第1話

 春祭りが近い街には彩りが溢れている。ひらひらとした花飾りを避けながら必死で足を進めているだけで、あまりの情報量の多さに目眩がしそうだった。

 村育ちの私達にとって街の人混みというだけで緊張してしまうのに、人目を避けながら移動しなければいけないから尚更疲れてしまう。

「ねえ、姉さん。本当に魔狼群の護衛を頼むの?」

 私の手を掴んでずんずんと歩く姉のアンナに問いかける。

 姉さんはちらりと私の方を振り返った。私と同じ深い緑色の目が一瞬だけ迷うように揺れて、すぐに力強いものへと変わる。

「それ以外にどうしようもないでしょ、ハンナ。私達が頼れるのなんて、魔狼群の護衛くらいよ。あそこ以外にすぐ引き受けてくれるところが見つかるとも思えないし。私達みたいな女二人旅、他のところだと足元見られてまともな護衛を貸してくれないわ」

 淀みない返事だけど、姉さんの手から不安が伝わってくる。姉さんだって怖いのだ。姉さんに任せてばかりじゃなくて、私も覚悟を決めなければいけない。

「姉さんは魔狼群を信用してるの?」

 少なくとも私達の住んでいた村では信用なんて欠片もなかった。向こうは分け隔てなく助けの手を貸そうとしてくれていたようだけど、胡散臭い連中だと村の人達は嫌っていた。

 私は、私はどうだろう。考えたこともなかった。今までは父さんと母さんに何もかも任せていられる子どもだったから考える必要もなかった。でも今はもうそんなわけにはいかない。

「今はあそこ以外は頼れないだけよ」

 姉さんはそうきっぱりと言い切った。何を信じるか何を信じないかきちんと見極めなければこの世界で姉妹二人で生き残ってなどいけやしない。

 魔狼群が関係してある建物は見ただけですぐに分かる。狼の形に切り取られた銀色のプレートが掲げられている建物は魔狼群の印だ。

 文字も何も書かれていないシンプルなそれを私がぼうっと眺めていると、姉さんは大きく息を吸い込んでつかつかと中に入って行った。

 繋がれた手が離れないように私も慌てて足を動かす。建物内は想像していたよりも簡素だった上に人もまばらだった。もっと筋骨隆々な人で溢れているイメージだったのに。

 姉さんは躊躇なくテーブルの前で待機している受け付け係であろう人に話しかけた。

「街道ではなく森を抜ける近道のルートでサヴィラの街まで行きたいので、短期護衛を雇いたいんですけど、いま空いてますか? 馬車も一緒に頼みます」

 姉さんの頼みにゆったりと頷いたその人は幾つか説明をした後に「他に護衛の細かい希望はありますか?」と穏やかに尋ねた。姉さんは「特には」と首を振った。

 テーブルに置かれた鐘が持ち上げられてリンリンと短く鳴らされた。

「すぐに来ますよ。お二人とも運が良い。今、ここには優秀な護衛のペアが控えておりますので」

 そうですか、と姉さんは短く答えた。座って待っていてくださいと指し示された椅子に腰を下ろす前にその人達は私達の前に姿を現した。

 二人とも想像よりもずっと若そうに見える。護衛というのは屈強でそれなりの歳の人だとばかり思っていた。

 片方の人は温和そうでにこやかにこちらを見ているが、もう片方の人は微笑みひとつ浮かべない無愛想もとい真面目そうな人だ。

 温和そうな人が一歩こちらに歩み寄り、それからゆっくりと一礼した。

「初めまして、魔狼群護衛班のシヴェルです。よろしくお願いします」

「シヴェルのパートナー、魔狼群護衛班のラキナと申します。若輩者ですが精一杯努めさせていただきます」

 穏やかなシヴェルさんの挨拶に重ねるようにしてもう一人の方も淡々と自己紹介しているけれど、謙遜しているようにはあまり聞こえないのは気のせいだろうか。まあ優秀だと言われていたし、仕方ないのかもしれない。

「えーと、僕らの顔に何かついてますか?」

 つい興味本位で顔を眺めすぎてしまったのか、シヴェルさんにそう尋ねられてしまって慌てる。姉さんにもハンナはぼんやりしすぎだとよく叱られるのだ。

「いえ、あの、随分お若そうに見えたので」

 不躾にすみません、と頭を下げると姉さんも一緒に頭を下げてくれて申し訳なくなる。

 はは、とシヴェルさんは軽やかに笑った。

「これでも護衛になって一年は経ってますからご心配なく。ラキナの腕は確かです」

「ラキナの、ということは、シヴェルさん貴方は?」

 姉さんの方がよほど不躾じゃないか、と思ってしまうほどに間髪入れずに放たれた鋭い質問だった。

「すみません。僕は魔物と対峙するのには向いていなくて」

 さほど困った様子も申し訳なさそうな様子もなくシヴェルさんは言い切った。

 よく見てみると、ラキナさんの腰には剣があるけどシヴェルさんにはなかった。どちらも魔狼群の護衛と一目で分かる服を黒を基調とした騎士服に似たものを着ているからすぐには気づかなかったけど。

 続けて何かを尋ねようとした姉さんの言葉が飛び出す前に黙って成り行きを見ていたラキナさんが口を開く。

「何かあった場合は俺が対処しますから、ご心配なく」

「うん。頼りにしてるよ、ラキナ」

 にこにこ、とラキナさんに向けて幼く笑ったシヴェルさんはまたくるりと私達の方を向き直る。

 随分身軽な人なんだな、と身振りが大きくても足音ひとつ立てないことに気付いてから思った。護衛とは皆こうなのだろうか。

「それでは、知っていたら申し訳ないのですが、魔狼群について一応説明しておきますね。規則なので。よろしいですか?」

「……ええ、構いません」

「では、お言葉に甘えて。知っての通り、僕ら魔狼群は魔力を持つものと持たざるものの架け橋になる存在です。とはいえ、魔力を持つ魔物は人間の住む場所から一歩離れればたくさんいますから、一般の方には危険ですよね。お二人のように森を渡る場合は特に。ですから僕らのような護衛がしっかり守って街までお連れします。魔物と遭遇して傷つくのはどちらにとっても不幸ですから。僕ら二人ともしっかりした魔力耐性がありますから、ご安心くださいね」

 そんなことは知っている、と言いたげな姉さんの顔を見せられても動じていない二人はすごい人だなぁと思う。私はずっと一緒にいるから怒ってるなぁくらいにしか思わないけど。

 でも確かに説明されたことは知っている内容だ。私達の両親はきちんと教えてくれたから。

 時折生まれる魔力耐性のある子どもを親元から引き離して育て利用して魔狼群は大きくなったのだとも言われているが、そんなに酷い扱いをする組織ではないだろうと教えてくれた。

 この二人は少し変わり者ではあるようだけど、虐げられて無理に仕事をしているようには見えないから、両親の説明はきっと正しい。

「すみません。魔狼群のこと、詳しく知らない人はまだまだ多いんですよ。魔物討伐を仕事にしているって思っている人までいるくらいなので。真逆ですよねぇ」

 シヴェルさんの言い分を聞いて、へえ、と思わず姉さんと同時に言ってしまった。

 この世界には自分の思い込みで突っ走ってしまう人がそんなに多くいるのか、と思わずにはいられない。

 それならば、私達の身に起きてしまったことも仕方のないことなのだろうか。

 シヴェル、とラキナさんが窘めるように名前を呼んだ。肘で突かれて、おっと、という風にシヴェルさんが話を切り上げる。

「喋りすぎましたね、すみません。馬車は裏に繋いであります。行きましょうか」

 多分姉さんは大丈夫かな、と思っているのだろうけど私はこの人達でよかったと既に思っていた。だってもし予想通りの真面目そうな年上の人が護衛だったら息が詰まりそうだ。


 馬車に乗るなんていつぶりだろうか。両親に連れられて遠くの街に買い出しに行った時以来かもしれない。

 揺れる馬車に乗りながら私はつい周りばかりを見てしまう。落ち着きのない私を見ても姉さんが叱ってこないから、多分姉さんも落ち着かないのだろう。そもそもこんなに遠くまで出てくるのも久しぶりだし。

 前の座席に座って馬の手綱を握っているラキナさん達をちらりと見る。いたって落ち着いている二人を見るとはしゃいでいるのが少し気恥ずかしい。

 さっきだって馬に引き合わせられて、かなり大袈裟な反応をしてしまったのだ。村にはいたけど、乗る機会全くなんてなかったし、近寄ることもできなかったから、つい。

「お二人さん、お菓子はいりませんか?」

 私が内心反省していると、シヴェルさんがくるりとこちらを振り返りながら可愛らしい布で作られた小袋を見せてきた。

「キャンディです。おいしいですよ」

 そう言いながらシヴェルさんはオレンジ色の丸いものを取り出して自分の口に入れた。からころと音を立てて食べながらラキナさんに向けても小袋を差し出す。

「ラキナもいる?」

「……お前の分がなくなる」

「いっぱい買い込んできたから、大丈夫」

 ひょいと有無を言わせずラキナさんの口にも放り込んだシヴェルさんは私達に向けてにっこり笑ってくる。

 家で作れるようなお菓子ならともかく、こんなお店で買わないと手に入らないようなものが目の前に出されると、つい手を伸ばしてしまった。

「ハンナさんも甘いものがお好きですか? 僕もすごく好きなんですけど、ラキナによく叱られるんですよ。身体に悪いって」

「お前は食べ過ぎ」

 呆れたように言うラキナさんに、ふふと笑ってから私もころんと口に入れてみる。疲れが吹っ飛ぶような強烈な甘さだ。

 姉さんも私を窘めようとしたみたいだったけど、好奇心には勝てなかったのか一つ貰って、おいしいと感激したように呟いていた。

 よかった。姉さんが久しぶりに笑ってる。そう安堵したのも束の間、にわかにラキナさんの眼差しが急に鋭くなる。

「シヴェル」

「うん、わかってる」

 その声も同じくらい鋭く、声をかけられたシヴェルさんも注意深く周りを見ていた。まだ森に入ったばかりだというのに、どうしたのだろう。

「出くわすのが随分早いな。この辺りにはあまりいないはずなんだけど」

 ラキナさんの言葉に私達が怯えで身を固くしたのが分かったのか、シヴェルさんがにこりと笑顔を見せてくる。

「あっちの辺りに魔物がいるみたいなんですけど、距離が離れてるので心配しなくていいです。ただちょっと道を変更しますね」

 ラキナさんに揺れるから掴まるよう指示を受け、その通りにした途端、馬は足を速め荷台がガタガタと揺れた。

 少しした辺りで聞かずにはいられなかったのか揺れるのも気にせずに姉さんが口を開いた。

「魔力耐性のある方って、魔物がいるかどうかも分かるんですか? 魔力耐性は魔物が発する魔力に対して影響が無いというだけの力だと私は認識してたんですが」

「ああ、別に間違ってはないですよ。僕らが分かるのは、魔狼群での訓練や勘のおかげです。できるだけ魔物には出くわさないのが一番ですからね」

 魔物の発する魔力はそれだけで人間の脅威になる。向こうがこちらを傷つける意思がなくとも近寄るだけで身体は拒否感を覚えて苦しみや痛みに支配されるのだ。

 それに対して魔力耐性を持つ極一部の人間は魔物に近づいても影響を受けない。素晴らしい力ではあるが、同時に人間からは恐れられる。

 魔物に対して恐怖を覚えない人間など、果たしてそれが人間と言えるのか、と。

 暗い話題になりそうなのを察したのか、シヴェルさんは揺れていることなど微塵も感じさせない笑顔でさらりと話題を変えた。

「そういえば、サヴィラの街にいかれるんでしたよね。あの街はいいところですよね。温暖な地域だし、美味しいものが多いし。何より魔物とも安全な関わり方ができてます。あそこは魔狼群とも繋がりが深いんですよ。観光ですか?」

「……いえ、二人で店を開こうかと」

「へえ。じゃあ、あちらで暮らすんですね。どんなお店ですか?」

 シヴェルさんの無邪気な言葉に姉さんが一瞬言葉を詰まらせたのが私には分かった。

「……薬屋のようなものです。薬草とか。代々そういうものを育てる家系なので。サヴィラの街にそういう店はありますか?」

「うーん、医者は何人か在住していたはずですけど、薬屋はどうだったかな。大きい流行の店は無いかと思いますよ。もしあったなら覚えてると思いますし、っ、あいた!」

 ガタン、と大きく揺れたところでシヴェルさんが悲鳴に似た声を上げた。

「……舌を噛みました」

 三人に同時に注目されたシヴェルさんは照れ笑いをしながらそう言ったから、二の舞にならないように私達の口数は少なくなった。


 辺りが暗くなりかけ、森に野宿をすることになると、無愛想で堅物そうなラキナさんが意外と過保護で面白みのある人だということが発覚した。

 それはシヴェルさんが舌を噛んだだけに留まらず、薪にするために拾った枝のトゲが指に刺さったり、葉っぱに溜まっていた雨水のせいで地味に袖を濡らしたりということを繰り返す度にシヴェルさんを叱りつけつつ心配するラキナさんを見て発覚したことだ。

 わりと容赦のない言葉とそれに対するシヴェルさんの気にも止めていないようなのほほんとした様子に笑ってしまったことも一度や二度ではない。

「お前は頼むから、もうあんまり動くな」

 最終的に呆れたラキナさんにそう言われ、シヴェルさんはちょこんと腰掛けて火の番をすることにしたらしい。火の粉が飛ばないことを祈ろう。

 聞いてみると屋外、特にこういった森での護衛は珍しいのだという。だから慣れていないのかもしれない。それにしても屋内での護衛って、どういう風に行われるのだろう。魔物は外にいるものだと思うけど。

 馬車に揺られて持ち物の配置が変わったりしていないかと持ち物の確認していた姉さんがちょっとだけ緊張の取れた顔で言う。

「ハンナより手がかかりそうな人ね」

「姉さん、私がすごく手のかかる子みたいに聞こえる」

「合ってるじゃない」

 もう、と怒ったふりをする私に姉さんは楽しそうに笑った。暗い顔をされるよりよほどいい。

 火を焚いて食事の準備を始めると、薪が足りないからとラキナさんと姉さんは揃って少し離れた場所まで足を伸ばすことになった。

 姉さん一人では危険だから行くならば二人で行くのは当然だけど、それなら待っていると言うかと思ったのに案外素直に姉さんは着いて行ってしまって、私は声をかける暇もなかった。

 一人日の周りで何かを棒に刺しているシヴェルさんの元に私は近づいた。火の側は温かく、一度寄ると離れ難かった。

「姉さんって、結構人見知りする方だから、びっくりしました」

「人見知りはラキナもしますよ。あ、僕もか。僕らって、結構二人で完結しちゃうとこあるんで、よく保護者に叱られます」

「シヴェルさんが?」

 そんな風には見えないと言うと、ただ笑われた。人付き合いは良さそうに見えるのだけど。

 それ以上は答えてくれないから、シヴェルさんが黙々と棒に刺している白い小さな塊のようなものが気になった。

「それなんです?」

「マシュマロです。焼くと美味しいんですよ」

 焦げ目がつくまで待ってくださいね、なんて言われてしまう。私が待ち切れずに催促した子どもみたいだった。

 最初に若いと思った通り、多分この人は私達と一つか二つくらいしか歳が違わないのではと思うのだけど、手がかかりそうに見えてもしっかり仕事をしている為か大人びても見えた。

「姉さんはラキナさんみたいな人がいいのかな。ラキナさんって、結婚とかしてるんですか?」

 火をぼんやりと見つめながら、つい口が滑ってそんなことを言ってしまった。

 でもラキナさん、すごくシヴェルさんに構ってるし大切そうだし、何よりまだ若いから結婚とかはないかな。

 ぽかん、とした顔でシヴェルさんに見られていることに気づいて、自分がどれだけ考え無しなことを言ってしまったのかを悟った。

「す、すみません。今日会ったばかりなのに、不躾なこと言ったりして」

「いえ……」

 シヴェルさんは首を振りながらも困惑しているようだった。無理はないし、心底申し訳なかった。

「あの、本当にすみません。言い訳に聞こえるかもしれないんですけど、うちの両親、私達に早く結婚して欲しいって思っている人達だったので。ずっと言われてきたからか、なんていうか、姉さんが結婚して家を継いで、そうして私が家を出ていくってイメージがずっとあって。すみません、やっぱり言い訳ですね」

「僕はマシュマロ焼いてますから、話していいですよ」

「……ありがとうございます。今は別に、結婚を急ぐ必要とか全然ないんですけど、なんか考えちゃって。新しい生活が始まるからかな」

 見たこともない食べ物が目の前で真っ赤な火に煽られていることがひどく非日常で、だからこんなに言葉が溢れてくるのかもしれなかった。

「でも姉さん、どういう感じの人が好きとか全然言わないんですよね。でも私も分からないからしょうがないのかな。あんまり人と関われる方じゃなかったから。シヴェルさんは、えっと、嫌じゃなければなんですけど、そういう人って」

「うーん、恋愛的な意味での好きとかそういうのはよく分かりませんが、誰よりも大事にしたい人はいますよ」

 シヴェルさんはふわりとマシュマロが蕩けるような笑みを浮かべた。

「可愛い人なんです」

 その表現の仕方を聞いて、なるほどそれはラキナさんではないなと私は承知した。ラキナさんは可愛らしいと評するにはかけ離れた人に思えたからだ。

 溶けた熱々のマシュマロを一つ貰って味見をしつつ、私は甘い空気を一掃するため、最初に会った時から思っていたことを口にした。

「そういえば、お二人の名前って、変わった名前ですよね」

「え?」

「だって、魔植物の名前でしょう? 名前にはあんまりしないかなって」

 シヴェルもラキナもあまり有名ではない魔植物名だ。一般的に魔物名や魔植物名を子どもの名前に用いるのは縁起が悪いと言われている。

 私の言葉を聞いて、シヴェルさんは目をぱちぱちと瞬かせた。

「よく知ってますね」

 しまった、と咄嗟に顔に出てしまったかもしれない。うっかり気を抜き過ぎてしまっていた。魔植物の名前なんて、普通の人間は知らないものなのに。

 良い誤魔化し方が見つからないうちに、姉さんとラキナさんが薪を一抱えして帰ってきた。

「ラキナ! うわっ、熱っ」

 ぱっと立ち上がったシヴェルさんはうっかり火に近づき過ぎて肌を燃やしかけ、すっ飛んで来たラキナさんに盛大に叱られたおかげで私のうっかりは有耶無耶になった。


 この森にはさほど魔物は出ないと聞いていた。もちろんいるにはいるのだが、森の奥で生活をする大人しくて人間には手を出さないものが多いらしい。

 だから私達は街道ではなく森を通る近道を選んだのだ。もし荒々しい魔物がいるのならば仕方なく遠回りを選んだだろう。

 けれどこうなると、そちらの方が危なくとも良かったかもしれないと思ってしまう。

 シヴェルさん達曰く、近年ではあり得ないほど魔物が近くまで寄って来ているらしい。おかげでしょっちゅう激しく揺られたり道を変えたりひどく忙しない旅路となっている。

「おかしいな。何かあったのか?」

 今日何度目かも数え切れなくなった道の変更をしながらラキナさんが苛立つでもなく不思議そうに言った。シヴェルさんも軽く頷く。

「うん。もしそうなら、ユーリさん達に報告した方がいいね」

「そうだな。まあ、今回の仕事ではないけど、一応は言った方が」

 シヴェルさんにラキナさんかそう応えかけた時、二人の目つきが更に鋭くなる。

「来る」

 ラキナさんはそう短く言ったかと思うと、目も向けずシヴェルさんに手綱を任せた。

 魔物だ、と思った瞬間にぎゅうと姉さんが私の手を握った。怯えで冷えた姉さんの手を握り返す。

「お二人さん、体調は大丈夫ですか? 魔物が近づいたら苦しくなる可能性がありますから、すぐに言ってください。突っ切る為に揺れますから。あと僕はラキナほど優しい操縦じゃないので」

「それはシヴェルも努力しろ」

 ラキナさんが呆れたように言いつつ、未だ一度も振るうところを見ていない剣に手をかけた。

 馬がスピードを上げ、確かに本人の言う通り優しくはないな、と思っていると何か黒いものが視界を掠めた。

 さほど大きくはないそれは明らかにこちらを向かっていて、その速さは目を閉じる暇もない。

 けれどそれよりも速かったのはラキナさんの剣を抜く速さで、私の目に追えない速さで馬車に乗ったまま最小限の動きで振り上げられる。

 ガッ、と鈍い音がして、少し間を開けて地面に何かが落ちたような音が後ろの方で聞こえた。

「大丈夫。あれは斬るための道具じゃないんです。ラキナが持ってるのは体に当てて、一時的に魔力を吸い取るだけだから。しばらくの間は倒れるけど、魔物はあれくらいでは死なないんですよ」

 息を飲んでいる私を心配したのか、シヴェルさんはあえて明るくそう教えてくれた。

 安堵したのも束の間、姉さんの手の握る力が弱くなっていることに気づく。

「姉さん、大丈夫?」

 魔力に当てられたのかと慌てて顔を覗き込むと、青白いながらも意識はあるようでほっとする。

 大丈夫ですか、というシヴェルさんの方を見もせず、姉さんは私を見ていた。

「……ハンナは?」

「私は大丈夫」

 全然いつもと変わらない、と言うと姉さんは少しぎこちなく笑った。

 その意図を探る間も無く、馬は急に走るのを止め、未だかつてなく大きく馬車が上下に揺れた。

 突っ切るのではなかったのか、と急に止まったことを訝しんでいると、ラキナさんはよくある金属の色はしていない剣を持ったまま立ち上がった。

「囲まれた」

 それは短い言葉ながら、現状を確かに伝えてくるものだった。

「二人とも、中にいてください。シヴェル、頼んだぞ」

 うん、とシヴェルさんが頷いたのを確認してから馬車を降りようとしたラキナさんがぽつりと言った。

「こいつら、一体なんの魔力に吸い寄せられてるっていうんだ?」

 特に答えは求めていなかったらしく、身軽に馬車を飛ぶように降りたラキナさんの姿は、奥の席にいて幌に守られた私達からは見えなくなる。

 魔物は本来、闇雲に人間を襲う生き物ではない。基本的に人間は魔力を持たないからだ。魔物は魔力を糧に生きるから、魔力を持つものに寄ってくる。

 その時、私は初めて何故こんな状況になっているのかという答えに気がついた。まさかこんなことになるなんて、思っていなかった。

 このことをシヴェルさんに伝えるべきだろうか。先に姉さんに確認した方が。

「ものすごく今更な質問ですが、お二人のどちらか、もしくは二人とも、魔力持ちだったりはしません? それで魔物が集まっている可能性は」

 私が考え込んでいる間にシヴェルさんが首を傾げながら尋ねてきた。なるほどこの状況ならそう考えるのも無理はない。

 けれど姉さんはそんな風には思わなかったらしく、さっきまで青い顔をしていたのにどこからそんな力がという大きさの声で叫んだ。

「そんな人達と一緒にしないでください!」

 隣にいる私が驚いてしまうほどの声だったけど、姉さんが言いたいことは分かった。

 魔力持ちの人間というのは得てして邪悪だ。魔力を持つことを盾に人を脅し、大人数で協力しては好き勝手に暴れ、挙げ句の果てに魔物を従える。

 そういう風に教えられてきたから、姉さんが怒るのはもっともな話だ。両親でさえ魔力持ちの人の話にいい顔はしなかった。だけど、シヴェルさんは珍しく顔を顰めた。

「それはちょっと偏見ってものかと。魔力持ちも魔力耐性持ちも、本質的にはさほど変わらないですよ。種族的な意味で言うのなら全員人間ですし。それに勘違いされることが多いんですが魔力持ちも魔狼群にはかなりいますよ。魔力持ちが罪を犯すのが多いのは他人に利用されることが多いのと、満足な教育を受けられないことなどが理由かと」

 淡々とした説明に姉さんは毒気を抜かれたようだった。

「そして、僕もラキナもお二人がそうであろうと、決して偏見の目で見ないと誓いますよ」

 その言葉を聞いて私は、全部話してもいいのではないかと思った。

 ねえ、姉さん。私達、この人達のことなら、信用してもいいんじゃないかな。

 けれど、私が打ち明けるより先に魔物の甲高い声と人間の、恐らくはラキナさんの呻き声が聞こえた。

 何事だと思わず身を乗り出してすぐに後悔した。大小様々な大きさの魔物の多くが地に伏せており、その中に紛れるようにして倒れ込むラキナさんの姿があったのだ。

 怪我でも負わされたのか、と怯える私の前でシヴェルさんがすっと音も立てず立ち上がった。

「ラキナ」

 ただ一言、シヴェルさんはそう呟いた。悲しんでいるのか恐れているのか怒っているのか、私には分からなかった。

 シヴェルさんは武器一つ持たずその身だけでラキナさんの元に行くことを少しも躊躇わないのだということだけが分かった。

 その瞬間、すぐには何が起きたのか分からなかった。今の今まで目の前にいたシヴェルさんが一瞬にして消え、次の瞬間には宙を舞っていた。

 私はラキナさんの動きを飛ぶようにと評したことが間違いだったことを悟った。

 本当に飛ぶように動く人間というのは、こういう人のことを言うのだ。

 ラキナさんのすぐ側まで一足で近づいたシヴェルさんはラキナさんの側にいる、どちらかというと小さな魔物に向けて脚を振り上げた。

 淀みのないその動きに、当たる、と私が確かに思った時に懇願にも似た叫び声が響いた。

「蹴るな!」

 ぴたり、とシヴェルさんの動きが止まった。

 ゆっくりとした動作でシヴェルさんが振り返る。さっきまで倒れていたラキナさんが億劫そうに立ち上がるところだった。

 ラキナ、とまるで迷子の子どものようにシヴェルさんはその名を呼んだ。

 今までの機敏な動きはどこへ行ったのかという危なげな動作でよろよろとラキナさんの元へ辿り着くのを見て、ラキナさんも呆れ気味のようだった。

「ちょっと倒れてただけだ、馬鹿。あんなことでそんなにキレるな。お前は本当に短気が過ぎるぞ。お前の蹴りなんか食らったら、あの魔物は一発で死ぬぞ。分かってるのか?」

 叱りつけるラキナさんの言うことを聞いているのかいないのか、シヴェルさんはラキナさんに手を伸ばしてはぺたぺたと子どものように触れていた。

「ラキナ、ラキナ。ほんとに、大丈夫? 怪我は? 痛いとこは? ふらふらしない?」

 ラキナさんはある程度はされるがままになりながらもシヴェルさんの手を引いてこちらに戻ってこようとしていた。

「んなこと言ってる場合か。お前がもう何も殺したくないって言うから、俺がやってるんだからな。お前、手加減ってことを知らないんだから。なのにお前から飛び出して来てどうするんだよ」

「……ごめん、ラキナ」

「あーもう、いいから。とっとと逃げるぞ、馬鹿シヴェル」

 その会話から私は悟った。ラキナさんの方が強いのだと思っていた。けれど戦うのに向いていないというシヴェルさんの言葉はそのままの意味ではなかったのだろう。

 それでもやっぱり、自分が戦うことで大切な人を守れるラキナさんは強い人なのだろう。

「……ハンナ、なにが」

 姉さんの弱々しい声を聞いて、私は姉さんは魔力に当てられるんだということを今更ながら思い出した。

「姉さん、大丈夫。ラキナさん達も無事で」

 そう伝えている途中に薄く開かれていた姉さんの目は完全に閉じられて、がくんと身体から力が抜けた。

「姉さん、姉さん?」

 寄り掛かってくる私と同じ大きさの身体を抱きとめながら何度呼びかけても返事はない。

 私は動転して思わず姉さんの身体を揺さぶってしまった。

「アンナ!」

 叫びながら名前を呼ぶ私の手が不意に掴まれた。揺さぶらない方がいいですよ、と先程とは打って変わって落ち着いた様子のシヴェルさんに言われる。

「おそらくですが、気を失っただけかと。あの魔物は人間を著しく傷付けるほどの魔力はないんです。魔物の寝ぐらがない場所まで行ったら、今日は早めに休みましょう。アンナさんは横になった方がいいでしょうしね」

 身体全部が震えている気がした私はその言葉を聞いてようやく少し落ち着くことができた。

 何度か深呼吸を繰り返し、姉さんの身体をぎゅうと抱きしめた。冷えてはいるけど、でも生きている温かさだった。

 私達の様子を見てシヴェルさんが心配そうに尋ねてくる。

「ハンナさんは大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

「無理はしない方がいいですよ」

 ラキナさんの言葉にも私ははっきりと首を振った。

「本当に、大丈夫なんです。少し、頭痛はしますし、いつもよりは怠いですけど、その程度です。姉さんほどじゃない」

 自分で判断をして言うことにした。姉さんに叱られるかもしれないけど、それは仕方のないことだ。

「お二人ほどではないけど、私も魔力耐性があります。大丈夫です。隠していて、すみませんでした」

 二人は私の想像ほどは驚かず、道理でと言いたげな顔をしていたから、私は安心して馬車に揺られることができた。


 辺りに魔物がいないとラキナさん達が請け負うところで私達は夜を明かすことになる。

 まだ眠る姉さんを毛布で包んで寝かせている間に焚かれた火は暖かく、姉さんの身体が温もるように少し近づけてあげた。

 火にかざした小さな鍋をくるくると混ぜるシヴェルさんと馬に餌をやるラキナさんを交互に見つつ、姉さんの体温を感じながら、私はぽつりと言った。

「シヴェルさんとラキナさんって、双子みたいですよね」

 その呟きはシヴェルさんにだけは聞こえたらしく、シヴェルさんは自分の顔にぺたりと触れながらへらっと嬉しそうに笑った。

「そんなに似てます?」

「まあ、双子は容姿が似ているとは限りませんから」

「あ、そうなんですね。すみません。知りませんでした」

 確かに、双子だからそっくりなはず、というのはよくある誤解だ。

「僕、一応ちゃんと教育はされたんですけど、ボーッとしてるって保護者にもよく言われるんです。この歳になっても知らないことが多くって。そういうのはラキナに任せとけばいいかなあって思ってたんですけど、でもやっぱり駄目ですね。あ、ハンナさん、味見しますか?」

 そう言われてスープを少し注がれた深めの皿を渡された。バターを溶かしたそのスープは野菜の優しい味がして、ほのかに甘く、シヴェルさんが好きそうな味だった。

「おいしいです。とても」

「よかったぁ。僕、あんまり料理は得意じゃなくて。すぐ焦がしちゃうんです」

 そう言いながらもシヴェルさんは今度はパンを少し温めようと火に焚べようとした為、ラキナさんに取り上げられていた。確かにパンを焦がされるのはとても困る。

 夕食の準備が整う頃、姉さんが身動ぎをして薄っすらと目を開けた。アンナ? とつい呼びかけると、姉さんの目は私を映した。

「姉さん、大丈夫? スープがあるんだけど、食べられる?」

「うん、平気。ハンナは?」

「私は全然大丈夫よ。気を失ったのは姉さんでしょう。ごめんね、私は大丈夫でも、姉さんは駄目なのに。私、ついうっかりしてて」

 そこまで一気に話して、私はまだ姉さんに行ってないことがあることを思い出した。

「姉さん、私に魔力耐性があること、シヴェルさん達に話しちゃったの」

「そう。もしかしたら、すぐに気づかれるかもしれない、って思いながら魔狼群を頼ったの。それしか選択肢はなかったし。だからいいの」

 気にしないで、と優しい声色で言われてほっとするあまり姉さんを抱きしめてしまった。

 温もりの戻った姉さんは仕方ないと言いたげに姉さんと同じように一纏めに三つ編みにした私の髪を撫でた。

「でも知らなかったんですね。ハンナに魔力耐性があること。私、知っていて黙っているのかと。魔力耐性持ちの人はお互いに分かるとか、そういうことはないんでしょうか?」

「別にそういうのは特に。魔力耐性があるって言うと、みんなかなり凄いことのように受け取るんですけど、魔力に反応しないっていうただそれだけのことなんですよ。相手も同じだとかそういうのは全然ピンと来ません。まあ来る人も探せばいるのかもしれないけど」

 スープを注ぎながらシヴェルさんはのんびりと言った。

「でもハンナさんはアンナさんほど魔力に影響されてないようだったから、少しだけ、そうなのかなとは思いましたど」

「でも、私にもハンナにも、そうは言ってきませんでしたね」

「魔物が寄ってくることに魔力耐性は関係ないですから、わざわざ聞くことじゃないですよ。人には探られたくないこともありますよね」

 柔らかな笑顔を見て、この人は本当に人を思いやれる人なのだと思った。

 私の想像だから間違っているかもしれないけど、多分、自分が傷ついた過去があるから。人に優しくできる人なのだろう。

「ごめんなさい。まだ言ってないことがあります」

 姉さんに許可も取らず、私は言ってしまっていた。これ以上、この人に隠し事をしたくなかったから。

「魔物が寄ってくる原因に心当たりがあります。隠していてごめんなさい。でもこんなことになるとは思っていなくて。まさかこんなに魔物が気づきやすい生き物だったなんて」

 また言い訳がましくなっていると思いつつ、上手く言える気がしなかった。

「私から話します」

 姉さんが私の背中を撫で、まだ毛布を羽織りつつもしっかりと身体を起こした。

「私の家は代々、魔植物を育てていました」

 姉さんの言葉をシヴェルさんもラキナさんも遮らなかった。

 私達家族の住む村は魔物がほとんど寄り付かない場所だった。辺境ではあるが、人間が住みやすい地域だということだ。

 けれど、そういう場所だと外の人に知れると誰かが土地を奪いに来る可能性がある。だから村はかなり閉鎖的で、余所者を受け入れるのを拒む。

 つまり村の誰かが病気や怪我をしたとして、他所に行き医者を連れて来るわけにはいかないのだ。そういう村で私達の家系は代々医者の役割も兼ねていた。

「私達の家は村では少し浮いた存在ではありましたが、持ちつ持たれつの関係を築けていたと思います」

 腹痛に効く薬草や傷薬になる薬草を作っては必要な人達に売る。その中には魔植物と呼ばれるものも存在した。

 他の植物とは明らかに違う、育て難くも薬としての効果は絶大で、少し接し方を間違うと簡単に人間側が傷つけられてしまう。

 けれど無理ではない。大変ではあるけど、育てることはできる。普通の場所で人間が育てることは難しいものだけど、不可能ではないのだ。

 そもそも一番の問題は魔植物の魔力に魔物が吸い寄せられて集まることなのだから、魔物が居ない地域では問題にもならない。

 念のためにと魔植物は中央に植えられ、周りを取り囲むように無害な植物が植えられていた。

 それ故に事故が起こることは今まではなかったのだ。私達が二人で旅に出る理由になる出来事があるまでは。

「ですが、少し、問題がありまして、村を二人で出ることになりました。その際に貴重な薬草や魔植物の種は持って出ました。サヴィラの街でも同じ仕事ができるように、と」

 姉さんが悔しそうな顔をして頭を下げた。

「すみません。知らなかったんです。魔植物が種の状態でも魔力を発しているなんて。私でもきちんと処理をすれば触れられるから、まさかこんなことになるなんて」

「まあ、魔物は微量でも気づく、というか魔植物の場合はむしろ種とかの方が興味があるみたいですね。これから幾らでも育つからでしょうか?」

 シヴェルさんは案外あっけらかんと言い放った。叱責は覚悟の上だったので、むしろ多少固い声でシヴェルさんの後に続いたラキナさんに安堵したほどだ。

「その件についてだけは、もっと早く教えていただきたかったものです。料金が変わりますので」

「ラキナ」

「本当のことだろ」

 シヴェルさんの窘めるような呼びかけにも、ラキナさんは断固として首を振った。

「まあまあ、今は魔物も居ませんし、話は夕飯を食べながらでもいいんじゃないですか? スープが冷めちゃいますよ」

 項垂れる私達を取り成すようにシヴェルさんが言って、温かいスープとパンが渡される。ラキナさんが温めてくれたパンは焦げもせず美味しかった。

「人の護衛だけでなく、魔力を持つ物の運搬も含めた契約に変更しますね。まあ、引き続き護衛はしますのでご安心を。以後お気をつけ下さい。あと魔植物を育てるなら、サヴィラの街でもしっかり申請は出してくださいね。下手すると魔狼群に育った魔植物の討伐依頼が来ますよ」

 スプーン片手に語るラキナさんの言葉は少々キツく聞こえるものの、よくよく聴いていると、世話を焼かれているといっても過言ではなかった。

 だってこれもはや親切の領域ではないだろうか。ちゃんとこれからどうすればいいかも教えてくれているし、と私と姉さんは顔を見合わせた。

「あの、それは大丈夫です。両親からもし村を離れることがあれば、サヴィラの街に行くように言われていました。その時にどう申請を出せばいいのかも聞いていますし、あの街なら商売が可能だということも折込済みです。サヴィラに薬草の店があるのかという質問は以前と状況が変わっていないかの確認のためでした。鎌をかけたみたいになってすみません」

 姉さんの話を聞いてもシヴェルさんもラキナさんも少しも責めはしなかった。

 スープを口にしながら私は思う。いつか何かあった時のため、とそう私達に教えてきたということは、両親は実は分かっていたのかもしれない。

 いつか決定的な事件が起こってしまうと。私達が村から受け入れてもらえなくなる日が来ることを。けれどそれは自分達がこの世に居なくなることまでを含めて、想定内だったのだろうか。

「でも、そうやってずっと一つの村で培ってきた力があるんですから、サヴィラでも上手くいくといいですね。あっちでも色々育てるんでしょう?」

 シヴェルさんの言葉に私はつい火がついたように話し始めてしまった。

「そうなんです。代々育ててきたヴェリラの木は村に置いてきたら迷惑になるからと焼いてきてしまったので、街に着いたらまた一から育てなければならないんですけど、家では本当によく育っていたんです。だからそれを復活させるためにも頑張らないといけないと思っていて。あとスフキラやポワルラなんかも魔力をあまり発さないのに薬草として使いやすいですよね。絶対育てます。もちろん魔植物以外にも育てにくいとされている物を手掛けてるんですよ。カンゾウなんかもあればあるだけ助かりますから大量に育てたいところですよね。あとカノーラを春以外にも年中を通して咲かせられないかというのも私と姉さんの案で試してるんですよ。他にも」

 そこまで語ったところで姉さんに肘で突かれ、ハッとして口を閉じた。あまりにも話しすぎたと自分でも分かる。シヴェルさんはニコニコしてくれているし、ラキナさんも特に変化はないけど、でもやっぱり良くはないだろう。

「……ごめんなさい。私、つい興奮しちゃって。家族以外にこういう話が出来ることってないから。魔力のあるものほことをこんな風に話すのって、普通じゃないですよね」

 私がそう言うと、シヴェルさんは困ったように笑った。

「普通とか、普通じゃないとか、一体誰が決めることなんでしょうね」

 え? とつい口に出してしまうと、曖昧な笑みのままシヴェルさんは続けた。

「例えば、今ここにいる三人は魔力耐性持ちですけど、じゃあ持ってないアンナさんは普通じゃないんですか? でも一歩外に出れば持ってないアンナさんが普通と呼ばれて、僕らが普通ではないと言われるわけですよね? そういう区分って時と場合と人数によってすぐに変わることだから、案外馬鹿馬鹿しいものじゃないでしょうか」

 それは初めてシヴェルさんの口から発せられた本音の上澄みのように思えた。別に私達の前でのシヴェルさんが作られていたとか、そういうことを言いたいわけではないのだけど。

 ただ、客である私達に言わないことも言えないこともこの人達には当たり前にあるだろうし、それは私達も同じだというだけの話だ。

 現に二人だって私達の言動に違和感を感じる部分がないわけではないだろうに、深く尋ねてくることはない。

 それはきっと思いやりとも言えるものなのだろう。

 四人で囲む食事は母や父が生きていた頃の食事を思い起こさせるものだった。


 夜はシヴェルさんとラキナさんがいつも交代で見張りをしてくれるから、私も姉さんも心置きなく眠ることができる。

 私は毛布に包まりながら、いつもより姉さんの近くに寄って暗闇に紛れる姉さんの顔を見つめた。

「姉さん、身体大丈夫?」

「大丈夫だって、言ってるでしょ」

 心配性なんだから、と微笑みながら姉さんが私の頬を撫でてくれる。

 甘えるように姉さんの側に寄りながら、私は姉さんにだけ聞こえるように言った。

「アンナに何かあったら、私、どうしていいか分からないもの。もう私達、二人しかいないんだから」

 姉さんは返事をしなかったけど、私は姉さんが思っていることが手に取るように分かった。

 シヴェルさん達に聞こえているかもしれないという不安はなかった。あの二人はいつも私達から距離を取って仮眠を取っていると知っているから。眠る時に警戒しないでいいというのは有り難いことだ。

 それにもし聞いていても知らないふりをしてくれる。二人はそういう人だと短い付き合いでも分かる。

 姉さんと寄り添いあったまま目を閉じると、姉さんの話を聞いたせいか母さん達の姿が目の裏に浮かんできた。

 私も姉さんも幼い頃から植物の育て方については教えてもらっていた。私達にとってそれは遊びに等しいほどに当たり前のことだったのだ。

「ハンナはとても上手にできるのね」

 そう言って母さんに頭を撫でてもらうのが好きだった。

 私に魔力耐性が少しあるために、アンナよりも少しだけ作業がやりやすく、その少しというのは成長するにつれ、確かに広がっていったように思う。

 アンナが手袋をしなければ触れられないものが私は素手で触れるのだ。アンナが三日経たないと近づけない実に私は次の日には近づけるのだ。アンナが息を吸うことさえ危険な花の近くで私はその花の香りを楽しめるのだ。

 私達の家系ではこういう仕事を生業にしているせいか魔植物に近づくせいか、時々魔力耐性を持つ子どもがぽつぽつと生まれるのだという。私がそうだった。薄くとはいえ、その力は魔植物に関わる上でとても役に立つ。

 けれど、仕事を継ぐのはアンナなのだ。だってアンナが先に生まれたのだから。そう決まっている。どれだけ私が学ぼうと、アンナがやると決まっているのだ。うちでは揉め事を少なくするために必ずそうすると昔から決められている。

 そのことについて意見を述べられるほど、私は大人ではなかった。けれど、私の方がアンナよりもできるのに、と思ったことがないとは言えなかった。

「父さんも母さんも、ハンナが先に生まれればよかったと思ってるのよ」

 私の小さな小さな不満はアンナのその言葉で吹き飛んだ。だって、泣きそうな顔をしていたのだ。こんなアンナを初めて見た。

「そんなことないよ、アンナの方が」

 言いかけて、口を閉じた。私がいけないのだ。私がアンナと対等のように接してきたからいけないのだ。

 アンナは姉、私は妹。それをもっと心に留めておかなければいけなかったのだ。

「姉さんの方がこの仕事をするのに向いてるよ」

 私はその時、初めてアンナを姉さんと呼んだ。そうしなければいけないと、自分で思ったのだ。

 そうしてしばらくはずっと上手くいっていた。私がこの家を出て植物に関われなくなる日も近いのかな、なんて思い始めた矢先のことだ。

 親が高熱を出して動転した子どもがうちに薬を求めに来た。けれどその子はまだ幼く、少しでも早く私達に伝えようと庭に入ってしまったのだ。

 魔植物が生えている庭へ。そこは村の大人なら誰もが入ってはならないと知っていた。けれど子どもは子どもであるが故にその決まりを破ってしまった。

 庭で手入れをしていた両親はそのことに気がついた。両親の悲鳴は家の中に居ても良く聞こえた。

 魔植物に襲われそうになった子どもを両親は必死で助け、両親は死んでしまった。

 私の愛する母さんと父さんは、愛する植物によって殺されてしまった。

 子どもは怪我で済み、子どもの親もしばらく経てば良くなった。

 けれど村での私達二人の扱いは明らかに悪くなった。人が死ぬような植物を育てるなんてやっぱり駄目だ、おかしい。子ども二人で何ができる。出される薬も信用できない。お金を払う価値がない。昔から怪しいと思っていた。

 そんな風に言われていることを知って、怒るより前に呆然とした。両親が命がけで子どもを守ったことをなんだと思っているのだろう。あの子が敷地に入らなければこんなことにはならなかったのに。

 子どもを責めるつもりはない。仕方なかった。でも大人は別だろう。どうして私達を責めるのだろう。どうして両親の死を悼んでくれないのだろう。

 ずっとこの村のために生きてきたのに、どうして責められなければいけないのだろう。私達がここにいる意味ってなんだろうか。

 そう思うのに長くはかからなかった。この村を出ようと言い出したのは姉さんからだった。

 もうここにはいられない。ここにいてもろくに食べてもいけない。何をされるかも分からない。だから村を出よう。母さん達の言っていたサヴィラの街に行こう。魔狼群を頼ろう。こうなってしまっては仕方がないのだから、と。

「これからは二人で生きていかなきゃいけないから、助け合って、離れないように、そうして生きていこうね」

 そう言いながら姉さんは私の髪を編んでくれた。姉さんと同じ髪型になると少しは似て見えるかと思ったのに、色が違うからむしろ違いが際立った。

 私もダークブロンドじゃなくて、姉さんのようにプラチナブロンドだったら、もっと似ているように見えたのかな。なんて呑気なことを考えた。

 村の皆には言わず、必要なものだけを持って、危険な植物のみを焼き放ち、火が消える頃、私達は村を後にした。

 ずっと手を握っていた。村の人達に万が一追われることを考えて、森を通り抜けるしかないと思った。

 そうしてシヴェルさんとラキナさんに出会えたのは、私達にようやく訪れた幸運だったのだろうと思う。


 原因がはっきりしているのならば、魔物の避けようはいくらでもあると言ったのはラキナさんで、言葉通りその後は魔物に襲われることはなくなった。

 激しく揺れることのない穏やかな馬車の揺れに安心していると、初日に舌を噛んだことを忘れていないのか、幾分慎重そうにシヴェルさんは口を開いた。

「もうすぐサヴィラの街に着きますね。馬車に揺られるばかりの生活は疲れたでしょう? 街ではゆっくり休んでくださいね」

「……お気遣いありがとうございます。でも、馬車に揺られている時は何も考えなくていいから、むしろ楽かもしれません。街に着いたら嫌でも色々考えてしまうでしょうし」

 姉さんは言葉に出してすぐ後悔したようだった。あまりに私事だと思ったのかもしれない。私も姉さんがこんなことを言い出すとは思わなかった。

 けれど姉さんはシヴェルさん達が何も言わなかったからか、そこで終えることもなく、話を続けることにしたようだった。

「多分、村のことを思い出してしまうと思うんです。村の人を、恨んではいけないと、分かってはいるんです。でも思い出したら、きっと、私は恨みを抱いてしまう」

 姉さんの声は微かに震えていた。姉さん、と呼びかけても聞こえていないのか返事はなかった。

「誰も悪くなかったんです。両親が死んだのは誰が悪かったせいでもない。仕方のないことだったんです。私達が村を出たのも仕方のないことでした」

 もうこの人達ともお別れだと思っているから、だからこんなに話しているのだろうか。

 それとも、姉さんはやはりまだ体調が良くないのだろうか。普段の姉さんなら、絶対にこんなに話したりしないのに。

「それでも、ずっと私達に頼ってきた村の人達が、これから病気や怪我をしたら大変だと思うのに、心配だとも確かに思うのに、でもどうしようもなく無関心な自分もいるんです。どうなったっていいじゃないかと思ってしまう自分がいます。あの人達がどうなろうとそんなの勝手じゃないかって」

 心配する私のことが見えていないのか、姉さんは訥々と続けた。

「それが恨むのと、何が違うんでしょう。誰かに傷ついて欲しいわけじゃないのに、でも、どうしてもあの人達のことを親身に思うことができなくて、そういう自分が心底悪に染まったみたいで、こんな自分が一番嫌なんです」

 そこで姉さんは少し言葉を詰まらせて、その次に吐き出された声が泣きそうなものだったから、幼い頃のアンナの姿を思い出した。

 私にはもう甘えることができないから、だからシヴェルさんに話すの?

「こんな風に、もう会わなくて済むからと、他人の貴方達に感情をぶつけてしまうことがずるいことだとは、分かっているんです。ごめんなさい」

「自分の心を全部制御するなんて無理な話ですよ」

 シヴェルさんは私達の方を見ないままに優しく言った。

「恨みたくないと思っても、もう忘れて楽になりたいと思っても、亡霊のようにこびりついてくるものを削ぎ落とすのは簡単なことじゃないです。人なんだから、怒ることも悲しむことも恨んでしまうことだってあります。そういうのを全部否定するのは苦しいばかりです」

 それは慰めるものでもなければ、ましてや叱るものでもなくて、ただ事実を述べているようだった。

「あなた達は誰もその手で傷つけず、新しい場所で暮らそうとしている。幸せを掴もうとしている。そのことだけで僕からしたら、二人はとんでもなく前向きで凄いと思いますよ」

 少しだけ苦笑するようにして、シヴェルさんは言い切った。

「心は自由なんだから、誰にも縛られるものじゃないんだから、自分が思うことを頭ごなしに否定しないようにって言われて、僕は育ったので。保護者からの受け売りですね」

 その時、ようやくシヴェルさんは私達の方を見た。シヴェルさんは笑っていた。私達を励まそうとするような優しい笑みだった。

 ずっと黙って成り行きを見守ってくれてきたラキナさんが口を開いた。

「どうしても不安なら、魔狼群をその村に向かわせますよ。魔植物がきちんと燃えているかが不安だということにすればいいです。魔力が広がったら困るからと説明をしたら村にも入れてもらえるでしょうし、魔狼群には医学に秀でた人も多いので」

 私達を思いやってくれた上での発言だとすぐに分かった。

 自分達のできることを私達を思いやって最大限行おうとしてくれることが、こんなにもありがたく嬉しいのだということを初めて知った。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 姉さんより先に私が答えた。全部を姉さんにばかり頼っていてはいけないのだと思ったから。

 姉さんと呼んで姉さんを立てて姉さんに従うことが妹である私のすることだと幼い頃に学んだ。

 けれど今と昔は違う。今の私がするべきことは、アンナと支え合うことだ。

「私達が大切に育ててきた木が、燃えただけで駄目になってるかどうかなんて、わかんないもんね」

 案外しぶとく立ち直ってるかもよ、と私が冗談めかして言うと姉さんはようやく笑ってくれた。


 サヴィラの街は聞いていた通り栄えていて、村育ちの私達には慣れるまで時間はかかりそうだったけど、あまりに違いすぎて村を思い出しそうにないのはありがたいと思う。

「ご迷惑ばかりおかけしました。本当にありがとうございました」

 私達は何度も頭を下げた。護衛を引き受けてくれたことだけでなくて、私達の心まで軽くしてくれたことは何度感謝しても足りない。

 そうして二人と別れようとしたその時、あの、とラキナさんに呼び止められた。迷った挙句、というような顔をしてラキナさんが言う。

「もしも、お二人がその気になればの話ですけど、魔狼群と提携しませんか。うちにも魔植物の研究をしてる人はいますし、人材は常に求めてるので喜ばれると思います。もちろん無理にって話じゃなくて、提案ですけど」

「よろしいんですか?」

 姉さんは驚きながらも聞いてすぐに乗り気になったようだった。

 この街で上手くやっていけるか分からない私達にとって、それはとても嬉しい申し出だった。もし上手くいかなければ、路頭に迷うことになる。

 ラキナさんと姉さんが熱心に会話を交わす中、シヴェルさんはこっそり私に告げた。

「ラキナは関わった人を放って置けないんです。ついついああやって世話を焼いてしまう。まあ、僕が一番世話を焼かれることに変わりはないんですけど」

 それはそんなに自慢げに言うことだろうか、と一瞬思ったけど、私だって姉さんに世話を焼かれて喜んでいたのだから人のことは言えない。

「可愛い人でしょう?」

 シヴェルさんがとっておきの秘密を打ち明けるようにあの蕩けるような笑顔で言うから、私は全部納得が言って、ああ、と深く頷いた。

 誰よりも大事にしたい人とずっと一緒にいて仕事ができるというのはきっと、幸せなことなのだろう。

 仕事が終わったからだろうか。ラキナさんが話し終わると同時に、シヴェルさんは甘えるようにラキナさんの袖を引いた。

「ラキナ、せっかくだからお菓子屋に寄って行きたいんだけど」

「またか。後からでいいだろ」

「やだよ。売り切れたらどうするの」

 絶対に引かないぞ、と言いたげなシヴェルさんに、わかったわかったと子どもに言うようにラキナさんが頷く。

 すみません、とラキナさんに頭を下げられ、私達は今度こそ別れることになった。姉さんが魔狼群との連絡の付け方も聞いたようだから問題はない。

 穏やかな街並みを眺めながら歩いていると、姉さんが声をかけて来た。

「ねえ、ハンナ」

「なに?」

「私に着いてきてくれて、ありがとう」

 どういう意味だろう、と私は首を傾げた。

「私ね、本当は不安だったの。一緒に村を出ようって言って、ハンナが着いて来てくれるか。でもハンナはすぐに頷いて私の手を取ってくれた。本当に嬉しくて、すごく安心したの」

「着いていくよ。当たり前じゃない」

 私が必死に言うと、姉さんはそれには答えず、ふふと笑った。

「母さん達はずっと、一緒に仕事をする信頼できる相手と結婚しなさいって言ってた。だけどね、本当は私、いつも思ってた」

「なにを?」

「私はハンナと一緒に生まれて来て、お互いの足りないところを補えるのに、どうしてわざわざ他人の中から選ばなきゃいけないんだろうって」

 アンナが遠くを見るようにして言うことが、私にはとてもよくわかった。

「だからね、ハンナ。私達、そうやって生きて行こうよ。別にいいじゃない、見つけなくても。だって最初から隣にいたんだから」

「うん、いいよ。アンナ」

 そう言って私はアンナの手を取った。

 私達の家系は本当は最初に生まれた子にだけ魔植物の育て方を教えるのだ。大切なことだから外に広がらないように、一人にだけ教える。

 私とアンナが一緒に生まれたから、その決まりは破られた。だから、決まりを説きながらも、両親はわかっていたのかもしれない。

 他人ではなく、私達が互いの手を取ることを。

 アンナにだけ教えずに、共に最初に生まれた子だと、私にも秘密を教えてくれた両親ならきっと分かってくれるだろう。

「だって、私達は双子なんだから」

 ぎゅうと握り返された手をずっと離さないでいようと思う。似ていない顔で、私達同じように笑った。

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