終末の対岸

名月 遙

第1話

 その手の温もりを覚えている。


 何も思い出せないのに、手を握ったあの感覚は消えたりしなかった。

 何も握っていないはずなのに、自分の手に何かが触れているようなそんな感覚。

 これはきっと声なんだと、ふと思う。どこかで失ってしまった「あの子」の声だと。

 そう、僕は確かに「あの子」の手を握っていた。

 はぐれないように、消えてしまわないように、そばにいたいと願いながら。

 僕にとって「あの子」はなんだったのか

 「あの子」にとって僕はなんだったのか

 今となってはわからない。それを悲しむことが出来る僕は消えてしまったから。

 でも、自分では意識できない心の奥底で、言われている気がした。

 

 願わなければいけないよと。

 

 何よりも大切な「あの子」の幸せを。




 遠のいていた意識が徐々に輪郭を伴っていく。

 衣服を通り抜ける冷たいそよ風、裸足に触れる畳の冷ややかな感触、そして格技場に響く男子の歓声。感覚の最後に捉えた視界、眼前にはクラスメイトの小倉くんが鬼の形相で迫ってきていた。


「行くぞぉ、天瀬ぇ!」


 表情通りの威圧の声が、僕の意識を完全に取り戻すスイッチになった。高身長で巨体の小倉くんに近寄られるのは恐怖でしかない。

 一瞬の隙を突かれて小倉君に柔道着の襟と腕を掴まれ、反射的に僕も彼の胴着を同じように掴んだ。奥襟を掴まれていたら危なかったけれど、この数ヶ月の練習が功を奏したようだ。それでも、有段者の小倉くんを前にして呆けすぎだなと、心の中で嘆息した。


 互いに両足を畳につけたまま、重心の崩し合いが始まる。

 小倉くんの短髪ながらちょっとお洒落につけたワックスの匂いがした。無骨で柔道一筋、さらにはいかつい顔の彼は女子に怖がられているけれど、みんなと同じ高校生だ。格好良く見られたいし、目立ちたいし、見栄も張りたい。

 好きな子には、尚更だ。

 

 互いに組み合いながらも、小倉くんはなかなか投げの所作には入らなかった。ちらりと彼の腰に巻かれた黒い帯を見る。僕が巻く白い帯とは違って風格がある色だった、能力の高さを示すものでもある。だからこそ、彼は不用意に隙を見せる動きはしない、出来ないというべきかもしれない。


 今は体育の時間前の休み時間だった。先生が来る前に片を付けたいのだけど、わざと負けることは小倉くん相手には無理だ。

 僕はこっそりと話しかけた。


「ねぇ、小倉くん、何度も言うんけどさ」


「うるさい。今日こそ俺が勝つ」


 取り付く島もなかった。

 小倉くんは僕を目の敵にしていて、なにかにつけて優劣をつけたがる。その理由は高校生らしく、好きな女の子のためだった。ちょっと珍しいのは僕たちが一人の女の子を取り合っていることをクラスメイト全員が知っていることだろう。


 まぁでも取り合いというと語弊がある。僕の気持ちとしては彼女には小倉君の方が相応しいと思っていた。いまもそれを伝えようしたんだけど小倉くんは聞く耳を持たなかった。

 仕方ないなと僕は息を整えた。


 暴力や争いごとは苦手だけど、休み時間の終了はすぐそこまできていた。

 いくら小倉くんが有段者とはいえ、勝手に試合をしているのを先生に見られたら怒られてしまう。

 僕は釣り合っていた均衡を崩し、針ほどしかない隙を正確について小倉君の重心を崩した。そのまま流れるような体捌きで、小倉くんの巨体を内股で倒した。

 畳に叩きつける音に今日一番の歓声が湧いた瞬間、格技場の扉が開く。

 

 そこには眉間に皺を寄せた先生が立っていた。

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