穴の空いた豚
@isagiyo
穴の空いた豚
穴の空いた豚
一 タバコ
初めて万引きをした時の事を思い出してた。初夏の夜のぬるい空気が顔に当たるのを感じながら、僕は青白い街灯に照らされたアスファルトを歩いていた。川沿いに生えている木々が黒い輪郭をこちらに向けながら無機質に並んでいる。一歩歩く度に、スニーカーの砂利を引きずる音がじゅるじゅると夜道に響いた。
最初はお腹が減っていた。食い意地が張っていたので僕は手段を選ばなかった。三十円位の小さなお菓子を持ってそそくさとトイレに行く。プラスチックの容器がカシャカシャと音を立てるのに焦りながら、慎重にそれをポケットに入れて、またそれがカシャカシャ言わないようゆっくりと歩いて店を出た。走って帰路に着いている途中道行く人に怪しまれないかが気になった。それを家に持ち帰って漫画を読みながら食べている時、ふと夕陽に照らされた自室の壁がとても寂しいものに感じられたのを覚えてる。小学生二三年生くらいの頃の事で、悪い事だと自覚しながらも罪悪感は感じなかった。なので背徳感やスリルもその時は感じなかった。
それが変わったのは、ある友達と万引きする様になってからだと思う。どうやって仲良くなったのかはもう覚えていないけれど、どちらが多く盗めるかを競い合ったりしてゲーム感覚で僕はそれを楽しむようになった。二人で店からお菓子を盗んで、一緒に食べてる時僕は幸せだった。誰にも言えない秘密を共有して、誰にも言えない事をして、僕達は信頼関係を築いていった。しかし、それが友情だったかと言うと怪しい。確かに僕は彼を一番親しい親友だと思っていたけれど、それでも僕は彼を自分の小腹や好奇心を満たす道具にしか思っていなかったのかもしれない。遊ぶ度に彼に何か奢らせていたのにも、最初は戸惑ってた彼に万引きさせたのにも、僕は罪悪感を感じなかった。しかし、僕が彼を信頼していたのは事実だし、彼が僕にとても懐いていたのも事実だ。僕は子供ながらにそうした友情は一種のギブアンドテイクなのだと思った。僕が彼の孤独を紛らわす為に、軽い冗談を言ったり家庭の悩みを聞いてあげたりする代わりに、彼は僕にお金を出したり、万引きの手伝いをする。それは下手な友情よりずっと強固な絆だったんじゃ無いだろうか。僕は、二人ならなんでも出来る気がした。
僕は昔から退屈が大嫌いだった。何か刺激的な事をしていないと胸が締め付けられる思いでいっぱいになる。特に夕方に家でじっとしているのが怖くて堪らなかった。夕陽に照らされた家の壁を見るのが怖くて、親友と遊ぶ時間は長くなった。盗みのスリルを知ってからは万引きの対象はお菓子だけでなく、子供では買えないライターやマッチにまで手を出す様になった。住民でもないマンションの屋上にこっそり登って、そこを秘密基地にしていたのだが、ダンボールを持ち込んでそれを燃やして遊んでた。一度新聞紙も一緒に燃やしたら火が大きくなり過ぎて、外から見ても煙が出ているのが分かるまでに燃えてしまったので、マンションに設置してあった消化器を使って消した。僕はそれまで消化器からは水が出るものだと思っていたので、辺り一面が白い粉に包まれていくのを興味津々で眺めたのを覚えてる。火はすぐに消えた。しかし充満した煙の中では息が出来ず、急いでそこから離れた。消化器が出した粉の味はしょっぱくて、僕はぺっぺと唾を吐きながら親友と笑いあった。しかしその時ふとまだ煙の充満している後ろを振り返ると、それが夕陽に照らされてうねりながらこちらに手を伸ばしているように感じられて、僕の笑顔はすぐに消え失せた。
僕は今までで二度パトカーに乗せられた事がある。一度目は火遊びが原因だった。あの頃の僕は不思議な位に倫理観が無かった。気になったのなら試せば良くて、それで怒られたなら仕方無い。そういう考えで枯枝の集まった空き地に火を着けたマッチを放り投げた。親友はそれを止めたが、僕は大きな火が見たくて仕方無かった。火を慌てて消そうとするそいつを押さえつけながら、火の大きくなっていく様子をうっとりと眺めたのを覚えてる。その後家で母親に何時間にも渡って説教された。火事の動画を見せられて、お前は人を殺していたかも知れないと涙目になりながら怒鳴られたが、どれだけ努力しても罪悪感は感じられなかった。僕は人を殺そうなんて思って無かったし、実際誰も死ななかった。僕はあくまで火が見たかっただけなんだから。
二度目は万引きが遂にバレて、親友と一緒に警察に家まで連れていかれた時だ。またもや母親は涙目になりながら、今度はこう問いかけてきた。
「何が欲しいの?」と。何気ない一言だったが、その問いが僕を変えたのかもしれない。僕はその時まで何が欲しいのかなんて考えた事も無かった。確かに自分の為だけに万引きも放火も色々やってきたが、それがやりたい事かと言われるとそうでも無い。僕にとっては全部暇潰しだったから。では本当に僕に必要なものは何だろう、そうした疑問が初めて芽生えて、その時答えのない問いを模索する作業の素晴らしさを知った。あらゆる思考を試して、模索するのはまるで脳内で大冒険が繰り広げられる心地だった。その頃は小学生五年生だったが、そこでやっと僕は内省を覚えた。考え事をしている時は、何故だか夕陽に照らされる壁も怖くなかった。
あの頃の僕は邪悪だっただろうか。歩きながら僕はそう自分に問いかけた。いや、邪悪では決して無かった。何故なら僕はあの頃本気で人を傷つけようとなんて微塵も考えて居なかったからだ。邪悪が何かは分からない。ただあの頃の僕は邪悪じゃ無かった。邪悪が何かが分からないけれど、邪悪では無い。邪悪を本来性という言葉に置き換えると、本来性が何か分からないけれど、それでは決して無い。これを否定するのは、哲学における本来性と疎外というあるテーマに挑戦する事になる。最近読んだ本によると、こうした答えを見出さずにある結論だけを否定する思考法を反論する事は、処方する薬を間違っていたから患者のカルテを丸ごと投げ捨ててしまう事と同じらしい。
少し開けた道路に出てコンビニに着いた。車通りが多くて目がチカチカする。店内に入って店員と目が合うと自分の心臓が冷たく鼓動するのを感じた。店内をそれとなく見回りながら歩いて、ライターを手に取る。レジに向かいながら、カウンターの奥にあるタバコのコーナーを確認した。
「タバコの三百六十番ください。」努めて穏やかな声でそう言ったが、少し声が震えた。
雑な一つ結びの中年女性は面倒くさそうに返事をしてSEVENSTARと書かれた灰色の箱を持ってきた。よく見たらその店員は左手の薬指に指輪をはめていた。結婚してコンビニの夜勤するなんて、パートにしても不自然だ、何か事情があるのだろうか。そんな事考えて突っ立っていると、店員がこちらをじっと見ているので不思議に思っていたら、パネルに年齢認証のボタンが表示されてた。僕は慌てて押してさっさと店を出ていった。バクバク言う心臓が車の騒音に紛れるのに安心しながら、早歩きでさっきの小道に戻った。
買ってしまった。意外と小さいなと思いながらプラスチックの膜に包まれたタバコをよく観察した。真ん中に大きく、未成年の喫煙は法律で禁止されていると書かれているのをみて、不安になると同時に興奮した。膜を剥がして箱を開けてみると、バニラの様な少し甘い、それでいて慣れない香りがした。一本口にくわえてライターを着けようとしたが、意外と固くて両手で力を入れてやっと着いた。タバコの先端が赤く光った。一口吸ってみると、先程の甘ったるい香りが口全体に広がっていく感じがした。歩きながら煙を吐き出した。今度は煙を肺に入れてみようと口に含んだ煙を吸い込んだらむせてしまった。乾いた咳と一緒に煙がふわっと口から出た。
音を立てないようにゆっくりとドアを開けて家に入って、僕はこっそり自室に戻った。さて、これをどこに隠そうか。部屋のどこかに隠すとなると、僕が学校に行っている間に母親が掃除なんかをしている時に見つけてしまうかもしれない。そうおもって僕は買ったタバコを学ランの内ポケットに入れた。学校用のリュックに入れても良かったのだが、僕は何故か常にそれを肌身離さず持っておきたかった。
一呼吸置いて部屋に立ち尽くした。壁に掛かっている鏡に写った自分の顔は肌荒れが酷くて、上から青白い電球に照らされてひどい顔だった。何をしているんだろう、馬鹿みたいだ。いや、馬鹿では無い、僕は賢いし懸命だ。そうだろう。振り返って僕は勉強机に座って、乱雑に放置された参考書を眺めた。開かれた冊子の文字列が僕をじっと見つめている。
「自分を見ろ、理解しろ、穴が空くまで俺を見続けるんだ」そう訴えてる気がした。僕は誘われる様にその問題を解いてやった。
数学の問題だったが、それが中々難しくて色々工夫を凝らしながら数式を書き続けた。こういう時僕は不思議な感覚に襲われる。僕は間違いなく自分の頭を使って問題を解いている。でも僕は、その際何も考えている様な気がしない。正確に言うならば、僕には他に考えるべき事が山程あって、問題を解いている時それを完全に放棄している様な感覚がする。もしかしたら、僕は何も考えていない時こそ全てを考えているのかもしれない。何も考えていないという事は、思考の可能性が全方位に開けている状態なのだから。そうした可能性を放棄してこの無意味な数列と睨めっこする事に何の意味があるんだろうか。
しかしそんな疑問とは裏腹に、僕は明らかにその無意味な可能性の限定に心地よく浸かっていた。勉強をするという事はこれから生きていく上で決して無意味では無い。皆はきっとそう言う。僕がただ勉強をしている事を誰も責め立てたりはしないだろう。しかし、それに対する賞賛が送られると、僕はとても気色悪く感じる。馬鹿みたいに教科書の内容を暗記している僕を、母親や教師が
「偉いね」と言うのには、何か皮肉混じりの嘲笑が隠れている気がしてならない。
「そんなの覚えてるどうするの?」
「君にはもっと考えるべき事があるんじゃないの?」
「また逃げるんだ」
「みっともないね」笑われているかも知れない。勉強をしている時実は僕が何も考えていない事を、ただ参考書に書いてあるマニュアル通りに解答欄に答えを書いているだけなのを、バレていたらどうしよう。
「じゃあこの問題はどう?」そう言って教科書に載っていない事を聞かれたらどうしよう。それでいて皆には当たり前に分かる問題を出されたら、僕は惨めでどうにかなってしまう。
高校では受験をして、大学に入ったらまた新しい事を学んで、社会に出たらそこで働いて、出世を競ったり、あるいは結婚なんかして家庭を守ったり。少なくとも老後までは何もしないなんて事は有り得ない。それは、死ぬまでずっと何かに追われて生きる追いかけっこの様に感じられて、えもいえぬ不快感が胸でぐじゅぐじゅと蠢いた。
肝心な事は何も分からぬまま、出された餌をただ家畜みたいに貪る僕は、何の為に生きているんだろう。問題を解きながらそんな事を考えて、ふとこの問題を作った人の事を考えた。僕にこの餌を与えたその人は、同じ餌を与えられて育ってきたのだろうか。あるいは僕が本当に必要としているものを知った上で、あえて僕にそれを考えさせてくれないのだろうか。
病的な不信感とはしばしば心地の良いもので、今僕の頭は疑問でいっぱいだ。問題への疑問、問題を解く意味への疑問、問題を作った人への疑問。全部が体系的に、渦を巻くようにぐるぐると回って、それが周りから僕をすっぽりと覆い隠して、見えなくしてしまう。
いつの間にか寝てしまっていた。付けっぱなしのスタンドライトを横目に重い頭を持ち上げて起き上がった。カーテンは開けずに部屋を出て、ピンク色のカビがそこら中に張り付いている洗面台で顔を洗った。濡れた自分の顔を見つめながら、昨夜の事を思い出した。ビクビクしながらコンビニでタバコを買って、一本吸ってみた後家に帰って勉強をした。この顔がそれをしている所を想像すると、とても滑稽に思える。挙動不審になりながら不満のはけ口を模索している様子は、コメディーの一場面みたいだ。思わず笑ったつもりだったのだが、気色の悪い声が喉から漏れただけで、それが洗面所に響いた。その後の沈黙を誤魔化すみたいにタオルで顔をゴシゴシ拭いた、生乾きの臭いがする。いつもの様にキッチンで洗い物をし、昨夜の晩御飯の余り物を弁当箱に詰め込んで僕は自転車で高校に向かった。
ホームルームが始まるギリギリで教室に入るとまだクラスは騒がしかった。所々にクラスメイトの束があって、そこでいくつかの顔が笑ったり驚いたりしてゆらゆらと動いて居るのが、一つの塊みたいだ。自分の席に着いてスマホを手に興味のないニュースに目を通して時間が過ぎるのを待った。時々隣の席の女子が友達とヒソヒソと話しているのが聞こえて来るので、自分の事では無いかと不安に思えてきた。
僕は人目を気にする時敢えてそんな素振りを全く見せず、誰に対してなのか何でもない振りをして見せる。変にオドオドしてると余計目立つかもしれないからだ。一度ある心理カウンセラーの本を読んで、周りの目を必要以上に気にする事は無いと学んだのだけれど、知識というのは鮮度が落ちると何とも味気の無いもので、読んだ時はあれだけ心に響いた文章が今ではクラスの騒音の中に紛れてしまった。
「やあ」鼓膜の奥を不愉快にくすぐってくる隣の話し声を気にしまいと必死になっていたら、Bが話しかけてきた。
「おはよう」相変わらず古臭い挨拶だなと思いながら返した。Bは綺麗な白い歯を見せながら昨日読んだ漫画の話なんかをし始めた。彼は美男子という程でも無かったが、笑う度少し揺れるサラサラの茶髪は清潔感があり、左右非対称だが綺麗に通った二重線はどこか女性のようだ。Bと話している内に、隣の席からの話し声は気にならなくなった。
しばらくしてようやくD先生が教室に入ってきてホームルームが始まると、僕はようやく顔を上げて先生の顔をぼんやり眺めた。よく日に焼けた肌にポツポツと毛穴が目立つ。パツパツの半袖の胸の部分が、先生が一呼吸置く度に小さく膨らんだ。
D先生は活気のあふれた人で、いつもクラスを盛り上げようとしていた。今日も話の途中で軽い冗談を言っている。しかし僕はそういった先生のクラスへの姿勢が一向に気に入らなかった。何かを教える時に冗談めかすのは論理性を曖昧にしてしまう。ユーモアは一種の技術なんだと、先生が聞き分けの無い生徒を他愛のない話で和ませてから言うことを聞かせる様を見て思った。ああやって本人の話を聞かずにその場限りの雄弁なスピーチで何かを強制してしまったら、その人の本質的な言い分を聞けないのでは無いだろうか。
ホームルームが終わってまた休み時間をやり過ごして、授業が始まった。まだ六月なのでクーラーはついておらず、時々窓から吹く風に湿気の香りがするのが、昨夜の夜風と重なった。昨日の事は全部夢だったんじゃないかと、学ランの内ポケットに当たる部分を外側から撫でて、タバコの箱の硬い感触がするのを確かめると、また自分が恥ずかしくなった。高校生のガキがいきがってタバコなんか吸った事にじゃない。どうして自分がそんな事したのかまるでわからない事にだった。昨日の僕は考え足らずに行動したというより、もはや何も考えていなかった。退屈しのぎにしてもどうしてわざわざこんなものを買ったのだろう。
クラスを見回してみると、皆黒板の文字を集中して写していた。皆きっと自分でも訳の分からない事を衝動的にしたりなんてしないだろう。タバコは学校が終わり次第すぐにでも捨てようと思った。
やっと昼休みが来て校庭に出た。今日は晴れていて、日差しが暖かい。部室棟の手前までくると、そこのトイレからD先生が出てきた。
「ああ」僕を見るととりあえず声を掛けようとしたのか、先生は気の抜けた声を出した。
「こんにちは」僕が言う。
「ここでお昼食べてんのか?」冗談めかさずに先生が優しい声でそう言った。
僕は一人でいるのに何の後ろめたさも無い、寂しくもない。元々一人が好きだ。人といると気を遣い過ぎて疲れるし、考えている事が違い過ぎて会話がとても面倒に感じる。何の生産性も無い話題でどうしてあそこまで楽しそうに出来るのか、全く分からない。しかし、そうした軽蔑と共にそこには嫉妬があるのを僕は知っている。皆当たり前みたいにどうでも良いゲームの話なんかで心底楽しそうにするものだから、僕とその他の人はガラス一枚挟んで別の空間に居るみたいに感じられる。僕もそっち側に行けたらなと思うと同時に、自分以外の人達が変わるべきなんじゃないかとも思えてくる。もう少し生産的な会話を彼らがするよう努力するべきなんじゃ無いだろうか、どうしてそんなに楽しそうにするんだ、薄っぺらの情報を擦り合わせてどうするんだ。もっと本質なやり取りがあるんじゃないのか。そう思っておきながら、僕自身がそうした自分の本質を伝える術を知らず、それどころか何が自分の本質なのかもさして考えようとしていないのには意識的に目を瞑っていた。しかし、僕はそうした自分を大して気にする事はしない。そうなってしまったのなら、そうなったままで生きれば良いのでは無いのか。
でもどうしてか先生の探るような顔つきを見ると、急に自分が惨めで、それでいて得体の知れない腫れ物の様に感じられた。
「いえ、部室に用事があって」
「ああそうか」僕が何の部活もしていない事は多分先生も知っていただろうけれど、先生は何も言わずに通り過ぎて行った。
しばらくそこに立ち尽くして、自分が先生からとても情けなく写っていないかが心配になった。そしていつもの癖で大袈裟に堂々と、具体的には顔を上げて大きな歩幅で部室棟の裏に歩いて行った。日陰になっている階段に座って、お弁当を食べている間なにか気を紛らわす動画でも見ようと思ったけれど、果たして誰に対して強がっているのか、スマホを学ランのポケットに突っ込んだ。ここで何か他の事に逃げたら、僕が今の惨めな自分を認めてしまう気がした。その時に内ポケットにあるタバコの事を思い出した。そうだ、タバコがあったんだ。何がそんなに嬉しいのか自分でも訳の分からないまま、一本出して火をつけた。 昨夜とは違って、明るいのでタバコの先端は赤く光らなかった。むせないように少量の煙を口に含んでゆっくりとそれを吸い込んだ。咳をこらえてゆっくりと煙を吐き出す。それを何回か繰り返していくうちに少しクラクラしてきたが、先程の先生の僕を見る顔が薄れていった。感情の波が段々と緩やかになっていって、腹の力が緩むような感覚がした。確かにこれでは、依存する気持ちも分かるなと思った。
授業が終わって、帰りのホームルームで先生が席替えをすると言った瞬間、隣の席の子が金切り声をあげて喜んだ。席を移動して、僕は窓側の後方の席になった。隣の席はまた違う女子で
「よろしくね、私の名前わかる?」と聞いてきた。返事に困っていると
「Cだよ」と教えてくれた。僕は目を合わせずに俯いたまま
「僕はAだよ」と教えた。Cさんは笑っていたので、もう少しきちんと会話をしても良かったかなと思った。会話が全く出来ない訳では無いんだと彼女に言っておきたくなったが、増々白痴に思われるのが怖くて辞めた。
家に帰ったら母親が居間のソファに座ってスマホをいじっていた。
「おかえり」
「ただいま」自室に戻って立ち尽くして、次に何をしようか考えてみた。何もする気が起きないのはいつもの事で、その上で毎日自分を奮い立たせて本を読んで興味のない知識を蓄えたり、どうでもいい将来のために勉強をしたり、別に弾きたくもないピアノの練習をしてみたりしている。退屈が嫌なんだ。
哲学者のハイデガーによると、退屈には三つの形式があるという。一つ目は僕たちがよく知っているあの退屈だ。彼はその著書で、列車がくるまでに待っている時間を例に挙げている。列車を待っている間、地面に絵を描いたり時計を何度も見たりしてみるが、一向に時間は過ぎない、退屈だ。僕はこれを、する事が無くて退屈している状態だと解釈した。
ならば二つ目は、することがあるが退屈な時だ。ここでも彼は例を挙げている。ある人がパーティーに参加しているとする。会場には洒落た音楽がかかっていて、豪華な食事が並んでいる。気のいい連中が机を囲んで楽しそうに話しているが、何故かそこは退屈であると感じている。この場合その人は、することが無くて退屈しているのではなく、今開かれているパーティーに察して退屈しているのだという。ハイデガーは、退屈を紛らわす為の行為を、気晴らしと呼んでいるが、この場合は退屈と気晴らしが密接に絡み合っているらしい。つまり二つ目の退屈は、する事があるが、あるいはする事自体に、退屈している時だと僕は解釈した。
三つ目が今の僕に最も近いんじゃないかと思っている。それは、何となく退屈な時だ。ここでのハイデガーの例は少しわかりずらい。ある人が市場に出かけて、その時に思う。
「何となく退屈だ」と。この時その人はする事が無い訳じゃない。市場を回ればきっと面白いものがたくさんあるだろうが、何にも関心を持てる気がしない。全てが等しくどうでも良くて、そうした退屈からは逃げられないという。彼によると、人はそうしたどうしようも無い退屈が怖くて堪らないらしい。しかし、そうした退屈の中で私達は全ての可能性を閉ざされることで、逆に残された可能性が見えてくるとも彼は言っている。彼は三つ目の退屈を最も本質的で重要なものだと考えていて、そうした状況の中でこそ自分の使命の様なものを見つけることができるのだと言う。
しかしある本では彼のそうした姿勢を批判しており、三つ目の退屈によって全ての可能性を無視し、ひとつの事に溺れるのは奴隷状態であると指摘している。この批判は僕にも刺さった。今部屋に立ち尽くしている僕は全てが等しくどうでも良く、可能性が閉ざされている状態では無いのか。僕は先程本と勉強とピアノのいずれかを気晴らしとして選ぼうとしたけれど、どれもする気が起きない。なので、早めに食事を作る事にした。この場合僕は日々の家の仕事という、残された可能性に向かって進み、日常の奴隷になるという事なのでは無いか。不自然な程丁寧にシンクにある皿を洗ってから、まだそこまで溜まっていない三角のゴミ袋を取り替えて、シンクをメラミンスポンジで真っ白にした。その後いつもより丁寧に食事を作った。
「もうご飯作ってるの?」ずっとソファーでスマホをいじっていた母親が声をかけてきた。
「うん」それで会話は終わった。
小学生の頃は色々迷惑をかけたけれど、中学の時父親がうつ病になってから僕は文句一つ言わなくなった。万引きの件以来考え事をするのが好きになって成績も上がった。通っている高校の偏差値も悪くないし、口答えは全くしなくなった。母親は僕を叱ることも無くなったが、急に大人しくなった僕を気味が悪いと思ったのか、少しよそよそしくなった気がする。
作り終えた食事を自室に運んで一人で食べた。自分で作った食事は味に問題が無いのは分かっても、何故かおいしいとは思えない。味付けが分かり切っているからなのか、鼻を抜けるコンソメスープの香りも、無いのと一緒だった。その後ユーチューブで何度も観た動画をまた観た。何度も観ているので笑えるシーンがいつ来るのかも分かる。ほら、もうすぐ来る。何を言うのかも分かっているのに、画面の奥のその人がギャグをするのを僕は笑って観てた。最初からこうして時間を潰せば良いのだが、あんまりずっとこうしているとあの二つ目の形式の退屈が僕を襲うのでずっとこうしている事は出来ない。
笑うのにも飽きて、僕は学ランからタバコを取り出して、自室の窓から上半を乗り出して一本吸った。腹の奥から僕を襲うあの三つ目の退屈への恐怖心の様なものが、煙を吐き出す度に少しずつ抜けていく気がした。時計を見たらもう九時だったので、お風呂に入って寝た。
二 天才
次の日教室に入って席に着くと、Cさんが挨拶して来たので、今度はちゃんと目を見て挨拶を返した。前の隣だった席の子とは違って、彼女はヒソヒソと話したりしないので、変に緊張する必要が無くて楽だ。ずっと気が散って読めなかったけれど、この席では本が落ち着いて読めると思って本を出した瞬間、D先生が教室に入って来た。
Cさんはとても気さくだ。常に笑顔で、僕の気味の悪い態度にも嫌な顔ひとつせず話しかけてくれた。授業もいつもより心持ちが楽な状態で受けられた。それから昼休みが来て、いつもの場所でお昼を食べた。
教室に戻ったらBが僕の席に人が座ってた、Cさんと話している様だった。
「あ、Aだ」そう言うとBは席をどいた。僕は小さな声で挨拶して席に着いて、それからBとCさんの三人でしばらく話した。といっても、僕はCさんの事をよく知らないので話すことも無く、主にCさんと二人でBが話すことに相槌を打ったりしているだけだった。彼は話をするのが上手くて、僕と違って誰とでも仲良くなれた。特別明るいと言う訳では無いが話題が尽きないので、一緒にいて退屈しないような人だった。
Bがどこかに行って、本を読んで残りの昼休みを過ごしていると、Cさんが話しかけてきた。
「何読んでるの?」僕はどう答えて良いのか分からずに、本のタイトルだけ言った。
「へえー面白いの?」明るくそう続けられるので、顔をあげて軽くその本のあらすじを説明してみた。その間Cさんは興味津々という感じで聞いてくれて、初めてその顔をじっくりと見た。程よく焼けた肌は絹の様に滑らかで、額の下に一重の瞼がポコっと出ている。ちょこんとした鼻と小さい口は目立たないが整っていて、笑ったときに唇から出る少し歯並びの悪い前歯が可愛らしかった。
読んだ本の話なんかしたら、大抵は訳が分からないという様な顔をされるのだけれど、Cさんはきちんと聞いてくれて、僕の論理の飛躍にも突っかかって質問してくれた時は胸が高鳴った。あっという間に昼休みは終わったが、授業中僕は彼女に次どんな事を話そうか考えていた。初めて自分の考えに興味を持って貰えたのが嬉しかった。それと同時に単純な自分が情けなくも感じて、内ポケットのタバコの感触を確かめるように胸の部分をそっと撫でた。
今日も食事を早めに作って済ませたら、自室で本を読んだ。社会学の本だった。この本によると、現代の日本では共同体の空洞化という現象が起こっているらしい。高度経済成長あたりまで、日本の家族、地域、会社、国家と様々な単位のコミュニティは生活の基盤として十分な役割を果たしていた。しかしそうした共同体が揺らいで来ていると言う。核家族世帯の増加や共働き、スマートフォンの普及によって家族との繋がりが薄れ、経済成長の停滞によって会社の終身雇用制が終わりを迎えた。そうして国民が国家に依存せざるを得無くなったため、監視カメラの設置などで無駄に管理体制だけ整えた国家さえも、その拠り所としての信用を、相次ぐ汚職事件や経済成長の低迷によって失った。
事の発端は西洋から輸入された個人主義だった。最初は地域社会のコミュニティが力を失い、家族がお互いを支え合える役割を果たせなくなってきた。高度経済成長の中、そういった歪みを誤魔化す様にサブカルチャーが発展したが、それは拠り所を失い先の見えない若者たちが、新たな拠り所としての物語を求めた結果らしい。オウム真理教が良い例である。彼等は自分を肯定してくれる集団と、戦後日本に不足した物語を求めていた。ノストラダムスの大予言は、終わりの見えない日常に終止符を打つと共に、共通の前提を持った仲間を手に入れた。
筆者はそうした問題に対し、事件の起こらないこの日本で退屈な日常を仲間と生きろと述べている。つまり、物語のないこの日常を受け入れた上で、信頼し合える共同体を築いて生きるべきだと言う事だ。なるほど、ではそうした仲間に恵まれなかった場合その人は不幸になるしか無いのだろうか。
そんな事を考えていたらいつの間に仕事から帰っていたのか、父親が母親と喧嘩をしていた。居間から母親の鋭い怒鳴り声がキーキー聞こえてくる。父親のこもった低い声がそれを遮るように響くが、さらに大きく高い声で母親がそれを掻き消すように怒鳴った。不気味な鳥の鳴き声の様なその声は、悲鳴のようにも聞こえた。
父親はうつ病で半年間会社を休んでいたが、最近ようやく仕事に復帰した。仕事は順調にいっているみたいだけれど、喧嘩の頻度は変わらなかった、。今日は母親が癇癪を起こしたらしい。扉の向こうで二人はどんな顔をしているんだろうか。こうなったら悪いのはどっちであるかは関係ない。母親の甲高い鳴き声が鳴り止むまで、父親は話を遮られ続ける。
いつも以上に言い合いがヒートアップしていくにつれて、父親のうつ病が悪化するんじゃないかと不安になってきた。隣の家にも聞こえる声量で怒鳴り声が響く度に、心臓がきゅうと締め付けられる感覚がする。脳細胞の一つ一つが騒ぎ立てた様に頭がぐるぐると回る感覚がして、息が苦しくなってきた。窓を開けてタバコを吸ったら収まるだろうかと思ったけれど、言い合いが増々外に聞こえてしまうのでそれは止めて、布団を被って眠りにつく様努力した。布団越しでも聞こえる母親のやかましい鳥の鳴き声の様な怒鳴り替えが、深夜まで僕の眠りを妨げた。
翌朝、早朝四時半に目が覚めてしまった、ひどい気分だ。眠気は取れたが疲れが残っていて、頭の奥がズキズキ痛い。カラカラの口をゆすごうと洗面台に歩いていったら、居間のテーブルに昨日作ったカレーが食べかけのまま放置されていた。歯を磨いて水を一杯飲んで自室の窓でタバコを吸った。窓から見える電柱が、早朝の薄暗い空を背景に電線をあちこちに伸ばしながら無機質に立ってた。
しばらく経って気持ちが落ち着いてくると、昨夜の事は別にそこまで心配する様な事でも無いと思えてきた。夫婦喧嘩なんてどこにでもある事だし、それで父親のうつ病が悪化するなんて考え過ぎだ。母親も癇癪が収まったあとは、冷静に謝ってから建設的な話し合いが出来る状態になる。きっともう仲直りもしただろう。そう思うと急に胸が軽くなって、早朝の少し冷たい空気が心地よかった。しばらくボーッとしていると、段々と空が明るくなっていった。
家を出るまでスマホをいじって時間を潰していると、階段を誰かが降りて来る音がした。ドスドスという靴下を履いている時の乾いた足音を聞いて、きっと父親だろうと思った。しばらく物音がしてから、ドアが開く音がした。恐らく仕事に行ったのだろう。いつもこの時間帯は僕は寝てるので、父親が会社に行く場面に居合わせるのは新鮮だった。その後すぐにまた階段を降りる音がしてきた。今度はヒタヒタという裸足の足音が聞こえたので、母親だとわかった。母親はいつも僕が学校に行った後に起きるので、こんなに朝早く起きるのは珍しい。洗面台にでも行くのかと思っていたら、母親が部屋の扉をノックしてきたので、不審に思いながら返事をしたら部屋に入ってきた。
深刻そうな顔だったので話を聞いたら、父親が昨日仕事でトラブルを起こしたらしく、それが原因で昨日は喧嘩していたらしい。それから父親の様子が変で、またうつ病が悪化したかも知れないと言われた。話している時の母親の顔は暗く、眠れなかったのか目にクマが出てた。元々頬骨が高いので顔が痩せていて弱々しい印象を受けるが、増々具合が悪そうに見える。
「迷惑かけてごめんね」そう言ってこちらを覗き込む母親は、謝りながらも僕に助けを求めている様な気がした。母親の黒い瞳には光が無くて、何故だか少し不気味に感じられた。それはどこか僕を責めているような、それでいて僕がどう動くかを見極めている様な目だった。それが怖くて僕は良い息子を演じざるを得なかった。
「僕も父さんに出来ることが無いか、母さんみたいに色々勉強してみるよ。前読んでた心理学とかの本、読んでみるから貸してくれる?」
「いいの?ごめんね、ありがとう」きっと母親は僕がこう言う事を分かった上で話をしたんだろう。でも僕に出来る事なんてあるのだろうか。下手に込み入った会話をして増々悪い状態にさせてしまったらどうしよう。やはりちゃんと精神病院に通わせるべきなんじゃないだろうか。母親だけで父親のケアをしていくのは厳しい事はわかっていたけれど、高校生の自分を頼りにされても困る。胃のあたりが重くなるのを感じた。
母親が階段を登っていったので、もう一本タバコを吸ってから学校に行くことにした。昨日読んだ本の、共同体の空洞化という現象についてCさんに話してみようかな思っていたけれど、やめた。
最近学校ではCさんと話す事が多い。大抵Bが中心になって会話するけれど、たまに僕の読んだ本の感想を聞いてくれる。ある日授業中彼女がわからないというので勉強を教えてあげた。どうやら上手く教えられた様で、僕の教え方を大袈裟に褒めてくれた。
「色々な事知ってるし、教えるのも上手いなんて、A君は天才だね!」そう言われてむず痒い思いをしたのは、最初自分が照れているからだと思っていたが、考えてみたらそうでは無かった。天才と言われると、相手が自分に抱いている印象と自分が自分に抱いている印象とのギャップが浮き彫りになって違和感があるからだった。僕がどうでもいい事まで詳しく知っているのは、記憶力が良かったり学びを愛していたりしているからでは無い。空虚な時間に耐えられず、何か気を紛らわす知識や刺激が無いと耐えられないほどに僕が臆病だからだ。特に夕方は僕のそうした空虚への感度はとびきり鋭くなって、自室の窓から差す夕陽が壁に反射するのを見まいと本や勉強に夢中になった。何故か僕にとって夕陽は、空虚や退屈の象徴だった。
しかしそうした卑しい知識欲は、Cさんに励まされて一層増した。さらにそれは僕にとってもう卑しいものでは無かった。あくまで僕はCさんの為に、あるいはBやその他の人達に伝える為に本を読むのであって、それは独りよがりな行為では無いのだと思う様になった。あの夕陽と僕の知識は一切関係なく、上辺だけの前向きな動機が僕の学習意欲を奮い立たせた。そのせいか家に帰ってからは本を読む事が多くなった。図書館に行く頻度も増えて、ある日一冊の本を手に取った時、知識がとても価値あるものに思えた。蓄えた知識を人に話す事で僕が自分を表現するのならば、その人の持つ知識は一種の個性なのでは無いだろうか。今僕は無意味に知識を貪る家畜ではなく、人と関わる為に知識を絵の具の様に使って自らを彩る人間だ。方法は違うだろうけど他の人達もこうやって、お互いを表現し合って人と繋がっているのだろうか。そう思うと、自分が独りでは無い気がしてきた。
ある日の放課後、下校路でCさんに会った。彼女も自転車通学らしい。
「あれ、A君も自転車通学なんだ。知らなかった」
「うん」僕達は狭い歩道で自転車を押して並んで歩いた。いつもはBが会話を回してくれるので、話題に困ってしまった。そういえば二人の時は僕が一方的に読んだ本の話をしているだけだったなと思いながら、とりあえず思いつく限りの無難な質問をして、そこから短い会話に広げてを繰り返した。
「じゃあ私こっちだから」喋ることもいよいよ無くなって、沈黙を破るようにそう言って彼女はこちらを向いた。やはり彼女も気まずかったのだろうか、半分囁く様に言ったその声は心なしか少し震えている気がした。夕陽に照らされた彼女の額は、少し汗をかいて前髪が張り付いている。
僕はCさんと話していく中で、彼女は明るくて話しやすくて、誰からも好かれて、それでいて芯のある人だと思っていた。分け隔てなく人と話して、僕なんかの話を聞いてくれる。そして、そうやって距離を縮めて人と関われるのは、彼女が強いからだと思っていた。本心をさらけ出しても何も恥ずかしく無い程潔白で、ふとした瞬間に悪意に触れても揺るがない信念が彼女にはあるのかと思っていた。しかし、今目の前にいる彼女は、夕陽に照らされているせいかとても寂しく、そして幼く見えた。今の彼女は強くなんか無くて、触れれば簡単に壊れてしまう繊細な人形の様に思える。黙って見つめる僕を不審に思ったのか、どうしたのと聞いて笑った時に見えた彼女の歯並びの悪い前歯は、悪意を知らなかった。その時僕は、彼女の魅力は明るい性格やわけ隔ての無い優しさといったものでは無く、一重にその無防備さであるのだと気づいた。誰も警戒せず、だからこそ誰にでも明るくて優しい彼女は、相手がいつ自分を傷つけたり恥をかかせたりしてくるか常に警戒している自分とは正反対だった。
僕に無いものを全て持っているCさんを、羨ましく思うと同時に、その危うい無防備がいつ彼女を傷つけないか不安に思った。いや、別に傷つく訳では無くても、彼女が誰かと関わっていく内に変わっていってしまったらと思うと気分が悪くて、僕の記憶の中にあの愛おしい前歯をずっと留めておきたかった。
三 精液
父親の様子がおかしくなっている。別に変な行動を取るわけでは無いけれど、全くと言っていい程話さなくなった。あれから両親は喧嘩をしなくなったけれど、一緒に食事をとることも無くなった。いつもは大体僕が最初に食べて、一緒に母親が食べる時もあれば、父親が早く帰ってきて三人一緒に食べる時もあった。しかし最近は父親が帰ってくるのが遅くて、三人揃って食事をする事は無くなった。加えてあれ以来僕は母親と二人で食事をとるのを、意識的に避けるようになった。事ある毎に母親が父親への愚痴を言ったり、僕に貸した本をどこまで読んだか聞かれたりする度に、父親の今の状態の責任が僕にかかってくる様に感じて不愉快で仕方無かった。母親の黒い瞳と目が合うのが怖くて、すれ違う時も僕は目を逸らしてなるべく会話を避けた。一度母親とどうしても話をせざるを得ない状況になった時、やけに目を合わせて喋ろうとする母親の挙動が怖くて仕方無かった。また、その時少しだけ、その黒い瞳の奥に、うつ病が一番酷かった時の父親の狂気が感じられた様な気がした。
自分からサポートすると言っておいて、両親のいざこざに関わるのが怖かった。言い訳するみたいに愚痴を言う母親の保身的な姿勢や、何も言わずに話し合いもしない父親の諦観的な態度を見るのが辛かった。両親の事を考えると胸がムカついて、タバコを吸う頻度が上がっていった。
「聞いてる?」そう言われて顔をあげると、Bがこちらの顔を覗き込んでいた。
「聞いてなかった」僕が堂々と言うとBが笑ったので、僕も笑った。
「なんで笑ってんの?」Cさんがやって来て聞いた。
「聞いてなかった」二人でそう答えて笑っていたら、Cさんも笑った。なんだか可笑しくなって、その後も三人で下らない事で笑った。心に張り付いているドロドロしたものが溶けていく感覚がして、そうやっている間は胸が軽くなった。
お弁当を食べ終わって教室に戻ると、Bはいつも僕の席に座ってCさんと話している。今日は特に会話が盛り上がっているみたいで、Bの言った事にCさんが楽しそうに笑うのを見て、僕は引き返して昼休みが終わるまで図書室で時間を潰すことにした。しかし、本に集中しようと思ってもCさんの笑顔が頭から離れなかった。当たり前だけど、僕の前であんな笑い方をしてくれた事は無かったな。
丁度チャイムが鳴るタイミングで教室に戻って席に着くと、Cさんが何処に行っていたのかと聞いてきた。図書室に行ってたと答えると、どんな本を借りたのか聞かれた。図書室で時間を潰して居ただけなので本は借りなかったのだけれど、それを言うと変に思われそうなので、慌てて以前読んだ本のタイトルを答えた。共同体の空洞化について書いてあったあの社会学の本のタイトルだ。
「どんな内容だったの?」授業の時間になったのにどうしてか先生が来ないので、内心嫌々説明することにした。
「例えば、昔はスマホなんて無かったから、テレビ番組を見る時は家族みんなでテレビの前に集まってた。地域では繋がりが強くて助け合う事が出来た。それが今は、家ではそれぞれが自室でスマホを見ながらご飯を食べたり、マンションで隣に誰が住んでいるのかわからなかったりする。そうやって個人主義が進んでいくと、いざという時に助け合える人が少なくなる。例えば、家で父親が病気になったりした時、昔だったら親族や近所に助けを求められたかもしれない。でも今は誰も助けてくれない。いや、親族は助けてくれるかも知れないけど、それが出来ない人だっているんだよ。」話を聞いているCさんが、僕に違和感を持っているのがわかった。
「そうやって頼れるものが無くなっていったら、もう国に頼るしか無くなる。そうした期待に応えるみたいに国家はあちこちに防犯カメラを設置したり、色々な法律を作ったりして、何とか隙間なく国を管理しようとする。そうすると僕達は国家に依存して生きていくしか無くなる。それが問題なんだよ。」
「へえ、確かに最近近所付き合いとか全然無いかも、ていうか家族ともあんまり話さないな」Cさんはいつもみたいに、僕のいい加減な本の要約を噛み砕いてくれてる。
「Aくんは家族と仲良い方?」
「普通かな、別に悪くは無いと思うけど」
「うん、ウチもそんな感じ」話している間嘘がバレないかヒヤヒヤした。もしかしたらもうバレているのかもしれない。Cさんは僕の様子を伺って自分の劣等感を探っているのかも。馬鹿か、Cさんはそんな事しないだろう。
Cの顔をちらりと見てみたら、少し様子が変だった。いつもの笑顔が微妙にぎこちなく、どこか意識的に僕に相槌を打っている感じだった。もしかして本当にバレているのか、僕の家に問題がある事をCさんは知った上で今聞いてきたのだろうか。急にCさんと話すのが怖くなってきて、先生がやっと教室に入ってきた時は安心した。
その日も放課後、下校路でCさんに会った。今では僕の中でCさんはBの次によく話すので、最近は二人で帰ってもそれ程気まずく無い。しかし、さっきのCさんとのやりとりが、いつもの他愛ない会話をするのを邪魔していた。Cさんも口にこそ出さないが、僕の様子が変なのに気づいているだろう。
「さっき私、A君と同じ感じだって言ったじゃん?」
「あ、うん、え?」急に質問されるので、慌てて訳の分からない返事をした。
「A君が家族と仲悪くは無いって言った話。」そう切り出された途端、頭が真っ白になった。やっぱりボロが出ていた。怖い、恥ずかしい、色々聞かれたらどうしよう。
「私本当は家族と結構仲悪いんだ」そう切り出した彼女は俯いていた。いつもの明るい笑顔は無くて、どこかそっけない感じで続けた。
「特にパパが嫌い、ママに当たり散らしていっつも怒ってるから。あと私がパパに酷い事言われてる時に、何もしてくれなかったママも嫌い」その後も独り言みたいに自分の話をしているCさんは魂が抜けたみたいで、悲しんでいるのか、怒っているのか、掴み所の無い表情でずっと俯いてた。
どうしてそれを僕に伝えたのか見当がまるでつかなかったが、何故だかそれがとても嬉しくて、彼女も僕と似た境遇にいるのだという感動と、何よりCさんに僕の境遇が知られずに済んだという安心感で、少しだけ涙が出てきた。
「泣いてるの?」少し目が潤んだ程度だったのだが、夕陽に照らされてか彼女が気づいて聞いてきた。
「A君は純粋だね」どうやら彼女は僕が同情して涙を流していると思ったみたいだ。今までに無いくらい優しく微笑む彼女は、今までにないくらい綺麗で、切なかった。
僕が純粋?それは間違っている。僕はCさんに同情なんかしてない、むしろ喜んでるんだ。僕も両親が嫌いだ、自分のことばっかりで家事も僕に押し付けて。最近はせっかく作っても食事を残すじゃないか。しかし、それを彼女に切り出す事は出来なかった。彼女は僕の事を純粋だと思ってくれているのに、裏切るような真似をしては嫌われてしまうと思ったからだ。自分が彼女の思っている以上に悪意に溢れた人間だと知ったら、きっと気味悪がる、黙っているべきだ。学ランの内ポケットに当たる位置を外側から撫でてタバコの感触を確かめながら、そう自分に語りかけた。
「急に変な話してごめんね」別れ際Cさんがそう言うので全然大丈夫だと伝えて、意味の無い励ましの言葉をいくつか送った。
その後一人で自転車を押して、無駄に時間をかけてのんびり帰った。僕の胸は不思議な幸福に満たされていた。それは一種の汚い優越感なのかもしれない。僕がCさんに劣等感を抱いていた様に、彼女も僕に同じ様な感情を抱いていたのかもしれないと思うと、えもいえない興奮が僕を襲った。僕は彼女ともっと親しくなっても許されるんだ。そうした彼女への卑しい親近感を、僕は恋だと確信した。
家に帰ると母親が寝込んでいた。具合が悪いらしく、布団をかぶって今日はご飯は要らないと言った。寝室は蒸し暑くて甘酸っぱい香りで充満していた。母親の頭の横にある父親の白い枕は少し黄ばんで、何本かの抜け毛が落ちていた。僕は優しく、早く元気になる様声をかけ、普通のご飯が食べられないならお粥でも作ろうかと、上機嫌からとびきり親切に世話を申し出た。それも要らないと言うので、お大事にと言って自室に戻った。その後は何をするにも落ち着かなくて、ソワソワしながらCさんが言っていた事を思い出してた。
何も手に付かずに時間だけが過ぎていって、気づいたら夜になっていた。いつもはこの位の時間に父親が帰ってくるのだが、残業でもしているのだろうか。僕はようやく食事の支度をし始めた。父親が帰ってきたら一緒に食べても良いかもしれない。そんな事を考えながら、不自然に上機嫌に洗い物を始めた。そうしているうちに、僕の家に問題なんて無いんじゃないかと思えてきた。Cさんが思っている僕が本当の僕で、僕は本当に純粋で優しい人間なんじゃないのか。不思議な高揚感が僕のそうした妄想を加速させた。実際今もこうして家族の為に忙しく働いているじゃないか。 そうだ、僕に問題なんて無い。
だったら僕のするべき事は、Cさんを助ける事だ。悩み事をしっかし聞いてあげて、Cさんには僕が必要なんだと分かってもらおう。僕が父親にしたみたいに。
あれ、僕は父親に何をしてあげてたっけ?
そう思った途端父親が仕事から帰ってきた。玄関から居間に弱々しい足音で入ってきた父親の顔はひどいものだった。青ざめた顔には底抜けの孤独が感じられて、虚ろな目には感情が無かった。
「おかえり、もうご飯出来てるよ」
「ありがとう、でも今日は外で食べてきたから」自分から誘っておいて、父親が弱々しい笑顔で言った時には安心した。しかしきっと外で食べてきたと言うのは嘘だろう。父親が風呂に入るのを確認してから、自室で夕食を食べた。
夕食も食べて終えてそろそろ寝ようと、歯を磨きに洗面台に行ったら、父親がまだ風呂に入っていた。食事を終えてから一時間は経っているので、不安になってきた。
「まだお風呂入ってるの?」そう呼びかけたら、気のない返事が帰ってきた。大丈夫だろうか、もしかしたらまた自殺をしようとしているのかもしれない。
父親のうつ病が一番酷い頃、ある日母親が僕に父親が死のうとしたと泣きそうな顔で訴えかけてきた時があった。死のうとしたと言っても、別に首を吊ろうとしていた訳でも無く、自分の首を強く締め付けて自殺しようとしていたらしい。母親が酷く取り乱しながら自分に説明している時、そんなやり方で死ねる訳が無いだろうと思った。父親は本気で死ぬ気なんか無いし、母親はそれについて深く考え過ぎだと思った。もう少し母親がちゃんとしてくれればとさえ思っていた。
さらに一時間経って、まだ風呂から出ない父親を風呂場の扉越しに前にして、あの時の母親の気持ちがようやく分かった。目の前に死がある感覚とでも言うのだろうか。時たまチャプチャプという音が浴槽から聞こえてくる度に、何か起こったのでは無いかと不安で堪らなくなる。それは父親の身を案じてなどでは決して無くて、目の前で死という現象が起こるのが怖いだけだった。母親は寝室で寝込んでる。今この状態の父親を見せたら、どうなるのかまるで見当がつかない。というか、母親はまだ正気であるとどうして言えるのだろうか、こんないつもこうした状況に晒されていたのかと思うと、今までの自分の態度を振り返って僕は、初めて自分を責めた。もうこれ以上母親を頼る事は出来ない。
電気の付いていない洗面台に浴室の曇りガラスから暖色の明かりが零れてる。照らされた洗面所の湿っぽいタイルに座って手をついたら、髪の毛が付いた。気持ちを落ち着かせようと深呼吸してみたけれど、これまでに無いくらい嫌な緊張が僕の胸を縛り付けたままだった。二十分おきくらいに風呂場に向かって大丈夫か聞いたり、もう夜遅いよと呼びかけたけれど、感情のこもっていない返事が帰ってくるだけだった。どうしてこんな状態になるまで気づかなかったんだろう。暗い部屋で父親がいよいよ何も話さないので、急に心細く感じてきた。今ここで父親が死のうとしたとしても、僕は怖くて止められないだろう。ならどうしてここに座って居るんだ。どうすればいい?母親はどうしてた?わからない、誰か助けて。頭が痛くなってきてクラクラしていた。
Cさんが今の僕を見たら何というだろうか。
「なんて惨めなの?」ああ、きっとそう言うだろうな。Cさんは僕を人畜無害の穏やかな同級生だと思っているのだから。こんな姿を見たらきっと軽蔑されるだろう。
「お母さんは何度も君に助けを求めてたよね。それを君はどうした?何もしなかった。下手に関わって責任が自分に降りかかるのが怖くて、お父さんの情けない姿を見るのが怖くて、自分の家という劣等感と向き合うのが怖くて、ずっと逃げてる。」
その通りだ。
「家に帰って勉強?馬鹿じゃないの?君にはもっと考えるべき事があるんじゃないの?」
「また逃げるんだ」
「みっともないね」
ごめんなさい。
「タバコを吸わなくていいの?あれを吸うと落ち着くんでしょ?」
ごめんなさい。
Cさんが僕を責め立てるのを想像してみると、今まで本性がバレるのを恐れていた割に、不思議と妙な開放感があった。いや、不思議なんかでは無い。僕はずっと誰かに見て欲しかったんだ。
「そんな陳腐なもので反抗した気になっているの?」
「A君は豚みたいだね。自分の心の穴を埋めるためになりふり構わず何でも消費したがる。どうやっても埋まらない心の穴を埋める為にね。
万引きと放火を子供の頃したよね。君はその時自分の好奇心を消費してたんだよ。確かにあの頃の君に悪意は無かったけれど、それと君が邪悪であるかどうかは別の話なんだよ」Cさんの声がどんどんと大きくなっていって、幾つもの罵詈雑言が僕の陳腐なベールを剥がしている様な感覚だった。恐怖は安心に、恥じらいは快楽に変わっていった。
「ならタバコを吸ったのは、悪意の消費だね。といってもただの反抗期だけど。そんなので周りに反発出来た気になってるなんて恥ずかしい事だと思わない?自分の惨めな悪意も自身の物語の一部として楽しむなんて、卑しいね」
「そうやって私も消費しようとしたんだよね。私が勇気を出してA君に打ち明けた秘密を、あなたはすぐに利用しようとした。
私を通してA君は自分の家族への劣等感と、私への偽物の優越感を消費しようとしてるんでしょ。」そう言われて動悸がした。脈が上がっていくのを感じる、顔が熱い。ふと陰部がむず痒くて、自分が勃起している事に気がついた。
「君は心のどこかで自分だけが、唯一まともな人間なんだと思ってたよね。でも違うよ、少なくともこの家では、君が一番おかしい。お母さんの顔をよく見た事がある?目にいつもクマが出来てた。あなたは癇癪の一言で片付けたけど、あの人の精神はもう参っていたのが何故わからなかったの?ずっと見て見ぬふりをしてきたの?それであなたは何のストレスも抱えずに自分だけ健やかな日常を期待なんかしちゃってたの?それこそ狂気よ!!」
Cさんが僕に呼びかける度に陰部が跳ねる様に大きくなっていく。背徳感が僕の背中を誘うように撫でた。息を上げながら僕はズボンを下ろした。
「こんな状況になるまでまともで居られた君が一番おかしいんだよ」
「君が元凶だよ」罵倒されながら自瀆している自分の惨めさは自制を掛けるどころか、その恥じらいが増々僕を興奮させた。今までに無いくらい火照った心臓が、血管の浮き出た醜い陰茎を握る力を強めた。 醜い欲望に身を任せて、穢らわしい感情に揉みくちゃにされながら、Cさんを妄想して僕は快楽にふけった。
気がついたらCさんの声が聞こえなくなっていた。顔を上げると浴室からはまだ暖色の光が注いでる。てかったタイルをぼんやり眺めながら、さっきのは夢だったのだろうかと思った。だとしたら何処までが夢だったんだろうか。最後に時計を見た時は十二時だったけれど、それから一時間経ったみたいだ。夢だとしたら少なくとも三十分は寝ていたかな。そんな呑気な事を考えて、ふと自分の右手から生温かいものが垂れる感触がして、見てみるとどろりとした精液が手に絡み付いていた。
それはきっとこの世で一番穢らわしいものに違いなかった。僕は慌てて洗面台で手を洗った。一度石鹸で洗っただけではまだベタベタしていたので、もう五回洗ってようやくそれが落ちたけれど、自分の右手は汚れたままだった。どうやっても拭い切れない自分の穢れに吐き気がして嗚咽したが、視界が歪んだので自分は泣いているんだとわかった。
「A君は純粋だね」Cさんがそう言ったのを思い出して、いよいよ可笑しくなり笑いが込み上げてきた。浴室からチャプチャプ言うのに合わせるみたいに、喉ならクックックッだとか、カッカッカッだとか、とにかく変な笑い声が出るのが収まらなくて、父親の事なんか忘れて自室にふらつきながら戻って、横になってもまだ喉から乾いた笑いが出続けた。
父親が死んだ。朝起きてまだ風呂に入っていたのでムカついて扉を強引に開けたら、浴槽に体育座りの格好で眠っていた。肌が薄緑に染まって、目周りに紫の痣ができていた。
「母さん、父さんが死んでる!!!」母親にそう叫んだ。
「そうなの、良かったわね」
「は?何言ってるんだよ」
「これでもう私達を縛るものは無くなったじゃない」
「それはそうだけど」
「良かったね、A君」Cさんがそう言うので、これで良かったんだと思えてきた。確かに、父親さえ居なければこんな面倒事は起きなかった。これからは穏やかに暮らそう。母親と僕とCさんの三人で。
いや、ここまで来たら母親も死んでくれた方が楽だな。Cさんの前で癇癪を起こされたらたまったものじゃない。Bも死ねばいい。Cさんがあんなに楽しそうに笑うのが我慢ならない。というか、そもそもCさんが居るからこんな事になったんじゃないのか。
「そうか、皆死ねばいいんだ」
起きたら身体中が汗でびっしょり濡れていた。こめかみを涙がつたう。息が苦しい。重い体を引きずって洗面台まで行った。どうやら父親は風呂から出たらしく、用意してあった着替えが無くなっていた。顔を洗ってシャワーを浴びた。浴室の床は濡れていた。水鱗で覆われた鏡に、自分のやせ細った体の輪郭が見える。汗を流し終えてシャワーを止めたら、シャワーヘッドから水滴がぽたぽたと落ちる様子が、昨夜自分の右手にへばり付いた精液と重なった。胃から何かが込み上げて来る感覚がして、浴室の白いタイルに吐瀉物が散らばった。喉が焼ける様な感覚がして、口の中が酸っぱい。シャワーの水をもう一度出してそれを排水溝に流し込んでから、口をゆすいで風呂を出た。着替えてからビニール袋を持ってもう一度浴室に行き、排水溝の汚れをとった、ゲロと硫黄の臭いが混ざったぐちょぐちょの髪の毛の塊をビニール袋で二重に縛って、ゴミ箱に思い切り投げ入れた。
もう時間は午前十時を過ぎていて、今更学校に行く気にもならなかった。欠席の連絡を入れて外に出た。今日はよく晴れていて、散歩日和だった。タバコを吸おうと箱を開けたら、もう一本しか無かったので、それに火をつけたら方向を変えてもう一箱買おうとコンビニのある方へ歩いて行った。タバコの清潔な煙が、ゲロで汚れた自分の口の中を綺麗にしてくれる感じがする。バニラの様な甘い香りが口いっぱいに広がって、気分が落ち着いてきた。
取り留めのない思考が、思考にも満たない記憶の断片が出ては消えてを繰り返した。どこを歩いているのかもよく分からずに四、五本目のタバコを吸っていたら急に頭がクラクラしてきて、また気分が悪くなった。
二時間位経って家に戻ると、母親が寝室から学校に行っていないのかと聞いてきた。今日は学校の都合で休みなんだと伝えて、お昼ご飯は食べれそうか聞いた。お粥が食べたいと言うので、自分の昼飯とは別に丁寧にお粥を作った。
四 夕陽
「昨日なんで休んだの?」Bがそう聞いてきたので、少し具合が悪かったと言ったら、仮病だろと笑われた。Cさんが会話に入ってきたけれど、何を話したかはよく覚えていない。ホームルームでD先生が話している時、先生の顎を汗がつたってぽたりと教卓に落ちるのを見て、また吐きそうになった。授業が始まってぼんやりしながらノートを写していると、消しゴムを落としてしまった。消しゴムはCさんの方へ転がった。 Cさんが座ったまま身をかがめてそれを拾ってこちらへ差し出した。
「ありがとう」そう言って右手を出して受け取ろうとしたら、彼女の手が精液のへばりついた手に少し触れた。
反射的に右手を引っ込めたら、消しゴムがまた床に落ちた。Cさんは僕をキョトンと見つめた。
その顔を見て、Cさんは僕の事を何も知らないんだと思い出した。あれは僕の妄想だ。CさんもBも両親でさえも、僕がどんなに卑しくて汚い人間か知らないんだ。そう思った途端、忘れてた心細い孤独がまた僕を襲った。また消しゴムを拾おうおしたCさんを制止して、僕は急いで消しゴムを拾った。もう全部がどうでも良くて、授業なんて頭に入らなかった。
そこからは無意味な日々の繰り返しだった。僕は自分の事しか考えてなくて、する事なす事全て上手くいかないんだと思うと、誰とも話す気も起きなくて、何もしたくなかった。しかしそれとは裏腹に僕の空虚への恐怖はより一層大きくなっていった。
ある日部室棟の階段でタバコを吸っていると、普段は誰も使わない扉から生徒が一人出てきた。その生徒は僕を一目見たけれどすぐに目を逸らし、僕を横切って階段を降りてった。見たところ臆病そうな奴だったので、先生に言い付けたりはしないだろうなと思いながらも、やはり少し気にかかっていた。でもそれはバレるのを恐れているというよりも、むしろ期待しているみたいだった。僕はずっと、僕が僕である事を知って欲しかった。例えそれで酷い罵詈雑言が飛んできたとしても、認識されないよりかはよっぽどマシだった。
もうすっかり真夏で、その生徒が階段降りてく音が収まると、蝉の鳴き声だけが響いた。
明日には夏休みだ。終業式を終えて帰ろうと自転車を漕いでいたら、前方にCさんとBが手を繋いで歩いているのが見えた。最近自転車で下校するCさんと会わないのは、電車通学に変わったからだったのか。それを見て、今まで意地になって心の穴に詰め込んでいた何かが、砂のようにサラサラと流れていく感覚がした。
少し歩いて、川を跨いだ橋の上で、軽くなったと共にこれまでに無いくらい空虚な心を夕陽が照らした。不思議な気分だった。今まであんなに怖かった夕陽が、とても心地よく感じられた。光が僕の心を吹き抜けてゆく様な感覚を覚えるので、ひょっとすると僕の心に空いた穴は世界と繋がって居るんじゃないかと思えてきた。心に穴が空いて居るからこそ僕は世界と繋がれるし、人と関われるんじゃないのか。もし僕が誰よりも強い心を持っていて、孤独にも退屈にも悩まされない心を持っていたら、僕はどうやって人と関われるだろうか、どうやって知識を愛せるだろうか。人の心には、在るべくして空虚が存在し、その空虚こそがその人にとっての世界そのものなのだと思った。僕達は空虚を通して世界と恣意的に繋がり、それを知覚する為に生きるべきなんだ。
僕は今まで空虚を埋めたくて必死だった。僕の人生を彩る文脈や物語を欲し、その場の退屈を紛らわす刺激を欲し、それでも満足できずに自身の悪意を物語に取り入れて消費し、あまつさえそれが裁かれる事を密かに望んでいた。僕は悪意を求めると共に、それを裁く正義さえも消費しようとしていた。誰かに僕の貧相で臆病な悪意を暴かれて、嘲笑われる事を望んでいた。
邪悪とは、自身の心の穴を埋めるために手段も対象も選ばずになりふり構わず貪る卑しい家畜の事なのだと思った。人生の意味という餌を選り好みして食べているようで、その実何が自分の胃に入るかは大した問題では無かった。何故なら、そうした消費自体が僕にとっての人生そのものであったのだから。
「これが生だったのか、それではもう一度」僕はボソリとそう呟いて笑った。ショーペンハウアーは自身の幸せを諦めて専ら芸術や学問などの精神的活動にその人生を委ねることを推奨していたが、それを幸せを目指す人生と分類するのは、表面的でナンセンスな推測だと思う。二つの人生の違いは、死んだ時に埋めた心の穴から零れるものが、幸せか作品や論文かの違いだけなのだから。
川面を宝石みたいに照らす美しい夕陽はやはり空虚そのものに感じられた。僕は内ポケットからタバコを取り出してそれをライターと一緒に夕陽に向かって思い切り投げつけた。タバコとライターはそのまま川に落ちて流されて行った。僕はその様子を、見えなくなっても眺め続けた。
穴の空いた豚 @isagiyo
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