第10話 仮面舞踏会5

 幼い頃、たまたま愛情に飢えていた私達がマッチングしてしまい、共依存のような形になってしまった結果、今もお互いを特別に思う気持ちがある事は理解した。


 問題は、その状態から生じる「好き」が、どうしてもリリアナ様とダニエル様がお互いに抱く「好き」とは違うのに、それをオーランドが勘違いしているということ。しかも最悪な事にかつて彼は、私と一緒に死んでもいい。わずか七歳でそんなふうに口にしていた。


 その事を思い出した私は、まだ引き返せるうちにと、オーランドに愛情の種類の違いを説明しておきたい。けれど突然の事過ぎて、どうやって話せば伝わるのか、いまいちわからない。まさにお手上げという状況だ。


「お前にとって俺って何?弟?家族?」


「それは」


 再び問われて言葉に詰まると、私の沈黙を彼は肯定と受け止めたらしく「もういいよ」と小さく呟く。


「そっちが俺の事をどう思おうと関係ない。俺は俺で勝手にやるし、今日で家族ごっこはやめる」


 オーランドは、地面に置いてあったアイスペールに布を浸すと、私の足首に当てる。そして再び上から強く押さえる。


「いたたっ!痛いってば!」


 鬼畜すぎる行動に思わず悲鳴をあげると、彼はハッと我に返り私の足から布を取り上げた。けれど怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情で私を見ると「我慢しろ」とだけ言い、今度は優しく幹部に布を当ててくれる。彼の長い指が冷たい布と共に優しく足を滑るのがくすぐったくて、私はつい吹き出す。


「何がおかしいんだよ」


「だってくすぐったいんだもの」


 私はクスクスと笑う。オーランドは憮然とした表情のまま、私の足からまた布を取り払う。それから彼はアイスペールに一度浸して固く絞った布を、再び私の足首に当てる。冷たかったけれど、先程のように押し付けられる痛みはない。その事に私は安堵する。そしてようやく肩の力を抜いた瞬間……。


「エマは俺にキスまでしたくせに」


 オーランドはふと思い出したかのように、不満げに呟いた。なぜこのタイミングで過去の、それも一番思い出してはいけない件を蒸し返すのだろうか。


 やっぱりオーランドは意地悪だと思いながらも、この状況で最適だと思われる言葉を口にする。


「な、何のことかしら」


「とぼけても無駄だ。俺が蒼空そうくう騎士団の見習いとして入団する日。俺にキスした」


 オーランドは事実確認をするように告げると、私の足首をそっと地面に下ろす。それから素早い動きでベンチに座る私の前に立った。


 私の視界から綺麗な月を消し去り、こちらを見下ろすオーランドの目が細められる。その眼差しは拗ねているような、それでいて何か悪い事を企んでいるような……なんとも形容し難いものだ。


「忘れたとは言わせない」


 私の胸がドキンと一つ高く鳴る。同時に、脳裏にあの日彼と触れた唇の感触が蘇る。私は即座に否定するように首を左右に大きく振り、記憶を消し去ろうと頑張った。


 しかしそんなに都合よく消えてはくれないのが、黒歴史というやつだ。


「あ、あれはオーランドがいつもみたいに横を向かないから、うっかり唇に当たっちゃっただけよ。それにあれは一般的に言うところのキ、キスには入らないと思う」


 私は懸命に、あれはないにも等しいとアピールする。


「ふぅん、そんなふうに思ってたんだ。エマはいつだって自分の都合がいいように、物事を解釈する癖があるよな」


 オーランドが身をかがめ、背もたれに両手をついた。何となく顔が近くにあるし、いけない雰囲気な気がする。


「いいかエマ。あれは偶然でもないし、ノーカンでもない。離れ離れになっている隙に、他の奴に奪われないようにと、むしろ俺が君の唇を故意に奪ったんだ」


 オーランドはニヤリと不敵に微笑むと、顔をもっとこちらに近づけてきた。私は慌ててベンチの後ろに身を逃す。けれどすぐに背もたれに私の体がぶつかり、もうこれ以上逃げ場がない事を悟る。


「ち、ちょっと、落ち着こう。弟よ」


 私は両手でオーランドの胸を押し返しつつ、混乱する頭でなんとか彼の暴挙を止める言葉を探し当てる。


「私達は姉弟でしょう?」


「違うよ、赤の他人だ」


 間髪入れずオーランドから返された言葉に、私は彼の胸を押していた手を緩め、驚き目を見開く。


 それからまるで雨雲が空に広がるように、私の心を悲しみが覆う。


 けれどオーランドは私にはお構いなしといった感じ。彼は目を細めると再び身を屈め、ついに私の唇を捉えてしまう。その瞬間、私の頭の中は真っ白になり、まるで呼吸の仕方を忘れたように息苦しくなった。


 オーランドにキスされているとようやく状況を理解したのは、彼が唇を離した後だった。私は呆然としたまま彼を凝視する。


「今のもノーカンとは言わせないから」


 彼は意地悪く笑った後、唖然とする私の前で自分の唇をぺろりと舐めた。その仕草が妙に色っぽくてドキッとするが……いや違うそうじゃない。


 今はそんな事を考えている場合ではないはずだ。


 それなのに私の心臓はさっきからドクドクと早鐘を打ち、頰に熱が集中しているのが自分でもわかる。


 弟にキスされてドキドキするのはおかしい。そう思えば、思うほど私の顔は熱を持つ。


 やっぱり私は変態なのだろうかと新たな悲しみが心を襲う。


「オ、オーランドって、こんなふうに意地悪する子じゃなかったのに」


 苦し紛れの言葉を漏らし、私は顔を背ける。するとオーランドは不満げに溜息をつく。


「残念だな。俺は昔からこういう人間だよ。それに意地が悪いのはエマの方だろ」


「な、なんで?」


「俺を拒絶する言葉を吐く癖に、俺にキスされて満更でもなさそうだから」


 彼は意地悪く笑うと、再びこちらに近づく。そして私の顎を指先で掬い上げると、目を細め私を見つめた。


「でも何だかんだエマは俺が好きなんだよな。だっていつも俺の事を目で追ってるし」


 まさか覗き見がバレていたのだろうかと、私はドキリとする。


「でも俺は嫌じゃないから安心して」


 オーランドは私の唇に親指を当て、すぐに離す。


 彼の長い指が私の唇の表面を掠めた事で、先程の口付けの感触を思い出してしまい、私はまたもや顔に熱がこもってしまう。


「ほら、やっぱり嫌がらない」


 オーランドは私の反応に満足したのだろう。機嫌よく微笑むと今度は私の髪を撫でる。その優しい手つきを懐かしく思い、思わず身を委ねてしまいそうになるが、私はハッと我に返る。


「い、今のは突然だからビックリしたのよ。というか、なんでこんな事するの?姉弟でこんな不埒な真似は良くないと思うわ」


 私が上擦った声で反論するとオーランドは「まだ認めないつもり?」と私を馬鹿にした声をあげた。それからほんの少し困ったような表情で、私の隣に腰を下ろす。


「あのな、俺達はもうとっくに姉弟じゃない。俺が十歳くらいの時なんて、エマの事が大好きすぎて毎日キスしてたし」


「は?」


「頬とか額とか、あー、今思えば口にもしたかもな。それから一緒に寝る時、エマは俺の服をいつも掴んでてさ……」


 過去を懐かしむような目で語るオーランドに、私は呆然とする。そんな私の様子にオーランドは眉を顰めた。


「覚えてないのか?」


「……覚えておりません」


 私はつい敬語になる。確かに昔、怖い夢を見た時や、寂しくて眠れない夜に、こっそりオーランドの寝室を訪ね、彼にしがみついて寝た事があった気がしなくもない。そういう日は大抵昼間に、オーランドが怖い話を読んで欲しいとせがんだ日で……。


「まさか、計画的犯行!?」


 私は驚きの顔をオーランドに向ける。


「悪いけどエマが思ってるほど俺は馬鹿じゃなかったし、兄さん達のせいで、むしろマセてた記憶しかないけど」


 爽やかな笑顔でそんな事を口にする彼に、私は頭痛がしてきた。


「オ、オーランドがそんな腹黒な子だったなんてう、嘘よ」


 私は自分の中に存在するお人形のように可愛くて、無垢でしかない彼に、まるで泥を塗られた気がして悔しくなる。


「昔、もう二人で一緒のベッドは駄目だって母さんに言われた日のこと、覚えてる?」


 オーランドは突然昔話を口にし出す。


「あの日、エマは得意げな顔して「私がいなくても眠れる?」って聞いてきてさ、眠れないからエマにいて欲しいって俺が言ったら「何言ってるのよ。もう一人で寝るのよ」って笑ってたくせに」


「私は夜中に大泣きして、その日だけオーランドと一緒のベッドで寝るのを母様に許してもらったわ」


 私の中に封印されし記憶が蘇る。


「そうそう。それでエマは「もう一生同じベッドで寝られないなんて、私寂しくて死ぬかも」って言うから、俺が」


「願えばいつだって一緒に寝てあげるって、そう言ってた」


「覚えてるじゃん」


「そんな事もあったわね」


 私はすっかり忘れていた懐かしい出来事に恥ずかしくなる。恥ずかしいからこそ忘れていたのに、このタイミングで思い出させるオーランドはやはり鬼畜で意地悪い弟だ。


「エマはちょろいから、俺が困った顔をしてお願いすると、大抵願いは叶えてくれた。あれは全部俺のためだろう?」


 確かにそうだ。オーランドが不安そうな顔をすれば、喜んで駆けつけ、意気揚々と手を差し伸べていたのは私だ。けれど姉ぶって、私が「やってあげた」と思っていた事は、彼の言う通り都合のよい部分だけ切り取った記憶で、本当は私の方がオーランドに依存していた事実を思い出す。


「今、封印されていた記憶が色々と蘇ってきたような」


 私は思わす天を仰ぐ。するとオーランドは呆れたようにため息をついた後、私を横から抱きしめた。突然の行動に驚き固まる私に構わず、彼は話を再開した。


「俺がエマ以外を選ぶと思う?」


 何故だろう、その言葉がとてつもなく重くのしかかる。オーランドが口にすると、まるで呪いの言葉のようだ。


「だから諦めて俺の側にいなよ」


 オーランドは私の耳元で甘く囁く。それから幼い頃よくしていたように、私の頰に口付けると幸せそうに微笑んだ。けれど私は素直には喜べない。


「……無理よ」


「なんで?」


「だって弟だもの」


「他人だから」


「いいえ、少なくとも私にとっては弟だから」


 私の言葉は正論のはずなのに、オーランドは私を睨む。ちょっと怖いからやめて欲しい。


「今はまだ強がっていればいいさ。エマは絶対、俺を選ぶだろうし」


「どこからそんな自信がでてくるの?」


 私はげんなりして項垂れる。


「いい加減諦めて素直になれって」


 オーランドは私の質問をはぐらかすと、ベンチから立ち上がった。私はどうするべきか思い悩みつつ、とりあえず立ち上がる。


「部屋まで送ってく」


 彼は伸びをしながら歩き出し、芝生の上に置いたアイスペールと無惨にも落ちてしまった布を拾い上げる。


「あ、ありがとう」


 今日は色々ありすぎたけれど、オーランドが私の捻挫を冷やしてくれたお陰で、だいぶ痛みがおさまってきた気がする。その件についてだけは、きちんとお礼を言うべきだと思ったので、伝えておいた。


「そういう律儀なとこ、変わらないね、ねぇさん」


 オーランドは微笑むと、少し迷うような素振りで、こちらに歩み寄った。そして私の腕を取り引き寄せたかと思うと、何故か私の右手にキスを落とす。


「っ!」


 私が驚いて後ずさると、オーランドはさらに私との距離を縮める。それから耳元まで顔を寄せると「消毒完了」と囁いて離れていった。


 彼は私に背を向けると再び歩き出すが……私は顔が熱く、心は恐怖に怯えるという複雑な状態のまま放置される。


 いったいあれは本当に私の可愛い弟なのか、女性の天敵、ただの危ない狼なのか。


 私はオーランドの上着を肩にかけたまま、彼がすっかり忘れ去っている狼を模した怖い仮面を手にし、大きくため息をつくのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る