第3話 あの子は奴隷で、不良奴隷

 ジャケットは脱ぎ、ネックレスははずしていたが、花柄のワンピは着たまま、化粧も落とさないままソファで寝ていた。

 花柄というより、曲線で大きく不規則に切った区画に花のような鮮やかな色を散らした柄で、美々みみは気に入っていた。「勝負服」というほどではないが、何か大きい仕事をしなければならないときは、着心地が気にならないこのワンピを着ていく。

 昨日は夜まで将来構想の話で大学に残っていた。

 経営側が言い出した「実学」教育への大転換という案をひっくり返すために、委員会には入っていない日本文学部の小山こやま芙久子ふくこという歳上の先生を説得していたのだ。

 「ではまた話しましょう」と余裕の笑みを浮かべて話し合いを終わらせてから慌てて家に帰って来て、九時からオンラインの国際シンポジウムにパネリストとして参加した。夜中にシンポジウムなんて、と思うが、日本の九時がイギリスの午後一時なのだからしかたがない。

 それにイギリスの午後六時までつき合って、話をしたり聴いたりしているあいだは眠くならなかったけど、「バイバイ!」と告げてオンライン会議から退出した後、疲れが襲ってきた。

 「Quitクイット」(退場)のボタンを押したまま、肩を落とした状態から体が動かない。

 とりあえずコーヒーでも入れよう、と立ち上がってキッチンまで行く途中、ソファのところで、ここでひと休み、と腰を下ろした。

 いつジャケットを脱ぎ、いつネックレスをはずしたか、覚えていない。

 瓜をたいせつに抱いている夢を見ていたことは軽く覚えていた。

 そういえば。

 女の子がその身体に持って生まれてきたたいせつなものをなくすことを「破瓜はか」というのだった。

 ところが、その話をあの「元奴隷」の女に話すと

「瓜を破る、って、もともとは女の子が十六歳になることだよ」

と言われた。

 「十六歳ってことは、昔は数え年だからいまの十四歳か十五歳。昔は結婚が決まる年齢がそのころだったから、それで、そういう意味になったんでしょ」

 そんなことを言っていた「元奴隷」は、昔の名まえで言うと小岩こいわ千菜美ちなみ

 いまの大藤おおふじ千菜美。

 同じ勤め先、明珠めいしゅ女学館じょがっかん大学の日本史の教授だ。

 彼女とは、明珠女学館第二高校に通っていたときに奴隷契約を結んだ。

 美々が結ぶように強要した。

 もちろん現代世界では奴隷契約は無効だ。でも、高校一年で、原始社会とか奴隷制とか封建制とかを習ったときに、生徒たちのあいだで「奴隷契約」がはやってしまったのだ。

 先生にばれると怒られるので、あくまで秘密での契約だ。といっても、生徒たちのあいだでは知られていたので「公然の秘密」ということになるのだろう。

 先生に知られないで、自分たちで秘密を守ってやっている、ということ自体に高揚感があった。

 高校生なんて、そんなものである……。

 ……と、美々は思う。

 奴隷には、戦いに負けて奴隷になる捕虜奴隷とか、借金を返せなくなって奴隷にされる債務奴隷とかの種類があった。

 戦うといっても、本気でバトルをするわけではなく、体育の卓球やテニスでの勝ち負けとか、後ろから抱きついて放さないとかだった。それで「負けたんだから奴隷になれ」と迫るのが捕虜奴隷で、「こないだ貸した千円をいますぐ返せないんだったら奴隷になれ」とか言って契約を迫るのが債務奴隷。

 奴隷になると、奴隷は、主人の言うことには何でも従わなければならない。

 そんなので奴隷にするなんて、苛酷すぎる。少し油断をしただけで、罠にかけるように奴隷に落とされ、相手の言うことをなんでもきかなければならなくなる。たいへんないじめに発展しそうなものだが、そんな契約をするのはだいたい友だちどうしだったから、流行が終わると奴隷契約なんて忘れて、もとの友人関係に戻った。陰では何か悲惨なことが起こっていた可能性もなくはないけど、美々の知るかぎり、事件になるようないじめは発生していなかった。

 美々と小岩千菜美のばあいは例外かも知れない。もともと友だちどうしではなかったし、流行が終わってからも主人と奴隷の関係が続いたから。

 小岩千菜美は、あのころから色白で、美人で、エネルギッシュで、顔立ちにいつも「何でもやってやろう」という意気をみなぎらせていた。それにしてはおとなしくて、ぼんやりしているところもあって、自分から目立とうとしない。それもあの子の好感度を高めていた。

 あの子はだれかの「主人」になろうとなんかしない。だから、だれかの「奴隷」になるのだろうけど、そんな千菜美を奴隷にしたい同級生は何人もいるはずだった。

 そうなる前にあの子を確保したい。

 それまで「気になる子」というくらいで、話したこともそんなになかったけれど、あの子がほかの子の「奴隷」にされるところは見たくなかった。

 それで、あの子が無防備に廊下を歩いているときに、さっ、と手首をつかまえて

「放してほしかったらわたしの奴隷になれ」

と低い声で脅すように言った。

 「いいけど」

 あの子は、そんなだいじなことを、迷惑そうに、でも、なんでもないことのように言った。

 「放す、っていうのと、奴隷にする、っていうのは、なんか矛盾してる」

 そして、何を言われたかわからない美々を見て、はははははっ、と笑い声を立てた。

 奴隷が奴隷になって、最初にすることが主人を見て笑うことだったなんて。

 とんでもない不良奴隷だ。

 ほんと腹が立つ!


 *イギリスと日本の時差は9時間ですが、イギリスが夏時間なので時差が8時間となります。

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