第4話
あなたは神の子なのよ、だから私達をどうか守ってね。そう優しそうな大人に言われた。
それに従わないという選択肢は俺にはなかった。なぜなら、物心ついた頃から俺には親兄弟も頼れる人間もいなくて、身一つで過酷な環境を生きていたからだ。
物乞いも盗みも生きるためならばなんでもやっていた。そんな子どもがうじゃうじゃといるような場所で、俺は見出された。
魔物と近づいても少しも苦しくないという体質のおかげで、俺は引き取られることとなった。
それを奇跡と言わずになんと言おう。
とある宗教に属する大人が汚れた俺の手を取って俺を『神の子』と呼んだ。人間が恐れる魔物に近づくことを許された、神からの授かりものだと。
自分たちのために、働いてさえくれれば、俺の生きていく環境は間違いなく保証してくれるというのだ。
今まで辛く苦しかったでしょう。それは神からの試練だったの。だけど今日からは違う。神の元で働く我が子を見て、神はお喜びになるわ。そして私たちはあなたを大切にする。あなたをこの世界で一番愛してあげる。
大人にそんな優しい言葉をかけられたのは初めてのことだった。
そのことに感謝をせずに何をするというのだ。俺ができることならばなんでもしよう。どんな苦しいことさえやり遂げよう。
この人たちのために働けば、薄汚れた俺だって少しはまともになれるのではないかと夢を見た。
「ギードルゥク」
清潔なシーツを敷かれたベッドの上で、俺がうつらうつらと昔の夢を見ていると、そんな風に呼びかけられた。
ここに来てすぐに貰った名前だ。神の子はみんなこの名前で呼ばれるのだという。
その名前を聞いた途端、俺はばっと体を起こして、ドアを開けている人の姿を目に映した。
申し訳なさそうに俺を見つめるその人の顔を見ていると、眠気なんてすぐに吹き飛んでしまう。
「寝ていたのに、ごめんなさいね。魔物が出たみたいなの。行けるかしら」
「はい、大丈夫です」
はきはきと、だけど眠っている他の人たちを起こさないように潜めた声で返事をする。
寝巻きから外で活動のできる服に急いで着替え、マフラーは迷った挙句にやめておいた。魔物を倒す時に邪魔になってしまうし、せっかく貰ったものはできるだけ汚したくなかった。
「もう夜の外は寒いわね。まだ雪は降ってないけど、風邪を引かないように気をつけるのよ」
そう言いながら、そっと頬を撫でられた。その指先はとても冷たい。白い服も消えそうに白い肌もその人の全てが冷たそうだ。
「俺は大丈夫ですから、先生は早くベッドに。冷えてしまいますから」
「いい子ね、ありがとう。ギードルゥク、私たちをどうか守って」
もちろんです、と答えてから部屋を出て長い廊下を歩く。たくさん並ぶドアの向こうには子ども達が眠っている。俺と同じ年頃の子もたくさんいるけれど、俺とは違う子どもたち。俺が守るべき人たちだ。
そっと外に出ると、言われた通り風はもうすっかり冷たくて、吐いた息が白くなって宙へと消えた。
今から倒すべきは魔物。手に持つ武器はない。それが俺の仕事だ。
森の中に向かって走り、気配を拾おうと耳を澄ませる。みんなのところに魔物が向かう前に、倒さなければ。それが俺のやるべきことなのだから。
先生たちが信仰している神、つまりは俺の親に当たるものは、殺生を嫌う。暴力的な行いも赦されず、唯一許されるのは神の子が神の信仰者たちを守るために仕方なく行うものだけだ。
つまり先生たちは自分の身を脅かす魔物を倒すことが許されていないのだ。それならば魔物の出にくい場所に住めばいいのにと最初に思ったが、それも許されてはいないらしい。
神は人間に自然に近い場所で生きることを望んでいるのだ。人工的でない、ありのままの森の中で生きる。それが一番なのだと先生は言う。
そして自分たちの魂をさらに鍛え上げるため、定期的に住む場所を変えるのだ。そうして過酷な生活を自分たちに強いることによって、神から認められる日を少しでも近づけようとする。
けれど、それはとても大変なことで、命の危険すら伴う。だから神の子はそんな信仰者を守るために遣わされる存在なのだ。
俺はそのためにいる。そのためにここにいる。俺はみんなを守るんだ。
グルル、と考えごとをする俺の耳にも確かにその唸り声は聞こえた。
パッと顔を上げ、魔物のところに向かう前に、その辺りに落ちていた木の棒を拾う。
俺に武器は与えられていない。そんな野蛮な道具はあの場所にはないからだ。けれど魔物に腕一本で向かっていくのは大変なので、俺は仕方なくこうして適当なものを使って倒すことになる。先生たちには秘密にしなければならないことだ。
犬に似た魔物の姿を視界に捉えた瞬間、考えるより先に体が動いていた。
魔物がこちらの存在に気づく前に背後から飛びかかり、貫通させるつもりで首に木の棒を刺す。もちろん簡単には通らないけど、そのくらいのつもりで、ということだ。
きゃん、と魔物から悲鳴が上がっても気にしてなんていられない。こっちだって命がけだ。
手頃な石で魔物の目を潰し、腹を蹴り上げ、首に刺さった木の棒をもっと奥へ差し込む。
魔物の爪が頬を掠め、血が飛び散ったことに思わず舌打ちをする。また先生たちの手を煩わせてしまう。
無傷で魔物を倒してこそ、信用できる神の子になれるだろうに、俺はまだまだ子どもで、力も何もかも足りなくて、こうして怪我ばかりしてしまうのだ。
ようやく魔物がひゅうひゅうと息をするだけの物体になって、俺は肩で息をしながら身を起こした。
使った木や石はもちろん置いていく。見つかったら大変だ。体を見下ろして、一応血や毛を出来るだけ払っておくけど、あまり意味はないだろう。
それでも、今日も魔物を倒せた。いつかは何も使わなくても倒せる日がくるだろう。
みんなが近づくだけで苦しくなる魔物に俺は難なく近づける。俺は神の子なのだから。みんなを守る存在なのだから。
こんな怪我、少しも痛くはない。ぽつりと垂れた血を手の甲で拭いながら、俺はみんなの待つ場所へと戻る。
背後にまだ辛うじて息のある魔物を残しながら。魔物は死んではいない。なぜならたとえ神の子でも、殺生はいけないことだと先生が言うからだ。
もちろん、このまま残しておけば魔物は遠からず死ぬだろうけど、それは俺が殺したことにはならない。自然が決めたことだと先生は言う。
だからそれでいいのだ。先生が言うことに間違いなど一つもないのだから。
「偉大なるリーモ神、クァリ神、今日も我らをお導きください。いずれ御二方の側に行けるその日まで、この不浄の地で生きていくことを誓います。どうか我ら全てが光輝く魂となれる様を見届けてくださいますよう」
毎朝の決まり切った挨拶は、俺もみんなの一番後ろで一緒に行うことができる。神の子だからと子どもたちのお勤めから外されることの多いから、こうして一緒にできることを大切にしようと熱心に祈る。
お祈りが終わると、たくさんいる子どもはみんなきゃらきゃらと楽しそうに話しているけど、俺が混ざることはない。
神の子に親しげに話しかけてはいけませんよ、と言われているのだ。俺はむしろ話したいのだけど、それは先生が許していないので仕方ない。
別に無視されるわけでもなければ、意地悪をされるなんてもってのほかだから我慢するしかないとは思う。
目があったりすれ違う時にはお辞儀をされたり、「いつもありがとうございます。ギードルゥク」と言ってもらえるのだから、と自分を慰める。昔の生活に比べたらここは天国だ。
けれど、みんなに混ざれない現実は時折胸を苦しくさせる。俺とみんなが違うことをより一層感じさせるからかもしれない。
自分の黒い髪につい指を絡ませてしまう。その指の色にさえ目がいく。みんなのように色素の薄くない体は神の子の証だというけれど、本当にそうなのだろうか。
せめて男の子とはたまには話せたらいいのに。だってここは女の子の方がうんと多いのだ。向こうだって俺とちょっとは話したいんじゃないかな。なんて、俺の考えすぎかもしれないけど。
だけど、いつもは仕方ない仕方ないと押さえ込んでいる欲が、その日はついに我慢できなくなってしまった。
なぜならその日、朝食の前に新しい家族だと一人の幼い女の子が紹介されたからだ。
「カミルです。よろしくおねがいします」
ぺこり、と頭を下げると白に近い金色の髪がさらさらと揺れた。緊張したような顔とぎゅうと握り締められた小さな手がとても可愛らしかった。
どの子のきょうだいになるのだろうと、俺は一番端の席に座りながらぼんやりと思った。
新しく入ってきた子はその子より年上の子が『きょうだい』となって、色々教えたり世話をしてあげるのだ。
今いる中でカミルときょうだいになれるくらいの年はどの子だろう、と俺には関係のないことを考える。新しい家族を歓迎するみんなの輪にも入れないまま、俺は一人黙々と朝食を口にした。
誰とも話さない食事をいつものように終え、自分の分の後片付けをしていると、信じられないことが唐突に起こった。
「ねえ、あなたのお名前は?」
いつの間にかみんなの輪からするりと抜け出したらしいカミルがそう俺に問いかけてきたのだ。
幼いわりにはしっかりとした言葉遣いで、愛らしく微笑みながら俺を見ていた。
先生以外からこんな風に話しかけられるのはいつぶりだろう。急には上手く声が出なかった。
「……ギードルゥク」
「ぎ、ぎぃ、ど、るーく? 不思議なお名前ね」
「うん、まあね」
自分でもなんて愛想のない返事だと思ったから、できるだけ柔らかく見えるように笑った。
でもカミルはちっとも気にしていないようで、きらきらした目を俺に向けてくれる。
「ねえ、あなた、とっても珍しい髪。夜の空の色ね。とっても綺麗よ」
そんな風に言われたのは初めてだった。鮮やかな色彩の髪を持つみんなと違う自分の髪を初めてそんなに卑下しなくてもいいのではないかと思えるほどには嬉しかった。
けれど、そんな幸せは一瞬にしてかき消される。年長の子が俺と話しているカミルに気づいて駆け寄ってきたのだ。
「カミル。その子は神の子だから、用事がない時にみだりに話しかけてはいけないのよ」
カミルは何を言われているかわからない、という風にきょとんと首を傾げている。
「用事ならあったわ。髪の毛が素敵ねって言いに来たし、あとお名前も聞きたかったの。だって、ここにいるのはみんな家族よって、言ったじゃない」
「あのね、カミル。ギードルゥクは特別なの。ギードルゥクに話しかける用事っていうのは、もっとすごく大変な用事の時なのよ。魔物が出たとか」
「どうして魔物が出たらギードルゥクに話すの?」
カミルが驚いたように問いかけたけど、その子は答えにくそうに顔を顰め、それから俺の方を見て頭を下げた。
「ごめんなさい、ギードルゥク」
「いいえ」
何にも気にしてないから、もっと何でもない時に話しかけてくれてもいいんだよ。なんて言えもしないことを思う。
いつもなら仕方のないことだと心の中でため息を一つ吐いて諦められるのに、俺から離れるカミルが名残惜しそうにこちらを見ていて、少しだけ欲が生まれた。
その考えに気がついた瞬間、俺の足は動いていた。一人の先生の元へ行き、俺は急ぐ心をなんとか宥めながら尋ねた。
「先生。俺のことを、十歳くらいだと前に言いましたよね?」
「ええ、あなたがここに来た時、確か六歳くらいだろうと言われて、四年が経ちますから、あなたは十歳くらいだと思いますよ。ギードルゥク」
「それならば、もうきょうだいを作っても、いいのではないでしょうか? もうみんな下の子を大切にする年です。俺もできると思います」
少しくらい、ほんの少しくらい、俺もみんなと同じだと思えるようなことがあってもいいじゃないかと欲が出たのだ。
先生は困ったように微笑んでいたけど、俺はどうしても引きたくなかった。
「ギードルゥクは魔物から私達を守ってくれているのですから、これ以上お勤めを増やすことはできません。疲れてしまうでしょう?」
「いいえ、先生。俺は大丈夫です。最近では怪我もあんまりしないし、下の子の面倒も見れます。俺はもっとお勤めができます。先生、カミルを俺の」
「ギードルゥク」
ひどく唐突に先生の声が低いものへと変わり、ドッと冷や汗が吹き出した。
「先生は間違ったことを言っているかしら?」
いいえ、と震える声で言った。なんてことをしてしまったのだろう。俺にはここしかないのに。ここなら平和に生きていけるのに。欲なんか持つ方が馬鹿だ。
捨てられたらどうするつもりだ、馬鹿野郎。
「ごめんなさい、先生」
「ギードルゥクは神の子なのだから、ちゃんと先生の言うことが聞けるわよね?」
「はい、先生」
まだ怖い顔をしたまま先生は静かに頷いた。
「では、自分の部屋に戻りなさい。ギードルゥク」
はい、と頷いてゆっくりと廊下を歩く。みんなは何人かで同じ部屋を使うけど、俺は一人だ。そんなところまでもが俺はみんなと違う。
仕方のないことだ、俺は特別なのだから。そう思わなければ、苦しくて仕方なくなる。
早く部屋に帰ってしまおうと思ったのに、外に繋がるドアの辺りで誰か見知らぬ大人二人と先生が言い合いをしているのが見えた。
「ですから、私たちにはあなた方のような得体の知れない人間の手助けなど必要ありませんと言っているんです!」
「そういうわけにはいきません。魔力持ちの人間が従わせようとした魔物が暴走してこの辺りで暴れているんですよ。未だ捕獲できていない状況で、あなた方を放って置けるわけがありません」
「だったら、早く捕まえればいいでしょう!」
暗い髪色と明るい髪色をした二人の人が先生に大声で叱られているようだった。髪が黒い方のここらでは見ない姿になんだか親近感が湧いて、つい見入ってしまう。
その時、先生がこちらに気づいた。叱られるかも、と体を固くしたけど、むしろ喜ばれたようだった。
「ちょうどよかった。ギードルゥク、こちらにいらっしゃい」
手招きされてそちらに行くと、二人に向けて俺を突き出すようにされた。
「この子が魔物から私達を守ってくれます。この子はギードルゥク、神の子なのです」
「……つまり、魔力耐性持ちということですか?」
「ええ、あなた達のような下界の言葉に合わせれば、そうなりますわね」
つん、とした先生の言い分にも二人はちっとも動じていなくて、一人なんか俺の目線に合わせるように屈んできた。
「君、一人で魔物と対峙してるの? 危ないことはない? 怪我は? ちょっと話をしても」
「うちの神の子に近づかないでください!」
先生がそう言って俺をぐいと後ろに引き寄せた。
「そもそも、あなたたちのような者に、どうして暴れる魔物をどうこうできますか!」
先生の目は二人を見下しているようにも嘲っているようにも見えて、神に祈る穏やかさとはほど遠かった。
「若く見えて不安かもしれませんが、こう見えて二十ですので、ご心配なく。それより、こちらの少年と少し話を」
「結構です!」
「そう言われましても、居させてもらうことになりますよ。あなた方を見殺しにはできませんので」
多少苛立った様子を隠すことなく、その人はきっぱりと言い切った。
「それが魔狼群の仕事ですから」
二人は先生たちがいくら追い返そうと頑として居座った。みんなの中でもざわめきが広がったけど、素知らぬ顔をしている。心が強すぎる。
何より先生たちも文句は言うものの、「国からの依頼でもあります」と言われると強くは言えないようだった。
「私達は遠からずこの地を去ります。他の場所で魂を鍛え直すのです。だからあなた方の助けはいらないと言っているのに」
先生の言葉を聞きながら、そういえばもうそんな季節かと気づく。幾つか保有している建物に移り住むのだ。前に使ってから何年も使われていない建物は片付けが大変だけど、それもひっくるめて大切なことらしい。
移動の時には魔物に気を付けないといけないため、俺の心は少しも安らがないが、まあ仕方のないことだ。
二人はふむふむと先生の話を聞いた後、不思議そうに首を傾げた。
「その予定を早める気はありませんか? この地にいつまでもいるのは危険です。場所を変える予定があるのなら、一刻も早く移動するべきです。普段でも魔物が多いでしょう? 子ども一人で対処できることではありませんよ。移動するのであれば、魔狼群が守りながら動くことも考えて」
「結構と言っているでしょう!」
ぴしゃり、と言い放たれてもその人たちは「そうは言われましてもね」と引き下がらない。
ぺらぺらとよく喋る人とどちらかというと静かな二人を離れたところで見る。あんまり近いと話しかけられてしまうのだ。
大丈夫かとか怪我がとか保護とか色々言われるけど、先生にはなるべく関わらないようにと言われているからちゃんと従っている。
俺がいるべきなのはこの場所だから、誰になんて言われようと離れる気なんてない。
「ギードルゥク」
不意に名前を呼ばれた。高くて幼いその声が誰のものかすぐにわかって、パッと振り返る。そもそも俺に話しかける人なんて数えられるほどしかいないのだから。
「やっと話しかけられたわ。みんな、ギードルゥクと話しちゃだめって。おかしいわよね」
カミルが周りをきょろきょろと見回しながら俺の元に駆け寄り、一息にそう言った。
「だって、ギードルゥクは家族なのに」
にっこりとした笑顔と共に言われた言葉がどれほど嬉しいかなんて、きっとこの子にはわからないだろう。
俺は本当に嬉しかったのだ。この子のためにこれからも頑張ろうと思えるほどには。
もしこの先、怪我をしようと腕が取れようと死ぬことがあろうとも後悔しないだろうと思うほどに嬉しかった。
「カミル!」
俺の幸福はまたもすぐに奪われる。俺と同い年くらいの子がカミルの手を後ろからぐいと引いた。
「だめって、言ったじゃない。この子に話しかけちゃだめなのよ!」
「どうして? ただ、ちょっとお話ししてただけなのに」
「それがだめなのよ! この子は普通じゃないの、みんなとは違う! 家族なんかじゃないの!」
その言葉にどれだけ俺が傷ついたかなんて、この子にはきっとわかるはずもないんだ。
一瞬、申し訳なさそうな顔をしたその子はそれでも俺から目を逸らして、嫌がるカミルの手を引いてどこかへ行ってしまった。
俺は動くことができなかった。それほどにショックだったのか、といわれると少し違う。
わかってたよ、最初から。みんなは優しいから言わないけど、普段はそんなこと言わないけど、でも心の中で俺は家族だと思われてないのかもしれないって。わかってたよ、でも、ずっと頑張っていたら、いつか家族だって思ってもらえるかもって、ずっとずっと夢見てたんだよ。
わかってたよ、でも、夢見るくらい、自由じゃないか。ずっと神に尽くしてきた俺はどうしてそんな幸せも貰えない?
「大丈夫?」
立ち尽くしていた俺に不意に声がかけられて、そこには心配そうな顔をした魔狼群とかいう例の二人がいた。
「ごめんね、聞くつもりじゃなかったんだけど」
「……つもりがなくても、聞いてたなら同じじゃないんですか」
「そうだね、ごめん。ねえ、聞いていい? いつもあんな感じなの?」
こちらを見透かすような濃い色の瞳に、俺は咄嗟に首を振った。
「違います! 今日のは、たまたま……俺がカミルと話したから。本当は話しちゃだめなのに」
「誰とも親しく話したらだめなの? 君、怪我もしてるよね。一人で魔物と戦ってるんでしょう? もっと酷い怪我をしたこともあるんじゃない?」
たくさんの質問に頭が回らなくなって、ただ否定ばかりを繰り返す。
「怪我をしたのは俺が未熟な神の子だからです! これからもっともっと強くなって、みんなを守ります。大丈夫です。先生たちは悪くありません!」
俺の言葉にあからさまに眉を寄せられて、カッとなって言い返す。
「先生たちは優しいです。食事もくれるし、服もくれる。いろんな物をくれるし、それに文字も教えてくれます。屋根のある場所で眠れて、名前を呼んでくれるなんて、すごいことなんです。そんなことをしてくれる大人は今までいなかった。先生たちだけです。先生たちは悪くない!」
「……君の置かれていた環境がとても酷くて、先生たちがそこから救ってくれたように思えるのはよくわかるよ。でもね、保護者が子どもに安全な生活を保障して教育をするのは当たり前のことなんだよ」
何を言われているかはよくわからなかったけど、でもその目が適当なことを言っているわけではないことを物語っていて、どう答えたらいいのかわからない。
「何かと引き換えにもらえるものじゃない。脅されたり怖がったりしながら、感謝して受け取るものじゃない。それは大人の義務なんだから。当たり前のことなんだから。君は子どもで、守る立場ではなく守られる立場にあるんだよ」
違う、俺は守る側の人間だ。みんなを守らなくてはいけない。確かに先生は大人だけど、俺じゃないといけないんだ。でも、この人たちも先生を守りたいと言っていて、わざわざ断って俺に任せるということは、だから、それは……
「そんな風に張り詰めた顔をして、心も体も傷つけて、無理をする必要がない場所がこの世にはあるんだよ。君が傷つけられて仕方ないなんて思うことはないんだよ」
「望むのなら、君を迎え入れることもできる。魔狼群ならば、たとえどれほど力があろうとも、守られるべき子どもにその力を使わせることはない。大人になったとしても、使いたくなければ使わなくていい。たとえ力があろうとも、使いたくないのなら使う必要はないんだ」
ずっと黙っていた明るい髪色の人が俺を真っ直ぐに見つめてそう言った。
「君にはありのままで生きる権利がある」
力がある俺にはみんなを守る使命があると言われて生きてきて、すぐにその言葉を信じられるわけもなく、俺は逃げるようにその場を立ち去った。
夜になっても俺は寝付くことができなかった。あの二人の俺にかける難しいけど柔らかな言葉が心から離れなかった。
そして俺は悩んだ末にベッドから抜け出した。ほんの少しでいい、先生におやすみの一言でも俺だけに向かって言ってもらえれば、何も迷わずにまたいつもの生活に戻れるのではないかと思ったからだ。
ひっそりと静まり返った廊下を歩きながら、俺は自分の頭にそっと触れた。
一度だけ、寝るまで一人の先生がそばにいてくれたことがある。ベッドの脇に座り、俺の頭を撫でてくれたのだ。
俺が魔物と戦って一番の大怪我をした時のことだ。こうして生きていることは先生たちの看病のおかげだ。「私達が無事でいられたのは、あなたのおかげよ。ギードルゥク」と言いながら優しく微笑まれたあの夜、俺はこの人たちに全てを賭ける価値があると思ったのだ。
先生たちの寝室を尋ねるより先に、広間に明かりが灯っていることに気がついた。
そっと中を伺うと、先生たちと二人が別れて向かい合い、話し合っているところのようだった。
「最後の一体がこの森で暴れているとの情報が入ってきたんです。あなた方は一刻も早く避難を」
「そんなことを指図される筋合いはありません」
「この人数ですから、少しでも早く離れる必要があるんです。これはおそらくですが、暴れている魔物は、魔狼かと思われますし」
躊躇った上に発せられた言葉に、先生が鼻で笑うのが分かった。
そういえば、どうして魔物と戦っている二人が魔物の名前を名乗るのだろう。
「そもそも、あなた達に何ができるというのです。そんな細腕で、魔物が倒せるものですか。あなた達は、いいえ私達は、前に出ることなど考えず、大人しくしていればいいのです。どうしてそんなに出しゃばるのです! 目立ちたがりにも程があります!」
女の人ばかりの先生たちはそれぞれに頷き合っていた。
そんな中、俺と同じように黒い髪をしたその人は悲しそうな顔をする。
「わかりません。それは自分達をも傷つける言葉にはなりませんか? どうしてそんなに己の可能性を全てかき消してしまうのですか? この腕で戦えるかどうかは、前に出るかどうかは、自分で決めることです」
「あなた達は私達を馬鹿にしている!」
一番年長の先生が悲痛な声をして叫んだ。
「みんなそうです。外の人間はみんなそう。私達が信じる神をも侮辱して」
「そんなことはしていません。誰が何を信じようと、どの神を信仰しようと、それは自由です。ただそれに子どもを巻き込んではいけない。それだけです。守るべき子どもを」
「失礼な! うちの子達は皆、行く場のない孤児です! 面倒を見ているのは私達なのに、巻き込んでいるなどと」
その瞳に怒りがこもる瞬間が、俺は遠くからでもはっきりとよく見えた。
「そんな話はしていません! あなた方がギードルゥクと呼ぶ、あの少年の話をしているんです! あの子を騙していることも、いいように使っていることも、分かっているくせに、どうしてそんな風に平然としていられるんですか?」
突然出てきた自分の名前につい中に入りそうになるほど動揺してしまった。先生たちがどう答えるのかと思うと、息が浅くなってしまう。
先生はいっそ小さな微笑みすら浮かべていた。
「あの子が望んでしていることです」
「そう仕向けたのはあなた方だ!」
「いいえ、私達は神の仰る通りにあの子を家族の輪に入れただけです」
その言葉に一瞬、心が浮上する。怒りの込められた叫びが聞こえるまでは。
「肌が浅黒く、髪の黒い、男の子である、あの子をですか? あなた方の信じる神が人間扱いをしない、自分達の家族ではないと言い切る子どもをですか? その証拠にここにいるのはほとんどが肌が白く髪の色も鮮やかな女の子ばかりだ」
「……男の子もいますよ」
「ごく少数の男の子達が、ギードルゥクがいない間は魔物のおとりにされているという話を聞いているんですよ」
知っていてなお、明確な証拠がないためにあなた方を捕まえることができないだけだと怒りを押し殺そうとするような声で告げる。
「それがなんだと言うのです」
先生は少しも動揺した様子を見せなかった。その冷酷とすら思える言葉に、狼狽えなかったかといわれれば嘘になる。
「あなた方のそれは、ずっとあなた方の身を案じて守ろうとしている、私への侮辱にもなるということがわからないんですか?」
彼女の黒い髪と黒い肌が先生の目にどう映るのだろうかと、その時初めて思った。
「あなたがどう思おうと、私はあなたを助けようとしている。誰にも傷ついて欲しくないんですよ。どんな罪を犯そうと、それが理由で見捨てることはありません。ここには他にも子どもがたくさんいる。私の気持ちが本当だということ、それはあなたも分かっているでしょう」
しばらくの間、その場に沈黙が流れて、俺すら息ができないほどだった。
けれどそれは、たった一言で打ち砕かれる。
「ユーリ」
何かに気づいたように顔を上げ、月の色の髪をした彼女が夜の色をした彼女を呼んだ。
「多分、近くに魔狼がいる。私が行くから、ユーリは残って」
「いや、魔狼相手に一人の方が危険だ」
鋭く首を振ったかと思うと、ちらりと先生の方に視線を向けた。その人の頭はもう先生たちのためではなく、外にいる魔物のために使われているようだった。
「避難していただけないようですので、ルカと私は行きます。できれば一箇所に集まって隠れてくださると嬉しいのですが、無理強いはしません」
そう言ったかと思うと、二人はドアに回る時間も惜しいのか、窓を豪快に開け放ったかと思うとそこからひらりと外に躍り出た。
いつのまにか外では雪が降っていたようで、ちらほらと粉雪が部屋の中を舞った。
俺の足は考えるより先に一歩踏み出していて、小さな足音にハッとしたように先生たちがこちらを見た。
「行きます」
その声は震えてはいなかったろうか。あの二人が危険だというものに対して怯えがないといえば嘘になる。
「俺が行きます。行けます。あの魔狼群なんかに頼らなくても、俺はやれます。俺がみんなを護ります。先生、どうか」
それでも、俺には行かないという選択肢はない。だって、先生たちしかいないんだ。先生が助けてくれたんだ。だから、俺ができることをしなければ。
「ギードルゥク。それでこそ、神の子です」
先生の柔らかな笑顔を見て、これでよかったんだ、間違ってなかったんだと息を吐いた。
怖がる心も体も無視してしまえば、どうということもない。
森の中を走ると、指先の感覚がなくなるほどに冷えた夜だった。
冷たい手に息を吹きかける時間を惜しく、俺はあの人たちよりも先にという気持ちだけで走った。
不意に鼻を掠めた血の香りに警戒するよりも心が急いでしまう。いつもなら何か手に持つものを無意識のうちに探しているのに、そんなことをする気も起きなかった。
早く、早く、早く。取り憑かれたようにそればかりを思って、目の前に突然現れたその巨躯に咄嗟に反応ができなかった。
血がこびりついてなお、鈍く輝く銀の毛並みが目に痛いほどで、怪我をしながらも依然として四肢を地面から離さないその様に心より先に体が恐怖を覚える。
魔狼、というものを初めて見た。今まで俺が戦ってきた魔物は全てか弱い生き物だったと錯覚してしまうほどに、魔狼という生き物はこちらの戦意という戦意を削り取るような巨大な威圧感を持ってそこに存在した。
殺さなければ殺される。殺さなければ……
そんな思考が一瞬、頭の全てを占めた。絶対に動けない勝てない逃げろ、そう思うのに体はいつものように魔物を排除しろと動くのだ。
拳も蹴りも魔狼の毛皮を掠めるばかりで、まるで攻撃になどなってはいなかった。
鬱陶しそうに首を振る魔物の風圧だけで容易く己の体が吹っ飛ぶ。
殺さなければ、ともう一度思ってハッとする。それは許されないことなのに、考えてしまった俺は本当に神の子だろうか。それは汚らわしい考えではないのか。生き物の命を奪うなど。
ああ、俺は、みんなとは違う。同じになれない。こんなにも俺はみんなと一つになりたいのに。
ぽろり、と涙が溢れた。いつぶりだろうか、泣くなんて。泣いたって人生はどうにもならないから、いつからか泣かなくなっていたのに。
歪む視界の中でも魔狼は凛としてそこにあった。ああ、こんなにも気高く美しい生き物がこんな冷え切った森の中、どうして血を流しているのだろう。
「お前もひとりなのか?」
思わず問いかけるような言葉が零れていた。
その瞳に微かに知性のようなものが宿るような気がしたのは、俺の幻覚だろうか。
「俺も、ずっと、ひとりぼっちだ」
そうではないと心に言い聞かせて、けれど俺はずっとひとりだった。誰からも受け入れてもらえず、上辺ばかりの優しさに喜ぶフリをして、なんにも気づかない子どものような顔をして、そうしてずっとひとりぼっちだった。
かじかんだ子どもの手を俺は目一杯に広げて見せた。
「俺を殺したいなら、殺してもいいよ」
唸る魔狼がなんて言っているのかなんて、俺には分からない。
俺にわかっていることは、もう先生たちの元には帰れないという事実だけだ。
「その代わり、俺をその腹に飲み込んで、絶対に出さないで。もうひとりにさせないで」
もうひとりぼっちは嫌なんだ、という俺の駄々に魔狼がどんな答えを出したかはわからないままだ。
ヒュン、と風を切る音が聞こえ、一瞬のうちに目の前の魔狼に矢が深く刺さったからだ。
駆け寄ってくる二人の人影と担がれた弓に何もかもを察した。どうやら俺の望みは叶えられない運命にあるらしい。
「大丈夫。眠っただけだから」
どさり、と倒れる魔狼をぼんやり見つめていると、背後から安心させるようにそう言われた。
「先生達に言われて出て来たの? 怪我はしてない?」
膝をついて目線を合わせられる。俺と同じ色で違う深みをした髪をしばらく見つめ、少ししてずっと俺の言葉を待っていてくれていると気づく。
「倒せなかった。なんにも、できなかった。もう、帰れない。帰れない」
「君は帰りたいの?」
淡々とそう尋ねられて、俺はなんて答えればいいのかわからなかった。
帰りたいのか、帰りたくないのか、そう問われれば帰る場所はあそこしかないと思うけど、でも、わかってる。別に先生たちは俺じゃなきゃだめだなんて思ってないって。
俺は先生たちがいいけど、先生たちは俺じゃなくてもいい。神の子なら誰でもいいんだ。わかってる。わかってるよ、でも。
「先生は、俺を、愛してるって、言ってくれたんだ」
わかっていても、どうしようもなくそれが俺の全てだった。
「じゃあ、君が生きていてくれるだけでいいと、私達が言い続けるよ」
そう言って俺の体が汚れていることなんて気にもせずに抱きしめてくれた。
温かな体が冷えた体と心に染み込んで、柔らかくて不確かな愛を求める俺にはいっそ暴力的なほどの熱だった。
「これから、たくさんお互いのことを知ろう。そして君が自分の人生を歩いて行けるようになるその日まで、私達は君を守り続ける」
俺たちを黙って見つめていたらしいもう一人もそっと地面に膝をついた。
「君が生きていてくれるだけで嬉しいんだよ」
そんな優しい言葉がこの人から出てくるとは思ってもいなくて、けれどその目は嘘をついているようには見えなかった。
それから俺は背負われてこの場所を後にした。うつらうつらとしながら揺られ、俺はもう神の子じゃなくなるんだなと思ったことだけは覚えている。
俺は魔狼群に迎え入れられ、二人は俺の保護者になった。そしてあの眠らされた魔狼もここに引き取られたと聞き、俺はあえて伏せられているのであろうことを口にした。
「先生は、みんなはもう、次の土地に移ったの?」
「……そう聞いているね」
「俺のことは、一言も尋ねなかった?」
眉が微かに寄せられ、口は言おうか言わまいかと躊躇っていた。それが俺はいらなかったということの証明だった。
「二度とあそこで君のように魔物と対峙するためだけの子どもがいないようにする。何があっても魔狼群が護衛を向かわせるよ」
先生が優しく微笑んでくれた時のことを思い出す。頭を撫でてもらったこともあるし、冷えた頬を手のひらで包んでくれたこともある。家の中の場所をなかなか覚えられなくて迷っていた俺に年長の子どもが丁寧に教えてくれたこともあった。先生が俺の手を握って文字の書き方を教えてくれた時だってあったし、いつだって先生たちは俺に優しかった。
それらが全部、俺に戦わせるためだとはわかっていても、ひとかけらも愛がなかったと思うにはみんな嘘が上手すぎて、俺の心は幼すぎた。
気がつくと俺の口からは嗚咽ばかりが漏れていて、今までにないほどに泣き喚いていた。
なんで、どうして、あんなに頑張ったのに、どうして、どうして俺のことを気にかけてくれない、どうして愛してくれないの。
何度何度何度叫んでも、先生たちはもう俺を抱きしめてなどくれないと知っているのに、性懲りもなく寂しくて悲しくていけない。
「いっぱい泣きな。我慢することなんてない。泣きたいだけ泣けばいいよ」
泣き叫ぶ俺を抱きしめながらそう言ってくれた。言われて初めて、その言葉が欲しかったのだと気づいた。
あやすように何度も背を撫でられ、泣き疲れた後にごしごしと顔を拭われた。
「……俺は二人をなんて呼べばいい?」
泣いてしまったことが気恥ずかしくて、目を逸らしつつ小声で尋ねた。
「好きに呼べばいいよ。呼びたいように呼びな」
「……ユーリとルカ、とか?」
「おお、いいじゃん。ていうか、私達の名前ちゃんと覚えてたんだ。嬉しい」
そんな小さなことでこんなに笑ってもらえるなんて思ってもいなくて、さんすら付けない呼び名でいいのかという驚きもあった。
ユーリはきらきらした目を俺に向けてきた。
「私達はなんて呼べばいい? ていうか、名前どうする?」
「どう、って?」
「昔の名前は覚えてるの? それともギードルゥクだけ? 変えたければ変えてもいいし、そのままがいいならそのままでいいよ」
そういう選択肢が用意されるとは思っていなくて、目まぐるしく見せられる未来の多さに瞬きをした。
「ルカは自分で、というより私と二人で考えた名前で、私は色々あったけど最初の名前と変えてない。だから好きにすればいいよ。名前って大事なものでもあるけど、一生ひとつきりにしなきゃいけないなんてこともないんだから」
私も変えたくなる時が来たら変えるし、とユーリはあっけらかんと言った。
「それもすぐに決めなくていい。ゆっくり決めたらいい。でも、ずっと君って呼びかけるよりは仮でも名前が欲しいから、しばらくはギィでいい?」
ルカが淡々とそう言って、それはギードルゥクから取ったのだろうかと首を傾げた。
「え、それルカが考えたの?」
「悪い?」
「いや別に悪くはないけども、かわいいとは思うよ?」
ユーリが笑うから、ルカが少しムッとしたような顔をして見せた。この人もこんな顔をするのか、と少し驚く。
よく考えてみれば表情を変えることだってあるだろう。今は仕事中でないわけだし。
そこまで思って、俺はこの人たちの日常に入っているのかと思うと不思議な気分で、けれど嫌であるはずもないのだ。
俺は二人のことがとても好きだと心の深いところで思ったし、きっとこの人たちは俺を捨てないだろう、先生たちとも違うだろうとも思った。
けれど、どうしてだろう。頭では分かるのに、心は時折ひどく不安になって、自分でも躊躇うほどに俺はめちゃくちゃになった。
なんの前触れもなく癇癪を起こして喚くことがしょっちゅうあって、二人はさほど驚かずに俺に付き合ってくれた。
もう子どもじゃないんだから触るなと言ってしまう時もあれば、幼い子どものように甘える時もあって、我ながら情緒が安定していないと頭の隅では思った。
けれど、なんというか波のようなものがあって、こうしたいと思ったらわあっとなってその通りに動いてしまうのだ。
ユーリもルカも必要以上に大きなことと捉えていないようなのが救いだった。二人とも仕事が忙しいようだったけど、できるだけどちらかは俺のそばにいてくれて、二人とも一緒にいてくれることも多かった。
ユーリのよく喋る声は心地よく、ルカのぽつぽつとこぼされる言葉は耳を傾けたくなるものがあった。
そんな生活が続くうちに少しずつ、少しずつ俺の心はなだらかに和らいでいくようだった。
神の子からただのギィに少しずつ変わっていくようで、その変化は時折怖くありつつも、受け入れたいと思っていた。
多分、俺は二人を無意識のうちに試していたのだと思う。二人は本当に俺を愛してくれるのか。どんなことをしても見放したりしないのか。絶対に俺を捨てたりしないか。
きっとそんなことはない。きっと大丈夫。そう信じられるようになってきて、それでも心の奥に居座る不安と少しの甘えたい心が一番のわがままを言った。
何日も前から、どうしても二人で行かなければいけない大切な仕事があるから待っていてくれ、と言われていてその日になって俺は言ったのだ。
「行かないで」
二人は驚いた顔をして、俺はごめんと謝ってから行くかな、と思ったのだけど二人はなぜか笑って「いいよ」と言った。
きっと他の人に頼むのは大変だったろうに、仕事を代わってもらってずっと俺のそばにいてくれた。
夜、俺たちは三人で眠った。二人の温もりに挟まれて、優しい昔話を聞いたのだ。
「昔々、魔物に近づいても、少しも苦しくならない子がいました。その子は大きくなるにつれ村に居づらくなり、一人で他所の村に移り住みました。同じ頃にその村にもう一人越してきた人がいました。二人は同じように魔物に近づけることで人々から浮いた存在であり、そのことに気づいた二人はようやく分かり合える人ができたと喜びとても仲良しになりました。けれどその村でも怪しいと言われ、長い間住むことは叶いませんでした。二人は手を取り合い山へと逃げることにしました。そうしてその山の中で出会ったのです。気高く美しい魔狼に」
薄い毛布をかけた腹の上に置かれた手がやわやわと眠気を誘うように俺を撫で、けれど話が聞きたくて、この甘くしあわせな時が終わるのが惜しくて、俺は必死に目を開けていた。
「魔狼は人の言葉を操る知性のある魔物でした。人と魔狼はそこで初めて手を取り合うことを、共に生きることができることを学びました。それが始まりだったのです。そうして魔狼群ができました」
「……それが、最初?」
「そう。それから魔力耐性持ちの人だけじゃなくて、魔力持ちの人や他にも生きづらい人や入りたいと思う人、来るもの拒まずで受け入れて、そうして今は君も私もルカもいて、みんなひっくるめて魔狼群なんだよ。私達、魔狼のように仲間を大切にして上を見上げて少しでも良くあろうとして生きていく群れなんだよ」
それは、もうひとりぼっちじゃないんだよ、と伝えられたようで、きっと俺が眠っても、俺たちが離れていても、もう独りではないんだと心の奥底で納得した。
うちの国の魔狼群本部はかなり広くて、俺もそれなりに長くここにいるけど、まだ全ての場所の把握はできていない。
それでもかなり早い段階で覚えたうちの一つがここ、魔狼たちの暮らす場所である。魔狼群の魔狼は人間に関して好印象を持つものしかいないが、それでも来ることのできる人は制限されている。
まあ、魔力耐性ない人がうっかり近づいて体調でも崩したら大変だもんな。
俺は結構前に許可が出ているし、ユーリたちがいない時でも来ていいことになっている。
俺が定期的に来たがるのは、あの時森で出会った魔狼に会えるからだ。
「お前が子どもだったなんてなぁ」
最初に会った時より随分と大きくなった魔狼、ルキオンと目を合わせながら言う。
あの時既にめちゃくちゃでかい印象があったのだけど、魔狼の成長度からするとまだまだだったようで、ここに引き取られてからもすくすくと育ち続けている。
「ギィ、ユーリ、タチ、ハ?」
最近はこうして喋るようにもなっており、最初は本当に子どもだったんだなと思わざるを得ない。
本人に許可を取ってからもふもふと成人した魔狼よりは柔らかな毛並みを堪能しつつ答える。
「なんか最近、色々と大変らしくて、バタバタしてるんだよ。なんて言ってたっけ。あんま仕事のことは詳しく聞かないんだけど、魔物を操って村を襲ってる集団がどんどんこっちに近付いてるとかなんとかって。魔狼群狙いなのかはわかってないんだけど」
わかってるのかわかってないのかよくわからない顔をしたルキオンの首元をわしゃわしゃと撫でながら言う。
詳しく聞かない、というよりもユーリの話が要領を得ないことが多いというのが主な理由だ。ルカは話そうとしてくれるのだけど、擬音が多すぎて何が言いたいのかよくわからない。
二人とも保護者として申し分ないと思うし、保護者を変えることも可能だからとは言われているが、そのつもりは毛頭ない。
だけどそれはそれとして、二人がわりと抜けていたり、ずぼらだったり、放って置いたら何をするのかわからないタイプだということも把握してきた。
ユーリはソックスを左右逆でも気にしないタイプだし、とんでもなく捻れた髪の結び方をしても気にしない人だし、ルカはルカでそれに気づきながらもぼけっとして指摘しない。正直、最近では俺の方が「なにしてるんだよ!」と口を挟むことが多い。
いや別に嫌ではないからいいんだけど、俺が来るまでそれで仕事してて何にも言われたなかったのか? と思うと薄寒いものがある。というかルカは言えよ、気づいてんだから。どんなユーリでもユーリだから、じゃねえんだよ。半分惚気だって最近はわかってるんだからな。
「まあ、早く解決したらいいなって思うよ。忙しそうだから、あんまり一緒にいられないし。いや、時間は取ってくれてるんだけどさ」
俺がそう言いかけた時、ルキオンが不意に眼差しを鋭くして、顔を上げ小さく唸った。
「ルキオン? どうした?」
気がつくと、ルキオンだけでなく遠巻きに俺たちを見ていた魔狼たちも体を起こしている。
どうしたんだろう、とぼんやり思っていた俺の鼻に懐かしい血の香りが掠めて、一気に昔の勘が蘇る。
何かあった、と気づいても飛び出してはいかない。今と昔は違うから。それに今は、俺が守るべき人はいない。
「ギィ、ウシロ」
ルキオンに言われて、うんと頷いて下がろうとしたのだ。逆らう理由なんてないから。
魔狼はとてもしっかりしているし、たとえここに他の魔物が紛れ込んでも対処してくれる。俺は隙を見て建物に逃げればいいし、もし魔物の姿が見えたら報告することだけを考えればいい。
そういたって冷静に考えていたのだ。魔物より先に人の姿が見えるまでは。
「ギィ!」
気がついたらルキオンに止められるのも聞かずに飛び出していた。
俺より少しだけ小さな体は間違いなく子どもで、何かあったのだと察するには簡単すぎた。
「大丈夫か? 何があった?」
駆け寄りながら尋ねつつ、近づくにつれてその子どもの異様な様子に気づいていく。
両手が後ろで縛られているのだ。なおかつ片足からは酷く出血していて、立っているのは一方の足のみなのにふらつく様子もなく真っ直ぐに大地に立っている。
その目は暗く、どこも見てはいないようで、昔の俺を思い起こさせる少年を放って置けるはずもない。
「もう大丈夫だ。一緒に行こう。大丈夫だから」
考える先に口がそんな言葉を発していて、俺はその身体に手を伸ばしていた。
肩に触れた途端、異様なその熱に気づく。瞳に僅かに光が宿り、次の瞬間にはどさりと倒れ込んでいた。
「大丈夫か?」
ギリギリとはいえ抱き留められたのは昔の反射神経がさほど衰えていないからだとホッとする。
怯える子どものように身体を丸めるのをどうしていいかわからず見つめていると、視界の端におよそ魔狼ではあり得ない魔物が飛んでくるのが見える。
ずっと待機していたらしかった魔狼がそれらに飛びかかり、無茶な動きも無駄な甚振りもせずに速やかに動かないように押さえつけた。
「やめて、もう、やめて……」
大丈夫だよ、と俺が何度言っても彼は聞こえてなどいないように怯えていた。
この紐を早く解いてあげた方がいいだろうけど、堅く結ばれているし下手に触ると皮膚を痛めてしまいそうだった。誰がこんな酷いことを。
それより先にルキオンに頼んで誰か呼んできてもらうか、もしくは運んだ方が早いかもしれない。
善は急げ、と怯えて硬くなった身体をどうにか抱き上げようとしたその時、魔物が俺たちに一気に距離を詰めた。
「殺したくない」
俺が動くより先に彼は悲痛にその言葉を発して、それから今までの様子はどこへ行ったのだと言いたくなる機敏さで立ち上がり宙を舞った。
人はこんなにも高く飛べるのか、と俺は口を開けて閉じることさえできない。
その背中に一瞬、空を飛べる翼が見えた気さえした。彼は自由になる片方の足で自分の身体より何倍も大きな魔物を蹴り上げ、瞬く間にそれは吹っ飛んだ。
もういい、と俺の口から勝手に言葉がこぼれる。もういい。もういいから、やめてくれ。
殺したくないというのが切実すぎる本心だと俺にはなぜかわかっていて、彼がぐるりと回るように飛んで、小さな魔物を蹴ろうとした時、咄嗟に叫んでいた。
「蹴るな!」
彼の身体は不自然に揺れて、その足は何も壊すことなく、だらりと力が抜けて地面に落ちそうになる。
寸前のところで受け止めたけど、腕が軽く悲鳴を上げるのがわかる痛さだった。
小さな魔物を消して殺さないように、と意識しながら捕まえる。動かないようにすればいい。傷つける必要はない。
昔のようにやったらやりすぎになってしまうから、俺は十分の一くらいでいいと自分に言い聞かせる。
そして片手で彼を抱き寄せながら背中をあやすように撫でる。
「大丈夫、大丈夫。そんなことしなくていい。殺さなくていい。お前がそんなこと、する必要ないよ」
俺が彼だったらなんて言われたいかな。昔の俺がこうだったら、どう言われたら安心するかな。
そんなことを思ってずっと柔らかい言葉を口にした。とんでもない状況だというのに心は不思議と穏やかで、どうしてユーリたちは俺が暴れても平然としているのだろうと思っていたが、こんな気持ちに近かったのかな、なんて思う。
彼は身体のほとんどから力を抜いていたけど、人差し指が甘えるように俺の服に引っ掛けられていて、それは魔狼たちに呼ばれて大人たちが駆け込んでくる時まで続けられた。
それから本部ではそれはもうバタバタと色々あったようなのだけど、全貌を知るのは先になる。
俺は熱にうなされる彼の隣にいることの方がよほど重要だったからだ。
俺がそばにいる時はわりと素直に寝ているのだけど、離れるとベッドから転げ落ちたり部屋の隅に行こうとしたりと忙しないので、一緒にいる他ない。
「安静にして身体の調子整えることに集中するしかないって」
お医者さんから聞いたことをユーリが繰り返して言っていた。ちなみにユーリは怖がられているので、あんまり近くには行っていない。ユーリは、というと語弊があるな。背の高い大人は大抵怖がられている。
その点、ルカはそうでもなかった。小柄だし静かだし、なんとなく幼い雰囲気があるからだと思う。
俺は全然だし、むしろなぜだか知らないが一番懐かれているので看病を買って出ているのだが、無理はするなとユーリたちに大変心配されるので適度に頑張っている。別に何かの病気というわけではなく、ひどい傷とストレスからくる熱だそうなので、俺がそばにいても移る心配がないからというのもあるけど。移るならきっと一発退場だった。
まあ、俺だけでどうにかできることでもないし。ずっとこいつがここにいんのかもわかんないし。俺としてはいてくれてもいいけど。
なんて思いながら額に置いた布が温くなっていないかと指先で確認していると、薄っすらと目が開かれた。
どうしたの、と柔らかい声が出てきて、自分でも少し驚いた。ユーリたちがたまにこういう声を出す。
布団の中から小さな指が顔を覗かせた。握ってほしいのかなと思ってそうすると表情が少し緩んだ。
「ね」
「うん、どうした?」
「すごい、ね。すごかった」
なにを言われているのかよくわからなくて、曖昧に頷きながらずれた布団を直してやる。
「すごい、ほんとに、すごい」
「うん? うん、そうだな」
「傷つけようと、してくるのは、敵。敵は、倒さなきゃ、殺さなきゃ、いけないのに、したくなくて、しなかったから、すごい」
子どもをあやすような相槌が途端に打てなくなる。俺のことをすごいと言っているんだ、この人は。
「殺さないと負け。死んじゃう。でも違った。違うんだね。殺さなくても、勝てるんだね」
すごいね、ほんとにすごいね。と何度も何度も言って、それから不器用に笑った。
「守ってくれて、ありがとう」
なんにもしてないよ。俺はなんにもしてない。だけど、この人の心は守れたのかな。
きゅうと指を握ると小さく力が返ってきて、燃えるように熱くて、ここで生きているんだなと思うと泣きそうだった。
無理をして喋ったからか、また夜には熱が上がって、傷が痛むのか聞き取りにくい言葉を何度も発していた。
そろそろ変わろうとルカに言われたけど、今夜はどうしてもそばにいたいと懇願して、なんとか居させてもらった。
ベッドの脇で苦しむ横顔を見ていると、俺は身を乗り出していた。
神様、と俺の口から久しぶりに自然に溢れていた。神様、どうかこの人を助けてください。
こんなに熱心に祈ったのはいつぶりだろうか。神様、神様、神様。
どうか、どうか。何年も神に尽くしたと言っても過言ではない俺の願いを一つくらい叶えてくれたっていいだろう?
この人は、俺をすごいと言ってくれたんだ。敵を倒したからじゃない。敵を殺さずに勝ったからすごいと言ってくれたんだ。それから守ってくれてありがとうと言ってくれた。
俺はずっと守りたかったんだ。敵を殺したかったわけでもないし、倒したいわけでもない。ただ誰かを守りたかったんだ。
だから神様、どうかこの人を助けてください。俺からこの人を奪わないでください。
そうしてくれたら、俺がずっとこの人を守るから。
次の日、朝には少し熱も下がって寝息も穏やかになったから、この隙にとユーリは俺をベッドに突っ込んだ。
有無を言わせぬ行動に文句を言う間もなく、疲れた体は眠りについた。
昼ごろに目が覚め、俺はユーリからようやく詳しい話を聞くことになった。
「あの子ねー、ずっと魔物の処理役として使われたらしいのね。あー、処理って言い方、やだな。やなんだけど、そう言われたから一回だけ使った。でね、魔物をいいように従わせてた集団がいたんだけど。ま、そう上手くもいかないでしょ? で、定期的に暴走した魔物を、あの子がね、うん。魔力耐性がかなり強いみたいで、私らくらいかな。だから、こうずっと使われてたみたいで。あー、やだなこの言い方も」
「自分で言ってた。敵は殺さないと負けるのに、とかなんとか」
「うん、そう。多分そういうこと。暴走した魔物はあの子に殺させてたみたい。やだね、ほんと。はあ、全員捕まえられたわけでもないみたいだしさ、やだやだ」
要領の得ないユーリの話し方はいつも通りなので、へえと言いながら食事を取る。
「だから、あんなにすごかったのか。足一本しか使えなかったのに」
「あー、なんかね、強すぎたから手は使わせなかったんだって。自分たちの身の危険を感じたらしい。そんなこと考えるくらいならやるなよって話なんだけどさ。で、あの子本人が嫌になったのか、なんなのかで逃げ出したみたい。それを人間も魔物も総動員で襲って、うちに迷い込んだって感じかな」
「殺したくないって言ってたから、そうなんじゃない?」
俺が言うとユーリの眉がぎゅううと真ん中に寄って、ぐるぐる頭の中で考えてるんだろうなってことが丸わかりだった。
もしルカが見ていたら「ああいう顔のユーリはかわいい。まあ、いつもかわいいんだけど」と俺に真顔で言う感じの顔だ。ルカは他人の前ではしれっとしてるけど、俺には結構そういうことを喋るので身内扱いなんだなと思うと嬉しいやらこそばゆいやら。
「ユーリ、あの子どうすんの」
「んー、んー! 私もルカもあんたのこと思い出して放って置けない」
俺、あそこまで酷かったかな。酷かったな。でも熱は出さなかった。その代わりに泣き喚いた。どっちもどっちだな。
「ユーリもちょっと声小さくしたら怖がられないかもよ」
「最近ではそんなに怖がられてませんー。でもあの子が嫌なら、仕方ない。うん。保護者希望の人は探せばまあ、いっぱい出てくると思うけど、結構怖がるからな。どうだろうな。本人が嫌じゃなければ、しばらくは現状維持でもいいんだけど。てか多分それが一番いいんだけど」
でもそろそろ私らも仕事がねー、と難しそうに言う。俺が看病ならするから大丈夫、と言いたいのだけど「休みなさい。寝なさい。自分を大事にしなさい」と言われるので我慢する。
俺は早々に自分の食事を片付けてもう一人分の食事を持って会いに行く。一人だとほとんど食べない困ったやつなのだ。俺が口まで運んでいくと口を開けるので、食事は誰かに変わってもらえない。
「お粥持ってきたけど、食べれそう?」
ベッドの上で身体を起こして、うーんと首を傾げているから、熱はないかと確認してみたものの随分と下がっているようだった。
「ちょっとずつでもいいから、食べないと治らないぞ」
そう言ってお粥を人さじ掬い、いい具合に冷ましてから口に運ぶ。これが熱いとむずがるし、量が多くてもこぼすしで大変なのだ。
ちょっと開かれた口に差し込んで、むぐむぐと神妙な顔をして食べているのを見守る。正直言ってまあ大変な作業ではあるのだけど、こうやって見ているのは嫌いじゃない。
「おいしい?」
「んー、あったかい」
「そりゃそうだろ」
今日はちょっと喋るな、と思っていると俺の手をぺたぺたと触ったり身をすり寄せてきたりするので困る。ベッドから転げ落ちそうで。
「食べるのに集中しろって」
そう言いながら、よいしょとベッドに腰掛けた。これだと遠くはないから落ちる心配はない。その代わりに抱き着かれた。頼むから食べてくれ。
「あーんして、あーん」
俺がそう言うと、あ、とようやく口を開けるからすかさず入れ込む。ちょっと自慢そうな上目遣いによしよしと頭を撫でてやりながら、きょうだいってこんな感じかなぁなんて思う。
カミルどうしてるかな、と久しぶりに思いだした。元気してるかな。まあしてるだろう。女の子は使い捨てにはされない、はず。あんまりその辺は詳しく聞きたくなくて、まだ消化しきれてなくて、ユーリたちにも聞いていない。
だって、仲良くしたいなぁできたらなぁと思っていた男の子たちが魔物のおとり用だった、とか何それどんな悪夢だよ。
まあギードルゥクはもういないとは聞いている。それは確かだ。ユーリは嘘をつかない。
「なに、考えてるの?」
「うん、うーん。あーん」
いきなり明確な言葉が降ってきて、誤魔化すみたいに言ってしまう。
今度はすぐに口を開けてくれたから、いい子だなぁと言ってもう一口。その後はなぜか食べてくれなくて、じっと俺を見てきた。
鋭い眼差しだけど、目がなんともいえず丸っこくて怖くはない。そもそも俺より小さい人間は怖くない。
「僕と一緒にいるのに、僕以外のこと考えるの?」
こいつ自分のこと僕っていうのか。ろくに喋らないのでそんなことにもいちいち驚いてしまう。
恨みがましい目をしている。俺もこうだったろうか。ユーリがルカと仲良くして嫉妬。してたか? してなかった気がする。あそこはなんだ、もう一心同体な気がするので。
肩の辺りにへばりついてくる。俺よりほのかに体温が高い。また熱が出ないといいけど。
「かわいいこと言うのな」
「ごまかしてる」
「してない、してない。もっと食べな」
もういらない、と頑なに首を振って布団の中に戻ってしまう。せめてうがいをしようと言ってもぐずぐずと言うので、まるきり子どもだなぁと思う。
ユーリたちが言うのには、俺と同い年くらいらしいのだけど、年下感がある。まあそもそも俺も正確な年はわからないわけで、そう考えると面白い。年齢不詳コンビだ。
「お前、今までなに食べてたの」
口の周りを拭ってやりながら問いかける。言ってから、まずかったかなと後悔する。あんまり思い出したくない話題だったかもしれない。ろくに食べさせてもらってなかったとか。だから胃が小さいのかも。
「木の実とか……」
さほど気にした様子もなく、目をぱちぱちさせながら言った。
「へえ。いまも食べたい?」
「んー、ちょっと」
「じゃ、用意できないか聞いとく」
なんでもいいから食べるもの増やして欲しいな、という気持ちで言ってみた。
隣にきてー、と可愛らしく甘えてくるから、片付け終わったらなと言うとヘソを曲げられてしまった。子どもの世話は難しい。
木の実を食後につけるようにしたら少しずつ食事量が増えてきた。良い傾向だと思う。相変わらずべったりひっつくのはやめないが。
聞いてみると今まで同じくらいの子どもに会ったことがなかったと言われたので、まあ仕方ないなと放置している。守ると決めたことは実践するつもりだ。心を守るのは何より大切。
「ねー、それなに、ねー」
俺が部屋に入った途端、俺が手に持った木の実を指差して足をパタパタさせながら言った。
元気になったようでいいのだけど、あんまり外に出たがらないのでユーリは頭を抱えている。外が怖いとかそういうのではなく、単純に面倒くさがりなのだ。
「ねー、じゃなくて、俺の名前はギィだって。何回も言ってるだろ」
「でもそれ仮って言ってた。あんまりギィって感じしない。呼びたい名前じゃない」
「好き勝手に言うなぁ。他のやつには言うなよ」
言わないし会わないよ、と言われるので会えよそこは会えよと即座に返す。俺だってユーリとルカ以外の人間や子どもに会ってるし、学校だって検討してるぞ。まあまだ学校は早いかなってことで勉強は個人学習だけど。
「で、それなに?」
「今日は特別なやつ」
そう言いながら、じゃじゃんと取り出す。
「これはなー、魔植物の実。だから、俺たちみたいに魔力耐性ある人は食えるけど、そうじゃなかったら色々と加工とかしなきゃ食えないから、勧めたりするなよ。美味いけど」
「ユーリさんとルカさんくらいにしか会わないから平気」
「お医者さんも会ってるだろ。あとこれから会うんだよ。今度、散歩行くぞ」
曖昧に笑うだけなので、多分なんだかんだと言って行かないつもりだろうけど絶対に出させてやると決心をして二種類の木の実を手渡す。ちなみに今回のこれはおやつなので、俺の分もある。
「なんて名前?」
「こっちの丸いのがシヴェルの実。こっちの小さいのがラキナの実」
ふうん、へえ、と言いながらもぐもぐと交互にかじる姿を楽しく見ながら俺も食べる。
口の中にじわりと豊かな甘みが広がるラキナの実と甘酸っぱさが口いっぱいに広がるシヴェルの実。どちらも美味しい。これを初めて食べた時、魔力耐性があってよかった! と心の底から思ったものだ。
「僕、こっちが好き」
そう言いながらラキナの実をにこやかに指差した。
「ふーん、俺はこっちが好き」
俺はどっちも好きだが、どちらかというとシヴェルの実が好きなので指差しておいた。
それを聞いてにこりと満面の笑みを浮かべるので、ご機嫌で何よりと思ってたらとんでもないことを言い出した。
「じゃあ、僕がシヴェルで、そっちがラキナだね」
「は?」
「名前だよ、名前。僕らの。僕もなかったし、そっちは仮だったし、ちょうどいい」
シヴェルラキナ、ラキナシヴェル、と歌うように言われて、いやいやいやと首を振る。
「なんで逆じゃないんだよ。百歩譲って、こういうのは好きな方の名前になるものじゃないか?」
「うーん、僕の好きな名前になってほしいし、僕はラキナの好きな名前になりたいから」
もう自然と名前として使ってるよ、切り替えの早いやつだな。
だけど、ラキナー、と呼ばれて、俺の名前俺だけの名前俺のためだけの名前、と思うとギードルゥクと名付けられた時以上の興奮が体を巡った。
「シヴェル」
「なに、ラキナ」
当たり前みたいに返ってくる返事にどんな顔をしていいかわからない。
「ラキナは名前が欲しかったんでしょ」
「え?」
「名前が欲しくて、でも自分で付けるのはなんか違って、付けてとも言い難くて、でも欲しかったんでしょ」
そう微笑む様は初めて、あ、こいつ同い年なんだなって思える笑い方だった。
「なんで、わかる?」
「え、なんでだろ。わかんない。でも、なんか、ラキナのことはわかる。ラキナわかりやすい。触ったらすごくわかりやすい。かわいい」
「かわいいのはシヴェルの方だけども」
嬉しい、と笑って抱きしめようと手を伸ばしてくるけど、手がべとべとなので先に拭いてやることにした。
そういえば、俺も自然とシヴェルと呼んでいるなと五本の指を丁寧に拭いながら思った。
「ラキナ」
「なに?」
「僕が何回でも呼んであげる」
綺麗になった方の手で抱き寄せられる。思ったよりも力強い。可愛らしいだけでなくて、それでも愛らしいシヴェル。
「もう寂しくないよ」
どうしてもなかなか埋まっていかない心の穴を見透かされて、もう大丈夫だよと言われたみたいな気分だ。
こいつすごい、と思ってそれを言葉にするのは少し癪で、シヴェル、とだけ呼んだ。
結局、シヴェルはなし崩しのようにユーリとルカの保護下に収まった。
ほんとにいいの、の何度もユーリが不安そうにしていたのは知っているが、シヴェル本人は「慣れた人がいい」と言っていた。
惰性じゃねえだろうな、と思っていたものの案外懐いているらしく、これでよかったのだと思う。
ちなみに十三歳になった今も俺たちは学校には行っておらず、そろそろ試してみようかどうしようかと話しているところだ。
別に行っても行かなくてもどっちでもいいが、行かずに判断するのもいかがなものかと思っているので俺は少し乗り気。
「学校ー?」
「シヴェルも行くんだよ」
「ラキナが行くなら、まあ行かなくもなくもなくもない」
どっちだよ、と言うとけらけら笑いながら抱き着いて、唇を頬にぶつけてくる。最近覚えた遊びのようで、シヴェルはこれが好きだ。
「ラキナって言いながら肌に触れるの面白くない? ぶぶってなる」
「よくわからない。っていうか、シヴェルの言うことはだいぶよくわからない」
「やってみればわかる」
そう言われてやってみたけど、やっぱりよくわからない。あと未だ純粋無垢で人との関わりに薄いシヴェルと違い、俺はまあ色々と知ってなくもないので、唇で触れるのと手で触れるのってニュアンス違うくないだろうかと思ってしまう。まあ、いいんだけど、別に。
楽しい、というかなんか近い気がして落ち着くのはわかる、と思ってべたべたとしていたら、特に何も考えずにユーリたちの前でも口同士を合わせてしまっていた。
シヴェルとルカは全然気にしていないようだったけど、ユーリはちょっと驚いていて、俺はやっぱりこれまずかったかなぁ、二人だけの時の方がいいかなとちらりと思った。
「うーん、うーん。別にいいんだけど、いいんだけど。私らが目の前でやり過ぎたかな」
ユーリが難しそうに首を傾げる。確かにユーリとルカは俺たちの前でもする。主にルカの方から。
下からくいっとユーリのネクタイを引いてしているの、なんかカッコいいなと思ったことが何度かある。俺とシヴェルでする機会はない。背がほとんど同じなので。
「えーと、聞いていいのかな。こういうの保護者が聞いていいのかな。二人のって、恋愛?」
どうだろうか、と俺とシヴェルが同時に首を傾げると、ルカがすぱりと口を挟んだ。
「そもそもキスが親愛でしちゃいけないなんて、誰が決めたっていうんだ。恋愛じゃなきゃ人は接触すら制限されなきゃいけないのか。お互いの同意の上なら構わないだろう」
あまりにもさっぱりした意見に途端にユーリが何度も頷いた。
「それもそうだ。私の視野が狭かった」
「ユーリのすぐに反省できるところ、好きだ」
「ありがとう。私もルカのこと好きだよ」
いつもの二人のやりとりにシヴェルが嬉しそうに笑ってユーリの腕を抱く。
「僕もユーリさん好き」
「わー、かわいいこと言うようになって。ラキナはなー、もう言ってくれないからなー」
前は言ってたみたいに言うなよ。いや、言ってたかもだけども。
ラキナもルカさんも好き、とあどけなく笑うシヴェルはユーリ曰く今ようやく幼少期を埋めている途中だという。俺も心当たりがないわけではないし、そう考えるとシヴェルはしっかりしている方なのでまあいいかとも思う。
「好きにしてるのがいいね。二人ともがそうしたいのなら」
ユーリは物分かり良さそうに言って、ルカは俺とシヴェルの頭を両方撫でた。
ユーリのものとは違い、さらりと自然にされるそれはなんだか逃れる気にもならなくて、二人で身を任せていた。
その日、ユーリとルカの顔がいつもより強張っていた。
もういい年だし、話さないのもよくないからと言って、仕事内容について教えてくれた。
昔、シヴェルに酷いことをしていて、ギリギリのところで捕まらず逃げおおせた人の情報が入ってきたのだという。
二人が行くから心配ないと俺は思ったけど、シヴェルは久しぶりに情緒が不安定になって、俺から片時も離れずべったりとして甘ったるいお菓子を貪るように食べ始めた。
お菓子は木の実の次にシヴェルが興味を示した食べ物で、初めて食べたらしい自然ではあり得ない強烈な甘さにシヴェルは虜になってしまったのだ。
今までこういうのが食べられなかった弊害だね、とユーリは言っていた。もう欲張らなくても逃げはしない大丈夫という感覚がなくなるまで、平たく言えば飢餓感に似たようなものが治るまでは多少は仕方ないと。
まあ健康に害が出るほど食べそうになったらそれとなくこっちを向くようにさせる。暴食は最近なかったんだけどな。
シヴェル、と呼ぶとお菓子よりは俺を優先してくれる。それが少し誇らしい。こいつの一番は俺、と認められているようで。
ラキナ、と口にした後にシヴェルの目は唐突に不安定になって、外を見ようとしたり俺を見たりと忙しない。お菓子を入れていた袋がそこら中に転がっているのも精神衛生上よくないのだと思う。
「行かないと」
そして突然、勝手に口が動いたという風にそう言った。
「行かなくていいんだよ」
咄嗟にそう言っても、シヴェルは聞いているのかいないのか微妙なところだ。
「行かなくて、いい。大丈夫。シヴェル、戻ってこい」
ようやく視点が俺に合って、ぱちぱちと何度か瞬き。ほっとして身体を抱きながら背を撫でた。
「力があるお前はその力を活かすのが使命だ。そうやって生まれた人間は力を使い切ることが正しい生き方だって、あの人たちは言ってた」
「シヴェル、違う、違うよ」
「行かないと」
シヴェル、ともう一度呼んで視線を合わせる。俺たち互いに引き寄せられるように額を重ねた。
「あのな、シヴェル。たとえば、そうだな」
こういう時、あんまりダイレクトに言うのは多分よくなくて、それでも全然関係ないことを言って誤魔化してしまいたくもない。
俺は必死で考えて、柔らかな言葉を心がけた。俺の頭に浮かんだのは、どこを押しても綺麗な音のする二色で作られた楽器だった。
「たとえ、ピアノの才能があるからといって、弾きたくなければ弾かなくていいんだよ。世界中のみんなが聴きたがったとしても、応える義務はないんだ。だけど、もし弾きたくなったのなら迷わず弾いていい。一度やめたからといって、一生やめなくてもいい。弾きたい時に弾いて、弾きたくない時は弾かなくていい。自由に選んでいいんだ。いいんだよ、シヴェル。そういうことだよ。な、わかるだろ、シヴェル」
俺の言葉を吟味するように聞いていたシヴェルはふわっと笑った。
「ピアノってなんだっけ」
「また勉強中にぼーっとしてたな?」
そうかも、と笑うシヴェルはいつものシヴェルで、離れてくれるなと思いながら抱きしめる。
「これから一緒に、たくさん覚えればいいよ」
だって、ずっとだと約束したんだから。時間はいくらでもある。ゆっくりでいい。ゆっくり歩いて行こう。
──懐かしい夢を見た。どうして今頃になって、あの頃の夢を見たのだろう。あの不安がるシヴェルの苦しみを少しでも除いてやりたいと、今なお切実に思っているからだろうか。
あの頃のお前を少しでも安心させられる大人に、俺はなれてるかな。シヴェルには笑っていてほしい。不安など、思い出させたくない。せっかく安定してきて、俺と一緒に仕事までできるようになってるんだから。過去を思い出させることなんて、したくない。
シヴェルに酷い仕打ちをしていた犯罪組織は逃げ足が早く、切り捨てられた末端の人間を除くと未だに捕まっていない。今のところシヴェルに何かしてくる様子はないようだが、シヴェルの憂いを取り除くためにも早く捕まってほしいとずっと思っていた。もちろん難しいだろうとも思っていたが……
今頃になって、トトとルルと名乗った二人を虐げていた人間が以前シヴェルを使っていた組織の一員だということが発覚した。といってもこちらもまた末端の人間だったのだが、ルカのおかげで組織の全体像を把握することができ、奴等をようやく捕まえることができた。
捕まえるにはどうしても手荒なことも必要となる。できれば俺も出たかったのだが、止められてしまった。ならせめてシヴェルには話さない方がいいのではと思ったのだが、これもまた止められ、シヴェルには伝えられてしまった。
「シヴェルに言う必要あった? 絶対不安定になるだろ」
「それはまあ、そうだろうけど。でも後から他の誰かに聞かされて知るのもつらいと思うよ」
わかるよね? とユーリに言われると頷くしかない。
「……せめて、俺も出たかった」
「君はもう大人だから、やりたいっていうことの大体は止められないけどさぁ。それはだめ。公私混同」
宥めるように背中を叩かれる。言ってることはわかるけど。わかるけどさ。
「あいつの未来に起こるかもしれない不安を、少しでも無くしてやりたい……」
「あー、まあね、そうだね」
「荒事は全部、俺がやりたいんだよ」
「気持ちはわかるけど、公私混同〜」
だめだよ、と言われるので「はーい」と真面目に言っておいた。わかってる。俺は護衛をする人間だ。シヴェルと同じ、その道を選んだ。傷つけずとも人を守る存在でありたいから。
「二人とも静かに。シヴェルが起きる」
俺とユーリが喋ってるのをルカが「声を落として」と言ってくる。シヴェルはルカに背中を撫でられながら眠っている。少なからずショックだったのだろう、あっという間に寝てしまった。
「明日から菓子三昧かな……」
まあ俺がついてたらちょっとはましになるだろ、とシヴェルの頭をそっと撫でる。眠っていてもシヴェルの口角が少し緩むのがわかって、ちょっと誇らしかった。
もっと長くへこむかと思われていたシヴェルは早々に仕事に復帰することができた。しかも思っていたよりしゃっきりとしている。そんなシヴェルを見てユーリが笑えばいいのか困ればいいのかという顔でくしゃっとした。
「仕事モードって言えばいいのかな。日常との切り替えがすごいよね、シヴェルは。いや、私らがその辺しっかりしなよって言ったんだけどさ」
「切り替えないと、僕はいつでもラキナにくっつくよ」
「動きにくいからそれはダメだな」
いざという時にさっと動けないからな。別にそれ以外に理由はない。
「今回は少し遠い場所だろう? 長くなるかもしれないな」
「いやー、でも短くなるかもしれないし、わかんないな。どっちにしてもちゃんと仕事モードのまま頑張るよ」
ルカの言葉にニコニコと答えるシヴェルの袖を引いて引き寄せる。
「じゃ、長くなると想定して、充電しとくか」
しばらくできないかもしれないから、と抱きしめておく。喜ぶと思ったのにシヴェルは何故か呻いた。
「ぐあ」
「え、なに?」
「仕事モードが溶ける……」
悲痛な声に思わずシヴェルの耳元で笑ってしまう。宥めるように頭を撫でてやるとしがみつかれた。
「離れようか?」
「やだ」
なんでそんな寂しいことを、やだやだ。と駄々をこねる姿に笑ってしまう。
「……なんか、今日のラキナ優しい」
「お前が頑張ってるから」
ぽん、と背中を叩いてから体を離し、何やら微笑ましげに俺達を見守っていたユーリとルカに二人で手を振る。
「いってきます」
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