五章 君と向き合って
あれから私たちは、何事もなかったかのように、また二人で他愛もない話をして、予定通りペンギンやイルカのショーを楽しんだ。陽菜は、今までみたいにいつでもニコニコはしなくなった。だけどその代わりに、飼い主の隣で寝転ぶ犬みたいな、リラックスした表情を見せてくれるようになった。周りに花が咲いたような気持ちになるあの笑顔も好きだけど、私を信頼しているからこそ見せてくれる、この自然体の顔の方が私は好きだ。
「今日は楽しかったね」
「そうだね。まだ夏休みは半分も残ってるんだから、これからも二人で色んな場所に行こう」
私の左肩に体を預ける陽菜。私は窓側の席だから、サンドイッチになって少し痛い。今までの陽菜だったら、いきなり手を握ったり、肩にちょこんと顎を乗せたりして、私をドキドキさせようとしただろうけど、今の陽菜はそんなこと考えずに、ひたすら私の体の温もりを求めている。
「今度はどこに行きたいかなあ……温泉、とか?」
「わかった、お金は私が払うよ。何泊する?」
「いやいや、冗談だよ。流石にわがまますぎるから」
「わがままを叶えるためにお金はあるんだよ?」
「ふふっ、かっこいい」
そう言って、陽菜は私の太ももに顔をうずめる。撫でてくれと言わんばかりに差し出された頭を、そっと撫でる。本当に、人が少ないバスで助かった。
「……お母さんと話すの嫌だな。まだ明るいし、どこか行かない?」
「次のバス停の近くに、大きな公園があるよ」
「いいね、行こう」
私も、もう少しだけ夢を見ていたい気分だった。
夏の日差しを受けて、無数の光の粒を散らす噴水。その周りを囲む花壇には、色とりどりの花が咲いている。まるで、絵画みたいな光景だ。
「これはインパチェンス、これはペチュニア、これはマリーゴールドだね」
「マリーゴールドか。これが揺れると、麦わら帽子をかぶった人に見えるらしいね」
試しに手で扇いでみる。
「うーん、そうは見えないな」
陽菜がクスクスと笑う。流石に恥ずかしくなって、「ところで、ずいぶん花に詳しいんだね」と話を逸らした。
「……葵はもう気づいてるかもしれないけど、私ってあの事件以来、ずっと不登校だったんだよね。だから、時間はあり余っててさ、暇つぶしに花の勉強をしてたんだ。陸上選手になりたいと思う前は、お花屋さんになりたかったからね」
そう語る陽菜は、ロッキングチェアに腰掛けて昔話をする老人のようだった。
「葵の将来の夢は?」
私たちの近くで遊んでいる男の子が、ぷくぷくとシャボン玉を飛ばす。無数の光の玉が、二人の間を通り過ぎて、次々と噴水に溶けていく。
「……陽菜の旦那さんかな」
陽菜の顔が、花壇のインパチェンスみたいに赤くなる。
「冗談だよ。私はね、政治家になりたい」
――嘘だ。本当はどっちにもなりたい。
「……健康で文武両道な上に、顔もかわいくて、家もお金持ち。本当に、葵は完璧だよ。政治家にだって、総理大臣にだって、きっとなれる」
陽菜は、大空を飛ぶ飛行機を虚ろな目で追っている。
「……私だって、葵ほどではないけど、恵まれた環境に生まれてきた。体は小さいけど、そのハンデを帳消しにできるくらいの才能があったし、優しい家族もそこそこのお金も持っていた。私たちは、努力次第でどんな理想も実現できる人として、大空の王の鷲として生まれてきたんだよ」
そう言って、陽菜は届くはずのない大空に手を伸ばす。
「だけど、あの日の嵐のせいで、私は翼を失った。……私も最初から鶏なら、大空を飛ぼうとなんて思わないよ」
さっきシャボン玉を飛ばして遊んでいた男の子が、手を伸ばしたまま静かに涙を流している陽菜を、不思議そうに見上げている。「私が陽菜の翼になるよ」なんていうセリフが頭に浮かんだけど、そんな安い慰めの言葉じゃ、また「どんな傷にもバンソウコウを貼ればいいと思っているバカ」になるだけだ。
「……もう帰ろうか。そろそろ、現実と向き合わなくちゃ」
服の袖で涙を拭った陽菜は、覚悟を決めるようにそう言った。
「そうしようか。でも、その前にトイレ行ってくる」
陽菜が私に何も隠さなくなったことは、もちろん嬉しい。だけど、陽菜の心に刻まれた深い傷に向かい合うのには、まだまだ覚悟が足りないようだ。
(……まったく、私まで泣いてどうするんだよ)
「それで葵、話って?」
緊張した面持ちで訊くお母さん。お父さんは動揺を顔に出さないように、唇を固く結んでいる。
「……結論から言う。お兄ちゃんの秘密を、私は今日、掛川陽菜から聞いた」
緊張のせいで、生徒会で話すような口調になる。二人の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「……そうか。頃合いを見て、話そうと思っていたんだけど、中々言えなくてな。本当にすまなかった」
テーブルの上に組んだ自分の手を見つめながら、お父さんは取り乱さずに言う。
「大丈夫だよ。私が親だったとしても、きっと言い出せなかっただろうから」
私のその言葉を最後に、食べきれないほどの沈黙が、箸もスプーンもない食卓に並んだ。
「……浩紀は勉強が苦手で、テストが返された日は、いつも憂鬱な顔をしていた。『人には得意不得意がある。浩紀は得意な運動をもっと頑張りなさい』と言って、小学三年生の時に、評判のいいサッカースクールに通わせたことがあるんだ。……浩紀の運動の才能は本物だった。浩紀は通ってから一か月ほどで、同学年の中では一番の腕前になった。それにも関わらず……浩紀は三か月ほどでサッカースクールをやめたいと言い出したんだ。そしてその代わりに、厳しいと有名の塾に、自ら進んで通い始めた」
お父さんは私の目をしっかりと見据えて語る。お母さんは、布巾で目を押さえ、声を殺して泣いている。
「……浩紀が十七歳の時にあの事件を起こすまで、お母さんもお父さんも、浩紀が不良グループの一員になっていることに、気づかなかった。……この家の長男であるということ自体が、浩紀にはプレッシャーだったんだな」
裁判長がガベルを振りかざすみたいに、お父さんは握りこぶしでテーブルを叩く。裁かれるべきお兄ちゃんは、もうこの世にはいない。無念を滲ませたバンという音が、三人の鼓膜を等しく揺らす。
「……その程度の理由で人を殺したのか。本当に、血を分けた兄とは思えないくらい、浅はかでバカらしい。とてもじゃないけど、私には理解できないよ」
陽菜の泣いている姿が脳裏をよぎる。煮えたぎるような怒りが、湧き上がってくる。
「葵の気持ちは痛いほどわかる」
私に相槌を打つお父さんは、悪夢にうなされているような顔をしていた。
「だけど……お兄ちゃんは、間違いなく私の憧れの人だった。優しくて頼りになって、ずっとその背中を追いかけていきたいと思えるような人だった。それも、覆らない事実だ」
――お兄ちゃんのしたことを、きっと私は一生許せない。だけど、お兄ちゃんを想っていた今までの自分を、私は裏切りたくなかった。
「人の評価っていうのは、単純に良い悪いじゃ決められない。きっとこれからの私は、自分の心を守るために、都合よくお兄ちゃんの評価を切り替えていく。あまり片方に傾倒すると、切り替えられなくなるから、私はお兄ちゃんを心の底から恨みもしないし、今までみたいに心の底から慕いもしない」
二人の顔を交互に見つめながら言ったそのセリフのほとんどは、自分に言い聞かせるためのものだった。
「……そうか、わかったよ」
やっと悪夢から解放されたように、お父さんは背もたれに体を預ける。目にあてていたティッシュを丸めて握りしめ、お母さんは席を立つ。
「甘いものが食べたくなったから、取ってくる」
そう言って、お母さんが向かったのは、お兄ちゃんの仏壇がある部屋だった。そして少し時間が経ち……お母さんは、お供えしていたチョコチップクッキーを持って戻ってきた。
「全部で十二枚だから、三枚ずつね」
最初は、泣きすぎたせいで疲れて、計算を間違ったのかと思ったけど、すぐに私はその意味を理解した。
「……最近、私とよく一緒に遊んでる友達って、実は、お兄ちゃんの秘密を教えてくれた掛川陽菜なんだよね。あと、友達っていうか……恋人の方が近いかな」
結婚相手を紹介するよりも、その時の私は緊張していた。
「えっ?」
お母さんが目を見開いて声を漏らす。お父さんは、呆気に取られてクッキーを落とした。
「……陽菜、自殺するらしいよ。この夏休みが終わったら」
ためらいを押しのけて、思い切って言う。私のその言葉を聞いた二人の顔からは、これ以上ないくらい絶望が溢れていた。
「……だけど、大丈夫だよ。そんなこと、絶対にさせない。計画はもう立てているから」
暑くなんてないけど、私は無意識のうちに袖をまくっていた。それは、覚悟を決める時の私の癖だった。二人は引き込まれるように私の目を見つめていた。徐々に、二人の顔から絶望が消えていく。……信じさせた以上、もう後戻りはできない。だけど一つだけ、最後に。
「その計画を実行するために、協力してほしいことがあるの……」
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