第40話
手を離した吊革が揺れる。
プシューっと電車のドアが開く音。大きな鉄の箱から吐き出される。
いつもの景色、もはや夏とは言えないほどの涼しい空気、いつもと違って隣にいる白帆。
改札を抜けて駅の出口へ。
「ねー先輩?ちょっと酔っちゃったな〜」
なんでもないように彼女は口にする。
いつかと違って星が見える。上を向いて歩くようになったのは誰のせいか。
「そんなに足取りがしっかりしてる酔っ払いがいてたまるかよ」
言うが早いか、彼女はこちらにしなだれかかってくる。
「おんぶ!」
「いやだ、おじさんには厳しい」
スーツで成人をおんぶしてたまるか。
「誰が重いですって?」
「言ってねぇだろうが」
「ふふっ」
居酒屋から駅に向かう時の半分くらいのペース。テンポはどんどんゆっくりになっていく。
こんな夜を終わらせるにはちょっと惜しくて。
「今日だけなので!」
彼女はパンっと手を鳴らす。
……酔っているんだろうな。彼女ではなく俺が。
どうしてそこまでこだわるんだろうか。
彼女の考えていることはわからない。わからないが、何か行動原理があるはずなんだ。
「今日だけな。あと明日には全部忘れろ」
こくこくと白帆は頷いた。
2人して転んだら危ない、なんて変なところで理性が働いて、近くのベンチから白帆を背負う。
「わぁ高い。ふふ、これで世界を見下ろせますね」
「しれてるだろ、この高さじゃ」
「んーん、これくらいの高さがいいんですよ」
そう言うと彼女は脚で俺の胴をきゅっと締め付ける。
俺の髪をもてあそびながら、白帆は口を開いた。
「飲み会、楽しかったです?」
「それなりにな」
「理由を聞いても?」
そんなの決まってる。こいつがいたからだ。
ただ、それを口にしたら何かが始まって、何かが終わる気がするのだ。
素面じゃ言えないのはもちろん、酔ってても無理だ。
「さぁ……久しぶりだったからか」
「そんなこと言って〜私がいたからって素直に言えばいいのに」
ぽこぽこと肩を叩かれる。
こいつとベランダで飲むようになってまだ時間は経っていないが、絆されてしまったらしい。
打ち消そうとしても、この時間が少しでも長く続けばなんて思ってしまう。
どうにも、どうにも終わらせるには惜しい夜だ。
「せんぱい、多分せんぱいは覚えてないだろうけど」
眠そうな声が耳朶を打つ。
「私、とっても感謝してるんですよ」
こつん、と肩に彼女の頭が乗せられる。
「だからいつかせんぱいが困った時は私が……」
絞り出したような声を最後に彼女は寝息を立て始めた。
今日のことは明日には忘れる、深く考えない方がいいんだろう。
心配になるほどの軽さを腕に感じながら、アスファルトを踏みしめて歩く。
「あー、くそ」
心がかき回される割には、妙な安心感を覚える。
まるでカクテルみたいに感情が混ざっていく。
街角の花壇からは確かに、金木犀の香りがした。
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