第15話 グラント伯爵家へ3
グラント伯爵家のカントリーハウスは高台に位置しており、その庭園からは広大な海が一望できる。高台から見下ろすと、青い海がまるで宝石のように輝き、波が優雅に打ち寄せる様子が眼前に広がる。風が海面をなぞり、屋敷の周りにある木々を揺らし、微かに塩の香りが漂うまでがお約束。
幼い頃飽きるほど眺めた景色と香りに包まれ、私はようやく実家に帰ってきたのだと実感した。
「あぁ、とっても気持ちいい。自然って本当に癒されるわ」
心地よい春の陽射しを浴び、私はしばし抱えた問題を忘れ、のんびりした気持ちに包まれる。
母との時間を無事乗り切った私は、海を見下ろす事が出来る庭園のベンチに腰掛け、とある人物とデート中。
気になるお相手は、現在四歳になったばかりの可愛い紳士。
ベンジャミン兄様の長男、シリルだ。
『シリルが外で絵を描きたいそうだ。君の足の事を念入りに話しておいたから走り回るような事はしないだろうし、お願いしてもいいだろうか?』
私を捕まえたベンジャミン兄様にそうお願いされ、二つ返事で了承した。そして私は昔よく足を運んだ記憶が残る懐かしい場所。屋敷の庭園に設置された、海が見渡せるお気に入りのベンチまでシリルと共に足を運んだというわけだ。
因みに私との面談を終えた母は即座にオーランドを呼ぼうとした。しかし領地に父と母が戻った事が知れ渡り、顔なじみの地元の人達が挨拶と出産祝いを兼ね屋敷を訪れたため、足止めを食らっているという状況。
その間に彼を捕まえ話を通しておこうと思ったけれど、昨日は飲み足りないと騒ぐコンラッド兄様の相手をするために、フィリップ兄様と共に夜の街に繰り出していたようだ。
昔は二人に置いて行かれる事が多かったオーランドも、今は誘われるようになったんだと、私は彼の成長を感じた。一方年頃となった女である私は、当たり前のように夜遊びには誘われず、その事を少し寂しくも感じた。でもこればかりは仕方がないことだ。
「シリル、寒くない?」
私は隣に座る小さな紳士に声をかける。
「だいじょうぶ」
「そっか。寒かったらすぐ教えてね。あなたが風邪をひいたら、皆が悲しくなっちゃうから」
「エマも?」
「もちろん」
「わかった。寒かったらいう」
えらい、えらいと私はシリルの頭を撫でる。
シリルは黄金色に輝くふわふわとした髪に、オーランドと同じ紫色の瞳を持つ、お人形さんみたいなとても可愛い男の子だ。
普段は快活でよく笑いよく喋るという印象だったけれど、現在物静かな良い子となり、黙々と私の隣で絵を描いている。
もちろん私の見た目にわかりやすい怪我のせいもあるだろうけれど、どうやら生まれたての弟ばかりが注目される事に寂しさを感じ、少し拗ねているようだ。
「何を書いてるの?」
私はスケッチブックに視線を落としながら、シリルに声をかけた。
白い紙の奥には水平線のようなものが描かれ、手前には人間らしきものが描かれている。
「おとうと」
色鉛筆でぐりぐりとスケッチブックに力強く円を描きながら、シリルは答えてくれた。
「そっか。上手だね。この頭の毛がないところとか、写実的で良く対象を捉えてる。シリルは観察眼に優れた賢い子ね」
いいこいいこと、私はシリルの柔らかい毛を撫でる。
何だかこうしていると、オーランドを全力で構っていた時に戻ったみたいだ。
正直自分が結婚する事には不安でしかないけれど、子どもは欲しいと常々思う。だってどこからどうみても可愛い。それに尽きるからだ。
けれど私の背負うあれこれ、特にこの髪色を受け継がせてしまった場合の事を考えると、不安に思う気持ちの方が大きい。
もし生まれてきた子が私の庶子であるという事実で虐められるような事があったら可哀想だ。だって子どもに罪はないのだから。
そうやって考えていると、結婚に対しいまいち前向きになれず、躊躇したくなってしまう。まぁ、それ以前に私の場合は問題が山積みなのだけれど。
「弟が出来てうれしい?」
私は丸い顔に、ぐるぐると目玉を描き入れるシリルの絵を眺めながら優しくたずねる。
「うん。一緒に遊べるから嬉しいよ。今はまだ駄目だけど。エマはおとうといる?」
どうやらまだ、オーランドが私の弟だと気付いていないようだ。グラント伯爵家は大所帯だ。だから四歳にしては覚えなければならない家族が多いとも言える。その上、たまにしか会わないのだから、関係性まで覚えろというのは酷な話しなのかも知れない。
「私にも弟はいるわよ。昔は今のシリルみたいに可愛かったけど、今はとても意地悪で、生意気なの。だからシリルは弟を可愛がるのはいいけど、甘やかし過ぎちゃだめよ?」
私はここぞとばかり、忠告しておいた。
「よくわかんない。あ、オーランドおじさんだ」
シリルの言葉に顔を上げると、海をバックに庭園の小道をこちらに歩いてくるオーランドの姿がすぐ側にあった。
「遊んでくれるかな」
オーランドに何故か懐いているシリルは嬉しそうな笑顔を見せる。
「きっと暇だと思う」
「やったー」
シリルはスケッチブックを横に置くと、オーランドの足元に飛びついた。
「誰が意地悪で生意気だって?」
どうやら風に乗り、私の声が届いてしまっていたようだ。
オーランドは身をかがめ、シリルの頭を撫でながら、わざとらしく私を睨みつけてきた。
「さぁ、誰のことかしら?」
「ねぇ、おじさん、ほら見て、おとうと」
私はとぼけ、シリルはオーランドに作成中の絵を見せつける。
「エマは僕の絵、じょうずだって」
「確かにうまいな。特にこの頭の毛がリアルでいいな」
私と同じ部分を褒めたオーランドに、思わず吹き出す。
「なんで笑うの」
シリルが頬を膨らませる。
「ちがうの。やっぱりここが上手だって、オーランドも同じ意見なんだなぁって思っただけ。シリルの絵を馬鹿にしたわけじゃないわ。だってとっても上手だもの」
私は慌てて弁解した。
「ふぅん。なら許す」
生意気な感じで許された。
可愛いので私も許す。
「これはなんだ?」
オーランドはシリルの絵に描かれた三角の部分を指しながら、興味津々といった様子で尋ねる。
「ここが海でこれは船。弟と僕が海に行く絵なんだ」
シリルは笑顔で答え、少し自慢げにスケッチブックをオーランドに見せる。
「なるほど。確かに海に船だな」
オーランドは納得しながらシリルを抱き上げる。そして彼を膝に乗せ、私の隣に腰を下ろした。
「オーランドおじさんは、ひま?」
シリルは首を捻り、オーランドの顔を見てたずねる。
「暇だけど、今はちょっと休憩」
「えー」
シリルは可愛らしく頬を膨らませた。
「おじさんは、もっとシリルの絵が見たいなぁ」
オーランドお得意のおねだりが発動する。
「いいけど、後で遊んでね」
「りょーかい」
「やった」
ご機嫌になったシリルは、スケッチブックをオーランドに持たせ、絵の続きを描き始める。
「久々に見る景色だけど、ここはあんまり変わらないな。青いまま。昔は見飽きた景色だったけど、今は海なんて久しぶりに見た気がする」
シリルを膝に乗せたオーランドが目の前に広がる景色について、実直な感想を漏らす。
「わかる。こうやって広がる海を眺めるのは王都じゃ無理だもんね」
王都にある水場は、大きな川と貿易港のみ。美しい海を眺めたいなら、郊外に出る必要がある。さらに私たちは、職場と住まいが王城内で完結してしまう。そのため一年のほとんどを城壁に囲まれた内部で過ごしている事になる。
だからすっかり海とは縁遠くなり、ここ最近いつ眺めたかすら覚えていないほどだ。
「エマはおとうとと行ったことある?」
「あるよ。夏になるとベンジャミン兄様が私達をすぐそこの海岸へ連れて行ってくれたの」
だからオーランドと共に過ごした夏の思い出は、専ら屋敷の庭や海辺で遊んだ記憶ばかりだ。
「エマは泳げない癖に後先考えず進むから、溺れたことあったよな」
「あー、そんな事もあったっけ?」
私の脳裏にまたもや嫌な思い出が蘇る。
そもそも泳ぎが苦手な私は当時海に入るという事に対し、あまり乗り気ではなかったと記憶している。
「そう、私は渋々海に行ってたわ」
それなのに私が海に浸かっていたのは、間違いなくオーランドのせい。
『ねぇ、一緒に泳ごうよ、エマがいないとつまんない』
『僕が教えてあげるから、だからお願い』
大好きな弟に可愛くお願いをされた当時の私が断るわけなどない。「仕方ないわね」とお姉さんぶりながら、内心「波にさらわれるんじゃないか」と怯えつつ海に浸かっていた。
「エマは怖がりだから、いつも俺にしがみついてたよなぁ」
オーランドはニヤッと笑う。
「仕方ないじゃない、怖かったんだから」
自分で口に出し、ふと気付く。
「まさか」
オーランドはそうなることを予測して、可愛く私に「海に入ろう」と強請っていた……。なんてあり得ないと私がオーランドの顔を伺うと。
「ほんと、恐怖に怯えて「フロートの紐を絶対離さないでね」って、俺を頼るエマは可愛かった。あれは実にいい夏の思い出だよな」
わざとらしくニヤニヤしながら告げるオーランド。
またもや私の善意は、悪魔の子オーランドにより計画的に利用されていたようだ。
「オーランド、あなたってばなんて恐ろしい子なの……」
私は驚愕の事実にブルリと震える。
「でも一回だけエマが溺れた時、あの時はエマが死ぬんじゃないかと思って怖かった。それで何があってもお前を守らないとって。あ、そうだ。そうだった」
オーランドが一人納得する。
「そうだって、何が?」
「将来は騎士になろうと、俺はあの時に決めたんだった」
懐かしそうな表情をしたオーランドが、遠くに見える青い海を見つめる。
「溺れた記憶は薄っすらと覚えてるけど」
それがきっかけで彼が騎士になると決めたなんて、初めて聞いた。
彼の人生のターニングポイントらしい事件。それをすっかり忘れていた私は、記憶の中を探ることにした。
確か私たちが九歳くらいの時だった。その日、ジリジリと肌を焼くような太陽の下で、私は木製のフロートに寝そべり、波に揺られながらオーランドに引っ張られていた。
ざぶん、ざぶんと波を乗り越え、私たちは比較的穏やかな沖合を目指していた。
するとそこにコンラッド兄様がふざけて投げた海藻が飛んできた。オーランドは海藻を咄嗟に避け、私のフロートから手を離す。そこに運悪く大きな波が来て、私は見事ひっくり返り、気付けば海に投げ出されパニックになってしまう。
手足をバタバタとさせ、ひたすらもがく私が覚えているのは、オーランドが私の名前を叫ぶ声。その後泳いで駆けつけてくれたフィリップ兄様に助けてもらい、私は難を逃れた。
時間にすれば大したことはなかった筈だ。けれど、生命の危機を本能的に感じたのは、あの時が初めてだった気がする。
オーランドはその事に責任を感じたのか、数日ほどどんよりと暗く、何を言っても上の空といった感じだった事は今でもしっかりと覚えている。
因みにその日以降、オーランドは私を二度と深い場所へ行こうと誘わなかったし、双子も私達に海藻を投げつける事はなかった。
たぶん、父と母にこっぴどく叱られたのだと、私はそう思っている。
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