第65話
タクシーから降りると外はもう夜の帳が落ちていた。
科学が発達した現代なら、俺みたいに教養が無い人間でも夜がくること、辺りが暗くなることの理由も分かるんだが、はるか昔はどうだったんだろう。
バタン、と扉を閉めたタクシーは大通りを走り去っていく。
「よ、白帆」
ホテルの入口へと続く階段前に後輩らしき後ろ姿を見つけて声をかける。
振り返った彼女を見て思わず息が止まった。
丈の長いコート、開いた前側からは落ち着いたネイビーのドレスが覗いている。
髪はいつかみたいにサイドで編み込まれており、後ろにまとめられている。
会社で見る彼女と違って大人っぽい雰囲気に呑まれかける。
「あら、早かったですね先輩」
普段より濃い赤色の唇からいつも通りの声が漏れる。それに安心してしまうのも、何となくだが悔しい。
「待たせた、すまん。奢ってもらう側なのに」
「私も別にお金出しませんて!」
けらけらと笑いながら彼女は階段に足をかけた。
隣に並ぶと違和感を覚える。
左側を見てその正体に気がついた、身長差か。
彼女の頭から視線を滑らせて足元へ。彼女は普段、好んでローファーを履く。
アスファルトを鳴らすあの足音は記憶に新しい。それが今日はかなり踵の高いヒールだ。
「今日のコース、私なーんにも調べてないので楽しみです……!」
カツカツと冷たい音と共に俺たちは階段をゆっくり上がっていく。
不意にふらっと彼女の頭が視界の端から消える。
「おいっ!」
考えるよりも腕が彼女の腰を掴んで引き寄せる方が早かった。
どうにか階段から落ちるようなことは無かったが、この体勢はきつい。
おい、体重をこっちに預けるんじゃない。デスクワークのおじさんの体力をなめるな。
顔の輪郭に沿った髪が俺の頬をくすぐる。
「わぁ先輩、ありがとうございます」
少しも焦っていないような声で彼女はにこやかに呟く。
耳元に唇が寄せられたかと思えば、ふわっと甘い香りが鼻を通り抜けた。
こんな一瞬で致死量の白帆を五感で感じてしまうと、俺の心臓は爆発してしまうんじゃないだろうか。
「離れてくんない?」
「いやです!」
彼女はそう言うと腰に回していた俺の腕を掴み取ると、ここが定位置とばかりに自分の腕を絡ませる。
「これで夫婦でディナーに来たみたいに見えますかね?」
彼女はさっきよりも丁寧に足を階段に置く。
「いや~俺とお前じゃ釣り合わんな。せいぜい会社の先輩と後輩くらいだろ」
「……普通の先輩後輩は腕を組まないんですよ」
じとっとした、それでいて何かを見透かしたような目。
「昔だったらこの腕も無理やり解いてたのにな~私の努力の賜物だな~」
更にぎゅっと力を込られてガッチリホールドされた俺の腕にはもう自由がないらしい。
いつかこいつの思い描くストーリーから外れてぎゃふんと言わせてみたい、そんな悪戯心は空いた手と共にポケットへ仕舞い込む。
もう夜はすっかり冷えるな。
ノーコメントを貫きながらも彼女より少しだけ前を歩く、歩幅はそのままに。
エントランスへと続くドアへ手をかけようとすると、左側から白い腕が伸びてくる。
どうやら自分で開けたいらしい。
「子どもか」
「いいんです、今日はちょっと年上のお兄さん改めて旦那さんがいるので」
柔らかな微笑みを湛えた白帆は、俺の前へと1歩踏み出した。
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