第89話

 ベランダへ続くいつもの窓から外を見ると、もう空は薄紫色だ。季節の移り変わりを肌で感じられるのは、なんと幸せなことか。


 なんて現実逃避しながらリビングの惨状に目を向ける。

 白帆のやつ、たらふく鍋を食べたら「血糖値が〜」という一言を最後にソファで寝やがった。


「こいつ、ほんと自由人だよな」


 顔にかかった彼女の髪を手で払う。ふわっと香るシャンプーに滑らかな手触り、少し開いた口に思わず目元を下げる。なんちゅう顔で寝てるんだ。

 もっと警戒心を持って欲しいものだ……まぁ、自分に安心してくれているというのは悪い気がしないが。


「お〜い白帆」


 声をかけてもむにゃむにゃと返事するだけ。

 こんなところで寝たら風邪をひいてしまう。うーん、仕方ないか。


 自分の寝室から布団を持ってくると、彼女の上に掛ける。これで幾分ましだろう。


 さて、この感じだと晩ご飯もうちで食べていくはず、できればお泊まりは阻止したいが。

 とはいえ、自分の中でも彼女がいる日常が当たり前になりつつある。これがいいかどうかは置いといて。


 食べ終わった食器をシンクに並べて水を出す。

 流れた水道水が食器に跳ね返り手に当たる、そろそろ暖房を入れる季節か。


 ふと彼女はクリスマスどうするんだろう、なんて詮無きことが頭を過ぎる。かわいい後輩のことだ、沢山誘いを受けるんだろう。

 それでも俺のことを誘ってくれる気もするが、果たしてそれに甘えていいのだろうか。


 泡まみれになった手で次の食器を掴む。


 ソファに目を向けると片脚がソファからずり落ちている。なんでこいつを好きになってしまったんだろうか。

 ……理由なんて明白で、あまりにも真っ直ぐな好意を向けられたからだ。


 逆に彼女がどうして俺のことを好きでいてくれるのかはついぞ分からないまま、こんなところまで来てしまった。


「どうすっかな」


 気が向いたら、なんて悠長なことをしていたら、彼女はすぐにいなくなってしまうことは分かっている。だが、すんなり言葉が出るほど俺の人生経験は多くないのだ。

 よく考えれば贅沢な悩みだけどな。


 洗い終わった皿たちを水切りかごに移して手を拭くと、彼女の元に戻る。

 相も変わらずすぴーっと寝息を立てている彼女に頬に指を添える。なんだこのぷにぷには、けしからん。


 白帆の頭を持ち上げると自分の膝に乗せる。余程熟睡してるのか彼女が起きる気配はない。


「ほんと、可愛くて困るよ」


 彼女に聞こえないよう、されど聞こえて欲しいと言う気持ちも込めつつ呟いて、目の前のさらさらの髪に手を伸ばした。

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