三章 君との水族館デート

 あの日から、私は考えるようになった。ナンバーワンであり続けることは、今の私にとってどれほど大切なんだろう、と。だから私は、実験として、塾のテストに一切の勉強をせず挑んでみた。そして今、私の右手に収まっているのが、その結果が書かれた紙の入った封筒だ。

「さあて、開けようかな」

 塾からの帰り道、風に揺れる街路樹の葉の影が、私のテストの結果を覗こうとしているみたいだった。いつもより駆け足の心臓を無視して、私は封筒を開けた。

「……やっぱりな」

 心臓がしゅんと大人しくなる。結果は、二位だった。

「真田君、喜んでるだろうなあ……」

 二宮金次郎の生まれ変わりみたいに勤勉な真田君の姿を思い出す。

「……悔しい。けど、陽菜とまた遊びに行ったら、すぐに忘れる程度の悔しさだ」

 もちろん、このまま勉強をサボり続けて、志望校に合格できないなんてことは、あってはならない。それに、ナンバーワンになった時のあの優越感、心の高ぶりは、やっぱり忘れらない。だけど……人生なんてものは、神様のきまぐれで簡単に変わってしまう。明日、謎の病にかかって手足が動かなくなる可能性だって、お父さんの銀行が倒産して、家族そろって路頭に迷う可能性だってあるんだ。

 そういうアクシデントが起こった時、ナンバーワンであることだけを、生きる目標にしていた昔の私は、一瞬で挫折しただろう。だけど、今の私は違う。

(さて、次は絶対に一位を取るぞ。だけど、陽菜ともたくさん遊ぼう。まだ夏休みは半分も残ってるし、私は高城葵なんだから。勉強と遊びの両立くらい、なんてことない)


「お父さんが融資を決めたあの海が見える温泉旅館、人気みたいね」

 金魚でも泳いでいそうなデザインのランチョンマットと、夏らしい爽やかな色の食器が、三人で囲む食卓に花を添える。専業主婦で特に趣味もないお母さんは、こうやって季節に合わせて小物や食器を変えたり、部屋の模様替えをしたりするのが好きだ。

「そうみたいだな。不良債権にならなくて良かったよ」

 同期の中では常にトップの営業成績を取り続け、四十代で頭取まで上り詰めたお父さんは、家でリラックスしている時でも、鋭い目をしている。

「ごめんな葵、今年も、バーベキューとか海水浴とか家族旅行とか、そういう夏休みらしいことができなくて」

「いいよ、私も今年は受験生だし」

「それにしては、今年の夏休みはよく遊びに行くわね」

 目を見開いて、お父さんがお母さんの顔を見る。「いやいや、友達よ」とお母さんが慌てて付け加える。

「ああ、そうか。でも……もうそろそろ、そういう話が出てもいいんだけどな。異性に対してでも、同性に対してでも、なんなら人じゃないものに対してでも、『好き』っていう感情を持つのは、素晴らしいことだよ」

「私もそう思うよ。……じゃあ、ごちそうさまでした」

 雑に言って席を立つ。お父さんは優しいんだけど、ほっとくと勝手に長話を始める癖がある。たぶん、長ったらしくて小難しい挨拶を、頭取としてたくさんしてきたせいだな。

「……今日、お兄ちゃんの月命日だから、お線香あげてくる」


 生前のお兄ちゃんの部屋。今じゃ仏壇以外には何もないまっさらな和室。

「お兄ちゃん、私ね、友達ができたんだ」

 両脇のガーベラ、手前のチョコチップクッキー。好きだったものに囲まれているお兄ちゃんの遺影は、高校の入学式の時に撮られたものだ。真新しい制服を着て、恥ずかしそうな笑顔を浮かべているお兄ちゃん。

「今度の友達は、涼香ちゃんたちとは違って、とってもいい子。あの子となら、UFOキャッチャーも楽しく遊べる」

 面倒見が良くて、お菓子を半分こにする時は、いつも大きい方をくれたお兄ちゃん。

「その子とはね、ちょっと変な遊びをしてて、夏休みが終わるまで私がその遊びに付き合ったら、その子は私にお兄ちゃんの秘密を教えてくれるんだって」

 たまにぶっきらぼうで、ケンカもしたけど、間違いなくお兄ちゃんは、私の誇れる家族で、その背中を私はずっと追いかけていけるんだと思っていた。

「なんで、なんでって、ずっと思ってた。夏休みが終わったら、私はやっとその理由を知ることできる。だけどさ……こっちの世界に降りてきて、早めに教えてくれてもいいんだよ? ねえ、お兄ちゃん……どうして、自殺なんてしたの?」


「水族館でデートしたい。陽菜、いつだったら行ける?」

 この恋愛ごっこを早く終わらせたいわけじゃない。だけど、お兄ちゃんの秘密は、今すぐにでも知りたい。だから私は、作戦を立てた。「夏休みが終わる前に秘密を教えても、きっと葵なら裏切らないよね」と陽菜に思わせるんだ。今までのお出かけは、全て陽菜から誘ってきたもので、内容も一回目とほぼ同じだった。だけど今回は、私の方から誘って、しかも「デート」なんていう言葉まで使った。

「実は私、かたかな読めないんだよね。その文章のかたかなのところ、ちょっと音読してくれない?」

 すぐに来た返信。いつもの私なら、恥ずかしがっていただろうけど、覚悟を決めた私は、この程度のことじゃ動じない。「日付は英語でなんて言う?」と頭の中で自分に質問をする。

「デート」

 ハッキリと言って、ボイスメッセージを送る。

「おおー! えっ、えっ、デート? 私は明日にでも行けるよ!」

「じゃあ明日、駅前で十時に集合ね。行き方とかは、私がもう調べたから、陽菜はただ来るだけでいいよ。じゃあ、楽しみにしてる」


 小学生の頃に訪れた時は、ボロボロだった森山水族館。だけど今じゃ、リニューアルが終わって、新しくおしゃれになっている。このリニューアル工事も、主にお父さんの銀行の融資を元手にして行われたと思うと、なんだか改めてお父さんの凄さを実感する。

「そこそこ並んでるね。十分くらい待たないといけないかな?」

「そうだね。手でも繋いで待ってようか」

 不意をついて陽菜の手を握る。陽菜は顔を赤くしながら、不思議そうに繋がれた二人の手を見ていた。

「ねえ葵、今日はやけに積極的だね」

「そう?」

「お兄さんの秘密、そんなに早く知りたい?」

 前に並んでいる人のシャツのプリントに注がれていた目線は、いつの間にか私の目を貫いていた。吸い込まれるような美しさを持った小さなブラックホールは、私の心の中までを見通しているようだ。

「……うん」

「この秘密を知ったら、葵はお兄さんのことを嫌いになるかもしれないよ?」

「それでも、私はお兄ちゃんの全てを知りたい。良いことも、目を逸らしたくなるような悪いことも」

「……わかった。今日のデートで葵が頑張ったら、教えてあげないこともないよ」

 その声は、いつものように明るかったけど、その目は、考え込むように遠い空の入道雲を見つめていた。


「この魚、美味しそう! この魚は、あんまり美味しくなさそうかな。なんか、泥臭そう」

「どうして食べる前提なの」

 天井まで届く大きな水槽を、悠々と泳ぐ大小さまざまな魚たち。暗い室内と、水面から届く光を演出した照明が、見る人を水の中にいるような気分にする。

「私、こういうの何時間でも見ていられるんだよね」

 鼻頭がガラスに触れるほど顔を近づけて、うっとりした目で魚を一匹ずつ見つめる陽菜。

「なんか、陽菜らしくないね」

「私だってね、それはそれは趣深い和の審美眼を持っているのですよ」

「なんかそれっぽいけど、絶対テキトーに言ってるでしょ」

「あっ、バレた? まあ、ずっと見てられるのは本当なんだけど、せっかく来たんだから他のやつも見に行こう」

 そう言って、今度は陽菜の方から私の手を取った。

「ああ、あとね、うぶな葵ちゃんは知らないかもしれませんが、恋人同士はこうやって手を繋ぐんですよ」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、陽菜は自分の指と私の指で、小さなバスケットを編んだ。こうすると、陽菜の柔らかくて温かい手の感触を、余すところなく感じられる。これが、俗に言う「恋人繋ぎ」ってやつか。

「どう、ドキドキする?」

「ドキドキはしないけど、さっきよりも繋がってる感じがして好き」

 私がそう答えると、陽菜は視線を床に落として顔を赤くした。

「……そういう本音を言われるのが、一番ドキドキする」

 リンゴみたいになった陽菜の頬を見て、私は方針を変えることにした。


「うわっ、サメだ!」

 それから私たちはアクアトンネルというところに訪れた。さっきよりも大型の魚たちが、私たちを取り囲むように泳いでいる。安全なのはわかるんだけど、もしも今、地震が起きてガラスが割れたら……と、どうしても考えてしまう。ある意味、お化け屋敷よりも怖いところだと思った。

「なんか、本当に海の中にいるみたいだね」

「ロマンチックだよね……ほら、私たち以外にも、カップルがたくさんいる」

「ああ、本当だ。みんな仲が良さそうだね……って、えっ?」 

 私たちの前、人混みに紛れて歩くカップル。少し背が低い坊主頭の男の子、髪が短くて眼鏡をかけているちっちゃい女の子……ああ、間違いない。

「……あれ、宗助たちだ」

「ひどい、私の前で元カレの話をするなんて……」

「ただの友達だよ!」

 そうハッキリと答えた時、心が少しも濁らなかったことに、私は安心した。

「ふーん……じゃあ」

「ちょっ、陽菜、どうしたの?」

 私の手を引っ張り、不自由な脚で陽菜は精一杯に早く歩く。そして、宗助たちの隣を通り過ぎる時に、「今日のデート、楽しいね」とわざと聞こえるように言った。「えっ?」と声を漏らし、宗助と大石さんは、揃って私たちの方を振り向いた。


「陽菜ってさ、意外と独占欲強いね」

 私たちの後ろ、二人は何事もなかったかのように、楽しそうに魚を眺めていた。宗助が上手く言いくるめてくれたんだろう。

「だって、葵を失いたくないから」

「大丈夫だよ。夏休みが終わるまで、私の好きって気持ちは、全部、陽菜のためのものだから」

「……ありがとう、大好き。私も、葵のことだけを考えて生きる。夏休みが終わるまでは、ね」

 夏休みが終わるまで。陽菜は、その言葉を自分に言い聞かせているようだった。私はふと考える。恋愛ごっこが終わった後も、私は陽菜を恋人として、愛することができるのだろうか、と。

 大抵の場合、恋愛感情というものは、「一緒にいたい」という気持ちと、「エッチなことをしたい」という気持ちが合わさってできる。「一緒にいたい」という気持ちだけでは、どうして恋愛感情にならないのか? その答えは簡単で、「一緒にいたい」という気持ちは、簡単に壊れてしまうから、永遠を誓い合う二人を繋ぐには、脆すぎるからだ。

 その点、「エッチなことをしたい」という気持ち、つまり性欲は簡単にはなくならない。いくら相手と一緒にいたくないと思っても、体が相手を求め続ける限り、二人の繋がりはなくならない。綺麗な絹糸よりも、泥まみれの縄の方が、よっぽど頑丈なのだ。

 きっと私は、陽菜が目の前で全裸になろうと、何も感じない。なんなら私は、陽菜とは真逆の高倉健みたいな男らしい人が好きだ。だけど……今の私には、陽菜以外の人と綺麗な絹糸を紡ぐ未来が見えなかった。

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