四章 君の秘密
「じゃあ私、トイレ行ってくるね」
「荷物、持つよ」
「ありがとう」
熱帯魚コーナー、深海魚コーナー、クラゲコーナーなどを巡り、大体の魚を見終えた私たちは、館内のレストランで昼食を済ませた。次は、ペンギンやイルカのショーを観に行く予定だ。
(それにしても、今日の陽菜は目がキラキラしていて、一段とかわいいな。午後の部では、どんな表情を見せてくれるんだろう)
トイレに行った陽菜を待ちながら、これまでの午前の部のことを思い返していた時のことだった。
「……すみません」
ビックリして顔を上げる。そこには、ハッキリとしたクマのある痩せた女性が立っていた。
「はい、どうされましたか?」
「人違いだったら申し訳ありません。私、掛川陽菜の母なのですが、あなたが陽菜のお友達でしょうか?」
思わず「えっ?」と言いそうになった。それくらい、その女性は、陽菜とは似ても似つかなかった。
「はい」
「陽菜がスマートフォンを忘れてしまって、届けに来たんです。渡しておいてください」
「わかりました」
「あと、あなたの話は陽菜からたくさん聞いているのですが、あなたの名前はまだ知らないんです。教えていただけませんか?」
初対面で気まずいのもあるのだろうけど、陽菜のお母さんはビックリするくらいに低姿勢だった。
「高城葵です」
「……高城。もしかして、森山銀行の頭取、高城正彦さんの娘さんですか?」
よくお父さんのこと知ってるな、銀行で働いているのかなと思いながら、私は答えた。ハッキリ、「はい」と。……私は、選択を誤った。
「……ふざけないで。あなた、どんな気持ちで陽菜のそばにいるの?」
豹変する陽菜のお母さん。突然のことに、頭が真っ白になる。
「この人殺しの妹が! 陽菜に近づかないで‼」
人殺しの妹。その言葉は、弾丸のように私の鼓膜を貫いた。顔に青筋を立て、悲鳴のような声で怒鳴るその姿は、まるで理性を失くした獣のようだ。逃げなきゃ、と私は本能的に感じたが、私の腕を異常なほどの力で鷲掴みにする手が、それを拒んだ。
「お母さん! 何してるの!」
トイレから出てきた陽菜は、私たちの姿を見つけるなり血相を変えた。そして、途中で転びそうになりながら、彼女なりの全速力で駆けつけくれた。
「陽菜! あなたはこの子の正体を知らないの?」
「知ってるよ! 最初から、全部全部、知った上で私は葵と一緒にいるの。私が恨んでるのは『あの男』であって、葵じゃない。葵は、私が選んだ大切な人なの。だから……外野は引っ込んでて!」
陽菜が叫ぶ。レストラン中の視線が、私たちに集まっていることに気づく。私の腕を鷲掴みにしていた手が、重力に負けてだらんと落ちる。陽菜が私の手を取り、ギュッと握る。ふと、泣きそうになる。
「クラゲコーナーに行こう。人が少ないし、ベンチがあるから」
陽菜に導かれて歩く。人殺しの妹、お兄ちゃんの秘密。点と点が繋がって、不吉な逆五芒星が描かれる。……まさか、嘘でしょ? 訊きたいことが、次から次へと溢れ出て来る。
「……大丈夫だよ。全部、話すから」
そんな私の心を見透かしたように、陽菜が優しく言う。ふと振り返る。陽菜のお母さんは、道行く人の訝しげな視線を浴びながら、力を全て使い果たしたように、その場に立ち尽くしていた。
「……葵、何から訊きたい?」
カラフルに色を変える照明を受けたクラゲが、正面の壁一面に広がる水槽を漂っている。クラゲコーナーには、私たち以外、誰もいなかった。
「お兄ちゃんの秘密から、教えて」
陽菜はずっと、私の手を握りしめている。私もずっと、陽菜の手を握りしめている。暗い室内、お互いの姿はあまりよく見えないけど、繋がれた手が、「ここにいるよ」と教えてくれる。
「……結論から言っていい? 好きでしょ、効率的なの」
「嫌だ。ゆっくり教えて」
思わず陽菜の手をギュッと握る。
「注射を怖がる子供みたい。葵、かわいい。ねえ、キスしていい?」
「後からね」
「今じゃなきゃ嫌だ。だって、この話をしたら、きっと私たちの関係は変わってしまうから。何も知らず、純粋な気持ちで一緒にいたいと思える今したいの」
雨に濡れて重みを増した陽菜の声が、二人の間に落ちる。恥ずかしさが溶けきるのには、きっと十秒もかからなかったと思う。……おもむろに、陽菜の方を振り返る。
「……じゃあ、いいよ。陽菜、こっち向いて」
陽菜は、泣きそうな顔で私を見つめていた。そっと、その柔らかい頬に手を当てる。
「……葵、不正解だよ」
――お気に入りのぬいぐるみを傷つけられた子供みたいな声だった。
「ここは、『どんな話を聞かされても、私は陽菜のこと絶対に嫌いにならないから、後からしよう』って言ってほしかった」
照明を受けて青くなった雫が、陽菜の両目から一粒ずつ零れ落ちる。
「……じゃあ、このまま顔を合わせたままで話して。危なくなったら、キスするから」
「……わかった」
お互い、声が震えていた。
「あれは、五年前のこと。夕方、お母さんが急に熱を出して、私と妹の
……その事件で花菜は死んで、私は右脚を自由に動かせなくなった。そして、その時の加害者の一人が、高城
淡々と語る陽菜の声には、一切の感情が籠もっていなかった。私の中のどこかで、栓がスポンと取れたような気がした。私は、ただただ涙を流していた。記憶の写真館に収められていた優しいお兄ちゃんの姿が、一枚一枚、チリチリと小さな音を立てて燃えていく。
「……葵は嫌な気持ちになるかもしれないけど、愚痴っていい?」
コクンと頷く。声はまだ出せなかった。
「……実は私さ、こう見えて、運動がめっちゃ得意だったんだよね」
人間がつくった水槽の中、人間がつくった水流に乗って漂うクラゲを、陽菜は悲しそうな目で眺めている。
「だから小さい頃は、陸上選手になりたかった。インターハイとかオリンピックとか目指して、いっぱいいっぱい頑張ってさ、たくさんの人に『すごいね』って褒められたかった」
声が段々と涙まじりになっていく。
「……ごめんね。陽菜は何も悪くないのに」
絞り出した声で呟くと、陽菜は私の方を向いて、睨むように私の顔を見つめた。何かがプツンと音を立てて切れる。私はその時、初めて陽菜を怒らせた。
「みんな、そればっかりだよね。『本当にごめんなさい。私が風邪薬を切らしていなければ……』とか、『陽菜さんが立ち向かったところで、きっと結果は何も変わりませんでした。あなたは、何も悪くないんですよ』とか」
言葉の端々から怒りが漏れ出ている。肩が微かに震えている。その時、私の目の前にいたのは、私の知っている陽菜ではなかった。
「……ほんと、うんざりだよ。傷の深さもわからずに、適当にバンソウコウでも貼っておけば治るだろうと思ってるバカが、この世にはたくさんいる。……葵は違うって、信じてたのにな」
冷たい視線が、私の目を矢のように貫く。……やけにゆっくりと流れた十数秒の後、陽菜は、「とんでもないことをしてしまった」というような顔をした。
「……ああ、ごめんごめん。私ってば……」
「陽菜、私の前では無理しないで」
考えるよりも先に、言葉が出ていた。
「陽菜がどれだけ酷いことを言ったって、弱いところを見せたって、私は陽菜を嫌いにならないから」
だけど、とっさに出たその言葉たちは、間違いなく私の本音だった。陽菜は大きく目を見開いて、私を見つめる。
「……高城浩紀の秘密をだしにすれば、絶対に私のお願いを聞いてくれるだろうと思って、私は葵を相手に選んだんだよ? 葵の弱みにつけ込んだんだよ?」
「それでも、今まで私に贈ってくれた言葉は、嘘じゃないんでしょ?」
初めてのお出かけで、陽菜に「優しい人」と言われた時、本当はとっても嬉しかった。我ながら、「チョロいヤツ」だと思う。たったそれだけの言葉で、私は陽菜を「家族と同じくらい大切な友達」だと思い始めたんだから。
陽菜は私の目を見つめている。照明の色は変わり、イチゴみたいな赤色だ。特にドキドキはしていない。だって……返ってくる言葉は、もうわかりきっているから。
「……嘘じゃない」
「そうでしょ、だから私は……」
――陽菜の細い人さし指が、私の唇の前にすっと伸びる。
「……そんなキラキラしたかわいい顔しないで。もう一つの秘密を、話しにくくなるから」
その時の陽菜の笑顔は、しなびたヒマワリに似ていた。
「実は私ね……この夏休みが終わったら、自殺するの。『恋愛ごっこ』をしようと思ったのも、死ぬ前に『恋愛』っていうものを経験してみたかったから。……どう? こんなことを告げられた後でも、葵はさっきと同じ気持ちで私にキスできる?」
諦めを漂わせた潤んだ目で、私を見つめる陽菜。不思議と、私の心は穏やかだった。……その時の私は、きっともう覚悟を決めていたんだと思う。何があっても陽菜と一緒に生きていこうという、揺るぎない覚悟を。
シャッターが落ちるみたいに、視界が暗闇に包まれる。数秒後経って、視界が元に戻る。その時、私の目の前にあったのは、見開かれた陽菜の目だった。唇に湿った柔らかいものを感じる。私は、無意識のうちに陽菜にキスをしていた。
「ごめん。やっぱり、さっきと同じ気持ちではできなかった。今の私は、さっきよりもずっと、陽菜のこと好きになってる」
自分の妹を殺し、自分の右脚を不自由にした人殺しの妹と出会ったら、私は間違いなく、ありとあらゆる方法を使って、そいつを排除するだろう。だけど陽菜は、私を排除するどころか、私を「恋愛ごっこ」の相手に選び、私がほしかった言葉を、たくさん贈ってくれた。……こんな心の広い人に、私はこれまで出会ったことがない。陽菜は、私にはないものを持っていた。
「……私、自殺をやめる気はないからね?」
永遠の誓いを実現するのに十分な絹糸を、陽菜となら紡ぐことができる。漠然としているけど、確かな直感。陽菜と手を繋ぎ、二人で暮らす家に一緒に帰る自分の姿を、私は昨日のことのように、鮮明に思い浮かべることができた。
「それでもいいよ。私は陽菜の自殺を止めない。私は、陽菜の送りたい人生を、一番近くで応援したいの」
陽菜が人生のエンディングに自殺を選ぶとしても、私の思い描く陽菜との未来は実現しないとしても、私は陽菜を肯定する味方でいたかった。
「……じゃあ、これで恋愛ごっこはおしまいね。ここからは、もう『ごっこ』じゃないから」
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