第2話

 乗合バスがもうすぐ来る時間なのに、待ち合わせをしている人達が現れる様子はなかった。

 まあ、俺がちょっと早く来すぎたからすごく待っている気分になっているだけなのかもしれない。待っていればもうすぐ来るだろう。

 しばらく会えなくなる学友たちと別れを告げたくて、自分の待ち合わせの時間より早く家を出たのだ。俺が待つのは仕方ない。待つ時間も楽しめばいいのだ。

 赤く染まり始めた木の葉を眺めながら、バスの中から見たら綺麗だろうなぁと夢想する。

 友達は皆、俺より早い時間のバスに乗って意気揚々と出発して行った。全員魔狼群にある学校を卒業した後に引き続き魔狼群での就職を希望している奴らだ。俺は今日から先輩達に着いて行って研修を行う。

 最高学年になったら三つほど希望の職場を選んで、その仕事に就いている人達の仕事を現場で教えてもらうのだ。

 大抵は魔狼群の学校に居た人に着いて行く。まあ俺が着いて行く先輩は学校に居たのは短期間なのだけど。

 そんなことを考えていると、遠くの方から走ってくる見覚えのある二人の姿が見えて、俺は大きく手を振った。

「ラキナ先輩、シヴェル先輩、こっちです!」

 ものすごい勢いで走ってきた二人は流石優秀と評されるだけあると言えばいいのか、息一つ乱れしていなかった。

 おー、すごいと思っている間にラキナ先輩がこれまたすごい勢いで頭を下げてきた。

「イアン、待たせてしまって悪かった。申し訳ない」

 生真面目すぎる挨拶に俺が笑いを堪えていると、シヴェル先輩も慌てて真似をするようにゆるっと頭を下げた。

 ラキナ先輩がその頭をガッと掴んで深く下げさせるものだから、ついぶはっと吹き出してしまう。それを誤魔化すようにぶんぶんと首を振った。

「いや、遅れてはないですって。時間ぴったりくらいでしょ」

「それでも、本当に申し訳ない。俺達が先に来て待ってなくてはならなかったものを」

 ラキナ先輩は本当に真面目だなぁと俺はちょっと笑ってしまった。気にしてませんよ、とひらひら手を振る。

「本当にいいですって。何かあったんです?」

「シヴェルの寝起きがすこぶる悪かった」

「ラキナが起こしてくれなかったんじゃん。人のせいにしないでよ。ラキナだっていつもよりは起きるの遅かったんでしょ? 昨日、夜更かしして本読んでたもんねえ。隣でごそごそしてたから寝れなかったせいもあると思う」

「爆睡してただろ。というか、お前こそ人のせいにしてるだろうが」

 どうやら二人は同室らしい。魔狼群本部の部屋って、一人部屋が前提だから狭いと思うんだけどな。複数人で住みたい場合は基本各自で家を用意って形だと聞く。俺は一人部屋予定だなぁ、今のところ。

「あ、バス来ましたよ。乗りましょう」

 ぎゃんぎゃんと言い合いを続ける二人にそう声をかけると、ぴたりと止めてこっちを見るのが面白い。

 三人で丸っこいフォルムが愛らしい緑色のバスに乗り込む。後ろの席に並んで座ると、シヴェル先輩が申し訳なさそうな顔をして俺の顔を覗き込んできた。

「イアン、本当にごめんね。僕が休みの日と勘違いしてラキナ相手に凄まじい抵抗をしたばかりにこんなことになって。僕はこの仕事が終わって部屋に帰るのが怖いよ」

「どんだけ散らかしてきたんですか」

「ベッドも棚も破壊されてない程度だよ。はい、これお詫び。好きなの取りな」

 そう言いながら小袋を見せてくれた。どっさり入ったお菓子を見て、わあと声を上げてしまう。感嘆半分呆れ半分。明らかに量が多すぎる。

「シヴェル先輩って、本当にお菓子が大好きなんですねえ」

「え、うん。好きだよ。なんで?」

「ご飯の代わりにお菓子で全部補ってるんじゃないかって、言われてるくらいは有名なので」

 ははっ、と笑って否定もしないから、まじかこの人と思って聞くのが躊躇われる。ガチな話だったら反応に困る。

 この人たち、有名なわりに謎な人たちでもあるんだよなぁ。後輩の中では仲が良かった方だと思うけど、なんで魔狼群にいるのかとか詳しくはマジで知らない。まあこういうのは無理に聞くことではないし、俺自身もそんな気になんないからいいんだけど。

 魔狼群が運営する学校に途中の学年で入ってくるのはよくあることだし、俺もそうだけど、先輩たちの場合は二人で入って来てなおかつ常に二人でいて、定期的に休みまくるというスタイルだったのでたいそう目立った。まあ事情がない奴の方が珍しい学校だから、面白い先輩だなぁくらいにしか思われないのだけど。

 自分が詮索されて嫌なことはしたらダメだし、と思いながらバスの緑色に似たお菓子を手に取った。ころんとした感じがより一層バスに似ていて可愛らしい。

「イアンは護衛班に入るの?」

「うーん、まだ迷い中です。運動はできるんで勧められましたけど、事務とかもいいなって。あー、でも人と関わんのも好きなんですよ。まあ、まだ分かんないんですけどね。研修中にびびっと来るかもしれないし」

 実体験って大事だしねぇ、というのほほんとしたシヴェル先輩の言い分に、そうですねぇとこっちまでまったりした気分で答える。

 ちなみにその間もシヴェル先輩はばっくんばっくんとお菓子を食べている。ラキナ先輩が一つため息を吐いた。

「シヴェル、ほどほどにしろよ」

「だって、ラキナが朝ごはんまともに食べさせてくれないから」

「食べただろうが、多少は。あといつも通りに食べれなかったのはお前がシーツにへばりついてベッドから出なかったせいだ。破れてないか未だに心配だぞ、俺は」

 抵抗しすぎだろう、それは。これで仕事中はものすごくまともな態度で評判も上々だというのだから切り替えが半端ではないと思う。

 見習うべきかな、と思っているとラキナ先輩にイアンはもっと食べていいから、と言われて緑のが気に入ったので幾つか色違いで食べさせてもらった。中にクリームが入っていて、さくさくしていて美味しい。

 口の中に広がる甘みにうっとりしつつ、研修中はしっかりしなきゃなと思っていると、バスはちょうど木々が立ち並ぶ場所を通っている最中だった。

「綺麗だなぁ」

 勝手に溢れ落ちた感嘆に、律儀に二人から返ってくる同意がくすぐったくて笑ってしまう。

「俺、昔は赤い葉が好きじゃなかったんですよ。今は綺麗だから、見られるのが楽しみにするくらいはめちゃくちゃ好きなんですけど」

「そうなんだ」

「魔狼群の保護下に入る前の話ですけどね。俺の髪、赤いじゃないですか。それでまあ、色々言われたことあって。だから、あんまりいい印象なくって」

 二人の聞き方が上手いからだろうか。俺はそんなことを話してしまっていた。

 俺と俺の母は魔力耐性があって、なおかつ二人とも、昔いた地域では珍しい赤毛だった。人は自分と違う存在をどこまでも虐げられる生き物だ。

「魔力耐性があるって知られた時、お前のその髪のせいだろって、意味わかんないこと言われました」

「それだったら、僕たち二人とも魔力耐性無いことになっちゃうねえ」

「ですよねえ」

 シヴェル先輩は紅茶に似た茶色の髪だし、ラキナ先輩は夜のように深い黒だ。

「魔狼群に来てから、この髪のことで揶揄われることが本当になくて、びっくりしました。みんな何かしら事情があるし、なかったとしても人それぞれ違うのが当たり前って教えられるから、ああ息がしやすいなって」

 俺が受けていたいじめを見かねて、その地域では信用など皆無だった魔狼群を頼ることにした両親の判断は懸命だったと言わざるを得ない。

「俺、っていうか、俺たち家族、魔狼群入ってから、随分楽になった気がします」

「僕らもそうだよ」

 あっさりとした同意は俺たちの中では何より深く響く。きっとこの人たちも深い差別や生まれながらのどうしようもない苦労によって生きてきて、魔狼群で救われた人たちだろうと分かるから。


 バスの中で二人が仕事内容の大枠は教えてくれたから、その場についても緊張はさほどしなかった。

 むしろ心配なのはシヴェル先輩の方だ。今回の仕事内容は、ある店に近頃なぜか魔力の塊が出没しているため、店の人に被害が及ばないように護衛しろとのことらしい。

 問題なのは、この店というのがこの辺りで有名な菓子屋だということだ。シヴェル先輩も自分で「僕のテンションがおかしかったら止めてね」と真顔で言っていた。前途多難である。

 とはいえシヴェル先輩もプロなので、店の前に着いた頃にはキリリとしていた。甘い香りが漂ってきた時に一瞬にまついた口はラキナ先輩も俺も見て見ぬ振りをした。

 どこから顔を出していいのか分からなかったので、ちらほらと客のいる店内に入ることにした。

 年上らしい女の人が頼んでいるお菓子が色鮮やかで綺麗だなぁと思う。

「サキちゃん、お待ちどうさま」

 お得意様なのだろうか、店員さんにそう親しげに呼ばれながらお菓子の包まれた箱を渡されている。

 その人は嬉しそうに箱を受け取った後、俺たちに気づいてちょっと驚いたような顔をしつつぺこりと頭を下げて足早に店を出て行った。

 見すぎてしまっただろうか。それなら悪かったな、と反省する。

「あの、もしかして、魔狼群の方ですか?」

 店員さんにそう声をかけられて、ラキナ先輩が対応すると、店員さんは慌てたように奥に向かって、店長ー、店員ー、と呼び出した。

 すぐに飛ぶようにして出てきた店長らしき男の人は心労なのかあまり顔色がよろしくなかった。いきなりなんの心当たりもなく魔力に当てられたのだから、それも当然のことだろう。

「ありがとうございます。こんなに早く来ていただけるなんて」

「いえいえ、大変でしたね」

 恐縮し切ったように頭を下げる店長さんに優しく声をかけるシヴェル先輩に優秀という噂はマジだ、と確信した。変わり身の早さがえげつない。さっきまでお菓子の欠片を口につけてラキナ先輩に拭いてもらっていたとは思えない。

 どうぞ中へ、と案内されてトコトコと先輩たちの後を着いていくと、途中で店長さんが厨房らしき場所に向かって声をかけた。

「ハル、タクト、魔狼群の方が見えたぞ。ちょっとこっちに来なさい」

 そう言われてすぐにバタバタと出てきたのは年上に見える男の人二人で、若そうな二人は俺たちにぺこぺこと頭を下げた。

 店長さんは奥の部屋に俺たちを連れて行き、丁寧に扉を閉めた後、自ら俺たちにお茶を入れてくれた。器に小さい小花が散っていて可愛らしかった。

「申し遅れました。この店を経営しているモントと申します」

 店長さん、もといモントさんはそう名乗り、隣に座っている男の人たちのことも紹介し始めた。

「息子のハルです。うちで菓子職人をやっております」

 緊張したような顔つきでぺこりと頭を下げたその人は随分と線の細い人だった。魔力の塊が出始めたのは少し前のことだというから、やつれてしまったのだろうか。

 その細さと不安そうな顔から小さく見える人だ。肩を縮こませるようにしているのも原因かもしれない。

「こっちのタクトも息子で、元々は私の友人の子どもだったんですが、養子になりまして。うちの後継ぎです。」

 紹介されたもう一人はあまり緊張しているようには見えなかった。とても物静かそうな人で、ぺこりと頭を下げながらも表情は少しも崩れない。

 生真面目そうでもあって、こちらを真っ直ぐに見ていた。

 シヴェル先輩とラキナ先輩が名乗った後に俺のことも「見習いですが、とてもしっかりした人で」と紹介してくれて、ちょっと誇らしかった。

 モントさんがお茶を飲んだところで耐え切れなかったのか、タクトさんが口を開いた。

「ほとんど毎日のように、なんと呼んだらいいのか分からないものが来るんですが、どうにか対処していただけないでしょうか」

 硬い表情はそのままに目の奥に焦燥が散らついているのが分かった。

 ラキナ先輩が少し口を開くのを躊躇う様子を見せた後にしっかりと厳しい現実を告げた。

「そうですね。どこからかやってくる、ということであればその日に来たものはすぐに消せても、根本的に解決しなければまた来る可能性が高いです。もちろん調査はしますが」

「何時間もその辺りをうろつくとのことですが、それらはすぐに消しますので耐えなければならない時間は格段に減るかと思いますよ。それだけでも身体が休まる時が増えるかと」

 シヴェル先輩が少し優しい言葉で包んで返すと、タクトさんは少しだけ乗り出していた体を元に戻した。ハルさんは何も言わないものの心配そうにタクトさんを見ていて、俺と目が合うとなぜかおどおどと視線を下げてしまった。

「夜が多いと聞きましたが、昼間も出るのでしょうか?」

「はい、時々ですが。でもやはり、夜が多いですね。それも店の方よりも私達が住んでいる裏の方の庭なんかをうろたいてまして。半透明の子どもの頭ほどの大きさの丸い塊が飛んでいるのを初めて見たときは、もう夢か何かなのではないかと疑いました」

 シヴェル先輩の質問にモントさんが苦しげな表情をしながら話してくれる。

「ですが、私とタクトも次第に息苦しくなってきて、ハルなどはもう立ってもいられないほどで、色々聞いて回ったりしてどうやら魔力の塊、というんですかね。それじゃないかと言われまして、やはり、その、魔力持ちの人がうちに何かしらの恨みを持って、送っているんでしょうか? いや、もちろん、決めつけるわけではないですし、この辺りに魔力持ちの人がいるという話も聞かないんですが」

 必死に言い繕う姿に、まあ、魔力持ちを徹底的に嫌う人たちが多い中で言い繕うだけマシなんだろうなと思いつつも、どうしてもモヤモヤしてしまう。

 いや、現に魔力持ちが集まったり誰かが集めたりして犯罪行為を度々行う団体とかは確かにあるし、そのことは由々しき事態だとも思う。思うけども、魔力持ちだからと一概に疑われてしまう現状になんだかなぁとも思ってしまう。

 同じように学校に通う友達にもいるし、当たり前のように同じ人間で、それぞれが違う感性を持っている。そもそも俺も多くの人間からは外れていると思われてしまう人間だから、なおさらそう思ってしまうのかもしれない。

「そうですね、まだなんとも。魔力持ちの人が行ったことだとしても、事故という可能性や本人も気が付かずに、という線も拭えませんから。知性のある魔物の仕業という可能性もありますし。その辺りも含めて探させていただきます。僕たちで解決できそうになければ、応援も呼びますので」

 シヴェル先輩の説明を聞いて、モントさんはようやく少し安堵したようだった。

「考えてみたのですが、心当たりもなくて。どうしたらいいのかと思っていたので、本当にありがとうございます。ハルは亡くなった妻に似て身体があまり丈夫ではなくて、何かあったらと思うともう……」

 ああ、元からそうなのか。それは心配だろう。魔力耐性がかなり強い俺たちには分かりにくい感覚ではあるが、おそらくこのハルさんという人はこの状況が長引けば健康に支障をきたしてしまう。

 俺にできることは大変少ないだろうけど、それはもうめちゃくちゃ自覚してるし、無理して足引っ張っても悪いからほどほどに頑張るけど、できることは精一杯やろうと改めて思った。

 どの辺りに何時ごろ幾つほど出るのか、体調はどのくらい悪くなるか、などとラキナ先輩が聞き出すのをふむふむと聞いていると、ハルさんが居心地が悪そうにそわそわとし始めて、おっかなびっくりという風に口を開いた。

「すみません。あの、菓子の試作の途中で、そろそろ」

「ああ、そうか。行ってきなさい」

 モントさんに言われ、ハルさんはまたぺこぺこと頭を下げながら早足で部屋を出て行った。

 人気の店の職人も大変だな。新しい商品を出してお客さんを喜ばせなければならない。そしてそういうお菓子はシヴェル先輩のような人のお腹に収まるのだ。

 尊敬はもちろんするが、体調崩さないといいなと思う。ただでさえこの状態では疲れが蓄積されているだろうし。

 いやそれをどうにかするために俺たちが来たわけだし。うんうん。頑張ろう。

 俺が何度目かの覚悟を決めていると、とりあえず話は終わりということになって、タクトさんがすっと立ち上がった。

「しばらくこの家に泊まると聞いてますので、部屋は用意してあります。ご案内します」

 護衛班は野宿も多いよ、と習っていたので素直に、やったぁ、と思ってしまう。いや、野宿の練習もしましたけどね。でも何日もってなると室内、嬉しいよね。実のところ、俺が護衛班とか実行班とかに入るのを躊躇しちゃうのって半分くらいはそれが理由だし。

 廊下に出てすぐ、タクトさんは初めて表情を崩した。少しだけ申し訳なさそうに目が細められる。

「すみません。人数まで聞いてなくて、一部屋しか用意してなくて」

「お気になさらず。夜は交代で見回りをしますから、一部屋あれば充分です」

 しれっと大人の対応をするシヴェル先輩を心の中で拍手しつつ俺はちらりと見える庭を眺めた。

 うーん、俺には魔力感知とかはないから、いま来てるのか、昨夜も来てたのかとか、全然わからん。微塵もピンとこない。まあ先輩二人も持ってないと言っていたから、こればかりは仕方ないな。地道に歩いて回るしかない。

 連れて来られた部屋が三人で使っても余裕な広さだったので、わぁいやったぁと内心喜んでおいた。

 荷物だけ置かせてもらって、さあ見回りをするかというところで、あの、とタクトさんが声をかけてきた。

「俺ができることは、ありますか。ある程度、時間の都合は聞きますし、なんでもします」

 切羽詰まったような物言いに俺たちはつい顔を見合わせてしまった。

「……お心遣いはありがたいですが、魔力耐性のない方が近づくのは危険です。身をもって体験されたとは思いますが」

 ラキナ先輩が言葉を選びながら言うのを聞いてもタクトさんは納得ができない、いやしたくないようだった。

「ハルは、繊細だから……」

 悩んだ末にその言葉が飛び出たようで、タクトさんは口を滑らせてしまった、と言いたげな顔をする。

 まあ、ハルさんはとても繊細そうな人ではあるよな、うん。心配になるのはわかるんだけど、なんで心配したことを悔やんでいるような顔をするんだろう。心配するのはいいことだと思うんだけど。

 複雑な事情とかあるのかな。養子のこの人が後継ぎなこととかかな。でもその辺、色々事情があるわけで、あんまり詮索とかするのはよくないな、うん。

「……その、気を悪くしないでほしいんですけど、ハルは人見知りもあるし、多分あなた方が家にいるってこともストレスだから、仕事にも影響が出るだろうし。そしたら店にも良くないし。俺ができることがあるなら、少しでも早く解決したくて」

 言い繕うようにまくしたてた後、すみませんと頭を下げられた。気が急いでしまっているのだろう。それもこれも疲れている上に真面目な性格だからだろう。

「この辺りのことや家のことを尋ねたりすると思うので、その時に答えていただけるだけで助かりますよ。少しでも気になることがあったら言ってもらえると、ありがたいですし」

 シヴェル先輩の言葉に、ありがとうございますと頭を下げたタクトさんは店に戻っていった。

 モントさんは聞き回ったと言っていたから近所では噂も広まっているだろうに、客が途切れないのはよほど信用があってここのお菓子が美味しいんだろうな。早くいつも通りに戻ればいいのに。

 部屋の扉を閉めて廊下に出ようとしたところで、そういえばという風にシヴェル先輩が声をかけてきた。

「ラキナと二人の時のつもりで勝手に充分とか言っちゃったけど、イアンも僕らと同じ部屋でよかった?」

「全然大丈夫ですよ。むしろ先輩たちが二人部屋の方がよかったです?」

「あはは、普段もずっとラキナと二人だから、たまには新鮮でいいよ。帰ったら二人きりになれるし」

 しれっと二人きりになりたいことを匂わされ、わあ、仲が良すぎてもはや笑うしかないって感じだ。だってあんまり突っ込むと俺がお邪魔みたいにならない? いや先輩たち、そんな酷いことは言わない人たちですけども。

「シヴェル、あんまり後輩を困らせるな」

「えー、困ってるのはラキナなんじゃないの。自分も二人部屋が慣れてて、イアンに聞かなかったことに僕より後に気づいたのが恥ずかしいんでしょ」

「うるさい」

 あ、言い返さないってことは図星なんだ。ちょっと笑う。なんて思いながら二人は見回りの段階になると仕事モードになってしっかりと働いていた。俺も一緒にしっかり目を凝らした。

 しかし、店も合わせるとかなり広い範囲を手分けして探したものの、やはり昼間のうちは出てこなくて、夜に気合いを入れようという結果となった。


 夕食をご馳走になった後、辺りが暗くなり始めたところで、唐突にラキナ先輩が庭の方に振り返った。

「いる」

 ラキナ先輩の短い言葉に、うん、とシヴェル先輩も応えるから、一人取り残されたような俺は、え、え? と言うしかなかった。

 いる? 何が? あ、例のやつか。でも全然見えませんけど。ていうか暗いから余計に分かりませんけど。それとも例の勘とかいうやつか。どこでそういうの覚えるんだろ、まだ一年しか働いてないのに。

 頭中にはてなを浮かべつつ、庭に降りて走り出す先輩たちに慌てて着いて行く。

 広い庭の随分端の方、ここもはや庭じゃなくないか? というところで、ようやく俺にも見えるものが浮かんでいることに気づく。

 黒いシャボン玉みたい、と咄嗟に思った。聞いていた通り、子どもの頭くらいある。それがぷかぷか浮いていた。怖いとかは特にない。禍々しい感じもしない。まあ、学生の俺の感じ方だから、当てになるかは分からないけど。

 ラキナさんが慎重に剣を抜いた。そしてそれに当てようと軽く近づけただけで、ふっとそれは跡形もなく消えてしまった。

「すぐ消える。かなり弱いな」

 拍子抜けしたらしいラキナ先輩がそう言いながら周りを見ている。

 危害を加える気があるのか、これ。と俺でも思ってしまったほどだ。呆気なすぎる。

「おかしいな。モントさんの話では、複数まとまって出るらしいのに、これ一つだけだ」

 辺りを見ても出てくる様子はなく、俺たちは揃って首を傾げた。シヴェル先輩が眉を寄せる。

「後から一気に来るのかもしれない。もうちょっと見て回る?」

「……いや、予定通り、俺が先に見回る。途中で起こしに行くから、シヴェルたちはそれまでは寝てろ」

 ラキナ先輩の判断に、でも、と納得の言っていないような声をシヴェル先輩は上げる。

「初日から張り切り過ぎても、明日からが辛い。長期になる可能性もあるし、イアンもいるんだから、お前はまず寝ろ」

 言葉はいつも通りのラキナ先輩なのに声色は存外優しくて、シヴェル先輩は俺とラキナ先輩を交互に見て、それからこくりと頷いた。

「……なんかあったら、すぐに起こして。ラキナ一人で無理するなよ」

「わかった、わかった。頼りにしてるよ」

 そう言いながらラキナ先輩はシヴェル先輩の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 俺にもやるのかなって思ったけど、特にやられなかった。ですよねー。

 見回りを続けるラキナ先輩に手を振って、俺とシヴェル先輩は部屋に戻ることにした。

 暗い庭にいると街の明かりが一層よく見えて、俺はついつい振り返っては光の多さに感動してしまう。

「夜でもすごく明るいですよね。随分発展している地域なんだなぁ。学校がある辺りとは全然違う」

「まあ、あそこは山だしね。あえて整えてないとも聞くし」

 シヴェル先輩が苦笑しつつ言う。緑あふれすぎてて校舎いつか埋まりますよね、と笑っておいた。

 魔狼群が運営する学校には、名前の通り魔狼が訪ねてくることもあるので、仕方ない話でもある。魔狼は山が好きだ。迎える立場としては良い環境を用意するくらいはしなくてはならない。

 シヴェル先輩がふと遠い目をして明かりの灯る街並みを数秒眺めた。

「十五年前くらいに、この辺りにずっといた魔物が突然死んでたんだって。それから力のある魔物に脅かされる心配がなくなって、こんなにも発展したんだよ。それもすごく急にね。魔物がいないと、人はこんなにも明るい夜を迎えられるんだなってしみじみ思うよ」

「ああ、なるほど。俺たちが普段いるところより南部だからかなって思ったけど、そういうことなんですね」

「まあ、その辺は聞きかじりだけどね。この前の仕事はさ、ちょっと色々あって隣の国まで行ってきたんだけど、そこは基本的に移動が歩きか馬か馬車なのね。僕たちは馬車を使って移動しながら護衛してたんだ。僕らが行ったのは特に魔物が多い地域でさ、そうなるとやっぱり人の行き来が少なくなるから、閉鎖的になりやすいっていうか、こういう風に夜も明るい、なんてとこは無かったな。森が多かったっていうのもあるけど、どこまでも暗い世界だった。隣にいる人に触れていないと不安になるほどに」

 俺の前を歩くシヴェル先輩がどんな顔をしているのかはわからなかった。この人がラキナ先輩と一緒にいない時なんてほとんど見たことがなかったから気づかなかったけど、ラキナ先輩が隣にいないシヴェル先輩は少し、雰囲気が変わる。

「一気にさ、人の住む場所を広げたり、発展させようなんて、思ってないよ。そうしようとすればどうしても魔物と衝突する。そしたら人も魔物もどちらも危険で犠牲者が出る。それは避けないといけない。そのために魔狼群はある」

 どちらか一方の味方をするわけでなく、完全に住処を分けようとするわけでもなく、この広くともひとつきりの世界で共に生きるために、魔狼群はある。

「ゆっくり広げないといけない。人の心を無理に変えようとしてはいけない。魔物を無理に従わせようとしてはいけない。わかってるよ。わかってる。でもさぁ、今も苦しい思いしてる人たち、いっぱいいるよ。少しでも早くって、思っちゃうんだよねぇ」

 大きな理想はその通りだと思うのに、どうしても、どうしようもなく、俺たちは人間で、悔しいことに悲しいことに、苦しむ人間の方に同情を寄せてしまうことも確かにある。

 どうか一日でも早く、一秒でも早く、争いがなくなって、みんなで上手く生きていける方法を話し合えるようになればいいのに。

「魔狼群がもっと上手く機能して、もっと人たちの間に受け入れられるようになったら、僕らみんなでもっと幸福に近づけると思うんだけどなぁ」

 部屋に着く頃、シヴェル先輩はそう結論付けて、扉を開けながら俺の方を振り返った。

「人手が足りないよねぇ、人手が」

 シヴェル先輩はそう現実的な意見を言って、困ったように笑っていた。

 魔狼群はまだまだ知名度も信頼度も足りないのだ。世知辛い。どうにかしたいと思っても、一朝一夕でどうにかなることでもない。

 俺ができることをするしかなくて、けれどそれがどうしようもなく歯痒いとも思う。優秀だと謳われるシヴェル先輩でもそうなのだから、悩むのは仕方ないことなのかもしれない。

 布団に潜り込んでも早く寝なければと思うのに妙に頭が冴えていて、すぐには眠れなかった。けれどシヴェル先輩の穏やかな寝息を聞いていると、いつのまにか眠りに落ちていた。


 結局、あれから夜のうちに現れることはなくて、朝になって話し合った結果、俺とシヴェル先輩は街に出ることにした。

 聞き込みとかしたいし、昼間は出にくいというから三人もいる必要はないだろうと思ったのだ。

 くれぐれも気を付けて行くこと、無理はしないこと、深追いはしないこと、などとラキナ先輩から言いつけられ、俺はわりと真剣に聞いた。

 まあラキナ先輩はほとんどシヴェル先輩に向けて言ってたんだけど。俺のことは信用してるって言ってくれた。やったね。

 モントさんたちに出る旨を伝えてから二人で街に繰り出す。俺たちの服が珍しいのか視線がチラチラと集まるのがわかったから、声をかけるのは難しくなさそうだった。

 こちらを見ているうちの一人になんとなく見覚えがあって、誰だったかなと首を傾げる。目が合ったからか慌てたように頭を下げて離れて行ってしまう姿を見て、あ、昨日店にいた人だと思い出す。近所に住んでるのかな。

 近くに店を構えている夫婦が俺たちに興味を持ってくれたから話を聞くことにした。

「あー、魔狼軍? とかの人なんでしょ? 大変なんでしょう。なんか出たって聞いてるよ。モントさんの店、売れてるのに大変ね。せっかくこの辺に魔物がうろちょろしなくなったっていうのに、やなことになったわねぇ」

 店の前で掃き掃除をしながらそう言われ、これは勘違いしてるなぁイントネーションが違うし、と苦笑いしてしまう。

 どこから話したものかなと思っているとシヴェル先輩がにっこりと、けれど有無を言わせない笑みを作った。

「軍隊ではなく、魔狼たちの群れの一員のようになれるようにという意味で魔狼群と名乗っています」

 流石にプロだな、と拍手したくなった。そうなの? とピンと来てない様子だったけど、とりあえず納得はしてくれたらしい。

「モントさん、いい人だから恨みを買うって話も聞かないし、あたしらもなんでそんなことになってんのか見当もつかないよ。ねえ、あんた」

「うーん、でもまあ、モントさんねぇ、悪い人じゃないし、むしろいい人なんだけど、でもねぇ」

 客が来なくて暇そうにしていたその人は歯切れの悪い様子で声を潜めながら続けた。

「タクトくん養子にしたのは、まあ仕方ないと思うよ。タクトくんのご両親亡くなっちゃったし、親戚もいなかったみたいで、ご両親と仲が良かったモントさんが引き取ったのはいい。タクトくん、小さかったし、可哀想だったからね。でも、今さら養子にするなんて、どういう考えなんだか」

「そうそう。この前の春頃だったかしら。なんで今頃ってみんな思ったわよねぇ。随分長い間、ハルくんと兄弟同然といっても、友人の子どもを預かってるって感じだったのに、何も今更ねえ」

 何を考えているのか分からない、と言いながら女の人はぺらぺらと続けた。

「ハルくんていう、お菓子を作る腕もいい、しっかりした息子がいるのに、どうしてわざわざ他人の子どもを後継ぎにしたのかしらねえ。やっぱりあんまり身体が強くないからってことが気になったのかね。でもハルくんだって自分が家を継ぐんだって思ってたのに、横取りされたみたいで気分が良くないわよね。どう考えてもタクトくんと上手くやれるはずがないじゃない」

 俺が話を聞きながら固まっていることなんて、その人たちは気にも止めていないようだった。言葉一つ発することができない。したいとも思えない。何を言ってもこの空気には無駄な気がする。

「なあに、タクトくんの話?」

 買い物に来たらしい人がそう言いながら話に混ざってきた。

「あの子、悪い子じゃないけど、愛想がないっていうかなんていうか。いや、挨拶とかはちゃんとしてくるけど。暗いっていうかなんていうか。目つきがねえ、悪いのよね。ハルくんが可哀想よ。多分、あんまり上手く行ってないと思うわよ、あの二人」

「だろうねえ、ハルくん大人しいし。一緒にいるところもあんまり見ないしね。モントさんも何を考えてるんだか」

 悪い人じゃないんだけど、悪く言うつもりはないけど、そうやって枕詞につけたら悪口にはならないって思ってるのかな。揶揄や勘繰りが込められていることなんて、来たばかりの俺でもわかるのに。

「他のところに聞きに行こう」

 いつのまにか嫌な汗が流れていたことに、シヴェル先輩にそう囁かれて気づいた。

 お話ありがとうございました、と短く告げてシヴェル先輩はその場を後にした。話は盛り上がっていて、俺たちがいなくなっても誰も気にしていないようだった。

 どんよりした気分で歩いていると、少し離れたところで不意にシヴェル先輩が口を開いた。

「気分がいいものではないよね」

「え?」

「仕事だしさ、ああいうのから分かることもあるかもって思うと、多少は聞かないとだけど。でも、まあ、進んで聞きたくはないね」

 その言葉に少しだけ救われた気がした。俺と同じことを思っている人が隣にいるということに気づいて、ようやく息ができる。

 ああ、どうして本人のいないところで無神経な詮索をするのだろう。どうしてそれを聞いて俺たちが傷つかないと思えるのだろう。

 人には他人が無闇に勘繰ってはいけない様々なことがある。あれはそういう領域の話だったろう。

 あの家にはあの家の事情がきっとあって、そんなに気になるのなら直接聞けばいいのに、安全圏で好き勝手に話すなんてずるいだろう。

 心配している、なんて建前で自分達が話していて気持ちいいだけの盛り上がりの中に自分も混ざっているように他人からは見えるのだろうかと思うと目眩がした。

 魔狼群の中にいる時には感じない、少しずつ少しずつ空気が淀むような息苦しさを久しぶりに思い出した。そうだ、世界って、こんな風だった。

 三人はあの家で心配そうな顔をしながらもいつもの生活をしようと頑張っていて、モントさんはハルさんを心配していて、タクトさんもハルさんのために何かしたいと思っていて、ハルさんもタクトさんのことを気にかけていた。みんなそれを知らない。それとも見ないふりをしているのだろうか。

「はい」

 なんとかそれだけ返事を捻り出すと、シヴェル先輩は優しく俺を見た。

「イアンはいい子だね」

「そうですか?」

「うん。頭撫でたいくらい。いい?」

 いいですよ、と言うとラキナ先輩がシヴェル先輩に昨日していたのよりも随分優しく撫でられた。

 慣れてる。ラキナ先輩にするのかな。なんて思っている自分がいて、少し楽になっていることに気がついた。

 この人といるとなんとか息ができるから、もう少し頑張ろうと俺は大きく息を吸ってシヴェル先輩の隣を歩いた。


 大きな収穫のないまま戻ると、ちょうどラキナ先輩とモントさんが話をしていて、二人とも顔が曇っているのがわかった。

 何かあったのだろうかと俺が声をかけるのを躊躇っている間にシヴェル先輩は一瞬も迷わずラキナ先輩の隣に並んだ。

「ラキナ、なにかあった?」

「お前らが出て少ししてから、三つも出た。昼間なのに」

 俺たちが外に出て不愉快な話を聞くだけで終わっていた間にそんなことが、と慌てて駆け寄って話を聞いたものの、もうラキナ先輩だけで対処は済んだらしい。

 昨夜と同じように弱くて脆いものだったと言われても、急に出てくる頻度と時間が変わったのは由々しき事態に変わりはない。

「外は何か変わったことはあったか?」

 ラキナ先輩に言われるものの、特に急いで伝えなければならないこともないし、そもそもモントさんのいる前で言われたことを話す勇気もない。

 大した情報は無かった、と言うシヴェル先輩に合わせてこくこく頷いていると、モントさんが困った顔のまま笑った。

「あんまり私のこと、よく言われてなかったでしょう?」

 突然のことに、驚いたのが顔に出てしまったかもしれない。

「心配されるのと同時に、あんまりよく思われてない噂も耳に入るので」

 そうか、知っていたのか。と思うとどういう顔をしていいのかいよいよわからなくなる。だって俺みたいに会ったばかりの人間に何か言われたいわけじゃないだろうし、そもそも言うべきことも思いつかない。

「ハルは菓子職人としては親の贔屓目を抜いたとしてもかなり優秀な方だと思うんです。でも経営の方はどう頑張っても難しいというか。一つのことにしか集中できないタイプといいますか。私に似たんだと思うんです。私も随分長い間、妻にたくさん助けてもらっていました」

「人間、全部上手くやるのは難しいですもんね。僕もラキナに色々フォローしてもらってますし。上手くいくには人それぞれの形がありますから」

 シヴェル先輩の言葉を聞いたラキナ先輩の顔が、なんというか、むぎゅっとなっている。モントさんがいるから言わないが、お前はもうちょいしっかりしろ、とでも言いたいのだろうか。

 けれどモントさんはほっとしたのか、少し緩んだ顔で続けた。

「その点、タクトは本当にしっかりしていて、経営の方も本人にやる気があるんです。あの二人なら上手くやっていってくれると私は安心しているんですよ。二人の関係のことも私は……まあ、外から見たらそんなの分からないものなんでしょうね」

 最後の辺りはなぜか曖昧に誤魔化して、店に戻らないとと急に思い出したように言った。

 引き続きよろしくお願いします、と頭を下げたモントさんがいなくなったところで、ずっと黙っていたラキナ先輩が唐突に口を開いた。

「シヴェル」

「なに?」

「俺もお前にフォローされてるとこあるんだから、自分ばっかりみたいな言い方するなよ」

 シヴェル先輩は一瞬きょとんとした後に、いやー、そこは言葉の綾だってば、とけらけら笑っている。

「え、そこですか?」

 つい耐えきれずに驚きを口にしてしまった俺を二人が不思議そうに眺めてくる。

「すみません、黙ります」

「いや、黙らなくていいけど。え、そこって何?」

「黙秘します」

 まさかそっちだとは。自分の浅はかさを反省する。二人とも本当に信頼しあってるんだなー。俺がもし護衛班に入ったとして、こんなに上手くいく人とコンビが組めるとは思えない。

 やっぱり優秀なのはそういうのも関係あるのかな、なんて思いながら見回りがてらに別行動中のお互いの報告をした。


 夜にはまた一つ出たものの、それ以降は朝まで音沙汰がなかった。こうも俺たちが来ただけで状況が変わったことを見ると、相手に状況を把握されているとしか思えなかった。

「十中八九、人の仕業だと見て間違いないと思う。もし魔物が偵察に来たとしたら気づくだろうけど、人間なら見逃してしまう。もちろん魔物と人間が組んでいるという線もあるが」

 まだ判断材料が足りない、とラキナ先輩は苦々しい顔で言った。

「でも、また今日も昼間に出る可能性はあるよね。今日は見回りに集中して、街に出るのは止めようか」

「いや、でも情報収集は大事だからな。時間をずらして行こう」

 二人の真剣な話し合いをふむふむと聞いた後、庭を分かれて見て回ろうと言うので、俺は挙手してみた。

「なら俺は、ちょっと店の方を見てきますね」

 シヴェル先輩は大丈夫かな、という顔をしていたけど、ラキナ先輩は頷いてくれた。

「いいけど、気をつけろよ。何かあったらすぐに呼べ」

「はーい」

 店の方にはほとんど出てないって聞いてるけど、もしかしたらそれも変わるかもしれないしな。ちょっと見回るくらいはしておいた方がいいだろう。

 そう思って店の前をうろちょろしていると、またお菓子を買いに来たらしい一昨日と昨日に見かけた女の人を見つけた。

 どうも、と軽く頭を下げると妙に驚かせてしまったようで、その人は手に抱えていたお菓子をバラバラと落としてしまった。

「大丈夫ですか?」

 慌てて地面に落ちた物を拾って手渡すと、おっかなびっくりといった様子で、ありがとうございますと言われた。

「せっかくのお菓子、崩れちゃいましたかね」

「いえ、あの、味は変わらないので、大丈夫かと」

 ここのお菓子はおいしいので、とようやく微かな笑みを見られてほっとする。

「驚かしちゃいましたかね。すみません、怪しいものじゃないんですけど、珍しい格好してますもんね」

「あ、いえ、そんな。魔狼群の方、ですよね。あの、やっぱり、遠くの方から、来られているものなんでしょうか」

「そうですねえ、まあまあ遠いです。どうしてですか?」

 その人は少し困ったような顔をして、ええと、と躊躇った後に教えてくれた。

「この辺りの方なら、私のような年の人に声はかけないものなんです」

「え、なんでですか?」

「ええと、もう結婚が視野に入る年なので、年頃の異性に声をかけるということは、そういうことを仄めかす意味合いがあるんですよ。つまり、興味があるとか、お話しをして気が合ったら婚約したいとか、そういうことになってしまうので、この辺りの人なら気軽に往来で声なんてかけません……他所から来た人からしたら、古臭く感じるかもしれませんが」

 はあー、そんな決まりが。やっぱり急発展の名残なんだろうか。昔の決まりがまだ根強く残っている的な。

 じゃあ、それまで仲良くしていた友達でも、異性ってだけで急に話ができなくなってしまったりするんだろうか。うーん、俺から見たら窮屈に思えるなぁ、部外者が勝手にあれこれ言えることでもないけどさ。

「じゃあ、ご迷惑をかけてしまいましたかね。その、俺が何の気なしに、あなたに話しかけてしまったことが?」

「他所の人だというのは一目で分かるので、大丈夫かと」

 それならよかった、と安心する。驚かせてしまった上に迷惑までかけていたらとんでもないことだ。

「ハルくん、お元気ですか?」

 唐突にそう尋ねられて、きょとんとしていると少し焦ったような顔で続けられる。

「幼馴染なんですけど、さっき話した通り、気軽に声がかけられないので。たまに遠くから姿を見ることはあるんですけど」

「そうなんですか、大変ですね。あとで会ったら伝えておきます。えーと、お名前は」

「アヤ、といえばわかると思います。ハルくんが元気で幸せにやってるなら、それでいいんですけど、その、分からなくて……」

 本当に心配そうな顔をしていた。友人の家に何か得体のしれないものが出没しているだけでも不安だろうに、声もかけられないのでは不安が募る一方だろう。俺に言ってくるのは藁にもすがる思いなのかもしれない。

 きちんと伝えますね、と約束したけど、まだ不安そうな顔をしていた。そして帰る素振りを見せた後に躊躇うように口が開かれる。

「すみません。あの、もう一つだけ。もし、その、いま起きていることがすぐに解決しなかったら、どうなるんでしょうか」

「ああ、近くに住まわれているなら、なおさら心配ですよね。大丈夫ですよ。応援を呼ぶこともできますし、必ず解決策を見つけますから」

 安心させようと思って言ったのに、アヤさんの顔は強張るばかりだった。

 どうかしましたか、と問いかける前に真っ青な顔をして走って行ってしまった。

 何か間違った対応をしてしまっただろうか。あとでシヴェル先輩たちに相談した方がいいかな。これ仕事の範疇の話かな。いやでも魔狼群の一員としての話でもあるしな、うんうん。

 少しだけ店の前で粘ってみたけど、特に変わった様子はないから潔く帰ることにした。

 出ないに越したことはないしな。シヴェル先輩たちにとりあえず大丈夫そうだったって報告と近所の人も心配してるってことを話して、と頭の中で段取りをつけながら廊下を歩いていると、不意に微かな笑い声が聞こえた。

 それは本当に嬉しそうな幸せそうな笑い声で、一瞬誰の声かわからなかった。

 家の方に繋がる廊下だから先輩たちを除けば候補は三人しかいないのだけど、その誰もに当てはまらなくて、数秒経ってようやくこの声はハルさんの声だと気づいた。

 こんな風に笑う人なのか、と俺は本当に驚いた。大きな声ではないけれど、あまりに幸せそうな声で、俺たちの前ではいつも緊張して小さく小さく声を発するハルさんの笑い声とは思えなかったのだ。

 廊下の曲がり角に現れたのはハルさんとタクトさんで笑い合う二人を見た途端、すとんと納得がいった。こんなに楽しそうなら、こんな声が出てもなにもおかしくはないだろう。

 なんだ、やっぱり他の人があれこれ心配するまでもないくらい仲良いんじゃないか。

 俺が一人で納得していると、二人は俺がいることに相当びっくりしたようだった。

 そういうつもりはなかったのに立ち聞きみたいになっちゃったかな。話は聞いてなかったし、たまたまなんだけどな。と思いながらぺこりと頭を下げると、タクトさんがいつもの無表情に戻って頭を下げ、そそくさと去って行ってしまった。

 その場に残された俺とハルさんはお互いなんて言葉を発していいのかもわからず、へら、と笑いかけるしかなかった。

「えっと、あの、イアンさん、でしたよね」

 ハルさんは緊張しているようだったが、俺が明らかに年下なためか、それか俺がおどおどしているのが可哀想だったのか、必死で話題を探そうとしてくれているようだった。

「あ、お菓子の試作があるんですけど、もしよかったら、味見とか、どうですか?」

 散々目が泳いだ挙句のその言葉に飛びつくなと言われても無理がある。

「嬉しいです! 是非! あ、あの、先輩の一人が、すっごいお菓子好きなんですけど、呼んできてもいいでしょうか?」

 食い気味に言う俺にハルさんは一歩下りつつも頷いてくれた。

 よかった。俺だけご馳走になるわけにはいかない。シヴェル先輩は持ってきたお菓子がいつ無くなるかと心配しながら日々を送っているのだから。まあラキナ先輩に、だから初日から食べ過ぎるなって言ったんだと叱られているけど。

 慌てて先輩たちに合流して俺は伝えるべきことを身振り手振りで急いで説明をした。

 真面目に聞いてくれていたシヴェル先輩だけど、お菓子の話になったところで目がキランと輝いた。

「本当に?」

 ものすごい勢いで問われ、はいと頷くと、シヴェル先輩はちょっと正気に戻ったのかラキナ先輩の方を伺った。

「……まあ、お呼ばれして行かないのも良くないしな。俺が見回りしてるから、二人で行ってこい」

 ラキナ先輩のそんな優しい言葉に、シヴェル先輩は満面の笑顔を見せた。よほどお菓子に焦がれていたらしい。

 まあ甘い匂いがあちらこちらから漂ってくる環境なら無理はないのかもしれない。

 るんたかと嬉しそうなシヴェル先輩を引き連れ、もとい一緒にハルさんの待つ厨房の隣の休憩室に入る。

 非常に緊張しているらしいハルさんが何やら黄色い可愛らしいお菓子と共に待っていてくれた。

「僕もご一緒してよかったんでしょうか。すごく嬉しいんですけど、ハルさんのご迷惑ではないですか? とても嬉しいんですけど」

 精一杯大人な対応をしようとしているのはわかるが、欲望が滲み出ているのがバレバレだった。

 そんなシヴェル先輩にハルさんも少し緊張が解けているようだから、まあ結果オーライだな。

 多分シヴェル先輩の目がものすごくキラキラしてお菓子に向けられているというのもあると思う。自分に視線が向いていない方が落ち着くのかもしれない。

「これはカノーラの花に似せてるんです。まだ全部の花を上手く表現するのが難しいんですけど」

 そう言いながらハルさんはお菓子を俺たちに取り分けてくれた。たくさんの花がぎゅっと一つになっているそれは見ているだけで可愛らしい。

 ハルさんは自分が作ったお菓子のことになると少し饒舌になるようで、今まで聞いた中で一番話していたと思う。

「この辺りでは結婚する人にお祝いでカノーラの花を贈るんです。小さな花がたくさん付いているでしょう? こんな風に日々が幸せで満ちますようにって意味なんだそうです。だから、春に結婚する人が多いんですけど、できない人もいるでしょう? そういう人たちには、こういうお菓子を贈るようにすればいいんじゃないかなと思って、作ってみたんです」

「素敵ですね」

「ありがとうございます。自分が貰えたらすごく、嬉しいなって思って」

 ハルさんはとても嬉しそうに言っているのに、なぜかその目は寂しそうで、どうしてだろうと不思議だった。

「僕は貰えそうにないですけど」

 何かを諦めたような目をしていた。それを仕方ないことと割り切ろうとして、それでもできない人の目のようだった。

 シヴェル先輩は何かを言うわけでもなく、かといってお菓子を食べるわけでもなく、ただ黙ってハルさんを見ていた。

 俺はというと、ハルさんの元気とはいえないその姿を見て、ようやく言わなければいけないことを思い出した。

「あ、あの、すみません。さっき話そうと思ってたんですけど、タイミング掴めなくて。アヤさんって人、わかります? 幼馴染だって言ってたんですけど、さっきハルさんが元気で幸せにやってるかって心配してて」

「え、アヤちゃんが?」

 ハルさんはとても驚いた顔をして、それから納得したように何度も頷いた。

「……そうか、やっぱり、そうなんですね」

 どういう意味だろう、と俺が思っているのが伝わったのだろう。ハルさんはへらりと笑いながら言った。

「心配させて申し訳ないな、と」

 それが本心だけだとは思えなかったけど、でも問うのも躊躇われて、俺はお菓子をご馳走になることしかできなかった。

 優しい甘さが口いっぱいに広がって俺は幸せな気持ちになれたけど、作った張本人が幸せそうでないというのがどうにも物悲しかった。


 その日から魔力の塊が出るペースが格段に変わった。数も増えたし時間もバラバラで、見回りをしている甲斐があるといえば聞こえはいいが、困ることに変わりはない。

 一体どうしてこんなことに。怪しい人がいないかもきちんと気にかけているのに、何日経ってもそれらしき人は少しも見つからない。

 もちろんそれは俺の考えだから、先輩たちは何か掴んでいるのかもしれないけど。

「十五年くらい前に力のある魔物が倒された話は聞いてただろ。他の魔物と相討ちになったんじゃないかとも言われているけど、それにしては新たに魔物がこの辺りを彷徨くわけでもないからおかしいって不思議がられてるやつ」

 ラキナ先輩は帰ってくるなりそう言い出した。一人で近くに聞き周りに言っていたのだ。

「あれ、本当にすぐ近くだったみたいだ。道を挟んで向こうの家のすぐ側だって。それからずっとこの辺りに危険な魔物は来てないらしい」

「ラキナ、十五年前だよ。それが今のこととなんの関係があるわけ?」

「結論を急ぐなよ。関係あるかどうかなんてまだわからないけど、情報がないまま動くよりはいい。シヴェル、あんまり焦るな」

 わかってるけど、と言いながらも俺から見てもシヴェル先輩は焦っているように見えた。

 俺もシヴェル先輩の気持ちはよくわかるから、ラキナ先輩が落ち着いていてよかったと思う。ジタバタしたって仕方ないし。

 家の中をぐるっと一周する形で見回りをしていると、タクトさんがいたからぺこりと頭を下げた。すれ違うその時に、タクトさんの方から声をかけられた。

「あの、イアンさん」

 悩んだ挙句、といった風な顔をタクトさんはしていた。まあ最近ではハルさんもタクトさんもちょっと気を許してくれたのか話すこともあるのだけど。

 それはそれとして、二人が一緒にいるところはほとんど見ない。前は楽しそうに話してたのになんでかなと思わなくもないけど、まあ人前だと気恥ずかしいのかもしれないし。

「お仕事中にすみません。あの、ハルの作った菓子を食べたって聞いたんですけど」

「ああ、食べましたよ。おいしかったです」

 ぜひもう一度食べたいくらいはおいしかった。帰る時に買わせてもらおうと思っている。まあそれより先に今の状況をどうにかしなきゃなんだけど。

「実は噂が広がったせいか客が減っていて、新商品の広告を書こうと思ったんですけど」

 そう言いながら何やら紙を見せられる。例のカノーラの花のお菓子について書かれていて、大変わかりやすいのだが、ぶっちゃけ面白みが薄い。なるほど、真面目な人である。

 俺から見たらお客さん多いなって思うけど、減ってるのなら、それは大変だと思ったので、俺は持てる語彙力を全て使って美味しさを表現してみた。作文は得意な方だ。

 あと黒一色より色付けた方が良くないですか、なんてアドバイスしていると、不意にタクトさんがぱっと顔を上げた。

 なんだろうと俺もつられてそちらを見ると、なぜか外に出ようとしているハルさんがいた。

「ハル、どこ行くんだ」

 びくり、とハルさんの肩が揺れた。まるで見られたくない場面を見られたかのように。

 タクトさんは気にせずにハルさんの元に駆け寄って手を掴む。

「庭はだめだ。風邪引くだろ。もう寒いんだから、中にいないと」

 確かに肌寒いもんな、ハルさん身体丈夫じゃないって言ってたし。

 心配するタクトさんを見ようともせずになぜかハルさんはただ外を見ていた。

「なんでそんなに外に出ようとするんだ。この前も夜、部屋から出ようとしてただろ。何がうろついてるかもわからないのに、なんでそんなことするんだ」

 タクトさんがどれほど問いかけてもハルさんは目を逸らしていて、ぎゅうと唇を噛むばかりだった。

 え、これ、喧嘩かな。喧嘩か? 俺はどうすればいいんだ?

「ハル、やっぱり何か、知ってるんだろう?」

 俺が一人内心あわあわとしていると、タクトさんがそんなことを言い出して、思わず「え?」と言ってしまった。

 だけど二人は俺の言葉なんか聞いていないようだった。

 え、待って待って。知ってるって何。何かって何。

「言えない」

「なんで」

「だって」

 その先の言葉がハルさんの口から出ることはなかった。

「ハルと俺は」

 タクトさんの声が途端に大きくなる。引き攣ったような悲痛な声で、けれどようやく俺の存在を思い出したのか、それ以上は言わなかった。

 ハルさんもタクトさんも俺に謎ばかりを残して足早にどこかに行ってしまい、俺は一人取り残されることになった。


 俺の話し方は要領を得ないものだろうとわかっていたけど、意味がわからなすぎてわあわあと騒ぐように先輩たちに泣きついたのは仕方のないことだと許してもらいたい。

「何か知ってるってなんだ」

 ラキナ先輩は首を傾げているけど、俺だって聞きたいくらいだ。

 意味がわからない。だって本当に、どうして魔力の塊が来るのかをハルさんが知っているのなら、隠している理由がわからない。

「ラキナ、もしかしたら」

 シヴェル先輩が何かに気づいたように顔を上げた瞬間のことだった。

「ハル!」

 タクトさんの声だった。切羽詰まった声の響きにラキナ先輩とシヴェル先輩はすぐに反応して駆け出し、俺も遅れて着いて行く。

 そこにいたのは庭先で意識を失っているらしいハルさんと、そのハルさんを抱き留めているタクトさんだった。

 すぐ近くに浮かんでいる黒い塊に俺が注意を払うより先にラキナ先輩が剣を振るって消し去る。

「何があったんですか?」

 そう言いながら駆け寄ると、タクトさんはハルさん以上に顔を青くしながら首を振った。

「わからないんです。ただ、何かを言わないとって、伝えないとって言って、ハルが庭に出て、そしたら」

 その先は声が震えて言うことができないようだった。震えるタクトさんの腕の中でハルさんはぐったりとしている。

「とにかく中に。もしハルさんが意識を取り戻さないようなら」

 シヴェル先輩がそう言いかけた時、ハルさんのまぶたが薄っすらと開かれた。

「たくと」

 その言葉がハルさんから聞こえた時、その場にいる全員が安堵したのがわかった。

 意識は辛うじてあるものの辛そうなことに変わりのないハルさんを部屋の中に運んで布団に寝かせた。

 呼んできたモントさんはひどく心配していて、見ているだけで痛々しいほどだった。

 少し回復したハルさんが白湯を飲んで一息ついている間も、タクトさんが熱心に介抱する間も、先輩たちは顔を硬くするばかりだった。

「ハルさんは何を知っているんですか?」

 まだ布団の上にいるハルさんにラキナ先輩はそう問いかけた。

「誰がこんなことをしているのか、知っているんじゃないですか?」

 シヴェル先輩の言葉にタクトさんの顔が歪む。なにも今言わなくてもいいだろうと言いたいのだろう。

 俺もそう思わなくもなかったけど、シヴェル先輩の顔があまりに真剣で、俺には口を挟む余地などなかった。

「それはこの家の近くに住む、アヤという人に関係があるんですか?」

「……シヴェルさんが、どうして、それを」

「やっぱり、そうなんですね」

 全てを悟ったようにシヴェル先輩は頷いた。

 え、アヤさんって、あのアヤさん? あの俺が伝言を言付かったアヤさんなの? どういうこと? と俺が考えていると、先輩たちはさっと立ち上がって部屋を出て行ってしまう。

 え、え、なんでだ。俺も着いて行った方がいいのか? と腰を上げたもののこの場を離れていいのか躊躇っていると、ずっと黙っていたモントさんが口を開いた。

 驚きの表情の奥、目に微かに喜びのようなものが見え隠れするのは気のせいだろうか。

「ハル、お前どうしてあの子を庇って、お前まさか」

「そうじゃない!」

 今までに聞いたことのないハルさんの大きな声だった。

「違う、そうじゃない。僕はアヤちゃんのことは大切な友達だと思ってるけど、それ以外の感情はないよ」

「でも、お前」

「僕がそうはならないって、好きにならないって、父さんはよく知ってるくせに、どうしてそんなこと言うの?」

 ハル、とタクトさんが宥めるようにその名を呼んだ。けれどハルさんの悲痛な叫びは止まらなかった。

「僕が好きなのはタクトなのに!」

 その瞬間、ああそういうことかと全ての点と点が結ばれた気がした。

「本当なら僕はアヤちゃんにちゃんと会って話に行けたのに! だって僕には決まった相手がいるんだから、それなら年頃でもアヤちゃんに会ってもなんの問題もないのに。でも駄目だって言ったじゃないか。誰も僕がタクトと一緒になったなんて思ってないからって」

「ハル、それは」

「わかってるよ。僕とタクトが男同士だからでしょ! わかってるよ!」

 さっき倒れたばかりの身体で叫んだからか、ハルさんの喉から苦しそうな咳が何度もこぼれた。

 タクトさんはそんなハルさんの身体を大事に大事に抱き締めていた。

「大丈夫。ハル、大丈夫だから」

「なにが、なにが大丈夫なの。なんにも大丈夫じゃない」

「モントのおじさんとハルがわかってくれてる。俺は二人がいてくれれば、他の人なんてどうでもいいよ」

 何度も何度も首を振るハルさんをタクトさんは離さなかった。

「俺がハルのことが好きで、ハルが俺のことを好きなら、それで十分だよ」

 ハルさんの身体から力が抜けたのが見ている俺にもわかった。ハルさんの額がタクトさんの肩に押し当てられる。

「わかってるよ。わかってる。僕は恵まれてるんだって。父さんは僕らを責めなかったし、タクトを追い出しもしなかった。今も好きな人と一つ屋根の下で生活してる。恵まれてるよ。幸せだよ。わかってるよ」

「ハル、それなら」

「それでも、僕は当たり前みたいにおめでとうって言われたい」

 ぼろぼろと溢れるハルさんの涙が行き場もなく流れ行く。

「だって、なにがだめなの。なんで誰も言ってくれないの。僕とタクトが男同士ってだけで、どうして堂々と一緒にいることすらできないの」

 どうして二人が俺たちの前で多くの言葉を交わそうとしないのか、一緒にいるところを見られたらすぐに離れるのか、それらの意味が全部わかって、同時にこんな悲しいことがあっていいのかと思った。

「もし僕が女だったら違ったのかなって。タクトとは普通に結婚して、普通に家を継ぐことについても何にも文句は言われなくて、普通に祝福されたのかなって。そんなこと考えちゃう自分が嫌なんだよ」

「ハル」

「だって、そのままのタクトを好きになったのに。タクトもそのままの僕を好きになったのに」

 うん、と初めてタクトさんがハルさんの言葉に頷いた。

 慰めるでも否定するでもなく、ただその言葉に同意した。だってきっと、二人とも同じことを思っているのだろうから。

「どうして、カノーラの花を贈ってもらって、おめでとうって言われたいってことが、こんなに難しいの」

 ハルさんの作ったお菓子の優しい甘さと切ないくらいの繊細さを思い出す。

「ただ好きな人と一緒にいることを祝福してほしいだけなのに」

「ハル、ごめんな。俺と一緒になったせいで、当たり前の幸せをやれなくて」

「違う、ちがう、違うよ。そんなこと言ってほしいんじゃない。謝らせたいんじゃない。謝ってなんてほしくない。だって、僕たち、なんにもおかしいことなんてしてない」

 涙で濡れたハルさんの頬をタクトさんの手のひらが包み込んだ。

「それでも、これからもハルは辛い思いをする。俺は気にしなくても、ハルは気にする。でも離してやれない。俺はハルが好きだから」

「離したら怒るよ」

「うん。その分、俺はハルを愛すから。ハルが幸せだって言えるくらい、ずっと愛すから。だからいまは、それだけで許して。それしか俺はやれないから」

 うん、と何度もハルさんは頷いていて、つられて泣きそうになるものの、いやここで俺が泣いたら、こいつ居たのかよって思われるんじゃないかなと思ってギリギリのところで我慢する。

「イアンさん」

 ハルさんにそう呼びかけられて、やばい今頃気づかれたのかな、ごめんなさい出て行くタイミング掴めなかったんですよ、と心の中で言い訳する。

「お願い。イアンさん、お願い」

「え、何をですか?」

「アヤちゃんに言って。僕は幸せだから。大丈夫だから。こんなことやめてって。これ以上、アヤちゃんに傷ついて欲しくない。アヤちゃんは優しい人だから、きっとすごく傷ついてる」

 どうやらアヤさんがやっているというのは先輩たちの早とちりでも何でもなく事実のようで、必死に頼まれると俺はどうにも断ることができない。

 先輩たちに言ってからにしないと、と頭では思うのに少しでも早く言わないと。ハルさんがこんなに必死なのだから、きっと何か理由があるのだろうと俺はアヤさんの家へ向かった。


 そういえばこの辺りって、ラキナ先輩が言ってた十五年前の場所だったような。と頭の隅を掠めたけど、今はアヤさんを止める方が先だった。

 申し訳ないと思いつつドアをドンドンと叩いたけど、誰かが出てくる気配がない。

 仕方ない。非常事態だから、後で謝ろう。そう思ってぐるっと庭先まで回ると、アヤさんの姿が見えた。

「アヤさん!」

 俺がそう呼ぶと、アヤさんは俺の方を見て、微かに笑った。その瞬間、黒い魔力の塊がぷかぷかとアヤさんの周りに浮かんだ。

「そろそろ、来るかなって思ってました」

 アヤさんは諦めたようにそう言うから、俺はゆっくりとアヤさんに近づく。

「名前、なんだっけ。ごめんなさい、聞いてなかった。私、ハルくんのことばっかりで」

「……イアンです」

「イアンくん、あなた一人? 魔狼群の人、あと二人は来てないんですか?」

 不思議そうに首を傾げるアヤさんは、どうしてだろう。この前会った時より幼く見える。

「まあ、いいか。イアンくんがここに来たってことは、私の仕業だってバレたんだろうし。そしたら遅かれ早かれ他の人も来るだろうし。どっちにしても、私はもう、終わりだし」

「どういう意味ですか」

 アヤさんは戯れるように魔力の塊に手をかざすばかりで、俺の質問に答えてはくれない。

「アヤさん、もうやめましょう。ハルさんはアヤさんのこと責めてないです。優しい人だって言ってました」

「ハルくんは、変わんないなぁ」

 アヤさんはくしゃりと笑った。悲しそうな笑みだった。俺はこの人がこんな風に笑わなければいけない理由がわからなくて、どうしてこんなことになっているんだと誰かに問い詰めたくて、それをするべきなのはこの人相手ではないとも思うのだ。

「アヤさん、何か理由があったんですよね。確かに理由があってもしちゃだめなことだけど、でもきっと何かあったんですよね。何があったんですか。教えてください。俺、先輩たちに話します。大丈夫です。ハルさん、ちゃんと意識があります。怪我もしてないです」

「うん。知ってる。見えてたから。ハルくんを傷つけるつもりなんて全然なかったのに。誰も傷つけたくなかったのに。どうして、ハルくん近づいたりしたんだろう」

「何かを伝えないといけないって言ってたって、タクトさんが」

 タクトさんの名前が出た途端、アヤさんの表情が変わった。

「タクトくんは、前から、変わってないのかな。物静かで優しい人だったって、私は覚えてるんだけど、みんな違うことばっかり言う。あの二人が仲良くない、とか。そんなはずないのに」

「そんなのただの噂ですよ。俺、ハルさんに、幸せだから大丈夫だって言ってくれって言われました。こんなことやめてって。ねえ、一緒に謝りに行きましょう。大丈夫ですよ。夜ならきっと誰にも見つかりませんよ」

「夜なんて、だめだよ。私、その頃にはきっと、この世にいないもの」

 アヤさんの言っていることはほとんど俺には理解できなくて、どういう意味ですか、と尋ねるしかないのだ。

 アヤさんは宙を眺めて、まだ大丈夫かなとぽつりと呟いた。

「私ね、ずっと心配だったの。ハルくんとなかなか会えなくなって、お店に行っても姿を見かけるくらいだから、ハルくんがタクトくんと上手くやってるのかも、元気なのかも、幸せなのかもわかんなくて」

「今から聞きに行けますよ」

「だからね、ずっと、ずっとずっと、悩んでて、考えてて、だってタクトくん、あの家の養子になったの半年前なんだよ。タクトくん、十の時からあの家にいるの。だから、すっごく噂が広がって、私、あの家に走って行かないようにずっとずっとずっと我慢してた」

 俺はこんなに必死なのに、アヤさんは俺の話なんて聞いてくれないのだ。

「そしたらね、こうしたらいいんだよって、初めて私の力の使い方を教えてくれる生き物がやってきたの」

 その言葉を聞いた時、背中にぞくりとしたものが走った。

「小さな鳥、ううん、コウモリに似てるかな。そんな魔物がやってきてね、教えてくれたの。これをハルくんの家に飛ばしたら……なんて言えばいいのかな。そこで過去に起きたことが見えるっていうか、これに映るの」

「そのためにずっと魔力の塊を送り込んでたってことですか?」

「うん。本当に二人が幸せにやってるのか、これを見ればわかると思って。結局、見ても安心なんかできなかった。馬鹿なことしちゃったなぁ」

 アヤさんが手をかざすとふわふわと浮かぶそれの奥に何かが見えることに気づいた。

 幼いアヤさんとハルさんが笑い合っている。もう少し大きくなって、今度はタクトさんも入れた三人。

 場面が変わり、アヤさんがもう少し小さくなる。ちょうど今、俺たちがいる庭に幼いアヤさんがいる。そこに現れた大きな獣の姿、魔物だとすぐにわかった。

 小さなアヤさんは悲鳴を上げて逃げ惑う。道に飛び出したアヤさんに魔物が襲い掛かろうとする。アヤさんは闇雲に抵抗して、しばらくして魔物は倒れ、二度と起き上がらなかった。

 俺には分かった。魔物は魔力につられる。きっと何かあって魔力を消耗してしまった魔物がアヤさんを喰らおうとしたのだ。けれど元より魔力の強かったアヤさんに押し負けた。

「無我夢中だった。わけが分からなかった。なんで私を襲うのかも、なんで私みたいな子どもか倒せたのかも。分かったのは随分経ってからだった。私、魔力持ちだったみたい。みんなには隠してるから、知ってるのは多分、ハルくんだけ。今は君も、か」

 幼いアヤさんは自分のしてしまったことに怯え、ハルさんの家まで行ってハルさんに泣きついた。

「ハルくんはずっと優しかった。私に力があることが分かっても、誰にも内緒にしてくれた。大丈夫だよ、誰にも言わないからって言ってくれたの。ハルくんは今でも私の一番の友達。ずっと話せてないけど」

 アヤさんはそう言いながらひどく寂しそうに笑った。

「ハルくんのお母さんが亡くなった時、私はハルくんに会えなかった。もう気軽に会える年じゃないからって。馬鹿みたい。私は誰とも結婚する気はないのに。だってもしこの力がバレて怖がられたらって思うと、できないもん」

 また違う場面が映し出される。今の顔に近いけれどもう少し若いハルさんとタクトさんだった。

『大丈夫。ハル、大丈夫だから』

 泣きじゃくるハルさんをタクトさんが優しく慰めていた。

『ハルは俺が父さんと母さんが死んで、悲しんでた時にずっと俺と一緒にいてくれた。今度は俺の番だよ。ずっとハルのそばにいるよ』

 寄り添い合う二人の姿をアヤさんは見つめていた。そしてふっと俺がいたのを思い出したようだった。

「私の元にやってきた魔物はね、これは実験だって言ってた。魔力の持つ人間をどれだけ遠くから自由に操れるかの人間だって。だから、魔狼群に見つかるなとも言われてた」

「え?」

「もし見つかったら、私は終わりだって。実験も終わりだって。だから、私は、もう」

 そう言った途端、空からアヤさんの言っていた通り、コウモリに似た魔物が急下降しながら向かってくるのが見えた、

「アヤさん、下がって!」

 そう言いながら護身用に持たされた小さな剣を懐から取り出して、とても速く飛ぶそれに当てることにできたのは奇跡に近かった。

 ラキナ先輩ほど上手く動けるはずはなく、シヴェル先輩なんて夢のまた夢だったけど、今動けるのは俺しかいない。

 ああ、もう! 護衛班と実行班希望のやつは真面目に訓練しろよって言われてたけど、本当だな! もっと頑張ればよかった!

 何匹も襲ってくるそれは速いものの力は弱い。だけど当たれば怪我するのは間違いない。

 ああ、先輩たち気づいてくれないかな。なんて都合のいいことを考えながら必死で対応していると、俺の後ろにいるアヤさんが不思議そうな声を上げた。

「イアンくん、なにしてるの。私のことはいいから、仕方ないのよ。私はこの魔物に危害が加えられないの。だって後から後から湧いてくるんだもの。だから、あなたは早く逃げた方が」

「そんなことできるはずないでしょう! そんな風に脅されているのなら、間違いなくアヤさんは魔狼群の保護対象です!」

 叫ぶように言ったせいで狙いが逸れ、距離を詰められてしまう。ああ、面倒でもしっかりした剣の貸し出し申請出せばよかった。

 ぶつかる、と覚悟を決めかけたところで、目の前の魔物の群れが一瞬で吹き飛ばされる。見えた剣の切っ先に誰だかすぐにわかる。

「ラキナ先輩」

 呼びかけたと同時にぐいと手を引かれた。少し怒ったようなラキナ先輩の顔だったけど、来てくれたことが嬉しすぎたし、頼しすぎた。

「学生が研修中に無断で先輩から離れるな。何かあったらどうするんだ」

「すみません!」

 ちょっと元気に謝りすぎた途端、シヴェル先輩がするりと間に入ってくれた。

「まあ、僕らも悪かったよ。急いで知らせて応援に来てもらわないとって思ったから、イアンのこと置いてっちゃったしね」

「はい! すみません! 来てくれてありがとうございます! 場所はすぐにわかりましたか?」

「うーん、元気だね。反省はしてね? 場所はまあ、ハルさんから色々聞いてね」

 そう言いながらシヴェル先輩はくるりと向きを変えた。

「あなたがアヤさんですね。話は聞いてます。ここは危ないですから、詳しい話は他所でしましょう。あなたの置かれた現状は大方理解しています。魔狼群であなたを保護したいのですがよろしいですか? あと、この家には他に誰かいますか? 巻き込まれたら大変ですから」

「いえ、あの、両親は出かけていて……それより、どうして私を助けようとするんですか」

 シヴェル先輩はラキナ先輩が戦っているから安心しているのだろうか、ゆったりと首を傾げた。

「なぜ? 困っている人を助けられる人が助けるのは当然では?」

「そ、それはよく、わかりませんけど、でも、魔狼群は魔力持ちの人を嫌っているのではないんですか?」

「そう聞いたんですか? 違いますよ。魔力耐性を持って生まれることも、魔力を持って生まれることも、罪ではありません。僕もあなたもそう生まれたことは今のこの世界では生きにくいけど、でも決して罪ではないんですよ」

 アヤさんは何かとんでもないことを聞いたかのように目を見開いて、なんの言葉も発することができないようだった。

「さあ、早くこちらへ。ハルさんがどうしてもあなたに会いたいって言ってるんです。場所を移る前に少しだけでも」

 シヴェル先輩に言われて呆然としていたアヤさんの目に少し光が戻った気がした。

 俺はシヴェル先輩に着いて行きながらも心配で少し振り返ってしまう。

「あの、シヴェル先輩。ラキナ先輩は一人で大丈夫なんでしょうか?」

「うん、平気だよ。あれは厄介なタイプの魔物だし、裏から手を引く人間がいるみたいだけど、応援を呼んだから。近くにいたみたいで、駆けつけてくれたよ」

 シヴェル先輩が自信ありげに言った途端、俺たちの横を走り抜ける二人の姿があった。

 風にたなびく二人の髪の視界に掠める。護衛班ではない制服と身のこなしの軽さ。何より学生の俺でも見覚えのある姿に思わず声を上げてしまう。

「え、えっ。あの二人って、もしかして、実行班のユーリさんとルカさんですか? うわ、久しぶりに顔見られた〜! 五年活躍できれば充分な実行班でかれこれ十年以上も活躍している方たちですよね! 尊敬しかない……」

「あー、そんな有名なの? 僕とラキナの保護者なんだけど、めちゃくちゃ急いで来てくれたの。ちょっと過保護だよねぇ? まあ、呼んでおいて文句は言えないんだけど」

「えっ! 十年くらい前に子どもを引き取ったとは聞いてましたけど、二人のことだったんですか? 衝撃の事実なんですけど!」

 興奮する俺をよそに、シヴェル先輩は曖昧に笑った。

「後輩の面倒ちゃんと見ろって、あとで叱られそう」

 そのシヴェル先輩の言葉があんまりにも柔らかかったから、俺は遠い人たちだと思っていたあの二人を急に身近に感じてしまった。

 三人に任せておけば大丈夫だから、と言われて俺たちは魔物がうろつく庭を抜ける。ハルさんの家に、と言うより先にハルさんは俺たちを、いやアヤさんを待っていた。

「アヤちゃん!」

 名前を呼ばれて、ハルくん、とアヤさんが震える声を返した。

「アヤちゃん、ごめん。ごめんね。僕、すぐにアヤちゃんかもしれないって思ったのに、違うかもって思うとアヤちゃんに会いに行けなかった。父さんが魔狼群の人を呼ぶって言った時も止めなかった。ごめんね、もっと早く動けばよかった」

「違うよ、ハルくん。私が、勝手に不安になって」

「ううん。もっと前に僕が言いに行けばよかった。アヤちゃんならきっと分かってくれたのに、怖がって行かなかったんだ」

 ハルさんはアヤさんの顔を真っ直ぐに見ながら幸せそうに笑った。

「アヤちゃん、僕とタクトね、好き合ってるから結婚したんだよ。父さんがね、タクトが自分の息子になったら、結婚したのと同じにならないかって言ってくれたの。他の人たちみたいに結婚はできなくても、それに近いことがどうしてもしたかったの。今ね、ずっとタクトと一緒にいられて、すごく、すごく」

 ハルさんの幸せそうな笑顔から涙が一筋溢れた。

「アヤちゃん、僕、幸せなんだよ」

「なんだ、やっぱり、そうだったんだ。大人の言うことなんか、嘘ばっかり。わかってたのになぁ、私。タクトくんが来たばかりの頃、暗くて何考えてるかわかんないってみんな言ってた。でもタクトくん、私にもいつも優しかった。自分で見たこと、聞いたことしか役に立たないって知ってたのに。私もいつの間にか、嫌な大人の仲間入りしてたのかなぁ」

 アヤさんは子どもみたいな顔をして泣くのと笑うのと半分半分の顔をしていた。

「私が男の子ならよかった。そしたら、ずっとハルくんと一緒にいられた。ハルくんの幸せな話、ずっと聞いていられた」

「違うよ、アヤちゃん、違う。そんなの関係ないよ。だって、僕もタクトも男同士だけど、でも好きなんだよ。そういうのに性別って、多分関係ないんだ」

 ハルさんはアヤさんを励ますように笑った。

「アヤちゃん、僕らはずっと友達だよ」


 魔力を使って問題行為を働いた場合、その身柄の行方は国が決めるが、今回の場合ハルさんが大事にはしたくないと訴えたため、アヤさんはそのまま魔狼群の保護下に入った。

 アヤさんを良いように操ろうとした存在は未だ捕らえられていないけど、その辺りは主に実行班や視察班の仕事なので、俺ができることはない。

 俺と先輩たちがしたことといえば、ハルさんたちの家に魔物が来ないかどうか念のためしばらく護衛を続けたことくらいだ。

 少しして魔狼群から引き上げて良しとの連絡があり、俺たちは揃って帰ることになった。

 ありがとうございました、と三人が頭を下げてくれて俺が恐縮していると、シヴェル先輩がすっとハルさんとタクトさんの前に出た。

「おめでとうございます」

 そう言いながら差し出したのはカノーラの花で、なんでずっと後ろ手で何を隠してたんだろうと思っていた謎が解けた。

「結婚のお祝いです。おめでとうございます」

 ね、とシヴェル先輩がラキナ先輩に目配せをする。二人して俺に黙ってこんなサプライズを? と素直に感動した。

 ハルさんはぽろぽろと涙をこぼしていて、隣にいるタクトさんも泣き出しそうだった。

「ずっと、僕らだけなのかなって思ってました。僕らだけが、こうなのかなって。でも、もしかしたら、違うのかなって。おかしいことではないのかなって、だってシヴェルさんたち、こんな風にお祝い、してくれて」

 シヴェル先輩はとても柔らかく笑った。

「二人だけではないですよ。ちなみに僕らの保護者二人も女性同士で付き合ってますし、当たり前にそれを話して生きてます。人が誰かに惹かれることに性別が壁になることって、世間の目とか無くなっちゃえば、本当はそんなにないんじゃないかな」

「そう、なんでしょうか」

「僕らのいる魔狼群では人生を共に生きたいと思う人を選ぶのに性別が問われることはないし、そもそも一人に絞ることさえ決められてません。誰かを選ばないのだって当たり前に自由です。そういう世界もあります。あなた達だけでは決してないです」

 二人の手にしっかりとカノーラの花を手渡しながらシヴェル先輩は言う。

「僕らはそういう世界に身を置いているから、あなた達の苦しみを全部理解できているかといわれたらわからないし、他人のことを全部理解するなんて多分無理なことなのでしょうけど、それでも祝福されたいと思う人が祝福されないのはよくないと僕は思うので」

「ありがとうございます、ほんとうに、ありがとう」

「どういたしまして。こちらこそ、この世界で幸せになってくれてありがとう。いつか、魔狼群に来てください。アヤさんはとりあえずこちらで身の振り方を考えると言っています。会いに来てください」

 いつでも待ってます、という言葉に頷く二人を見て、シヴェル先輩の幸福に近づくというのはこういうことだろうとすとんと納得がいった。

 ちなみにその後、綺麗にお別れができれば完璧だったのだが、シヴェル先輩はここまで我慢したんだからとばかりにお店のお菓子を全種類きっちりと買った。

 あとお土産だのお礼だのとプラスで買い、なおかつ新商品のカノーラの花のお菓子は綺麗に包んでもらっていた。明らかに荷物が多すぎである。

「誰が持つと思ってるんだ、誰が。ていうか、この量でお前はバスに乗るつもりか」

 ラキナ先輩がそう言って叱ったのも無理はないことだ。これ美味しそうだから三個ほど、と言い出したのを一個にしろと止められたのも仕方ない。

「僕とラキナに決まってるだろ、なに言ってるの。あと、バス乗らないでどうやって帰るの。歩くの? 走るの? 僕は嫌だよ」

「俺だって嫌だわ。ていうか、俺が持つのを決定事項のように言うな」

「でも持ってくれるでしょ」

 シヴェル先輩のさぞ当たり前と言わんばかりの言葉に「持つけども」と答えたラキナ先輩を見てハルさんが笑いを噛み殺しているのがわかったから、俺は盛大に笑っておくことにした。


 帰りのバスは鮮やかな赤色で、行きと同じように丸っこい可愛らしいバスだった。

「カノーラの花って、春しか咲かないんですよね? どうやって手に入れたんです?」

 俺はバスの中で揺られながら、シヴェル先輩にそう尋ねた。早咲きといっても早すぎる。

「あー、この前話した隣の国で護衛した人たちが今、魔狼群と協力して魔植物育ててくれてるんだけど、カノーラの花を年中咲かせるようにしたいって言ってたの思い出してさ。ちょうど上手く咲いたのがあったからって送ってくれたの」

「え、凄くないですか、それ」

「すごいよ、画期的だよね。いやー、結構遠いからさ、早めに頼んでよかったよ。僕の勘もたまには役に立つよね。まあ、無理を承知で頼んじゃったから、カノーラの花のお菓子はお礼で送るし、他にも色々しないとね」

 それくらいの価値はある綺麗な花だったよね、とシヴェル先輩は笑う。

「でもね、本当はラキナからの提案なんだよ? 自分で渡せばいいのに」

「あのな、渡したら渡したで不機嫌になるのはお前だろ。俺がお前にあげないで、他の奴にあげたら不機嫌になったことが何回あるんだ、シヴェル」

「うーん、それもそうだね」

 あまりの手のひら返しの速さに笑ってしまう。

「僕も渡したかったのは本当。もし何かが違ってたら、俺たちもああなってたのかなって思うと、何かせずにはいられなかった。一歩魔狼群から出たら、もし俺たちが魔狼群以外の場所で出会っていたら、そう思うとねぇ」

 シヴェル先輩の瞳がどこか遠くを映したように揺れる。学生だったシヴェル先輩はよくこんな目をしていて、けれどそれはラキナ先輩が声をかけるだけで和らぐ。俺はそれをよく覚えている。

「あれ、先輩たちって、付き合ってましたっけ? ユーリさんとルカさんは有名ですけど」

「んー、いや、付き合ってはないよ。ていうか、いまいちよくわかんないっていうか。一個の名前に絞んなくても、僕はラキナが一番で、ラキナが僕のこと一番なのは世界の常識なわけだからさ。別にそれでいいかなって」

「その常識は初めて聞きましたけど、そうなんですね」

 ラキナ先輩が否定しないということは、二人の世界ではそうなのだろう。

「僕はさ、もしこの世界が絶対に恋人を作らなきゃいけない世界だとしたら、間違いなくラキナを選ぶわけだからさ」

「その世界は前提としておかしすぎるだろ。そんな超個人的なことを決まりとして強制するなんて、恋人を作るより先に世界を変えるべきだ」

「はいはい。言葉の綾だから、ラキナはちょっとだけ黙っててね」

 ぴしゃり、と跳ね除けられて、む、とラキナ先輩は口を歪めている。

「人間同士の関係なんて、何かが少しでも違えば変わっちゃうものだって思ってるから、他人事だなんて言えないよ。自分達は魔狼群にいられてよかった、なんてもっと言えない。そんなこと言ったら、自分には関係ないことだと切り捨てることと同じだから」

 それはしたくない、とシヴェル先輩は綺麗に笑い切って、それから唐突に話題を変えた。

「で、イアンはどう? びびっと来ること、あった?」

 初日に聞かれたことだ、と気づいて俺はにっこりと笑って見せた。

「えーと、魔狼群って、広報に力を入れようって言ってるわりに広報班は人手不足じゃないですか」

「どこも人手は全然足りないけど、まあそうだね。やること多いんだよね。魔狼群ってさあ、世界各国にあるから。しかもどこも平等に、だからさ。難しいよねぇ、大事なことだけど」

 うんうん、とラキナ先輩が頷いているのを見ると切実なところなのだろう。

 というかラキナ先輩、律儀に喋るの我慢してるの面白いな。もういいよ、とシヴェル先輩が苦笑しながら言っている。いや、あなたが黙っててって言ったんですけどね?

「だから俺、広報もいいかなって思いました。結局のとこ、地道に広めていくしかないわけですし。急がば回れですよね。頑張ります」

「頑張れ、頑張れ。人手増やして、休暇も増やしちゃって。僕のお菓子のために……」

 お前はほんとお菓子ばっかりだな、とラキナ先輩が笑うから、三人でけらけらと笑った。

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