六章 君との温泉旅行
「ねえ葵……」
隣に座っている陽菜のことすら眼中にないくらい、その時の私は集中して考えごとをしていた。
(私は陽菜を肯定する味方でいたい。だから、この計画の目的は、陽菜の自殺を止めることじゃなくて、陽菜に生きたいと思わせることだ。しっかりするんだぞ、私)
車がガクンと揺れて、意識が戻る。
「……やっぱり私、めっちゃ気まずい」
それが陽菜の声だと気づくのにも、少し時間が必要だった。
「……ああ、陽菜か。そのことなら、いつものようにしていればいいんだよ」
「いつものようにって……」
私の耳元に顔を近づける陽菜。
「この車、葵のお母さんが運転してるんだよ」
ルームミラー越しにお母さんと目が合った。痙攣のような慣れないウィンクで、お母さんはアイコンタクトをとってくる。
「大丈夫、陽菜のことはちゃんと話してあるから」
そう答えながら私は、お兄ちゃんの秘密を知ったことと、陽菜との関係を二人に話したあの夜のことを思い出した。……本当に、あの夜は永かった。どんな質問をされたか、どんな返答をしたかも覚えていないくらい、たくさんの質問をされた。
「本当に? じゃあ今からキスするけど」
時間はかかったけど、結局は、陽菜が私の恋人だということまで、二人に納得させることのできた自分を、私は一生誇りに思う。
「したいならすれば?」
あの日から、私たちはお互いを本物の恋人として扱うようになった。自分には無縁だと思っていたこういう会話も、今では天気の話をするような感覚で、普通にしている。
「……ああ、海! 二人とも、とっても綺麗な海よ!」
そう言って、お母さんが窓を開ける。車の芳香剤を押しのけて、潮の香りが車内を満たす。神様が定規で引いたような水平線が、星の欠片を散らしたような水面が、車が坂を上るにつれ、段々と遠ざかっていく。
「き、綺麗だねー」
気を取り直すようにそう言って、窓の外を眺める陽菜。
「そ、そうだね。旅館の部屋からも、きっとよく見えるよ」
そう言いながら、ホームページにあった部屋の写真を思い出す。正直、もっと豪華な旅館には何度も泊まったことがあるけど、陽菜と一緒に泊まるとなると、どんな旅館も竜宮城みたく魅力的に見える。
「……私、一銭も払ってないけど、本当にいいの?」
「いいよ。何度も言っている通り、今回の宿泊代は、お父さんのコネでタダだから。保護者の同意は取れたんだよね?」
「う、うん。同意書もちゃんと書いて持ってきた」
「じゃあ、大丈夫だね」
夏休み最後の日である今日、私たちは海の見える温泉旅館に泊まる。話し合って決めた予定では、日付が変わって夏休みが終わるのと同時に、ホテルの近くにある崖から海に飛び降りて、陽菜は自殺することになっている。
「うわー、すっごい綺麗」
部屋に入って数歩、私たちの視界に飛び込んできたのは、一点の曇りもないガラスの向こうに広がる海だった。
「本当によく見えるね」
広い畳、ちゃぶ台と座椅子、申し訳程度の床の間、もはや読むことすらできない字が書かれた掛け軸。私たちが泊まるのは、ザ・和室といった感じの部屋だ。
「……今日で最後かあ」
陽菜がポツリと呟く。今日一日で、何度も何度も聞くことになるであろう言葉。覚悟はできていたのに、やっぱり私は言葉を失う。
「最初は予想できなかった。葵が本当に私のことを好きになってくれるなんて。ほんと、大誤算だよ」
苦笑いしながら言って、陽菜は私に腕を差し出す。
「匂い、嗅いでみて」
言われるがまま、淡い水色のブラウスに包まれた陽菜の腕に、鼻を近づける。ほんの誤差のレベルだけど、いつもより良い匂いがする。
「この恋愛が『ごっこ』だった頃に、私がつけていた香水の匂いだよ。葵の前ではありのままの姿でいたくて、あの日からはつけないようにしてたけど、今日はつけてきたの。それと、私がいま着ている服も、初めてのお出かけの時に着てきた服と、全く同じもの」
……私の肩に手を置き、少し顔を上げて、私の目を覗き込む陽菜。
「最後はね、笑顔で終わりたいの。だから今日は、何も知らなかったあの頃と同じように、葵と『恋愛ごっこ』をしたい」
――陽菜と目が合った瞬間、私の心の中をフワフワと飛び回っていたものが、急にブラックホールのような質量を持って落下してきた。
(ああ、陽菜は本当に自殺する気なんだ)
一瞬だけ、ほんの一瞬だけだけど、私は飛び降りる陽菜の姿を想像してしまった。
「……わかった」
その光景は、ストロボの発する光のように、短く浮かんですぐ消えたのに、もう私の心臓はうるさくなっている。
「じゃあ早速、お風呂に行こう。ねっ、葵ちゃん」
アイドルのような元気でかわいい声、自然な表情とはかけ離れた、人の心を掴む作り物の笑顔。陽菜は、あっという間にあの頃の姿に戻った。
「……あのさ、葵ちゃんって呼ばれるの気持ち悪いから、葵って呼んでくれる?」
積み重ねてきた二人の思い出が、全て泡になって消えてしまったような虚しさに襲われる。だけど、これが陽菜の望むことだから、私は笑顔であの日と同じ言葉を紡ぐ。
「私も陽菜のこと……じゃなかった。私も掛川さんのこと、陽菜って呼ぶから」
――夏らしい服装の人々、オシャレな名前のブランドショップ、おしくらまんじゅうをするように並ぶレストラン、目に悪いくらいカラフルな光に満たされたゲームセンター、そして、私の隣でぎこちなく歩く陽菜。
「えっ、いいの? やった!」
まだ泣くには早いのに、フラッシュバックする懐かしい光景に涙腺が緩む。
「……お風呂に行くんだったら、まずは作務衣に着替えようよ」
「じゃあ葵、あっち向いててね」
「別にいいけど、お風呂ではお互い全裸だからね」
「……あっ、そうだった」
気まずそうに顔を逸らして、もじもじする陽菜。今までの感傷が、少し吹き飛ぶ。どうやら、なんともないと思っているのは、私だけらしい。
脱衣かごが三段の棚にずらりと並ぶ広い脱衣所。陽菜は私が服を脱ぐところを、カエルみたいな目でまじまじと見つめたけど、結局、私が全裸になっても、顔色一つ変えなかった。
「なんか、つまんない」
「そりゃそうでしょ。陽菜も私も、同じ体のつくりなんだから」
「……でも、私の体は葵みたく綺麗じゃないよ」
そう言って、ズボンの裾をめくりあげる陽菜。
(そういえば、陽菜が半ズボンやミニスカートを穿いているところ、一度も見たことがないな)
気がついてすぐ、私はその理由を知ることになった。……健康な左脚と並ぶことで、余計にその痛々しさが際立つ。私の視界に飛び込んできた陽菜の右脚は、くるぶしの上から太ももまでが腫れ、青紫に変色していた。
「先天性の病気なんだよね。壊死しないだけありがたいよ」
昔の設定で陽菜は話しているけど、私の記憶まではリセットできない。
「……歩く時、痛まないの?」
「おお、いいところに気づいたね。少し体重がかかるだけで、焼かれるように痛いよ。だけど私、松葉杖とか車椅子とかは使いたくないんだよね。私って、けっこう未練がましくてさ、健康な体への執着が捨てきれないんだよ」
自虐するように、笑いながら言う陽菜。いつも以上のハイテンションが空回りしている。
「じゃあ、私がおんぶして運んであげるよ」
「やだよー。だって葵、意外とドジじゃん。もしもお風呂で転んだら、道連れになっちゃう」
そう言って笑いながら、陽菜は、水遊びをした子供が濡れた服を脱ぐみたいな雑さで、次々と服を脱ぎ捨てていく。段々と露わになるその白い肌は、「雪のよう」とか「絹のよう」とか、そんな言葉では説明しきれないくらい、本当に、本当に綺麗だった。
「……確かに、その右脚は病気のせいで少し不格好かもしれない。だけどそれ以外は、私よりもずっとずっと綺麗だよ」
「うわー、変態だ。恋人の裸をじろじろ見るなんて」
「陽菜に言われたくないよ!」
「無人島っぽい島がある。なんかテンション上がるよね、無人島って」
水泳ができそうなくらい広い浴槽、ガラス張りになっている海側の壁。この大浴場は最上階にあるから、見える景色も壮大だ。
「無人島に何か一つだけ持っていけるとしたら、陽菜は何を持っていく?」
思ったよりも熱い温泉に、陽菜の頬はもう赤くなっている。
「葵!」
「嬉しいけど、私は物じゃない」
「じゃあ、『みあ』かな」
「あのテディベアを持っていくの?」
「うん」
少しの迷いもなく頷く陽菜。
「……ここで食料とか水とかを選んだら、確かに長生きはできるかもしれないけどさ、結局は孤独に絶望して死ぬだけ。映画の世界じゃないんだから、運よく誰かが助けに来てくれるなんてことも、ほぼありえない。それなら私は、『みあ』を抱きしめながら、あの日の楽しかったことを一つずつ思い出して、ゆっくりと死を待つ。私は、『長生きできる人生』よりも、『幸せなまま終われる人生』を選びたいの」
その声からは、やはりさっきと同じだけの決意が溢れていたけど、私はもう動揺しなかった。
「じゃあ私が、陽菜に世界一幸せな人生の終わりをプレゼントするよ」
何十年も後にね、と心の中でつけ加える。
「そう、嬉しい」
陽菜は満足げに言うと、自分の左腕を私の右腕に絡ませて、肩に寄りかかった。
「葵はさ、私のどんなところが好きなの?」
私の耳元で、やけに色っぽく囁く陽菜。俗に言う「セクシー」を感じるのに、性別は関係ないのだと思った。ドキドキして考えがまとまらない。
「……私にちゃんと向き合ってくれたところかな」
「どういうことかなあ? もっと具体的にぃ……」
私は無意識のうちに恥ずかしそうな顔をしてしまったのだろう、陽菜がより調子に乗り始める。
「やめてよ、そんな体をくねくねさせて……キャバ嬢じゃないんだから。くっつきたいなら、正面から抱きついて」
「……よく考えてみて、葵。素っ裸で正面から抱きつくって、キャバ嬢以上だよ」
真顔で言う陽菜。
「そうだよ、キャバ嬢以上だよ。だって私たちは恋人でしょ? あんな金だけで繋がっているような関係じゃないでしょ?」
「……確かに。で、では葵さん、『私にちゃんと向き合ってくれたところ』とは具体的にどういうことか教えてください」
この「恋愛ごっこ」をしようと言ってきたのは陽菜なのに、私が「恋人」という言葉を出すと、陽菜はすぐに顔を赤らめる。
「……誰にも頼らずに生きていける人を目指してきた私は、いつの間にか、誰にも構われない人になっていた。『あんなバカたちとつるんだって、なんのメリットもない』って強がってたけど、本当は、寂しかった。くだらないことで笑いあえて、弱いところを見せあえて……」
「弱いところを見せあえるって、なんかエッチだね」
私の目を見つめながら、陽菜は至極真剣に言う。加熱していた陽菜への愛しさが、バケツで水をかけられたように、しゅんと萎える。
「……あーあ、もう話す気なくなっちゃった。せっかく、めーっちゃ褒めてあげようと思ってたのになー」
「ごめんごめん、次はちゃんと聞くから……」
「あっ、向こうにゆず湯がある! あっちに入ろう」
立ち上がる私、背中を追いかける陽菜。
「ちゃんと教えてよ~」
「教えなーい……けどさ、そもそも理由なんてどうでもいいじゃん。私は陽菜が好きで、ずっと一緒にいたいと思ってる。それだけで十分でしょ?」
—―こうして陽菜の顔を見る度に、声を聞く度に、肌に触れる度に、私は思い知らされる。「陽菜は私の全てじゃないけど、陽菜がいないと私の全てはきっとダメになる」と。最初、私が愛していたのは、「こんなつまらない私と向き合って、仲良くなろうとしてくれる人」であって、陽菜ではなかった……のに、その気持ちは、あっという間に掛川陽菜という人間自体への愛しさに変っていった。健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も、私は陽菜の隣にいたい。もう元には戻れないほど、私は陽菜の隣の心地良さを知ってしまったんだ。だから私は、私の全てを懸けて、陽菜の自殺を止める。
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