第90話

「せんぱい、散歩しましょうよ」


 のそのそと起きてきた白帆に声を掛けられる。

 俺は飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置くと振り返った。


「晩ご飯は?」


「今起きたからお腹空いてない!」


 頭のてっぺんからあほ毛がぴょこっと飛び出した白帆は、どこか幼くて。

 こしこしと目を擦る様はまるで動物だ。


「はいはい、んじゃ暇つぶしにコンビニでも行くか」


「やった〜」


 呂律の回らないふわふわとした返事が投げ返される。


 彼女は手櫛で髪を整えると、ソファから飛び降りて近付いてきた。

 少し触れた肌は寝起きだからか熱を持っていて、余計に季節を感じてしまう。


 玄関で靴を履いて外へ。

 街灯の間を縫って吹き抜ける風は暖かな部屋と真反対で、それでも今の自分の頭を冷やすにはちょうど良かった。


 てくてくとアスファルトを踏みしめる。

 会社に行く時とは違ってゆるっとした服装に新鮮味を覚える。


「ところでせんぱい」


 にんまりとしながら彼女は口を開く。まずい、この顔は……。

 だんまりを決め込もうとしたところで彼女に前へ回られる。


「だめです、ちゃんと聞いてください」


 細くて長い指が近づいてきたかと思うと、そのまま頬を掴まれて無理やり目線を合わせられる。

 月の光を反射した瞳に薄い唇、微かに紅く染まった頬、自分の中の衝動を抑えるのに苦労する。


「もしかして膝枕とか、しました?」


「うっ」


 こいつ起きてやがったのか。ノーコメントだノーコメント。


「しかも頭まで撫でて」


「お前起きてたのかよ!」


「考えてください、あれだけ頭動かされたら起きて当たり前でしょ!」


 体温が上がる。

 未だに彼女の手は俺の頬に添えられていて。


「あー……すまんかった訴えるのだけは勘弁してくれ」


「なんでそうなるんですか!いつでも触れてくれていいんですよ、先輩なら」


 見上げる角度、風にそよぐ髪、言葉のトーンですら魅力的に思えてしまう。全くやっかいな感情を持ってしまったものだ。


「なぁ白帆」


「はーい、なんですか?」


 思わず口から出そうになった言葉を飲み込む。好きだと言ってしまえば関係が変わってしまう。

 多分彼女はそれを望んでいて……果たして俺はどうなのか。


 ほんの少しの逡巡ですら彼女にはお見通しのようだ。隙を晒したが最後、手を掴まれる。すべすべの感触は記憶に新しい。


「別に焦んなくてもいいんですよ」


「こういうのは勢いが大事だろ?」


「いやでも心の準備ができてないというかなんというか」

 

 どうしてここに来てお前がチキンになるんだよ。


「じゃ、じゃあコンビニから帰るまでは待ってください!」


 合図は鳴ったのに走れない徒競走みたいな状態に胸が詰まる。喉まで出かかった言葉が所在無さげに彷徨っている。

 え、このまま何事も無かったかのようにコンビニ行くのか。


 家を出る時にはあったほんの少しの食欲も、今は緊張で消えてしまった。


 彼女は「今なら寒くておでんが美味しいかも」なんて上機嫌に呟いて歩いていく。俺の手は離さないまま。


 やっぱり白帆のペースに乗せられている。多分これからもそうなのだろう。


 慣れてきた自分に内心驚きながらも、俺は先程より少しだけ温かくなった手を握りしめた。

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