第77話

side:白帆 羊


 目の前に座る先輩がカップに口をつける。

 職場では後ろから、歩く時は横から、そして珍しくも今日は前から。


 垂れた前髪が揺れる度、視線もふわりとつられて動く。


(まったく、なんでこんな人を好きになってしまったんだか)


 ふと、彼のカップに置き去りにされた角砂糖が寂しそうに見えた。

 私のことは気にせずトーストにかぶりつく先輩。甘いの苦手なんだろうか。


 親指と人差し指で優しく摘んで、自分のコーヒーへと落とす。

 パフェだってケーキだって、口に入るものは甘い方がいいに決まっているのだ。


 コーヒーに砂糖を入れるようになったのはいつからだっけ。

 一瞬、そう一瞬だけ目を閉じて、私は意識を深い深い海へと沈めた。


ーーー


 あれは私が入社して2年目だったかな。

 一通り直属の先輩に着いて回る時期は終わり、1人で案件を任せてもらえるようになってすぐのこと。


「こちらの2案でいかがでしょうか」


 前々から温めていたアイデアを元に概要を書き出したテーマやデザインを社内の役員にプレゼンする。

 我が社は別に大企業じゃないから、会社の方向性を決めるお偉いさん方との距離も近い。


 それがいいか悪いかは置いておいて。


「ふ〜む」


 目の前に座る重鎮は顎に手を当てて考えている。昔ながらのプレイヤー気質だと聞く彼を納得させられれば、この企画は通るだろう。


 そういえば今日は他にも同席者がいるんだった。

 自分の右側に座る……お名前は忘れてしまったから「先輩」としよう。実際先輩なことには変わりないわけだし。


 目の前のお偉いさんは企画書に一通り目を通すと一言。


「入って早々の女の子の案にしては悪くない」


 瞬間、自分の頭に血が上るのを感じる。

 「若さ」とか「性別」とかで判断されるのはおかしいじゃないか。

 否定するなら真っ向勝負で案自体を否定して欲しかった。


 とはいえ、幹部相手に入って早々の若造が反論するのも烏滸がましい話で。


 それ以上の進展が見込まれない、暗雲が立ち込めてきたその時、隣で動く気配を感じた。


「すんません、自分この案いいと思うんですよ。ちゃんと社内規程にも則ってますし」


 流暢に話し始めた先輩さん。


「実現可能ですし、まぁうちもサポートしますんでどうです?」


 こちらを振り返ることもなく、重役と話す彼は穏やかな顔つきで。


「まぁ君がそこまで言うなら……」


 役員が納得しかけたその時。


「いえいえ。私がじゃなくて、彼女が作った案だからですよ」


 そう微笑んで先輩は着席する。

 一瞬目を瞬かせた役員は軽く咳払いして立ち上がると、こちらに視線を投げかけると、私たちの後ろにある扉へと手をかけた。


「失礼した、あとは頼むよ」


「はい」


 先輩は立ち上がって会釈する。

 私も慌てて立ち上がるが、果たして間に合っただろうか。少し足を机にぶつけてしまったのはここだけの話だ。


 会議室を片付けて外に出ると、先に行っていた先輩が手招きしている。

 お礼を言おうと近づいたところで、彼の持つ資料に目線が釘付けになる。


 私の作った案に赤や青で大量の書き込みが入っていたのだ。

 どうすれば実現できるか、何がネックになるのか、予算は下りるのかなど事細かに記されたそれは、直視するには眩しくて。


「あの、」


 口を開くと手で制止される。


「今日はお疲れさん。白帆さん?だっけ。俺は普通にいい案だと思うから自信持ってな」


 差し出された手には微糖の缶コーヒーが握られていて。


「あれ、もしかしてブラックの方がよかった?」


「いえ、お気遣いいただいて……ありがとうございます」


 色んな意味を込めて感謝を口にする。コーヒーなんて甘い方がいいに決まっているのだ。

 普段自分では買わない缶のラベルを見て口元が緩む。


「それじゃまた」


 彼はひらひらと手を振りながら、総務課へと足を進めた。

 せめて後ろ姿だけでも目に焼き付けておこうとその背中を見送っていると、不意に先輩は歩みを止める。


「あ、そうだ。ぶつけてた足、お大事に」


 柔らかい口調にずきっと痛んだのはきっと、足だけじゃなかった。

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