第63話

「お、先輩じゃないですか~!」


 会社帰り、珍しく定時退勤できたとほくほく顔で最寄り駅から家に向かって歩いていると、よく聞くあの声が後ろから俺を追い越していった。


「ちょっと!無視しないでくださいよ~」


 たたっという足音、次いで腕にぽふっと柔らかい衝撃。 


「やめろ!人の往来があるところで腕を組むんじゃない」


「それって2人きりになれる場所に行こうってことで合ってますか?」


「そんなわけないだろ、どんな思考回路してんだ」


 彼女は歩くスピードを緩めると、俺と肩を並べる。今日も白帆のローファーは楽しそうに音をたてる。

 雑踏に紛れているはずなのに、その音だけはクリアに耳に残って。


「先輩、この前はありがとうございました」


 未だ俺の腕を離さない彼女は、感謝の言葉を口にする。言わずもがな、彼氏のフリのことだろう。


「いやいや、遠峰さんの件一緒に謝りに行ってくれたし礼はいらんぞ」


「お礼くらいは素直に受け取っておくものですよ、このひねくれ者~」


「いいか、この世には言った言わないで押し付けられるやべぇ界隈があるんだ……」


「そんな社会の厳しさなんてみんなで捨てましょうよ……」


 1人で歩く速度よりも幾分遅いテンポ、腕を離した彼女との微妙な距離は、俺自身のどうしようもない内面を代弁しているみたいで。


「それはそうとですね」


 明るい声で彼女は話し出す。


「先輩って美味しいご飯は好きですか?」


 思わず脳内ですっ転んでしまう。嫌いな奴がいるのか……?


「いや、まぁ、そりゃ好きだけど……」


「そんなお腹を空かせた先輩に朗報です!なんとこの白帆ちゃん、かわいすぎて取引先からホテルのディナー招待券を貰ってしまいました!しかも2枚!」


 一息で話し切ると彼女は夕陽に顔を向ける。

 耳まで赤いのはきっとビルから盛れる光のせい。


「いいな、高級ディナーなんて久しく食べてないわ」


「ふんふん!」


 続きを促すんじゃねぇよ。

 もう答えなんてわかってるだろうが。え、これ俺の誘い待ち?奢られる側なんだが……。


「むーん!ほら、言いたいことがあるでしょ!」 


 両手を広げてこちらへ向き直る。

 キッとした目には「絶対に誘わせる」という強い意志が見て取れた。


 先輩は時に折れることも大切、と自分に言い聞かせながら宙に浮いた言葉を手に取っていく。


「あー白帆さんや、」


「はい!なんですか?先輩」


「大変恐縮なんですが、もし他に誘われてる方がいなければ、俺と行きませんか?」


 徐々に持ち上がる口角は、秋の三日月みたいで不覚にも心臓をぎゅっと掴まれる。

 あぁ表情豊かなこいつ、かわいいんだよな。


「はいもちろん!先輩と行きたいと思って誰も誘ってませんから」


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