二章 君との恋愛ごっこ
「恋人になってとは言ったけど、キスをしろとかエッチをしろとかは言わないから、大丈夫だよ。まあ、葵ちゃんがそうしたいならいいけどね♡」
掛川さんから送られてきたラインを見て、ただでさえ悪い気分が、どん底まで落ちる。やっぱり私は、掛川さんのあのお願いを断れなかった。相手がどんなに不細工であろうと、クズであろうと、「私のお兄ちゃんの秘密を教える」なんていう理由をつけてお願いされたら、私は断れないだろう。
(恋人になってって言われても……一体どんなことをすればいいんだ?)
話したらみんなビックリするんだけど、実は私は恋愛漫画が好きだ。だから、恋人たちがするようなことを、私は大抵知っている。恥ずかしくて本棚の奥に隠している恋愛漫画、久しぶりに出して読んでみようかな……。
そんなことを考えていたら、またラインの通知音が鳴る。
「あー、うっさいなあ!」
イライラしながらスマホを手に取って、メッセージを確認する。
「明日、遊びに行かない? 駅前のイオンでお買い物したーい」
面倒だなと思いながら、慣れないフリック入力で、頑張って文章を打ち込む。
「集合時間と何時まで遊ぶのかを指定して。私はそれに合わせるから」
「えっ、葵ちゃん、そんな口調で恋人と話すの? うわっ、つまんねえ女、やっぱ俺、もっとかわいらしい女と付き合うby将来の彼氏」
一瞬でやってきた返事に、感じるはずのないジェネレーションギャップを感じた。
「だって、掛川さんは本物の恋人じゃないでしょ?」
「ねえ葵ちゃん、あんまり私の機嫌を損ねない方がいいよ?」
「夏休みまでっていう制限をつけなくても、普通に男の子と付き合えばいいでしょ。掛川さんに言い寄られて、ノーと答える男の子なんていないよ? それとも、同性愛者なの? だったら私も、もう少し優しくするけど」
とりあえず、浮かんだ質問を全部詰め込んでみた。
「葵ちゃんに優しくされたいのは山々だけど、私はレズビアンじゃないよ。理由はもっと仲良くなってから話すけど、この恋愛は、夏休みの間のごっこ遊びじゃないといけないの。葵ちゃんが言う通り、私ってかわいいからさ、男の子を巻き込んだら、本気にさせちゃうでしょ?」
どんな理由なんだろう? 不思議だけど、どうせ後からわかることをあれこれ考えるのは、非合理的だ。
「なるほど、人の心はちゃんとあるんだ。じゃあ私は、勉強するから」
そう送って、スマホの電源を切る。筆記用具と問題集を用意しながら、私はしみじみと呟いた。
「それにしても……今年の夏休みは、騒がしくなりそうだな」
朝の十時、待ち合わせ場所にしていたイオンの北口に、掛川さんは立っていた。「友達と遊びに行く」と言っただけなのに、お母さんはあれこれと服を出してきて、どれが一番似合っているか、ファッションショー的なことをした。正直、我が家に私の服があんなにたくさん眠っていたことを、私は知らなかった。
「あー、葵ちゃん!」
透き通った掛川さんの声は、遠くからでもよく聞こえる。淡い水色のブラウスに、黒いレースのロングスカートを穿いた掛川さん。いつもの制服姿とは、また違ったかわいさがあった。
「あのさ、葵ちゃんって呼ばれるの気持ち悪いから、葵って呼んでくれる? 私も掛川さんじゃなくて、陽菜って呼ぶから」
「え、いいの? やった!」
サンタさんからプレゼントをもらった子供みたいに、掛川さんは跳ねて喜ぶ。
「よしじゃあ、行こうか」
掛川さんの歩く速度に合わせて、ゆっくりと歩く。一枚の自動ドアが隔てるイオンの中は、世界が切り替わったみたいに涼しかった。横を歩く掛川さんが、ニヤニヤしてずっと私の横顔を見つめてくるのが、くすぐったい。
「陽菜、どこに行きたい?」
あれ、イオンってこんなに広かったっけと、地図を見て思いながら、掛川さんに訊く。
「へー、さっそく陽菜って呼んでくれるんだ。あ・お・い♡」
ねっとりした甘い声でそう言って、私の腕に抱きついてくる。
「気持ち悪いって。ほら、さっさと答えて、どこに行きたいの?」
そんな掛川さんの体を押し返しながら、強い口調で訊く。なんだか、子供のいたずらを止める母親になった気分だ。
「じゃあね、ゲームセンターに行きたい!」
「ここに化粧品コーナーあるけど、そういうのはいいの?」
地図上の化粧品コーナーを指さした私を、掛川さんは驚いたように見つめる。
「えっ、葵ってお化粧するの?」
「しないけど、陽菜はするんじゃないかなって。いつもかわいいから」
「いやいや、お前の方がもっとかわいいぜ。マイハニー♡」
「……陽菜、今日はずっとそんなテンションなの? 疲れない?」
「……確かに、疲れるかも。自粛しまーす」
流石に恥ずかしくなったのか、掛川さんは少し俯いて苦笑いをした。
「葵って、みんなが思ってるよりも表情豊かだよね」
ゲームセンターがある二階へのエスカレーターに乗っている途中、掛川さんは突然そんなことを言った。
「葵って、クラスのみんなから『鬼の生徒会長』って呼ばれててさ、人の心がない怖い人なんだろうなーって思ってたんだけど、全然そんなことなかった。私の歩く速度に合わせて、ゆっくり歩いてくれるしさ、ちゃんと楽しそう」
「私だって、努力じゃどうにもならないハンデを抱えている人には優しくするし、世間一般に楽しいって言われていることをしたら、楽しいって感じるよ。だけど、こういう娯楽に時間を費やすと、考えちゃうの。この時間には何の意味があるんだろうって」
「娯楽に理由なんていらないよ。だって、娯楽自体が、『人生の理由』なんだから。……すぐ怒るとも聞いたけど、それはどうなの?」
「嘘を吐いたとか、仕事をサボったとか、話を聞いてなくてミスをしたとか、そういう奴らにしか怒らないよ」
「……ほんと、真面目すぎるのも大変だね。もっと適当な性格だったら、みんなわかってくれるのに。葵はとっても優しい人だって」
吊り下げられた広告を眺めながら、掛川さんは真剣な声で言った。優しい人、掛川さんが言ったその言葉を、私は無意識のうちに心の中で復唱していた。……家族以外に言われたのは、けっこう久しぶりだな。
「あっ、そのぬいぐるみ、ネットだと二千円で買えるらしいよ。陽菜、もう二千円以上使ってるよね」
一目惚れした大きなテディベアを取ろうと、UFOキャッチャーの沼にはまっていく掛川さんを止めにかかる。
「うるさーい! こういうのはなー、自分で取るからいいんだよ!」
男らしい口調で言って、子供みたくどんどんと足踏みをする掛川さん。言葉遣いと行動が全然合っていない。
ゲームセンターに来るのなんて小学生のとき以来で、最初はうるさくて耳を塞ぎたくなったけど、慣れるとお祭りみたいで楽しくなってきた。色々なゲームをやったけど、一番面白かったのは、メダルゲームで、将来の自分がギャンブルにはまらないか不安になった。ホラーゲームは、すぐにやられてゲームオーバーになるし、大して怖くもないしで、二人して拍子抜けした。昨日はあれだけ面倒臭がっていた私だけど、いざ遊びに来てみると案外楽しくて、掛川さんと二人で出掛けるのも悪くないなと思い始めていた。
「ねえ、いつになったら諦めるの?」
「取れないことを前提にするなー! てかさ、葵も手伝ってよ。得意そうでしょ? ふむふむこの位置……クレーンの移動速度から考えて、横に五秒、奥に四秒だな! みたいな」
眼鏡をくいっと上げる真似をする。いやいや、無理だよ。そもそも私、眼鏡かけてないし。
「嫌だ。私、UFOキャッチャーには嫌な思い出しかないから」
「私のお金でやっていいから! ここで取って、良い思い出で上書きしようよ。私に任せといたら、日が暮れるよ」
「あーもう、わかったよ。言っとくけど、私はこれめちゃくちゃ苦手だから」
掛川さんから百円玉を受け取り、チャレンジすることにした。
「ええと……」
色々な角度から見て、よく考えてからボタンを押した……はずなのに、かすりすらしなかった。
「こんなに近いのに、どうしてかすりもしないのさ! 葵、老眼なの?」
「二十回以上やって取れなかったヤツに言われたくないわ! 今度、老眼鏡でも買ってやろうか!」
「えっ、プレゼント? 嬉しい……」
「嘘だよ! 悔しいから、もう一回やる」
そして私は、四回目のチャレンジで、そのテディベアを取った。
「こ、これが天才か……」
「まあ、ざっとこんなもんよ」
そう言いながら、額を流れる汗を手の甲で拭う。テディベアの位置を目測して、ボタンを押していただけなのに、人は熱中するとこうもエネルギーを使うのか……なんか、楽しかったな。
「さて、次はご飯でも食べに行こうか。何が食べたい?」
「フードコートのクレープがいい!」
「わかった。じゃあ行こう」
「うわ、美味しい。けど……イチゴがちょっとすっぱいな」
と、ストロベリー生クリームを注文した掛川さん。
「これは私の研究結果なんだけどね、スイーツに入ってる生のイチゴは、大抵すっぱいよ」
と、キャラメルナッツを注文した私は勝ち誇った。夏休みも始まったということで、フードコートは混んでいたけど、 運よく私たちは、窓に面した見晴らしの良い席に座ることができた。
「ねえ、クレープ交換しようよ」
「半分食べてからね」
「……あれ、ちょっと見て! 交差点でおばあさんが倒れてる!」
掛川さんがとっさに窓の外を指をさし、真剣な声で言った。
「えっ!」
私も思わず声を上げ、窓の外に目を遣った……次の瞬間だった。
「クリームついてるよ」
いきなり唇の端を触られてビックリし、頬の裏を思いっきり噛んでしまった。驚いた私の顔を見て、掛川さんはニヤついている。ヒリヒリと痛む頬の裏が、余計に私の怒りを加熱させた。
「あのさ、クリームついてることくらい知ってるけど、どうして食べてる途中にいちいち拭き取らないといけないの? どうせまた汚れるんだから、食べ終わった時に拭けばよくない?」
「ごめんごめん。一度やってみたかったんだよね、こういう恋人っぽいこと」
「二人でショッピングモールに来て、ゲームセンターで遊んで、協力してUFOキャッチャーをやって、一緒にクレープ食べて。恋人っぽいことなら、たくさんしてきたでしょ?」
「でもそれは、友達同士でもやることだから」
掛川さんは少し悲しそうな目をしてそう言って、隣の席に座らせているテディベアの頭を撫でた。掛川さんが「みあ」と名付けたそのテディベアは、その黒い真ん丸の目で私に訴える。ご主人をあんまりいじめるな、と。
「……突然だけど、陽菜は私のお父さんがどんな仕事をしているか知ってる?」
「森山銀行の頭取でしょ? それがどうしたの?」
こともなげに言う掛川さん。そういう反応は、私にとっては新鮮だった。
「さっき私、UFOキャッチャーには嫌な思い出しかないって言ったでしょ? 実は私ね、小学生の時、一度だけ友達とこのイオンに来て、ゲームセンターで遊んだことがあるの」
「ひどい、私が初めてだと信じてたのに……」
「茶化さないで、怒るよ」
「……ごめんなさい」
「それで、みんなでUFOキャッチャーをやることになって、そしたらリーダー格の子が今日の陽菜みたく沼にはまってさ……私、お金をたかられたんだよね。当時の私は今よりもずっと気が弱くて、断れなかった。その子が取れたら、今度は他の子も私のお金でやり始めて、結局、四千円くらいが無駄になった。もちろん、一円も返してもらってない」
「葵にもそんな時期があったんだね」
「だけど……あっ」
クレープの溶けて落ちそうになったところを、ぱくっと食べる。口の中の甘いクリームを、唾液で十分に溶かして飲み込んでから、また話し始める。
「だけど、陽菜は二千円以上も使ったのに、私のチャレンジの分までお金を出してくれてさ。そしてゲームセンターを出る時は、大事そうに残りのお金を数えて……陽菜のそういうところ、好きだよ」
「あ、ありがとう」
キョトンとした顔をして、不思議そうに言う。掛川さんはそのくりくりした目をキョロキョロさせて、探るように私の顔を見つめる。
「……相手の好きなところを、相手に直接伝える。これ以上ないくらい恋人らしいことでしょ?」
私がそう言うと、掛川さんは、石ころの山から宝石を見つけた人みたく、目を大きく見開いた。その数秒後、掛川さんの頬の中心はぽわっと赤くなる。
「わ、私も、葵の素直でかわいいところ、大好き……」
恥ずかしそうにぼそっと言って、俯く掛川さん。頬の赤みは、もう耳にまで届いている。私が勢いで言ったあの言葉は、もくもくといたたまれない雰囲気を生み出して、あっという間に二人を覆った。
「……あっ、もうクレープ半分だから、交換しようよ」
「で、でもそれって間接キスってことに……」
「うるさい! じゃあ、ずっとそのすっぱいクレープ食ってろ!」
「やだ、やっぱり交換する!」
私が食べる下半分に、イチゴはほとんどない。すっぱいらしいから、ラッキーだと思っていたけど、食べてみると逆にクリームだらけで甘ったるかった。
「そのクレープ、甘ったるいでしょ?」
「うん」
「そのクレープは、今の葵だよ」
また私をからかうつもりなのかと思ったけど、掛川さんの顔は真剣だった。
「スイーツに必要なもの、甘さだけを詰め込んだら、そのクレープみたいにすぐ食べ飽きるものになる。だから美味しいスイーツっていうのは、アクセントとして、すっぱいものやしょっぱいもの、苦いものみたいな要らないものを加えるの。……私は、葵にとってのすっぱいイチゴになりたい」
……そう言って、私に笑いかけた掛川さんの顔は、いつもよりずっとかわいかった。恋愛漫画の定番シーン、自分を励ましてくれる男の子の顔が、急にかっこよくなって、その周りに無数のキラキラがつくやつは、本当なんだと知った。
ゴールデンウィーク明けにうちのクラスにやってきて、私と話したのは昨日が初めての掛川さんは、もう私の心の中までを理解して、私のほしい言葉を投げかけてくれる。だけど私は……掛川さんの上辺しか知らないな。まあ、掛川さんはもともとこういう人で、心の森をいくら進んで行っても、結局は上辺とほとんど同じものしか見つからないのかもしれない。
そうだとしても私は、掛川さんのことをもっともっと知りたい。たくさん歩いて歩いて、新たに見つかったものが一本のキノコだけだったとしてもいい。
(……恋愛ごっこが終わった後も、陽菜と友達でいたいな)
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