、わたしの思考はそこでいつも停止する。


 いったんは社会と向き合いつくった家族を失敗した二人は、それに背中をむけていた。自分のものでも他人からの借り物でも、どちらでも良かった。

 相手の男と女の身体でなく、抱きしめられるリアルが欲しかった。

 

 わたしたちのリアルは、あの踊り場から、そのあとのラウンジから始まった。

 いい歳した大人の男女が、宗教団体がする集団見合いか数万頭いるアザラシの集団のような中から赤い糸で結ばれている運命の人を見つけ、ほかの信者やアザラシの目に臆することなく「ワぁーォおー」の地声をぶつけ手を取り合う儀式から始まった。


 こうして、わたしは20年かけて妻は25年をかけて逆打ぎゃくうちなどとオカルトじみたかんむりを付け、掴もうとしてきたリアルの軌跡を辿ってきたけれど、過去のやってきたこと或いはやってはこなかったことを知った身の上になっても、大して外れることはなかった、出来なかったように思う。

 あがこうが、あがくまいが、自分だけで完結することは限られている。


 再び気管支炎に掛かったとき、妻は、生死を彷徨さまよう肺炎に至らないよう少し手前の鼻がツーんとしたときに常備薬の風邪薬を飲んでおいた。お互いの月命日はわかっているから、毎月、ふたりで、その日に、オムライスとニシン蕎麦を食べに出かけた。

 月に二度、わたしたち二人がそろっての唯一のお出かけだ。

 いつものごはんと違って、外で食べるのはそれだけだから、オムライスの方は、東軒あずまけんより数段美味しい老舗のその中華料理店にはやく変えた。三代目の女将は、その娘で語られる四代目の女将くらいに若かった。毎月決まった日にオムライスを食べにきても、繫盛店だから、毎月同じ日の中年男女の二人組に彼女のは何も気に留めない。それでも妻は女将の後ろ姿を指差して「逆打ぎゃくうちして10年だから、あのひと、まだ三十路なのよ」といたずらっぽく笑う。

 そば屋の方は、ほんとうはそんなに好きでもないニシン蕎麦だから、大した話もせずにただ黙々と食べていた。下戸のわたしが酒を頼むはずはなかった。


 わたしたち二人だって数えるほどしか変わらないのだから、他人や物事がそうやすやすと変わることはないのだ。

 それが、たとえ、血のつながりのある元の家族であったとしても。娘の瑤子ようこには最晩年に優しく接してもらったというが、わたしには縁のない孫まで抱かせてもらったと言いながら、妻はわたしの孫の子の名前をけっして伝えない。

 確か今日だったはずだととはっきり覚えてはいたが、「二度も行くなんて品がないわよ」と妻のアドバイスに従い、瑤子の連れ合いの葬儀には再びは行かなかった。

 逆打ちから辿たどってみても、瑤子がわたしに近づいてくることはないのだ。

 最初から最後、最後から最初まで孫が生まれた名前も性別もしらされることはないだろう。

 逆打ちしてからの20年が近づく。

 瑤子はいま高校生のはずだ。偶然に同じ空気を吸い込むスペースに見かけたとしても16才の女の子にそんなことを聞けるはずはないのだ。


 明人君の方も似たようなものだという。

 大人にはなりたかないが早く自立しなければと、社会にでてすぐに結婚した奥さんの名前すら妻はいまだに教えてもらえてはいない。いまだには、いまさら必要なのかもしれない。

「男の子と女親おんなおや間柄あいだがらって、面倒くさいのよ」と、その度ごとに妻はそう言って、自分から振ったはずなのに、子供たちの話をやめにする。 

 

 逆打ぎゃくうちでわたしたち二人が中年のおじさんおばさんの入り口にまで戻れば、ふたりの子どもは、それに見合った思春期の入り口に立つ年頃だ。こちらのわがままな事情に無理矢理付き合わされてる中学生高校生に、更に追い打ちをかけるなんて、品の良し悪しや血のつながりうんぬん以前にひとのやることじゃない。

 逆打ちしてきた20年間、25年間の時間があっても、いったん縁を切った親の方が出来ることは、は別世界の宇宙の先から思いやるよりほか手立てはないのだから。



 時間は巻き戻されてはいるが、わたしらは若返っているが、それまでのことをぬぐい捨てる厚顔こうがんでいることはむつかしい。逆さ打ちになったからといって、この今は初めての今ではなく、遠い先から眺めている茫洋ぼうようが挟まれている。

 先の、よわいを重ねていたときでさえ、いちがいに老いの感慨は起こらなかった。重ねていくものは、こちらの意などは気に留めず、どんどん勝手に先に進んでいく。

 そこに、茫洋あるいは漠々ばくばくが挟まれ、それに気づいたとき、こちらの意などは気に留めず、感慨は勝手に立ち上がっくる。

 先からだろうが後からだろうが、変わらない。それが、いつでもわたしに張り付いている気質きしつしょうによるような気がする。 

 わたしのしょうは、時間が巻き戻っても若返っていくことに抗おうとしているのかもしれない。

 

 妻は、違う。素直に若くなるのを受け入れている。

 毎日毎晩、いっしょに同じものを食べ、同じしとねでセックスしている妻は、三十路だった頃の張りを、しなりを、声を取り戻している。その隣で若返りの20年を伴走しているわたしに怪訝な眼差しを送ってこないのだから、きっとじつのわたしだって似つかわしいパートナーの姿かたちに戻ってきている、はずだ。

 若返っていると感じてるのは姿かたちばかりじゃない。張りやしなりや声だって若がってるはずだ。一度だけった地声を聞かされたことがあるが、わたしの声はあんな声ではないはずだ。自分でも他人でもないあんな声が世間様から受け入れられてるわたしの声だなんて、想像すら出来ない。

 拒絶し金輪際受け入れたくないと唾棄したあんな声のはずがない。

 わたしは歌い手が嫌いだ。己れの頭蓋ずがいを通じて聞こえる声とまったくなものなのに、世間様が称賛してくれるからと生業とするさが嫌いだ。

 嫌いだが憧れる、憧れてるのを認めたくないから嫌うのだ。ほんとうはひざまづくほど憧れてるのに。そんなわたしのいざる膝とは違って、好きな歌い手好きな声の持ち主になんの垣根も作らず一体となって聞きほれる妻の横顔はもっと嫌いだ。嫌いだが、憧れる。ひざまづくほどに憧れる。

 

 逆打ぎゃくうちの20年で、そんな鬱屈の気質だけが置いてけぼりされている。茫洋ぼうよう漠々ばくばくに挟まれ、それでもまだあらがっている己れがいる。

 いつも張り付いてる鬱屈の気質に抗おうとしてる己れがいる。

  

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