七章 君にとっての「あの日」
「だーかーら、自分で歩くって!」
お風呂上がり、部屋に戻る準備を整えた私たちは、脱衣所で小さなケンカをしていた。
「いいでしょ、お風呂じゃないんだから転ばないし」
背中を向けて、陽菜の太ももに手をかける。
「やだよ恥ずかしい!」
左脚で私の背中を蹴って、抵抗する陽菜。イヤイヤ期の子供をあやす母親も、こんな気持ちなんだろうなあと思いながら、私は不思議そうにこちらを見つめる女の子に、不審に思われないよう笑いかける。
「た、大変だー。陽菜、のぼせて熱が出てるぞー。これは途中で倒れないよう、私が運んであげないとなー」
陽菜の額に手をあてながら、周りに聞こえるような声で言う。
「はっ、ちょっ、まっ……」
陽菜があたふたしているうちに、私は両腕と背中で陽菜をしっかりと包み込んだ。
「陽菜の体、温かい。太陽の欠片を閉じ込めてるみたい」
背中で暴れるのは流石に危険だと判断したのか、陽菜は抵抗を諦めて私に体を預けた。
「太陽はガスでできてるから、欠片なんてないよ」
素っ気なく返される。どうやら、すねてしまったようだ。
「陽菜ちゃん、すねちゃダメですよ」
「あー、そういうのは私の専売特許なのに」
「じゃあ、ちゃんと申請してくださーい」
そんな他愛もない会話を交わしていると、私は不意にとても懐かしい気持ちになった。……私をおんぶしてくれたお兄ちゃんの体の温もり、仕方がないなあと笑う声、夕焼け色に染まった景色が、手品の万国旗のようになって、次々と浮かんでくる。
「……お兄ちゃん、こんな気持ちだったんだな」
「お兄さんがどうしたの?」
陽菜の声色が微妙に変わる。
「お兄ちゃんがよく私をおんぶしてくれたことを、ふと思い出したの。私よりもずっと背の高いお兄ちゃんの背中からだと、世界がいつもより広く見えてさ、なんだかワクワクして楽しかった。……陽菜、そこから見える景色はどう?」
「景色はいつもとあんまり変わんない。だけど、なんかいい匂いがする」
そう言って、私のつむじに鼻をつけ、犬のように匂いを嗅ぐ陽菜。
「やめてよ、くすぐったい」
「これがフェロモンっていうやつか」
「シャンプーとリンスの匂いだよ!」
部屋に置いてあった温泉まんじゅうと、持ってきたお菓子を食べながら、私たちは夕食の時間までひたすら雑談し続けた。ため込んできた話のネタ、今日で全部使い切っちゃうなと思いながらも、小学校時代の思い出話から、黒歴史に至るまで、ありとあらゆることを陽菜に話した。
「へー、葵にも好きな男の子いたんだ……」
小学四年生の時、片想いしていた大関君のことを話したら、意外だなといった感じで、陽菜はそう呟いた。
「陽菜には好きな男の子いなかったの?」
「……いた。片手では数えられないくらい」
クッキーをかじりながら、陽菜は無表情にそう答える。
「ふーん、そうなんだ……」
「……ぷぷっ。今、少し嫉妬したでしょ。葵ちゃんったら、すぐ顔に出るんだから」
体をツンツンとつつかれる。
「うるさいなあ。別にいいでしょ、嫉妬したって」
「まあね、嫉妬してくれた方が私も嬉しいよ」
陽菜がそう言った次の瞬間、夕食の時間を忘れないようにセットしたスマホのアラームが鳴る。
「もうこんな時間か。あっと言う間だったね」
「じゃあ、行こうか。食事券は私が持つね」
「なんかやけにキノコが多いね。葵、キノコ好きなの?」
夕食はバイキングだ。幸い人が少なかったから、陽菜も安心して料理を持ってくることができた。
「うん、大好物。キノコは森山市の名産品だからね、この街に生まれて良かったよ」
大きめの皿に好きなものをドサッとよそってきた私とは違い、陽菜は九マスに区切られたプレートに、色々な料理を彩りよくよそってきた。こういうところにも、人の性格が出るよなと思う。
「へー、知らなかった。……あのさ、私は知らないだろうっていう葵の好きなもの、もっと教えてよ。日付が変わるまで、あと六時間しかないからさ」
「じゃあ、一日一つずつ教えようかな。今日はもう教えたから、また明日ね」
「……いじわる」
そう言ったきり、陽菜は黙り込んでしまった。「なら、まだ死ねないね」なんていう私が期待していたセリフは、やっぱり聞こえてこない。そして、プレートの三マスから料理が消えた頃、陽菜はまた口を開いた。
「……私が死んだ後、葵はどんな人生を送るんだろう?」
「何事もなかったかのように、今まで通り生きてくよ」
「あんまり悲しんでほしくもないけど、全く悲しまれないのも寂しいな……」
「じゃあ、沁みる目薬でもさして適度に泣こうかな」
「……それ、本気で言ってる? ちょっと泣きそうなんだけど」
その言葉の通り、陽菜の目は少し潤んでいる。
「ごめんごめん、嘘だよ」
「……本当? 本当にちゃんと悲しむの?」
「うん。涙が涸れるくらい泣くと思うし、陽菜との思い出の場所を見る度に、陽菜のことを思い出して、どうしようもなく虚しくなるだろうね」
そう言いながら私は、陽菜がいなくなった日常を生きる私の姿を、やけに鮮明に想像してしまった。
「…………」
沈黙、私の顔をじっと見つめる陽菜。段々と大きくなっていく生ぬるい雫が、ついに目から零れ落ちて、頬をすうっと滑り落ちる。私はハッとして、すぐに作務衣の袖でそれを拭った。
「……ごめんね」
俯いて呟く陽菜。その一言には、陽菜の全ての感情が籠もっているように思えた。
「謝らないで。これで良かったの」
席を立った私は、陽菜の後ろまで歩いていって、その小さな体を後ろからそっと抱きしめた。
「どんな悲しみも、陽菜と出会えたことの対価だと思ったら、受け入れられる」
ジェットコースターの急降下で、安全バーを握りしめるみたいに、私の腕をギュッと握る陽菜。その体は、溢れ出る感情を閉じ込めて、小刻みに震えている。
「……やっぱり、『恋愛ごっこ』はもうやめよう。私、我慢できなくなっちゃった。早くご飯を食べて、早く部屋に戻ろう」
私の腕の中、私の顔を見上げる陽菜。涙に濡れたその目は、普段とはまた違った光を帯びている。……他のことは何も考えられなくなるくらい、その時の私はキスをしたかった。その小さく震える唇に唇を強く押しつけて、悲しみも後悔も絶望も、全て全て吸い取ってあげたいと思った。欲望に理性が揺らぐ瞬間に、私は生まれて初めて出くわした。
「……怖いからやめて。今の葵は、あの日私たちを襲った奴らと、同じ目をしてる」
陽菜のその言葉は針となって、パンパンに膨らんだ風船に穴を開けた。飛び散った残骸は私の心にへばりついて、しばらくの間、離れなった。
急ぎ足で夕食を終え、私たちは部屋に戻った。お腹はいっぱいになったけど、料理の味はほとんど憶えていない。
「……ごほん」
意味ありげに咳払いする陽菜。旅館のスタッフが敷いてくれた布団の上、私たちは正座で向かい合っていた。
「ええと、あの……いいよ、私のこと好きにして」
突然、両腕を広げて、案山子のようなポーズをとる陽菜。
「えっ? そんな、急に言われても……」
陽菜の顔は至って真剣で、いつものように私の反応を楽しんでいる様子も見られなかった。
「じゃあ、私の方から……」
そう言った次の瞬間、陽菜は全身の力を抜いて、私の方に倒れ込んできた。急なことに驚きながらも、私は体勢を変えて、陽菜に膝枕をした。
「……何か、訊きたいことはない?」
陽菜は手を伸ばし、私の肩にかかった髪を、愛おしそうに撫でた。
「……たくさんあるけど、どこまで答えてくれるの?」
「全部。本当に、どんな質問にも答えるよ」
少しも揺らいでいない陽菜の目を見て、ついに私は、「私の一番知りたいこと」を訊く決意をした。
「わかった。じゃあ……陽菜は、どうしてそんなに自殺したいの?」
「……訊かれると思った。ちょっと待ってね、上手く説明できるように、頭の中を整理するから……」
今から紡ぐ言葉が、私にとってどれほど重要かを理解している陽菜は、時の流れが遅くなったのかと勘違いしてしまうくらい、深くゆっくりと答えを考えた。
「簡単に言うと」
陽菜が再び口を開く。驚かされたわけでもないのに、心臓がキュッとなる。
「……生きるっていうことに、嫌気が差したからかな」
――それまで陽菜の目が帯びていた光は、一瞬で小さいブラックホールのようなその瞳に吸い込まれた。
「パジャマから制服に着替える時、嫌でも視界に入ってくる右脚、しゃもじを握るお母さんの痩せ細った手、花菜の好きだった冷凍食品のおかず、テレビをつけると流れてくる、あの日私たちが買った風邪薬のCM……起きてから朝ご飯を食べるまでの間だけでも、これだけの情報が、私にあの日のことを思い出させる」
部屋を満たす空気が、徐々に質量を増していく。その重みに押し潰されるように頭を下げ、私は陽菜の唇を塞ぐようにキスをした。もうわかったからと、心の中で訴える。だけど陽菜は、訊いたのはそっちでしょと、私の唇を噛む。
「……そこら中に散らばっている『あの日』の欠片と出くわす度に、私は『あの日』のことを思い出す。そして、花菜のいない日常に、花菜を守れなかった自分の不甲斐なさに、実現できなくなった理想に、『あの日』から今もまだ逃げられていないことに、絶望する。加害者たちはみんな、自殺して自分の罪から逃げた。あの悪魔たちにとっての『あの日』は、たかだか一週間程度で終わった。だけど私にとっての『あの日』は……五年経った今でも、まだ終わっていないんだよ! ……あるはずのない明るい未来を信じて、私は五年間も苦しむだけの日々を過ごした。だけど、もう諦めがついたから……私は、今日でこのクソみたいな人生に終止符を打つ」
――陽菜に生きたいと思わせて、自殺を止める。私は高城葵、できないことなんてない。……ついさっきまでの自分が、急に愚かしく思えてきた。陽菜は、私よりもずっと賢くて強い子だ。その陽菜が出した結論を、私ごときが覆せると思っていたこと自体、バカだったんだ。
「……眠る時も、人とすれ違う時も、家族や葵と一緒にいる時さえも、怖い。この世界に生きる全ての人が、実は私の敵なんじゃないかって、本気で思ってしまう。ゴールデンウィーク明けからの最後のチャレンジでも、やっぱり私は少しも変われなかった。……本当に、もうどうしようもないの」
この世に存在する全ての絶望を詰め込んだような表情だった。もういくら手を伸ばしても届かない暗い海の底に、陽菜の心は沈んでいた。
「……大好きだよ、陽菜」
――私がその時どんな気持ちだったかは、正直よく憶えていない。記憶すらも曖昧になるほど、その時の私は、理性を捨てて本能で動いていた。
「……好きだよ、好き。大好き、愛してる」
陽菜の首に、頬に、唇に、額に、次々とキスをしていきながら、髪を撫でて愛を囁く。その肌に唇を触れさせる度に、その髪を愛おしく撫でる度に、その潤んだ目を見つめて好きだと伝える度に、陽菜の表情から絶望が少しずつ消えていく。
(こんなことをしても、なんの解決にもならないのに)
ほんの少し残った理性が働いて、そんなことをぼんやりと思った。だけど、私はもう止まれなかった。
――はだけた作務衣の襟元から覗く鎖骨、日光が当たる部分よりも更に白い艶やかな肌……そこで、私の記憶はプツンと途切れた。
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