短編ホラー:キスは死の味

のいげる

キスは死の味

 彼女との出会いは素晴らしくも劇的だった。

 友人の園田は大金持ちの親を持っている。それを別にどうこういうつもりはない。俺もおこぼれに預かることが多いからだ。

 園田が父親から借りだした豪華なクルーズ船で、ナンパした女の子たちを乗せて海に行くなんてのもそうだ。

 もちろんこの船の持ち主は園田の親だと知っているから、女の子たちは俺に冷たかったがそんなことはどうでもいい。綺麗な女の子の水着姿を目の前で見られるだけでも十分に楽しい。

 それにたまに園田に振られた女の子たちが俺の方に目を向けてくれることもある。そう考えれば多少はパシリ扱いされても気にはならない。

 金持ちとは喧嘩せずだ。

 そんな俺が園田と一緒に瀬戸内海にクルーズに行ったときのことだ。瀬戸内海は大小の島が三千はあり、そのほとんどが無人島だ。そういった島を適当に巡りながら、気に入った砂浜を見つける度に上陸して馬鹿騒ぎをやらかす。

 キャンプファイヤーもするし、バーベキューもするし、花火もする。酒も持ち込むし、たまに園田がどこかから手にいれたマリファナもやる。

 誰の目もないどこからもクレームがつかない場所でそんな遊びをやっていたわけだ。

 そんな島の一つに上陸したとき、浜辺に打ち上げられていた彼女を見つけたんだ。


 最初は驚いたね。てっきり溺死体を見つけたと思ったから。

 こりゃまずい、無線で警察に報せればいいのか。死体を乗せてどこかの港に行くべきかとか、パニックになった頭で考えていたんだ。

 その内、はっと気が付いた。死体が綺麗すぎる。海藻がついていたし、カニが一匹その体の上を這っていたが、もしやと思った。

 恐るおそる首筋を触ってみたが脈は感じ取れない。だけど微かに体温が残っているように感じた。肌も張りがあって綺麗だったし、これはまさかまだ間に合うんじゃないかと感じたんだ。

 園田の意見も同じだった。何よりも良く見れば物凄い美人だったというのもある。男や老人が死ぬのは構わないが、若い美人が死ぬのはもったいない。不謹慎だが俺たちの偽らざる感想だ。

 園田はクルーズ船の免許を取るときに海難救助の講習を受けていた。

 彼女の顔を横に向けると、胸を強く押した。

 驚いたね。大量の海水が彼女の口からざばざばと吐き出されてきたから。

「おい、まだ生き返るぞ!」園田が叫んだ。「俺が心臓マッサージをする。人工呼吸をしろ!」

 園田の野郎。その役目を俺に押しつけるのか。ちょっとばかり彼を恨んだ。

 だが女の子たちも見ているし、こうなると嫌も応も無い。断れば俺の人としての権威は完全に失墜する。

 もし彼女が本当に死んでいたら、俺は死体とキスをすることになる。でも彼女の顔を見ている内に嫌悪感は消えた。

 それぐらいの物凄い美人だったんだ。ある意味、こんな美人とキスをする機会は俺の人生では二度とないだろう。

 園田が胸を五回押す。すると俺が彼女に息を吹き込む。園田が胸を五回押す。俺が息を吹き込む。

 生き返れ。俺がそう願ったとき、彼女がいきなり激しく咳き込んだ。びくんと体が撥ね、それから体を曲げて泣きながら残りの海水を吐き出す。

 背後で俺たちがすることを恐るおそる見守っていた女の子たちに園田が怒鳴る。

「船の甲板の脇に物入がある。そこに担架が仕舞ってあるから持ってこい!」

 俺たちはまだ咳き込んでいる彼女を船の中に運び込むと一路病院のある陸地を目指した。

 それがまあ俺と彼女の馴れ初めってヤツだ。


 どうだい?

 凄い話だろ?



 深田美幸。彼女はそう名乗った。

 後で判明した事情によると彼女は往還フェリーの甲板で強風に煽られて海に落ちたらしい。折悪しく誰も彼女が落ちたことに気づかなかったらしく、そのまま暫く海の上を漂っていたという話だ。だがやがて力尽きて気を失ったところをあの島に打ち上げられ、そして俺たちに発見されたということだった。

 生きていたのは奇跡だと病院に来た海上保安庁の人も言っていた。通例では救命胴衣なしでの漂流は助かることの方が少ない。

 俺もそう思う。今回も後数分でも俺たちの救助が遅れていたら、彼女は本当に死んでいただろう。

 何度か病院にお見舞いに行っている内にお互い気が合うことに気づいて俺と彼女はつき合うことになった。

 いつもならこういう場合は園田が恋のターゲットになるのだが、まあ俺と彼女はマウス・トゥ・マウスをした仲だし、不思議はないのかもしれない。


 海であれほど恐ろしい目にあったのに、彼女は海を嫌いにならなかった。デートではよく水族館を巡った。キャンプは好みでは無かったらしく、後は普通に映画に行ったりショッピングを楽しんだ。

 お前は最近俺と遊ばなくなったなと園田にはさんざ文句を言われたものだ。

 そりゃガチのカワイ子ちゃんとむくつけき園田を比べたらどちらがいいかなんて聞くまでもない。

 美幸は自分の長い黒髪が自慢だった。たしかに彼女の髪はツヤがあり、まるで流れる滝のようにその体の上を滑る。すべすべサラサラの見事な髪を俺の指に絡めて滑らせるのは奇妙な快感だった。

 賢い子だった。なんにでも深い知識があって、映画を見た後に役者や監督の話題を教えてくれたりした。彼女は大学の四年生で、今度の事故では大事を取り一年ほどは休学することにして、来年卒業する予定だった。

 卒業したら何になるのと聞いたら、顔をぱあっと輝かせて薬学の研究者になるのと答えた。人を救う道に進むのと希望を込めた声で言う彼女を見て、俺の心もまた明るくなった。


 こうなると俺もうかうかとはしていられない。

 あまり熱心とは言えなかった会社の仕事にも本腰を入れた。先輩からお前最近はやる気をみせるようになったなと言われるようになった。

 そりゃそうだろう。いつまでものんべんだらりと会社員をやっていたのでは彼女との差が広がるばかりだ。せっかく彼女のような素敵な女性を恋人にできたんだ。失望させてフラれるようなことにはなりたくない。

 就業時間はきっちりと仕事をし、アフターファイブは彼女と夜のデートをする。

 そのために時間が無くなり、自分の部屋の掃除も服の洗濯も放置していたら、彼女に叱られた。彼女は必死で止める俺の制止を無視して俺の汚れた部屋に突撃してきて、あっと言う間に全部綺麗に片付けてしまった。

 そのとき作ってくれた料理の味は忘れられない。ひさびさの家庭料理だった。

 彼女のご両親の心証も悪くは無かった。優しいご両親だ。父親は中堅どころの商社の部長をやっており、母親は専業主婦だがお茶の師匠をやっている。よく彼女と一緒にどこかの茶席に招かれ、俺も少しは茶道の心得を覚えることになった。


 三回目のデートで彼女とは結ばれた。

 平均的だよな?

 明かりを薄暗くするように求められたのは残念だったが、いつかは煌々とした明かりの下で彼女の裸身を見ることができるようになることは俺には分かっていた。

 彼女の趣味のアロマの強烈な香りの中で彼女を抱く。長い髪を褥に代えて、俺たちは愛しあった。

 避妊はきちんとしていたがどこかで失敗してしまったようだ。

 ある日彼女のお腹が膨れてきているのに気づき俺は愕然とした。服の上からでも分かる見事なプロポーションが少しだけ崩れてきている。

 問い詰めること数度。初めは太っただけだと言い張っていた彼女も最後には折れた。

 妊娠していると。

 本当のことを話せば嫌われると思っていたのだろうか。

 俺は飛び上がって喜び、彼女の体を気遣ってそっと抱きしめた。



 皆が俺たちを祝福した。

 園田はこれじゃもう悪い遊びに誘えないじゃないかと文句を言っていたが、それでも結婚祝いにと豪華なプレゼントを贈ってくれた。

 当の美幸はときどき憂いのある顔を見せていた。何か気になることがあるのかと心配して訊ねてみると、横にいた義母がマタニティ・ブルーって言うのよと教えてくれた。

 時間が迫っていたので結婚式場の予約には苦労した。出産予定日の前にするのか後にするのかは相当揉めたが、急ぎたいという美幸の願いを聞いて、何とか手配した。結婚式の写真は一目でできちゃった婚だと分かるものになってしまうだろう。まあ子供が産まれた後でまた撮りなおせばいいじゃないかとの父の言葉には救われた。

 結婚指輪を買うついでに綺麗な宝石のイヤリングも買った。次の週からは彼女はそれをつけて俺の前に現れるようになった。

 笑いさざめく彼女の顔。そして声。傍にいるだけで感じる幸福感。

 愛は素晴らしい。

 この世の何よりも強力な神の与えたもうた至上の魔法。



 結婚式には多くの人たちが駆けつけてくれた。

 無数の歓声と幸せそうな笑顔に囲まれる。まさに結婚式は人生の最高の瞬間だ。

 ウェディングドレス姿の美幸は白のレースの下に見える美しい流れるような黒髪のコントラストがとても素敵だ。

 残念なことに彼女は以前より太ってきていた。二の腕なんかも膨らんできている。妊娠中毒がきついと美幸は零していた。これは太っているのではなく浮腫んでいるのよと、恥ずかしそうに言っていた。

 だがそれも出産が終わればすべて解消して、元のスリムな彼女に戻るだろう。

 今日は花嫁化粧の下に透けて見えるその顔色が少し悪い。表情にも何か険しいものがある。

「大丈夫かい?」

 ウェディングドレスで使うコルセットが膨らんだ腹を締め付けているのではないかと俺は心配になった。もしそうなら相当辛いはずだ。

「違うの」彼女は首を横に振った。

「具合が悪い?」

「違うの。ああ、何てこと。貴男に謝らなければいけないことがあるの」

 ちょうどそこで式場の係が待合室に入って来た。

「始まります。こちらへ来てください」

 俺は何かを渋る彼女の腕を取り式場へと引っ張っていった。

 彼女の体が不安定そうに揺れる。披露宴でのお目見えが終わったらすぐに待合室に戻さねばと俺は心配した。式場にはお付きの医者はいるのだろうか?

 エスコートしながらも彼女は香水をつけすぎだとも感じた。まあ傍に近寄られなければそれほど気にはならないだろう。それに何かあまり嗅ぎたくない臭いもした。だが深く考えている暇はない。


 司会者がマイクを持って話す。

「それでは新郎新婦の登場です!」

 俺たちは披露宴の会場に足を踏み入れた。

 スポットライトの光に照らされて満場の注目が集まる。

 拍手と喝采。俺と美幸はさらに前へと進む。

「お二人は素敵な出会いをなされました」

 司会者が手を振ると式場のスクリーンに園田のクルーズ船が大写しになった。

「新婦はフェリーでの旅行中に誤って海に転落したのです。そして意識を失い無人島に流れ着いた。そこに友人と共に新郎が船に乗って現れ、人工呼吸をして新婦を救ったのです」

 再びスポットライトが俺たちに当てられる。ふっと何か嫌な臭いがした。

 海の臭い。魚の臭い。それも腐った臭い。

「さてではそれを皆さまの前で再現していただきましょう」

 司会が俺の方に手を振った。

 打ち合わせ通りだ。俺は美幸の手を取って立たせると向き合った。

 美幸の顔が真っ青になっている。俺は慌てた。

「どうした。美幸。大丈夫か!」

「大丈夫よ」

 急いだほうが良い。

 俺は手を伸ばし美幸の顎を上に向けた。恥ずかしさは胸の奥に押し込め、目を瞑った美幸の唇に俺の唇をそっと重ねる。

 拍手が一斉に巻き起こった。誰かが口笛を吹いた。

 腐った臭いが俺の口の中一杯に広がった。何かの嫌な感じがする柔らかい欠片が口の中に残った。

 苦くて嫌な酷い味だ。

 吐き出したかったが、皆が見ている前でそれはできない。

 美幸が俺の目を覗き込んだ。

 泣いている。涙で化粧が剥げてちょっと不味いことになっている。

「ごめんなさい。あなた。わたし嘘を吐いていたの」

「なにを?」

「妊娠じゃないの」彼女は膨らんだ体を揺すった。腐敗臭がさらに一層強くなる。

「わたし・・死んでいるの。いえ、死んでいたの」

「なにを言っているんだ!?」

「あのときわたし、王子様の魔法のキスで生き返ったの。でも完全じゃなかった。死んでからあまりにも時間が経っていたから。向こうで食べてしまった後だったから。完全にはこちらに戻して貰えなかった」

「美幸。それ以上は言うな」

「でももう保っていられない。魔法が解けるの。ああ。永遠に愛しているわ。あなた。だから、わかってちょうだい」

「わからない!」俺は叫んだ。そうすればいま進行している現実を拒否できるかのように。

「分からない!」

「判らない!」

「解らない!」


 だが俺は分かっていた。

 彼女の右腕がずるりと粘液を引きながら落ちた。崩れた肉の欠片がまき散らされる。何かの小さな魚がその肉の中で蠢いている。

 今まで顔を守っていた化粧がスポットライトの光で溶けて崩れ落ちた。右の目玉が眼窩の中から抜け落ち、新たに空いた穴から小さなカニが這い出した。

 ウェディングドレスの裾から腐敗した液体が流れ出す。素早く広がった凄まじい悪臭に全員がテーブルから立ち上がって逃げ出す。それでも残っている人たちは腰が抜けて動けないからだ。

 彼女の全身が崩れ落ちた。膨らんだ腹が割れ、その中に一杯に詰まっていた腐敗ガスが噴き出す。



 王子様のキスで死の眠りから覚めたお姫さまの顛末はこれですべてだ。

 後に残るのは腐敗し切った溺死体の残骸のみであった。

 警察はこの事件を綿密に調査したが何も判明することはできず、いつものようにすべては事件ファイルの奥深くへと秘蔵された。

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