夏休みが終わるまで

てゆ

一章 君と夏休みが終わるまで

「じゃあ、各部活のアンケートの結果を教えて。明日までにプリントを作らないといけないから」

 ただでさえ狭い生徒会室の中央を陣取っている、古くて無駄に大きい長テーブルの一番奥の席に、私は今日も座っている。先代たちの残した要らない書類と、いつかのイベントで使った道具に埋め尽くされている棚、どこか緊張した面持ちで、生徒会長の私を見つめる生徒会役員たち、テーブルから少し離れたところに座り、眠そうな顔で私たちの会議を見守る先生。この席から見える景色は、今日も変わらない。

「そ、そのことなんだけど……」

「なに?」

 一応訊いてみるけど、どんな答えが返ってくるかはわかりきっている。

「……実は、中々予定が合わなくて、野球部以外のアンケートができなかったんだ」

 はあー、と心の中で溜息を吐く。人から仕事を頼まれた時は、予定合わせるんじゃなくて、予定合わせるんだよ。下手な言い訳を並べて、「人に言われたことをする」なんていう犬にでもできるようなことが、できない人間。本当にこの世界は、分かり合えない人間で溢れ返っている。

「……ああ、そう。じゃあ、今日は解散。中井さん、西村さんの代わりに、明日アンケートを取って」

「いや、本当にごめん。次はちゃんとするから……」

 野球で鍛え上げられた逞しい体を前のめりにして、西村は必死に弁明しようとする。

「いいや、結構。私はもうあなたを信じないから。私は裏切られるのが嫌いなの」

 私がそう答えると、西村は肩を落として無言で席に着いた。

「先生から、何かありますか?」

「いいや、ないよ」

 生徒会の担当になってから、役に立ったためしは一度もない先生だけど、変に首を突っ込んでこないところは美点だ。

「次回は明日の放課後、急いでアンケートの結果を集計して、プリントを作る。以上、解散」


 人の可能性っていうのは、生まれた時から決まっている。今は男女平等の時代だけど、男に生まれた人が妊娠する可能性はないし、女に生まれた人が立って用を足す可能性も、まあたぶんないだろう。生まれつき難病を持った人が、健康な人と同じ生活を送れる可能性も、子供に暴力を振るう両親のもとに生まれた人が、優しい両親のもとに生まれた人と同じだけの幸せを感じて子供時代を過ごす可能性も、ゼロとは言わないけど、限りなく低い。生まれた瞬間から、選ぶことのできる未来が決まっている。そんな理不尽な世界に、私は、ほぼありとあらゆる可能性を持って生まれてきた。どんな未来も、努力次第で掴み取ることができる。そのことを意識し始めてから、私は、常にナンバーワンでありたいと思うようになった。


あおいって、わかりやすいよな」

 そう言ったのは、私が尊敬している唯一のクラスメイト、斎藤宗助だ。少し背が低い坊主頭の彼は、幼い頃に両親を亡くしてからずっと、祖父母が営む食堂を笑顔で手伝い続けている。

「どういうこと?」

「今日も、生徒会で腹立つことがあったんだろ」

 宗助がやれやれといった感じで笑いながら言う。

「……西村のバカが、部活動のアンケートをやり忘れた。各部活の部長に紙を渡して、書いてもらうだけなのに」

「試しに、うちの店で働いてみるか? ばあちゃんもじいちゃんもボケボケで言ったことすぐ忘れるから、怒るのを我慢するいい訓練になるぞ」

 宗助はジョークのつもりで言ったのだろうけど、その声は、やっぱりどこか悲しそうだった。宗助の店には、宗助と仲良くなった小学四年生の頃からたまに訪れているけど、そういえば、最近の宗助の祖父母はやけに弱っている気がする。

「宗助の場合は家族だから腹が立たないんだよ。大切でも何でもないバカが、私の手を煩わせてくると、どうしようもなく腹が立つ。頼まなきゃ良かったよ」

 そう言って、転がっていた小石を蹴飛ばした。

「まあ、そう怒るなって。また周りから人がいなくなるぞ」

 宗助は口が堅い。だから、こうやって人前では絶対に漏らせない本音も、宗助の前ではさらけ出すことができる。昔は笑顔で、「大変だったな」「それは腹が立つな」と私を肯定してくれた宗助。だけど今では、「腹が立っても笑顔でいた方がいい」「みんな離れてくぞ」と私を注意するようになった。

「いなくなりたいなら、いなくなればいい。私はそんなバカたちとつるまなくても、一人で生きていける」

 私がそう言うと、宗助は小さくため息を吐いた。言い方がキツすぎたということには、すでに気づいていたけど、それを修正するのも癪だった。

「確かに葵は、恵まれた家庭に生まれてきて、健康で、顔も良くて、勉強も運動もできる。誰の助けもいらずに、一人で生きていけるだけの力を持ってるよ。だけどさ、人間には、例え自分の人生の役に立たなくても、そばにいてくれる人が必要なんだよ」

「そういうものなの?」

「そういうものだよ。今、葵の家族はみんな元気だけど、葵が死ぬまでみんなが元気でいる保証なんてないだろ。人間っていうのは、案外、簡単に死ぬものなんだよ」

 私は言葉の接ぎ穂を失った。人間っていうのは、案外、簡単に死ぬものなんだよ。宗助が言うと、一段と重くなるその言葉は、私の胸に深く深く刺さった。

「じゃ、さよなら」

「ああ、うん」

 去っていく背中に軽く手を振って、私は通学路にある中では一番長いその信号を待った。それにしても、さっきのあの言い方……宗助は、「私のそばにいる人」にはなりたくないんだな。

(……そういえば宗助、彼女ができたんだっけ)

 一向に変わらない信号をにらみながら、私は宗助と付き合っているという隣のクラスの大石さんを思い出した。噂で聞いた話で、最初は信じていなかったんだけど、自分の見た目に無頓着な大石さんが、眼鏡をかけて髪を短くしたのを見て、私はその話を信じた。

「背がちっちゃくて、髪が短くて、眼鏡をかけてる人がタイプだな」

 いつか、宗助が言っていた好きなタイプ。それは、大石さんの特徴をそのまま言葉にしたようなものだった。中学生同士の恋愛なんて、ただの遊びで終わることがほとんどだろうけど、宗助たちはちゃんと結ばれる気がする。小学四年生からずっと友達だった私の勘が、そう告げている。

 ふと顔を上げる。雲一つない青空の中、信号の黄色いサラリーマンはもう歩き出そうとしていた。明後日から始まるゴールデンウィークも、ずっとこんな良い天気らしい。

(宗助は、このゴールデンウィークを大石さんと過ごすのだろうか。いつか私にも、そんな恋人ができるのかな)

 想像してみた恋人と手を繋いで歩く私の姿は、すぐに細かい色の粒になって、青空に吸い込まれていった。


「……実は今日、私たちのクラスで共に学ぶ仲間が増えます」

 今日は、ゴールデンウィーク明け最初の登校日。特別なイベントもないのに、朝からクラスがざわついていた理由を、私はやっと理解した。

「……掛川かけがわ陽菜ひなです。よろしくお願いします」

 緊張しているのか、やけに不器用な歩き方をして、教室に入ってきたその女の子は、その笑顔で瞬く間にクラス中の視線を手繰り寄せた。

「実は、掛川さんは生まれた時から右脚が弱くて、あまり上手に歩くことができません。みなさん、そのことを憶えておいてください」

 先生がそう言った次の瞬間、クラス中の視線が、掛川さんのかわいい笑顔から、その細い右脚に集まる。恥ずかしそうに右脚を左脚の後ろに隠すその仕草は、男子だけでなくクラス中のみんなをうならせた。


 いつもニコニコしていて、ちょっとおバカな愛されキャラ。くりくりした大きい目、サラサラした短い髪、小動物みたいな体。人気が出ないはずがなく、君は、あっという間にクラスのみんなに好かれていった。

 ミツバチが花に群がるみたいに、休み時間になる度に君に集まっていくクラスメイトを、私は遠くから、くだらないと思って見ていた。当時の私は君に全く興味がなく、席も離れていたので、結局、私たちは「あの日」まで、一度も会話を交わさなかった。


 一学期の終業式が終わり、みんなが夏休みの予定を話し合う中、私は荷物をまとめながら、一人で受験に向けた勉強の計画を立てていた。

(にしても、みんな受験生だっていうのに、お気楽だな)

 私の志望校は、この街にある県内一の進学校。前を通りかかる誰もが目を遣る立派な校門、そこを出入りする利発そうな生徒たち、ついでにかわいい制服。そこは、幼い頃の私が、こんな学校に通いたいなあと憧れていた高校だった。

「さて、帰るか」

 気合を入れるように呟いて、リュックを背負い、足早に教室から出て行く。別に今の学力でも落ちないだろうけど、トップ合格はできないから、頑張らないと。

 ざわめきが少し遠ざかった廊下、私の少し前を、宗助と大石さんが並んで歩いていた。窓から差し込む夏の日差しは、二人を照らして、どこか神聖なオーラすら醸し出している。これが俗に言う「青春」っていうやつなんだろうと思いながら、私は二人を追い越さないようにいつもよりゆっくりと歩いた。


高城たかしろさん!」

 聞き慣れない声で、突然名前を呼ばれ、ビクッとして振り返る。鼻を掠めるシャンプーの匂い、初めて話す人の前でも変わらない、かわいらしい笑顔……。

「掛川さん?」

「ああ、ちょっとね、話したいことがあって。一緒に来てくれる?」

 私の返事を聞く前から、ゆっくりだけど、ビックリするくらいに強い力で私の腕を引っ張り、掛川さんは進んでいく。いきなり体を触られて不快なはずなのに、掛川さんを相手にすると、なぜか怒る気になれない。

「えっ、急にどうしたの?」

「いいからいいから」

 煙突から良い匂いの煙が出る重機関車に、引っ張られて進んでいるみたいだった。私だって、別に臭くはないし柔軟剤の良い匂いもするけど、掛川さんの場合は細胞の一つ一つが花でできていて、そこから良い匂いが滲み出ているようだった。


「さて、ここならいいかな……」

 じれったくなって、途中からは、私が掛川さんの腕を引っ張って歩いた。掛川さんのナビに従い歩き続け、私たちは校舎の脇の薄暗い日陰にやって来た。談笑しながら帰る生徒の列が、校舎の扉から校門へと延びている。私も早く帰りたいのに……。

「で、話ってなに?」

「いやあ、それなんだけどね……。心の準備はいい? ビックリして失神するかも」

 そう言って、掛川さんはいたずらっぽい笑みを浮かべる。怒る気になれないと言っても、流石にこれは腹が立った。

「早く言って!」

「わかったわかった。やっぱり、鬼の生徒会長は怖いなあ……」

 さりげなく気になることを言われたが、突っ込むと長くなりそうなのでやめておいた。

「じゃあ、単刀直入に言うね」

 そう言って、あのかわいい笑顔を見せた掛川さんは、私の耳元に顔を近づけて囁いた。

「夏休みが終わるまで、私の恋人になって」

 打ち上げられた魚みたいに、心臓が跳ねる。

「えっ?」

 自分のものとは思えなくなるくらい、声が裏返った。心臓は相変わらずドキドキしていたが、うらはらに思考はとても冷静だった。

(掛川さん、同性愛者なの? ……どうしたら傷つけないように断れるだろう)

「もちろん、ただでとは言わないよ」

 悩む私を見て、ニヤニヤしていた掛川さんは、更に心臓に悪いことを言い放った。もう一度、私の耳元に顔を近づける掛川さん。私の反応が面白かったのか、今度は私の耳にかかった髪を手でよけて、さっきよりも顔を近づけて囁いた。

「このお願いを聞き入れてくれたら、高城さんのお兄さんの秘密を教えてあげるよ」


 蝉の声、青々とした草の匂い、立ち昇る入道雲、世界をすっぽり覆う夏。

 互いの息が触れ合うくらいの距離で、私の顔を点検するように見つめる掛川さん。宝石みたいに綺麗な茶色い虹彩、それにはめ込まれた、小さいブラックホールみたいな瞳。

 頭が空っぽになると、実に色々な情報が頭に流れ込んでくる。脳みそは、机に積み上がった書類を薙ぎ払ってしまった。当分はちゃんと働いてくれないだろう。だけど、脳みそを介さずともわかる確かなことが、一つだけある。

 ……私はこのお願いを、絶対に断れない。

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