Benedictio heroi!
四月朔日燈里
終わりなき英雄譚、その序章
『美しい桜の下には屍体が埋まっている』なんてよく言われているが、本当に埋まっていることなんてあるのだろうか。
薄紅色の欠片が吹雪き、視界を微かに覆う。
河川敷の側に咲いた桜は、今年も満開を迎えているようだった。
青々とした空、心地良い風。
今日は花見日和だ。
住宅街から然程遠くないこともあり、レジャーシートに座って談笑する集団が散見できる。
そんな中、少年は一人走っていた。
日課のランニング。
まだ見慣れない街の中、彼が憶えているのはこのランニングコース周辺の景色だけである。
「おい、見ろよあの桜。ちょっと周りより色が薄いぞ!」
「……そうか? 見間違いだろ」
「いやいや、絶対薄いって。お前もそう思うだろ?!」
「あたしは他と同じだと思うけど……。
っていうか、ただ光で透けて薄く見えるだけじゃ──」
「黙らっしゃい! 俺が薄いって言ったら薄いんだよ!」
「始まったよ、『わーるど・いず・俺』」
「うるせえやい! そこ、笑うなあ!」
楽しげな話し声が聞こえた。
騒いでいるのに不愉快には聞こえない。
皆、笑っている。
誰かを嘲笑うのではなく、ただ純粋に楽しいから。
友と過ごす時間が楽しいから、心の底から笑っている。
少年は、傍目にその集団を伺った。
友人なのだろうか、同年代の男女五人が集まっている。
「……友達、か」
生まれてこの方、友人というべきものが居ない自分には縁のない話だ。
友達と集まって、駄弁って、笑って。
そんなことはしたことがない。
出来るわけもない。
だから、縁がない話なのだ。
少年は、醜いものから視線を背けるように前を向く。
蓋をして閉じ込めたそれを、視界に入れないように。
東京に来て早数日。
新生活には未だ慣れず、明日に行われる入学式に少年は緊張を隠せずにいた。
何せ、明日から通う高校は普通の高校ではない。
全国から志しある者が集い、世界を救う人間を育成する《私立神秘管理機関附属神楽高等学園》なのだから。
自分は、その一人になれるのだろうか。
彼らの仲間として、そこに居られるのだろうか。
少年がそこに通う目的は、誰かを助けたいとか、世界を救いたいとか、そんな綺麗なものではない。
ずっと燻っていた焔を燃やすためだけに、来てしまったのだ。
「……オレは」
光溢れる純白の中に、自分のような黒があっても良いのか。
少年は己に問いかける。
しかし、あそこ以外に自分の居場所なんてないし、行く気もない。
どうやっても、行くべき場所はあそこなのだ。
喩え自分が黒であっても、あそこに行かなければいけないのだ。
納得出来ないと訴え続ける心を、思考で無理矢理抑え付ける。
ずっと前から決めていたのに、今更心変わりするなんて許さない。
少年は顔の右側を触る。
痛々しい火傷痕。
赤褐色に色付いた皮膚は、長く伸ばされた赤髪に隠されていた。
「──憶えている」
あの痛みを憶えている。
あの臭いを覚えている。
あの光景を憶えている。
焔の約束は、忘れることはない。
雲間を抜けて、暖かな陽光が頭上から差し込んで来る。いつも通りの平穏な朝。
人々の楽しげな声が響く世界。
どこにでもある普通の日。
何でもない幸せな日。
それが壊れるのは意外と簡単だった。
けたたましいサイレンが鼓膜を震わせる。
同時に振動した携帯端末を取り出し、画面を見た。
──【警報】危険度二級。
《渡り門》の開扉を確認。
近隣住民は速やかに避難してください。
そんなメッセージが表示され、確認のマークを押すと避難経路が表示される。
町内放送でも同じような警告がされていた。
先程までの雰囲気は一転し、不安や恐怖に塗れた声が辺りを包んだ。
『どこで渡り門が開いているのか』なんて、画面で確認せずとも分かる。
少年の目と鼻の先。
河川敷の側の道、その中央を塞ぐように黒い靄──渡り門と呼ばれる異界への扉が開いていたのだから。
それを認識した瞬間、自分でも驚く速さで踵を返し、端末から聞こえる指示に従って逃走する。
「あそこで門が開いています!
皆さん急いで逃げてください!」
走りながら、周囲の人に様子を伝える。
指し示すのは、先程見つけた渡り門。
光を反射することのない純黒の靄。
それは異なる世界へと繋がっており、そこに棲まう怪物たちをこの世界に導くという。
少年は、実際に渡り門を見るのは初めてだった。
基本人の多い都会、それも東京や大阪などの大都市圏周辺にしか発生しないものであるからだ。
少年が暮らしていたのは田舎の方であり、渡り門なんてテレビやネット中継くらいでしか見たことがない。
漠然としたイメージだけを持っていた。
それでも解る、解ってしまう。
あれは危険だ。
逃げなければ、絶対に死ぬ。
誰が見てもそう思うほどに、渡り門は異様な雰囲気を発していた。
「おい、そこの君! 怪物共はまだ出てきてないんだよな?!」
「はい! あと何分かは猶予があるはずです!」
家族と花見をしていた男が、少年に問い掛ける。
腕の中には泣きじゃくる幼い少女。
そして、男の後ろを走る十歳くらいの少女。
少女たちは姉妹であり、娘たちなのだろう。
男の質問の意図は恐らく、『十歳くらいの少女が、自分の足で逃げ切れるか』ということだ。
男の両手は幼い少女により塞がれていて、もう一人抱き上げることは出来そうにない。
彼らは他の集団と離れて花見をしていたため、周りに助けを求められる距離ではない。
したがって、十歳の少女は己の足で走らなければいけないわけなのだ。
しかし、彼女の動きはぎこちなかった。
「頑張れ、もう少しだ! もう少し離れれば大丈夫だ!」
「だいじょうぶ……だよ、お父さん」
少女は、あまり身体が強くなかった。
病気がちで、運動が苦手。
走れば直ぐに息が上がるし、今にも足が縺れそうだ。
今日は天気が良く、少女の体調も良かった。
だから、約束通り家族皆で花見に来たのだ。
────来年もお花見、行こうね。
そう言っていた母は、つい数か月前亡くなった。
雪がちらつく初冬、冬桜を眺めて。
亡き母との約束を果たすため、皆で花見をするために来たのに。
少女はロケットペンダントを握り締める。
桜の下、家族で撮った写真が入ったそれ。
母の形見。
目元には涙が溜まっていた。
喉が痛い、肺が痛い。
もう足が動かない。
でも、逃げなければいけない。
逃げなければ、死んでしまう。
「────う、あ」
その時、僅かにあった地面の隆起に足が引っ掛かる。
当然、少女の身体は何の抵抗もなく地に落ちた。
「
名を悲痛に呼ぶ、父の声が聞こえる。
駆け寄ってきた音も聞こえる。
「……お父さん、私は良いから──」
「駄目だ! 皆で、みんなで逃げるんだ」
「でも! でも、このままじゃ……!」
真弓は分かっていた。
もう、自分は走れない。
派手に擦り向いた膝は血が滲み、何度力を込めても震え続けるばかり。
恐怖と痛みと疲労で呼吸もままならず、息は浅く荒い。
とても走り続けられるような状態ではなかった。
街の警報ら携帯端末から聞こえた音声によると、今回の渡り門は『危険度二級』。
つまり、放置すれば一日で大都市を滅ぼせる程の怪物たちが来るということだ。
「……お父さん、お願い。
私のせいで皆が死ぬのは嫌なの」
「……嫌だ、お前を置いてなんて行けるものか」
苦しそうに父は言う。
真弓は分かっていた、彼が自分を見捨てられないことを。
そして、ここで逃げなければ皆死んでしまうことを。
真弓は涙を零した。
自分のせいで大好きな家族を死なせてしまうから。
自分のせいで母との約束を果たせなくなってしまうから。
悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
父は真弓の頭を撫でる。
慰めと諦めが含まれたその撫で方は、酷く優しかった。
もう直ぐ、怪物は解き放たれるだろう。
黒い靄から飛び出して、道を駆け抜けてくるだろう。
渡り門からかなり離れてはいるが、あの怪物にとってその程度の距離は苦でもない。
十数秒もすれば詰められてしまう距離だ。
「……ごめん、なさい」
父へ、智矢へ、母へ。
真弓は謝罪した。
死を受け入れることを、生きることを諦めてしまうことを。
晴れた空に、祈り詫びたのだ。
「──まだ、間に合います!」
だけれど、天は未だ真弓たちを見放していなかった。
「君は、さっきの……」
「そうです! 今追い付きました」
赤髪の少年は、真弓よりいくつか歳上だ。
そんな彼は膝と肩の下に手を差し込み、真弓の身体を持ち上げる。
「なに、を……?」
「逃げるんですよ!
まだ時間はあります、全速力で走れば追い付かれません!」
そう叫ぶ赤と白の
「この子はオレが連れていきます! 貴方はその子を!」
「……ああ!」
真弓は信じられなかった。
こんなことがあって良いのか、こんなに優しい人が居るのかと。
並の人間なら、知らん振りして自分を優先する。
当たり前だ。
誰にとっても、自分が一番大事なのだから。
けれど、彼は真弓たちを助けた。
助ければ、少年自身も危険に晒されるというのに。
分かっていないわけではないだろう。
現に彼の額には汗が滲んでいる。
心臓もばくばく音を立てている。
それでも、この少年は見捨てない。
困っている人を助ける。
困っている人に手を差し伸べる。
「……ありがとう、お兄さん」
震える声で、真弓は少年の胸に顔を埋めた。
母のように、温かい胸へ。
そうして、四人は走り続けた。
恐怖で竦む足を、なんとか動かして。
一生懸命距離を取る。
時間にして、四十二秒。
分にも満たない時間。
怪物相手には雀の涙とも言える距離。
少年は歯を軋ませる。
このままでは、追い付かれてしまう。
少年だけなら逃げ切れるはずだ。
運動能力は高い自覚はあるし、体力だってある。
だが、一人だけ逃げるなんて選択肢は無い。
この腕に抱えた少女、そして前を走る親子。
彼らを助けると決めたからには、絶対に助けるのだ。
ちらりと後ろを見ると、もう小さな個体は門から解き放たれていた。
この世のものとは思えない、醜悪な容姿を持つ怪物。
あれらは《
世界喰らい──W.E.と略される怪物は、逃げ惑う人々を認識したした途端駆け出した。
人間が肉体に宿す《神秘》を、骨の髄まで喰らい尽くそうと。
その名に負けぬ貪欲さで、獣のように獲物を追う。
「……やるしか、ない!」
少年は、真弓の父に声を掛ける。
腕に抱えた彼女の震えは大分治まっており、息も整っている。
走るとまではいかなくても、歩くことは出来そうだった。
「オレは今から怪物を足止めします!
だからゆっくりでも良いです、逃げてください!」
「そんな……! 君はどうするんだ?!」
「大丈夫です、戦えます!」
──オレは、《機関》の人間ですから!
まだ、見習いにもなっていないけれど。
それでも機関を、世界を救う人間になるのだから。
救わなければ、この幸せそうな家族を。
守らなければ、この家族の平穏を。
少年は少女を下ろすと即座に振り返り、親子を背に走り出す。
「……気を付けて! また会おう!」
「頑張って、お兄さん!」
背後から聞こえる二人の声。
彼らを守る理由が、また一つ増えた。
思わず上がる口角を抑え、少年は疾走する。
出来るだけあの家族から離れたところで、世界喰らいを食い止めなければいけない。
正面には六足を巧みに動かし、大きな口から触手を蠢かせた怪物が追いかけて来ていた。
全体的には狼のようだが、
怯える自分を何とか奮い立たせ、少年は
自身に宿る、《異能》の名を。
「──来てくれ、〝《
異能とは、人間の持つ特異な力。
その中でも、少年の異能は『剣の創造』とでもいうべきものだった。
身体を反転し、自身の手に剣を形成する。
不定形な、光で構成された直剣だ。
それでも、世界喰らいに対抗することは出来るはず。
警告区域内では異能の使用が許可される。
今時小学生でも知っている常識を思い浮かべ、怪物を迎撃した。
踏み込んで、距離を詰める。
そして、眼前に迫る怪物に向けて、剣を振り下ろした。
激突する剣と、怪物の触手。
受けたことのない衝撃が全身に響く。
「……だけど!」
痛い、怖い。尻尾を巻いて逃げてしまいたい。
だが、
あの地獄は、今の比ではなかった。
更にここで逃げてしまえば、どうにか自分は助かったとしても、あの家族が死んでしまう。
そうなってしまえば元も子もない。
それだけは絶対に防がねばならなかった。
自身の命と引き替えにしてでも、彼らを護らなければいけないのだ。
最も、死ぬ気は無いのだが。
振り直した八十センチメートル程の刀身で、相手を切り裂く。
直前に飛び退かれたようで、深く傷付けられなかったようだが傷は傷だ。
現に、世界喰らいの傷口からは黒い血──《黒血》と呼ばれる、世界喰らい特有の血液が流れ出している。
このまま傷を増やせば、時間は掛かるだろうが倒せる筈だ。
今の自分に求められているのは彼らが逃げ切るまでの足止め、時間稼ぎ。
その任務を精一杯果たしてやろうじゃないか。
一見重量があるよう見えない剣を振るう。
こんな成りでも、これは確かに重さがあった。
少年は武術は多少学んだだけであり、実戦経験があるわけではない。
そんな少年の剣でも、速さと重さがあれば攻撃になる。
斬って、殴って、避けられて。
世界喰らいに着実に増えていく傷が少年を奮わせる。
今にも逃げ出したいと叫ぶ心を抑えつけて、必死に力を振り絞る。
「ここ、だ!」
そして、遂に怪物の首に届いた。
剣の重さと少年の勢いが乗った一撃は、頭部であろう器官を斬り落とす。
吹き出す黒血が、少年の衣服を微かに汚した。
しかし、少年はそれを気にも留めない。
気にする暇があれば、怪物を殺した方が良いからだ。
続いて、胴体も滅多刺しにする。
『首を落とせば死ぬ』なんて、こんな超常生物に通じる常識だとは思わない。
確実に、動かなくなるまで殺さなければいけなかった。
振り下ろす度に飛び散る黒、肉を叩き斬る感触。
どうにも慣れない不快感を払い除けて、一心不乱に剣を振るう。
やがて、形も残らない肉片となった怪物は霧状に姿を変え、透明な石に似た物を遺して消滅した。
「……やった、のか?」
漸く終わった。
そう思って、少年は安心してしまった。
ここが戦場だと言うことを忘れて。
衝撃と共に、少年の身体が硬いアスファルトに叩きつけられる。
鋭い爪が、自身の腕と頭を捕まえて離さない。
ぎりぎりと掴まれた箇所が軋む。
それの手の隙間らしき見えたのは、先程倒したはずの怪物。
二体目の世界喰らい。
そうだ、渡り門から出てくる怪物は一体とは限らない。
戦いに夢中になるあまり、少年は失念してしまっていた。
「……クソ、退け!」
どうにかして逃げ出そうと藻掻くも、びくともしない。
寧ろ、段々と力は強くなっていく。
悲痛の声に歓喜するように、怪物は大口を開けて少年を捕食しようとする。
その悍ましい触手で目を抉り、脳髄を掻き回してやろうと。
「まだ、死ねな──」
「死に晒せクソワンコがあ!」
だが、そうは問屋が降ろさなかった。
怪物の身体が吹き飛ぶ。
いや、千切れ飛ぶと表現するのが妥当だろう。
どこからか攻撃を受けた身体は上半身と下半身が別れを告げ、そのどちらもあらぬ方向へ飛んでいく。
噴き出す黒色が辺りを染め上げた。
「……は、何だ?!」
驚く間もなく、身体が宙に浮く。
手を基点に引っ張り上げられ、そこから誰かに小脇に抱えられたようだ。
その誰かは少年を抱えたまま、渡り門と急激に距離を取っていく。
「おいお前、大丈夫か?!」
焦ったように少年に問い掛ける者は、怪物と同じようで全く違う黒を持っていた。
この世界では珍しくなってしまった星のない夜空、もしくは海の深淵のような色彩。
髪も瞳も、それに塗り潰されているようだった。
「聞こえてんのか、返事しろ!」
彼の言葉で少年は我に返る。
「……大丈夫です。
それより、アナタはどうしてここに……?」
「あっちからお前が襲われているのが見えて、慌てて飛び越えて来たんだよ」
彼が指し示したのは、反対側の河川敷。
彼は今、飛び越えてきたと言った。
目測でも二十メートル以上ある川幅を飛び越えるなんて、普通の人間ができることではない。
「どうやってここまで……?」
「……異能を使ったに決まってんだろ。お前だって使ってたもんじゃねえか」
一瞬押し黙った彼は、呆れたように返答する。
『強化系』の異能もあるのだった、と少年は無知を自省した。
そんな少年の様子を見た彼は、思い出したように怒鳴る。
「というか、なんであんなことをしてんだ?!
あれは機関の人間に任せるもんだ。ボクらのような一般人が請け負うことじゃねえ!」
はっと、少年は辺りを見渡した。
彼が戦う理由だったあの家族。
その姿は見えない。
どうやら、遠くまで逃げ切れたようだった。
胸を撫で下ろした少年は、助けてくれた彼の問いに答えた。
「とある家族が逃げるまでの時間稼ぎをしていたんです。
怪我をして、追い付かれそうになっていたので」
「なるほど格好良い、許す!
それで殺されそうになんのもどうかと思うけどな!」
面と向かって格好良いと言われたことに少し照れながら、自分の弱さを自覚した。
彼の言う通り、あれはただの自己犠牲だ。
生き残れる確率は、ほんの僅かしかなかった。
死ぬつもりは無かったとはいえ、死ぬ未来にあったのは事実である。
落ち込む少年。
彼は、そんな少年を気遣った。
「……ああもう、別にそこまで気にすんなよ!
その家族を助けられたことも、生き残ったことも事実だろ?
次気を付ければ良いだけだろうが!」
「……そうですね、ありがとうございます」
少年の混じりけのない感謝に照れ臭そうにする彼。
抱き抱えられたままの少年の額に、照れ隠しのチョップをした。
「おわっ……!」
「そういう言動できるヒーロー様だから、こういうことするのかねえ……。
つうか、大体同じくらいの歳でしょ。敬語要らねえから」
改めて彼を見れば、自分と同じく十五歳前後だろうと感じられる。
「助けてくれてありがとう。
もう俺は大丈夫だから、下ろしても──」
「んなわけあるか。アイツら舐めんなよ、罅くらいは入ってるだろうから。
そんな状態のやつほっといて死なれるほうが嫌だ。大人しく抱えられとけ」
食い気味に否定する彼。
その通りではあるだろうが、更に迷惑を掛けてしまっていることが少し申し訳なかった。
「……これも気にすんな。
ボクがやりたくてやってることなんだから」
「……すまない」
「ありがとうって言え」
「うん、ありがとう」
彼は怪物を吹き飛ばした力を使い、駆けていく。
辺りを見渡しているところを見るに、何かを探しているようだ。
「……居ねえ。もっと奥か?」
舌打ちしつつ呟く。彼はいったい何を探しているのだろう。
疑問に思う少年を他所に、彼は走り続ける。
時間にして五秒ほど後だろうか。
ある一点を見つめて、彼は頭を動かすのを止めた。
「見つけた」
その一言から、彼の動きは更に速くなる。
本当に地面を蹴っているのかすら分からない程だ。
少年は向かっている先を確認する。
そこには、白い服を着た集団が見えた。
白服の集団は、こちらを認識したようで周りと何か話している。
彼は一段強く踏み込み、集団の前で停止した。
慣性で少年が吹き飛びそうになるが、いとも容易く抑えられる。
そして、一番前方にいた女性に声を掛けた。
「機関の後方支援部隊の方々ですよね。
この人、
診てくれませんか?」
とても落ち着いた声だ。
あの距離を、あの速度で走ってきたというのに息切れ一つせず、彼は平然としていた。
彼に話し掛けられた女性は、動揺こそしていたが速やかに診療の手配を始める。
周りもそれに応じて動き出した。
少年は白服達に預けられ、治療を受けることになる。
彼の予想通り、骨に罅が入っているようだった。
通常ならば、全治三か月ほど。
しかし、そこは機関の後方支援隊。
神秘──《陰陽術》の行使によって、然程時間は掛けずに治療は終わった。
「……と、これで大丈夫だと思います。肩、動きますか」
「……はい、問題なく。ありがとうございました」
呪文を唱え、白紙になった紙を持った女性は続けて話す。
「ご家族などに連絡して、迎えに来ていただきましょうか?」
「……いえ、大丈夫です。一人で帰られるので」
「……そう、ですか? では、お大事に」
少年は目を伏せて答える。
その動作を不思議に思いつつも、女性は少年を送り出した。
少年は、周囲を見渡して彼を探す。
あの目立つ黒髪は、遠目でも分かるはずだ。
しかし、どこにもその色は見えない。
あるのは、青空と町並みだけだった。
「……名前、訊きそびれたな」
また、彼と出会える日はあるだろうか。
あの目を惹く黒色を思い浮かべる。
何色にも染まらない、不思議な色。
東京の人口の数からして、彼を探し当てるのは不可能に近いだろう。
例え、彼の色彩が珍しいものだとしても。
少年は溜息を吐いた。
今日のように、偶然出会えることを祈るしかない。
もしかしたら、案外直ぐに会えるかもしれないな、なんて思いながら。
少年が身に着けているジャージのポケットが震えた。
そこに入っているのは、携帯端末だ。
表示されていたのは怪物達の殲滅が完了したことを告げる文。
いつの間にか、戦いは終わっていたようだ。
機関の戦闘員が、少年たちと入れ替わりになるように到着したのだろう。
「今日はやけに早いな。二級ってそんなに弱くないだろ」
「規模が小さいタイプだったんじゃないか?
それか、一級連中でも上位の奴が来たのかもしれない」
周りにいる白服が作業をしながら話している。
少年はこの現象に遭遇するのは初めてだから、これが普通の早さなのだと思っていた。
しかし、彼らの口振りからして、本来ならもっと時間の掛かるもののようだ。
「すみません!」
突然声を掛けられ、振り返る。
そこには、先程治療をして貰った女性が立っていた。
「これ、渡し忘れていました」
少年に差し出されたのは、一枚のメモ。
受け取って見てみると、そこには電話番号と女性の名前らしきものが書き記されていた。
「こちら、隊の連絡先になります。もし何かあればこちらにどうぞ。
手の空いているものが出ると思うので、その時は私をお呼びつけください」
「……何から何まで、ありがとうございます。
お仕事頑張ってください」
女性と一言二言交わし、その場を去る。
身体は重いが、動かない程ではない。
このまま、家まで帰れるだろう。
今日はとても疲れてしまった。
まだ昼にもなっていないというのに、こんなに疲れていては一日も持たないのでは無いだろうか。
そんなことを考えながら、少年は日常を取り戻した桜並木の下を歩いていく。
「……やっぱり、気のせいだったのかなあ?」
「どうしたよ」
「あの子、
でも、《
「
こんだけ人がいるんだ、そういうこともある」
女性は、段々と離れていく少年の背中を眺めた。
やはり、どこからどう見ても普通の子だ。
見た目に特徴はあるが、改編者特有の雰囲気は感じない。
「……まあいっか。
怪我人も治したことだし、私たちもお仕事しないとね」
「さっさと『お片付け』しないと、な」
「分かってるってば」
拭い切れない違和感を放り投げ、女性は仕事に戻ろうとする。
小突いてうざ絡みする同僚を軽くいなし、治療用に広げた道具を片付けた。
この後は、戦闘員と怪物たちが散らかした場所の『お片付け』。
つまり、後処理が待っている。
「被害範囲、広くなければいいなあ」
「期待しないほうがいいぜ? 『危険度二級』なんだからさ」
渡り門の危険度というのは、門から現れる世界喰らいの質と数を踏まえた上で測定されており、世界喰らいが強ければ強いほど、多ければ多いほど、被害も比例して大きくなる。
殲滅に当たる戦闘員は、その危険度と同等の等級の隊と一つ上の等級の隊だ。
戦力次第では他の隊も合流することがある。
ただ、二級以上となると隊員の数も少なくなり、一級の隊なんて数えるほどしか無い。
今回は一級でも上位の隊が駆け付けたらしく、かなり早く殲滅が終わったらしい。
本来ならば一時間近く続く戦闘が、三十分ほどに短縮されていた。
「あ、そうだ。
今日の凄い強い一級って、結局誰だったの?」
「聞いて驚け、あの《
「ああ……だからね」
『
そんな異名を持つ女性が脳裏に過る。
同じ高校を出て、同じタイミングで隊員になって。
二人は、八年ほど彼女の活躍を見続けてきた。
「同期だっていうのに、何でこんなに差が出んだ?」
「さあね、『そういうもの』なんじゃない?」
「……全く、世界が違うぜ」
嫉妬なんて感情は優に越した。
憧れ、呆れ、諦め。
感情が混ざり合って、一言では言い表せない。
それでも、彼は彼女らは歩み続ける。
荷物も診療設備も全て回収済みであることを確認すれば、白服たちは動き出す。
目指すは仕事場、次は戦場の後片付け。
与えられた仕事は、しっかりこなさなければいけない。
戦闘員だとか、支援員だとか、そんなことは関係ない。
やるべきことはやる。
ただ、それだけなのだ。
太陽は、空の中心に聳えていた。
一連の騒動が終わり、家路に付いた少年。
先までの喧騒が、嘘のように静まり返った河川敷。
人一人見当たらないのは、ここ周辺に居た人々が皆避難したからだろう。
機関の支援部隊は、世界喰らいやその影響で負った怪我などを治したり、避難誘導をしたりする役割を持っている。
少年よりも前に逃げていた者たちは、彼らの対応を受けたはずだ。
「……居ない、な」
偶然出会えることを祈ってはいるが、それでも探したくなってしまう。
久し振りにまともに話した同年代だから、なのかもしれない。
少年の容姿や経歴は、あまり良い印象を持たれない。
尚且つ、少年自身も人と関わることが苦手であるため、保護者である男とその家族以外とは話すことが無かった。
話すとしても、精々業務連絡ぐらい。
日直だとか、係の当番だとか、そんなものだ。
高校でも、同じように過ごすのだろうか。
そう考える少年の視界を、また薄紅色が微かに覆う。
「……ここどこだ?」
桜の花弁が遮った後、そこに広がる世界はどこからどう見ても『普通』ではなかった。
世界全体が灰色に染まり、大昔の写真のようになっている。
空も、草木も、桜も。
何もかもがモノクロであった。
「何が起こって──」
「どうなっていますの、この空間?!」
「は?」
頭上から、奇妙な何かが降ってきた。
避けられるはずもなく、少年はそれと激突する。
重量のあるそれ。
支え切れるわけもなく、体制を崩して背中から地面に落ちる。
何かは、少年の上に跨がっているようであった。
「痛いですわねえ……!
あなた、なんでこんなところにいらっしゃいますの?!」
「それはこっちの台詞だ!」
理不尽に怒る何か。
少年はそれに反論する。
「大体、オレも何だか分かって……」
しかし、言葉は尻すぼみしていく。
何故ならば、衝撃で閉じた目を開くと、そこに広がっていたのは桃色であったからだ。
「……何だこれ?」
視界の占有率の最上位は桃色。
次点で白色、三番目は薄橙色だろうか。
桃色と白色は布のようであるように見えた。
「……へ? あっ、どこ見てますのこの変態!」
「痛い……!」
どん、と腹を殴られる。
けれど、あまり痛くはない。
トレーニングの成果だろうか。
羽撃く音と共に、上に乗っていた重量が無くなる。
起き上がると、そこには一人の少女がスカートの裾を抑えて顔を赤らめていた。
「……レディの禁域を覗くとか……本当に何を考えて……!」
「何を言って……いや、まさか……!」
脳裏に過る桃色。
まさか、それは彼女の──
「考えていること丸分かりですわよ!
少しは自重しなさいな!」
「本当にすみませんでした!」
少年は起き上がり、腰を九十度直角に曲げた華麗な礼をする。
やはり、あれは彼女の下着だったようだ。
女性にとって意中ではない男に下着を見られることは、屈辱以外の何物でもないはずだ。
だからこそ、少年は誠心誠意謝罪する。
偶然の産物とはいえ、無礼には違いないのだから。
「……赦しますわ。大部分は、わたくしに非がありますもの」
指先を合わせながら、少女は少年の謝罪を受け入れる。
上から落ちてきたのは彼女であるし、彼女が落ちてこなければ起きない出来事でもあったのだ。
「ですから、その姿勢はお止めなさい」
「……恩に着る」
少女の声掛けに応じ、少年は顔を上げる。
「……ん?」
改めて見た少女の姿は、人間とは少し異なっていた。
耳はぴんと空に向かって伸び、歯には鋭い牙が二つ。
肌は新雪のように白く、病人のようにも見えるが艶めかしさを感じる。
そして、背から生えた蝙蝠のような翼。
「吸血鬼……?」
「……半分はそうですが、何か問題が?」
肯定された通り、少女は《吸血鬼》であった。
「……凄いな東京、ファンタジーな存在までいるのか」
「居ませんわ、普通は。
今は非常事態ですから──そうでした、あいつが……!」
「おう、やっと思い出してくれたかい?
おじさん、ずっと典型的なラブコメ見せつけられて、ちょっと心が荒んだよ。
だから、死んでくれ」
背後から声が聞こえた。
振り返る前に、少女が少年を引き寄せて飛び立つ。
ふわりと空中を浮遊して、二人は地面に足を付いた。
「ありゃ、避けられちゃった」
先程まで少年が立っていた場所には、見覚えの無い男が一人。
斧と槍を組み合わせたような武器、ハルバードと呼ばれる戦斧を横に凪いでいる。
少年は玉のような冷や汗をかいた。
あそこに立ち続けていたのなら胴体を両断されていただろうと察しが付くからだ。
明確な『殺意』。
相手を殺そうとする意志。
なのに、彼の雰囲気からは全くそれが感じられない。
行動そのものは殺意の塊であるのに、あの男は『普通』でやってのける。
へらへらとした態度で、何一つ躊躇わず。
言い知れない恐怖に、身体が強張る。
あの男は『危険』だ。
世界喰らいより、ずっと。
「……彼は一般人ですわ、巻き込まないでくださいまし!」
「いやいや、ここに入って来れる時点で一般人じゃないでしょ。
そういう《結界》って理解してます、オヒメサマ?」
少女は唇を噛む。
誤魔化しきれないか。
流石に無理のある言い訳だった。
この何でもない一般人のような風貌をした少年。
彼は偶然を装って結界を越えた、改編者なのだろう。
少女を助けるために、機関が寄越した戦闘員。
何故そんな態度を取っているかは不明だが、何か意図があるはず。
結界は、普段の世界とは異なる空間を作り出す術式の総称。
条件次第ではあるが今回のような結界の場合、構築された内部は世界から隔離されており、
少年がここに居る時点で、彼が結界を認識していることは確実。
侵入が可能ならば、脱出も可能のはずだ。
後は、あの男を撒だけ。
しかし、そう考える少女の後ろで、少年は困惑していた。
「……結界って何だ?」
「はい?」
「お?」
「……え?」
一同が吃驚する。
いや、まさか本当に。
本当に彼は、一般人なのではないか。
そんな思考が二人の間を掛け巡る。
「あの……あなた、どうやってここに入って来たのです?」
「家に帰ろうと歩いていて、気付いたらここに……」
「……一条さま……いえ、機関のエージェントだったりとか……?」
「……普通の学生です」
「はは、マジかよ!」
少女は天を仰いだ。
救いの手だと思っていた少年は、紛れもない一般人だったのだ。
「……残念だったなオヒメサマ、オウジサマじゃなくて。
いや、本当傑作だよ。グランプリ出られるんじゃないか?」
その光景を見て大爆笑していた男が、涙を拭いながら揶揄う。
少女は憤慨し、言い返した。
「そんなこと言われても嬉しくありませんわ!
……逃してくれるわけではないのでしょう」
彼の口が歪に弧を描く。
「そりゃそうだ。
見られたからには──殺さなきゃいけないんでね!」
明確な殺意が向けられた。
瞬間、男が飛び出す。
担いでいた斧を振り上げて。
「本調子ではないというのに……仕方ないですわ!
あなた、わたくしから離れないでくださいまし!」
「……ああ!」
ぐっと少女に肩を引き寄せられる。
少年は、彼女から離れないように抱き着いた。
再び翼が羽撃き、空中に飛び立つことで一閃を躱す。
しかし。
「何度も同じ手が通用すると思うなよ!
〝
男が一言呟いた途端、彼は二人と同じ高度まで跳び上がった。
眼前で振るわれる斧、少女は間一髪でそれを防ぐ。
「……使えるなら、最初から教えていただきたいですわ!」
「獲物に手の内教える馬鹿がいるとお思いで?」
男が足に纏う立体的な幾何学模様。
神秘の一種である《魔術》、その中でも《詠唱系》と《描画系》を組み合わせているようだ。
「それはそうですわね、愚問でしたわ……と!」
肩を竦める男に、少女は何かを投げつけた。
真っ直ぐ飛んでいくそれは、彼の足元に落ち爆発する。
「……油断も隙もありゃしねえな。
癖が悪いぜ、箱入りオヒメサマ!」
「そのままお返しいたしますわ、傭兵のおじさま」
それに怯まず、煙の中から飛び出す男。
少女は念力のような不可視の力で、彼の斧に応戦する。
振り下ろされる厚い刃。
だが、少女の念力はそれを物ともしない。
埒が明かないと察したのか、男は一度距離を置いた。
「……あのなあ、ヒメサマ。
言っておくが俺はまだ二十六だ、おじさんじゃねえ!」
「あら、自分で『おじさん』と申していたではありませんか?」
「自分で言うのと言われるのじゃ別腹なんだよ。
お分かりいただけますかあ?」
「調子が良いですわね、嫌いじゃありませんが」
戦闘中だというのに、男の口調は軽い。
ただじゃれあっているようで、命のやり取りをしているとは思えない。
少女は不思議だった。
彼は恐らく、傭兵。
少女を狙う者に雇われた、現代では万屋のような者。
だというのに、彼は軟派過ぎる。
傭兵に荒くれ者のような者が多いのは事実だが、彼らは仕事に関しては真面目だ。
依頼の達成のためなら、子どもであったって無慈悲に殺害する。
ただ迅速に、ただ正確に目標を目指す。
ある意味、獣のような者たち。
その中で、あの男のような存在は異質だった。
傭兵とは思えない綺麗な魔術も、態度も。
全ておかしいのだ。
彼は何者か。
それを探るために、
罠かもしれないが、情報を探り出すにはこれしかない。
一挙手一投足。
会話の端から端まで気を配る。
脱出方法も不明な結界の中、ヒントはあの男に隠されているはずなのだから。
「それは勿体なきお言葉……だが、お喋りしすぎたな。足元お留守だぜ」
気付いたときには、もう遅かった。
突然、少年の身体が吹き飛ぶ。
地面を何度かバウンドして、ようやく勢いが止まった。
あまりの衝撃に、起き上がることができない。
そんな少年の前に、男が立ち塞がる。
「……殺し切れなかったか。タフだね、アンタ」
「……何を、した?」
「『地雷』だよ、魔術的なもんだがな。
おっと、ヒメサマは無事だぜ。大切な取引対象なんでね」
彼は親指で背後を指差す。
そこには地面から飛び出た鎖で拘束された少女。
怪我は無いようである。
それに胸を撫で下ろしたのも束の間、少年の首に斧の刃が添えられた。
「さっきの爆発で死ねたら良かったのにな、可哀想な坊主だぜ」
「……悪いが、死ぬつもりはない」
伏せたまま、少年は男を睨み付ける。
「おお、怖いねえ最近の若者は。
だが……すまんな、自分の運の悪さを恨んでくれ」
男はそれを振り上げる。宛ら、処刑をするように。
己はこのまま死ぬのだろうか。
少年は刃を見据えて思考する。
あれが振り下ろされれば、為す術もなく死に絶える。
少年は『人間』だ。
首を落とされて生きているはずがない。
だが、この状況下。
異能があれど、覆せるものだろうか。
少年の異能は、ただ光で剣を作るだけ。
この男は強い。
万一この攻撃が避けれたとしても、少年が敵うことはないだろう。
万事休す、八方塞がり。
打つ手は無かった。
少年は目を閉じる。
迫り来る死に備えるために。
けれど、本当にこれで良いのだろうか。
強大な力の前に生きることを諦めて、地に伏せたまま死んで。
それで、終わっていいのだろうか。
「────ごめんなさい」
微かに、少女の嘆く声が聞こえた。
いや、まだだ。
まだ終われない。
まだ、何も成していない。
深く、息を吐いた。
今ここで死ねば、彼女はどう思うだろう。
自分のせいで死んでしまったと、心を痛めるに決まっている。
短い時間ながらも、少年は少女の優しさを理解していた。
それに、やらなければいけないことがある。
そのために、少年は生きてきたのだ。
夢半ばで終われない、夢を諦めていられない。
そうだ、少年はこんなところで死んではいられない。
だから、叫ぶのだ。
己に宿る力の名を、勇気の象徴を。
「──〝
「……何?!」
放たれる光の奔流。
得体の知れないその力を警戒し、男は飛び退いた。
拘束が解かれた少年は、ゆっくり立ち上がる。
爆発の影響で身体は痛む。
所々血が滲んでいる。
それでも、少年は立ち上がるのだ。
手に光の剣を携えて。
夢を叶えるために、生きるために。
そして、剣の切先を男に向けた。
宛ら、挑発のように。
「……どこが一般人だよ、しっかり戦えんじゃねえか。
ヒメサマ、教えてくれよ!」
「……わたくしも知りませんでしたわ」
「それなら仕方ねえなあ、やってやろうじゃんよ!」
男は、少年に向かって斧を振り上げる。
その奇妙な剣ごと叩き斬ってやる、と。
力押しでは確実に負ける。
それを理解していた少年は、真正面から受けるのではなく避けることにした。
右へ、左へ。
時には前後へ。
大振りな彼の攻撃は、避けるだけなら簡単だった。
「避けるばかりじゃ、勝てねえぞ!
〝
「……速い!」
しかし、彼はそんなに簡単な存在ではない。
発動したのは、先程とは別の魔術。
全身に纏う幾何学模様。
名の通り、速度を強化するもののようだ。
襲い来る攻撃。
先程までは避け切れていたが、速くなった今は回避が間に合わない。
少年は、咄嗟に剣で斧をいなす。
速さと重さの乗った一撃は、完全に防ぎ切ることは出来なかった。
勢いそのままに横に跳ぶ。
先の一撃を防いだ手が、まだ痺れていた。
このままでは、少年は男に勝てない。
分かりきっていたことではあるが、こうも突き付けられると絶望感が増す。
何か、打開策を見つけなければ。
三人以外誰も居ない空間の中、頼りになるのはあの少女だけ。
そう思った矢先、件の少女は少年に向けて声を荒げた。
「あなた、《イェソド・ガブリエル》と叫びなさい!」
「……どうしてだ?!」
「いいから、早く!」
仔細を話さない少女に疑問を抱きつつも、従うしかないと彼女の言葉を復唱する。
「──〝イェソド・ガブリエル〟」
何故少女は、それを少年に言わせたか。経緯は数分前に遡る。
剣と斧がぶつかり合い、高い金属音が鳴り響く。
その後ろで、信じられないというように目を見開く少女。
戦い続ける二人は、それに気付くことはない。
「……あれは、あの力は。
見間違うはずがない、あの人の……!」
少女は、少年の力が何なのか知っていた。
今となっては懐かしき思い出。
その中で恩人が扱っていた力。
──『
彼は、確かにそういった。
恩人と一言一句同じ言葉を。
だから、もしかしたら彼と恩人は同じ力を扱っているかもしれない。
「……なら!」
少年は苦戦している。
それは恐らく、彼の力が足りないから。
彼が、あの力の本質を引き出せていないから。
ならば少女の記憶は、彼の力となり得るはずだ。
あの光の剣。
それはまだ、不完全な形態に過ぎない。
少女の記憶に刻まれた言葉。
あれの本当の名、その一つ。
それさえあれば、少年は勝つことができる。
──《基礎/紫の啓示(イェソド・ガブリエル)》。
天使の名を冠したそれは、大きな鎌だった。
白い金属で作られており、刃の根本には特徴的な紫色の水晶が付いている。
「これ、は……?」
「……殺意の高い形をしてやがる。当たったらやべえな、ありゃ。
おいこら、やっぱ知ってるじゃねえかよ!」
「彼のことは知りませんでしたから。嘘は吐いていませんわ」
少女の発言に男は舌打ちをした。
「……ヒメサマの意識も奪っておくべきだったぜ。
もう良い、俺も……本気で行く」
彼は斧を天高く掲げる。
表面に入る罅。
徐々に広がっていき、やがて斧自体を破壊する。
飛び散った斧の破片、それらはまた、一つに集まり始めた。
彼の斧、ハルバードは斧と槍が一つになった武器だ。
だが、それは偽りの姿。
それは斧なんてものではない。
本来の姿は──
「──〝鏡写しの神槍(レプリカ・グングニール)〟」
槍だ。
穂先に文字が刻まれた、細身の槍。
『決して的を外すことがない』という逸話を持つ、神秘の一つ。
「……これを見せるつもりはなかったが、アンタにはコレがなきゃ勝てそうにもないんでね」
男は槍を構える。その姿は、先の斧よりも堂に入っていた。
片や天使の名を冠する鎌、片や神と名のつく槍。
勝利の女神はどちらに微笑むのか。
幕は切って落とされ──なかった。
軽い着地音。
少年とは別の『光』。
「──お迎えに上がりました、リリス・ヴィオレット」
「……遅いですわ。
二人の間に、一人の女性が降り立った。
黒一色の衣服を身に纏い、その背には紋章が印されている。
それが表すのは《神秘管理機関》に所属する人間である、ということ。
つまり、彼女は本当の希望であった。
「そして、傭兵メルクリウス。国際神秘行使規約の違反により、お前を拘束する」
「……面倒なヤツが来やがった」
勝利の女神は、混沌をお望みのようである。
「……やめやめ。《
一人でさえ大変なのに、二人掛かりは本当に骨が折れる」
「逃がすと思っているのか?」
「……ですよね」
眉を顰めるメルクリウスと呼ばれた男。
彼は、藍という女性に苦手意識を持っているらしい。
「しかし、今回だけは見逃してやらんこともない」
「お、マジで! ……因みに、条件は?」
「リリス・ヴィオレットを置いていけ」
「無理だって分かって言っているだろアンタ!」
メルクリウスは悲痛に叫ぶ。
彼への依頼内容は『リリス・ヴィオレットという少女の誘拐』であった。
彼女を取り逃せば、依頼の達成は出来ない。
「俺がどれだけ苦労してここまで来たと思ってんだ?!」
「……我侭な奴め、良いだろう。
妥協して、お前が機関に下るというならば許そう」
「だから無理だって分かって言ってるよなあ?!」
リリスと少年のやり取りより、よっぽどコントじみているではないか。
やる気を削がれた少年は、鎌を担いで行く末を見守った。
因果応報とはこういうことなのだろうか、と考えながら。
「別に悪い条件ではないだろう? お前はそれくらい分かるはずだ」
「……俺は機関が嫌いなんだよ。従うくらいだったら死んでやる」
男は親指をぐっと下に向け、同時に槍を空中に放り投げた。
先程の現象が逆再生されるように、槍は斧へと戻っていく。
重力に従って落下する斧を掴むと、それを地面へと突き刺した。
彼にも、もう戦闘の意志はないようだ。
「……条件は最初のやつで良い、ヒメサマは置いていく」
「了解した。残念だよ、メルクリウス」
「……どの口が」
吐き捨てるように言い放つと、男はリリスの拘束を解いた。
「やっと取れましたわ。
とても窮屈で……レディの扱いがなっていないのではなくて?」
「俺は学のない傭兵なもんでね、女の扱いなんて分かりゃしねえよ」
これで良いか。
言外にそう問うように、メルクリウスは顎で示す。
藍が頷くと、彼は背を向けて歩き出した。
「……良いんですか、彼を捕らえなくて?」
「彼との交戦は犠牲が出る。今の状況下では、な」
『犠牲』。
その言葉は、恐らく少年を指したものだった。
やはり、少年には力が足りないのだ。
全てを捻じ伏せられるような力が。
藍に悟られないように、拳を強く握り締めた。
徐々に離れていくメルクリウスの背中。
担がれた無骨な斧は、傷一つ無かった。
「ああ、そうだ。これは独り言なんだが……」
彼は急に足を止めた。
「……今回の依頼、何だかきな臭かった。
一応受けたが、俺は依頼者を信用しちゃいねえ。あっちの出方次第で、俺はアイツを殺す」
彼の灰色の瞳が、少年たちを見据えた。
「気を付けろ。大きな何かが、闇の中で蠢いている」
それだけを言い残し、彼の姿は掻き消えた。
灰色の世界と共に。
少年が周囲を見渡せば、そこは普段通りの桜並木がそびえ立つ河川敷。
空は青く、草木は若々しい緑で、桜は薄紅色である。
帰ってきたのだ、元の世界に。
疲れからか、安心感からか。
少年は、力なくへたり込んだ。
無意識に気を張り過ぎていたのだろう。
元々あった身体の重さが、更に増したようだった。
それを助長しているのは、肩に担いだ鎌。
「これ、は……どうすれば……?」
「いつもと同じように扱えば良いと思いますわよ?」
いつの間にか側へ近付いていたリリスが、頭上から助言する。
彼女の助言通り、使う機会のなかった鎌は簡単に消すことが出来た。
形が変わっても、異能は異能であるようだ。
座り込んだままの少年に、リリスは手を伸ばす。
華奢な掌を握り、少年は立ち上がった。
「ありがとう。
あの時キミが教えてくれなかったら、オレは死んでいた」
「礼には及びませんわ。
……そもそもわたくしがいなければ、あなたを巻き込むことも無かったでしょうし」
「それなら、俺のことも気にしないでくれ。勝手に入ったのは俺なんだから。
これで五分五分、どうだ?」
呆れた顔で笑って、彼女は頷いた。
少年としては、自分と相手の案を折半した良案だと思っていたのだが、少女にとっては違うようだ。
追求しようと口を開きかけた時、とある人物が口を開いた。
「二人の世界に入るのは良いが、こちらも仕事があるのです。話をさせていただきたい」
入ってない。
二人は、同時に藍の言葉を否定した。
「仲のよろしいようで。
では、場所を変えましょう」
彼女が手を打ち鳴らすと、又もや一瞬のうちに世界が移り変わる。
今度は四方がコンクリートに囲まれた、近代的な部屋だ。
「ご安心を。彼のように結界ではなく、転移しただけです。
テレポート、と言ったほうが分かりやすいでしょうか?」
「はあ、なるほど……」
朝から続く非日常に感覚が麻痺してしまっているが、結界の構築も転移も、少年の身の回りにある現象ではない。
《神秘》と呼ばれる、一般には秘匿された技術形態だった。
それがぽんぽん扱われるような場所、東京。
世界一平和と謳われる国の首都が、こんな魔境で良いのだろうか。
横目で、隣にいるリリスの様子を伺おうとする。
しかし、そこには誰も居ない。
反対側にも、背後にもリリスの姿はどこにも無かった。
「……あの、ヴィオレット……さんはどこに?」
「別の場所に転移させていただきました。
彼女は機関の客人でして、元々迎えの用意がされていたのです。
メルクリウスの邪魔が入ったせいで、計画通りに進まなかったのですが」
「なら、オレは何でここに連れて来られたのですか……?」
藍は、無言で部屋の中心にある椅子を引く。
パイプ椅子に事務机、その上に乗った電気スタンド。
少年には、その光景が見覚えがあった。
幼い頃何度か連れて来られた部屋、刑事ドラマでよく見る一室。
そう、そこは取調室。
「勿論、貴方の事情を根掘り葉掘り、全て白日の元に晒すためです」
人形のように、にこりと笑う藍。
その裏には、闇よりも深い感情が見え隠れしている。
ちょっとくらい、メルクリウスの恨みをぶつけてもいいだろう。
そんな感情が。
少年の悲鳴が、防音の部屋に響き渡った。
「……何か、変な声が聞こえたような気がしたのですが……?」
「大方、誰かがマンドレイクの収穫でもしてるのよ。
《幻想生物》、叫ぶ方のね」
「それ、担当者死んでいません?」
「……死んでいないといいわね」
雲のような、夢心地のような口調で喋る少女アリス。
そんな少女に見捨てられた憐れな担当者、どうか生きていてくれ。
リリスは心の中で合掌した。
「そんなことより、お話しましょう?
ワタシ、ずっとアナタと話してみたかったの!」
腕の中の人形をぎゅっと抱き締めて、少女はリリスにせがむ。
「ほらワタシ、『アリス』って名前じゃない?
だから、『鏡写しの世界』なんて聞いたらワクワクが止まらなかったの。全部が鏡写しになっているなんて、本当に絵本みたいな世界じゃない!
ねえ、聞かせてアナタが住んでいた世界のこと!」
純粋無垢な少女のように、アリスは催促する。
リリスが生きてきた世界。
この世界を鏡写しにした、もう一つの世界のこと。
「ええ、良いですわ。話して差し上げましょう。
全てが反転した、とある世界の話。神秘が色濃く残った、不思議な世界の話を」
少年とリリス。
二人はそれぞれ、己の話をし続ける。
日が傾き、空が茜色に染まるまでずっと。
藍は腕時計を確認する。
短針が示すは五。
事情聴取開始から、約三時間が経過していた。
目の前には机に突っ伏す少年が一人。
その口からは、魂が抜けている。
少々いじめ過ぎたらしい。
「そろそろ終わりにしましょうか。必要なことは粗方聞けましたし」
「……本当、ですか?」
「まだ訊かれたいのですか?」
「嫌です終わらせてくださいお願いします」
勢い良く頼み込む少年。
こういうところだけ見れば、普通の少年のように見える。
「よろしい、家まで送って差し上げます。
ちょうど貴方の家の近くへ用事がありますので」
「ありがとうございます」
抑揚無く返事をされる。
愉快な彼の姿に、藍はくすりと笑ってしまう。
「では、参りましょうか」
閉ざされた扉を開けて、少年を引き連れ施設の出口へと向かう。
彼女たちとはそこで合流する手筈となっていた。
「あ、アイちゃん!」
「アリス、アイちゃんは止めてと何回も言ったでしょう。人前ではせめて、アイさんと呼びなさい」
「はあい、アイさん」
こんなことを注意しても、また会ったときには『アイちゃん』に戻っているのだろう。
恒例化したやり取りを小さな友人と行っていると、リリスが藍の背後を指差した。
「彼、大丈夫なんですの? 『心ここに在らず』というようですが」
「そのうち戻ってくるでしょう。お気になさらずに」
疑り深い目を向けるリリスを無視して、藍はアリスに別れを告げる。
「もうそんな時間なのね。
哀しいけれど、また会える日を楽しみにしているわ」
「はい、また会いましょう」
最後に手を握って、黄色のエプロンドレスにちぐはぐな黒のジャケットを着た少女は去っていく。
「……あの子の上着。あれは、機関の制服じゃ……?
一条さん、機関は十五歳以上じゃないと所属できませんよね?」
「そうですよ。幼く見えますが、彼女アリス・テイラーは十五歳。
私と同じ、一級の戦闘員です」
「なるほど……いや、あの子がですか?!」
「見た目で侮ることなかれ、と言うやつです。かなり強いですよ」
頭部につけた大きなリボンを揺らす、幼く見える少女。
どう見ても、朝の騒動時に助けた子と同年代くらい。
しかし、実際は少年やリリスと同年代だというのだ。
「東京、凄い……!」
「だから、そんなものじゃないと言っているでしょう?」
都会の多様さに驚く少年にツッコむリリス。
長年別の世界で暮らしていたリリスでも分かることを、何故この男は分からないのだ。
何とも摩訶不思議なことだが、思い返せば少年は本当に分からないのことだらけであった。
『あの力』の正体を知るためにも、彼を問い詰めなければ。
「あなた。わたくし、お聞きしなければいけないことがあるのですが……」
「その前に、車に参りましょう。お二人を家に送らなければなりませんので。
詳しい話はそちらでお願いします」
口を開いたリリスと少年の肩を掴み、藍は駐車場へ向かう。
「……そうですわね。ありがとうございますわ、一条さま」
リリスは、今どこに居たのかを改めて思い出す。
ここは、機関日本支部の総本山。
誰が会話を聞いているのか分からない。
そんな中で、『あの人』に関する話をするわけにはいかない。
彼女が言いたいのは、そういうことだろう。
「ご理解いただけたようで何よりです。
さあ、行きましょうか」
何も理解していない少年を他所に、二人は進んでいく。
機関の施設の地下には、車両の駐車スペースがあった。
エレベーターで地下に降りた三人は、藍の車に乗り込む。
「お二人は後部座席にお乗りください。その方がお話しやすいでしょう」
「お気遣い感謝します」
「話すことあり──」
「わたくしはありますの、さっさとお乗りになってくださいまし!」
押し込まれるようにして少年が左側に、リリスは右側に乗る。
二人が乗ったことを確認すれば、藍はアクセルを踏んだ。
静かな駆動音が、淡い光の地下空間に響く。
二十年ほど前はまだガソリン車が多かったそうだが、今はCEV──クリーンエネルギー自動車が殆どで、純粋なガソリン車なんて基本お目にかかれない。
見れるとしたら、製造企業の展示くらいだろうか。
動き出す車。
東京に来る前は何度も乗っていたというのに、何だか久し振りに感じる。
「……車ってこんな感じですのね」
「もしかして、乗ったことないのか?」
「ずっと異世界暮らしなものでして、科学なんてこれっぽっちも触れたことがありませんの」
この世界とは異なる世界、その名は《鏡面世界》。
鏡で隔たれた向こう側、空想が蔓延る世界。
「話だけ聞いていたが……本当にあるんだな」
「あまり馴染みがなくて当然ですわ。
基本、《門》は機関によって管理されていますもの」
鏡面世界は、普段人間が住んでいる世界と隔離されたもう一つの世界だ。
あちら側では、主に彼女のような吸血鬼や竜などの《幻想生物》と呼ばれる存在が暮らしている。
こちらの世界と鏡面世界は元々一つであったが、とある出来事から二つに分けられることになったという。
その二つの世界を繋ぐのは、『鏡』。
姿見でも水鏡でも、何でも良いから自分の全身が映るもので、かつ様々な条件を合格することで門となり得る。
しかし、その門となるべき場所やものは機関が管理!している。
そうでなければ、互いの世界に悪影響を及ぼしかねないからだ。
「……こうして考えると、世界ってやっぱり変わったんだな」
少年の言葉に、リリスは頷いた。
二人が生まれる前の話であっても、
二〇二〇年四月一日、午後十二時〇〇秒。
世界に『罅』が入った。
物理的に入っているのではない。
空間そのもの、世界を覆う結界に罅が入っていた。
そして、全世界に一斉に出現した異界の扉。
そこから飛び出す怪物。
世界は、一瞬にして地獄へと叩き落とされた。
抗う間もなく無残に殺される人々。
崩壊する建物、燃え滾る炎。
誰もが絶望した。誰もが諦めた。
『生きることはできない』と。
けれど、まだ希望の光はあった。
──我々は、『
『機関』、もしくは『WMF』と呼んでほしい。
突如現れた集団。
円を中心に六角形が重なり合った紋章が描かれた黒か白の制服を身に纏い、超常的な力を扱う者たち。
彼らは、怪物から人々を守った。
時にはその身を犠牲にしてでも、守り通したのだ。
一週間。
それは、地獄が続いた時間。
《鍵》と呼ばれる怪物を倒すまでの時間。
被害は、甚大なものだった。
機能停止に追い込まれた大都市。
相対的に被害の少なかった地方部も、復興までかなりの時間は掛かる。
人的被害は、目も当てられないほどだ。
そうして、人類は多くのものを喪った。
けれど、滅びはしなかった。
あんな絶望の淵に居たというのに、しぶとくも人類は生き残ったのだ。
『あの怪物たちは、この先も永遠に襲来する』。
機関の総司令官が、各国の主要人物に伝えた言葉。
今回のような大規模なものは、十年に一度。
小さな渡り門は、毎日幾つも開くだろう。
残酷な宣告だ。
これで終わりではない。
まだ、地獄は先がある。
しかし、それでも諦められなかった。
あの怪物たちに逆らえる力があると知った今、諦めるなんてことは出来なかった。
──我らは、貴殿ら『世界神秘管理機関』の活動を認可する。
それは、全会一致で決議した答えだ。
使い方を違えば、世界すら滅ぼせる力。
それを、世界を守るために使う。
目には目を、歯には歯を。
世界を滅ぼす怪物には、世界を滅ぼす力を。
原始的な抑止力。
現代では考え付かないような乱暴な方法かもしれない。
それでも、そうするしかない。
だから、手を取り合った。
本来相知れないもの同士でも、守りたいもの守るために。
世界神秘管理機関に認可された権利は、大きく分けて三つ。
一つ目は、『公共的場所での《神秘》と呼ばれる超常現象の行使』。
二つ目は、『国家間の無制限移動』。
三つ目は、『《世界喰らい》と呼ばれる怪物を討伐するための兵器の開発』
一つ目と二つ目は緊急時のみ、三つ目は政治的利用をしないという但し書きはあるが、これらさえあれば機関は不自由なく仕事をすることが出来た。
元々、人知れず世界喰らいの討伐や、国際神秘行使規約に違反した改編者──神秘を扱う者の総称──の拘束、幻想生物の管理などをしていたため、規模が拡大しただけではあったのだ。
寧ろ、認可された分行動しやすくなったまである。
そして二十年間、現在に至るまで機関は活動を続けていた。
あの地獄は《第一次全世界侵攻戦》と呼称され、一連の流れも含めて教科書にも乗る歴史的大事件となっている。
ハンドルを握る藍が口を開く。
「現在のように、普段市民の皆様が安心して生活できるように基盤を整えたのは機関ですが、復興や発展については皆様が自ら成し遂げたことです。
ここ二十年の発展速度は、目覚ましいものですよ」
変わった世界の中で、人々は逞しく生き続けた。
毎日どこかで現れる魔物に慣れ、『今日も元気だな』と流せるくらいには。
日本人にとっての地震のようなものである。
また、世界喰らいによる被害を抑えるために、機関の協力の元で様々な開発も行われていた。
『目指すは科学のみでの討伐』とはよく聞く言葉だ。
「……まあ、いいことばかりではありませんよ。
当時を知る人に聞いたところ、一番困ったのは異能を得た一般市民の扱いらしいですし」
「ですよね……」
「……それ、わたくしはよく分かりませんわ。
人間ではありませんから、異能なんてありませんし」
変わった世界、その中で一番変わったこと。
それは──全人類が大なり小なり《異能》と呼ばれる、皆が扱う神秘とはまた異なった『神秘』を手に入れてしまったことだ。
無から火を出したり、少年のように武器を作ったり。
能力は人によって千差万別である。
「調子に乗った若者が起こした火事とか、刑事事件とか。
そういうときは、警察だけでは手に負えないので、機関が協力することになっているのです。
完全に取り締ってる今でもありますからね、この問題は」
「ふむ……何故、そんな馬鹿なことをするのでしょう?
どうせ捕まることは目に見えていますのに」
「例えるなら……『新しいおもちゃを貰った子どもみたいなもの』か。
ほら、人間にとって『魔法』とか夢みたいなものだったから」
首を傾げるリリスに、少年は例えを出す。
誰もが憧れる魔法のような力。
それは、己も
異能を使いたいなら、それ専用の施設に行けば良いのに。
そう腹を立てる現役機関隊員を宥めつつ、少年はリリスに説明を続けていた。
「そんなものなのですか……やはり、異能を持たない
「そんなものだよ……って、そうだ!」
何かを思い出したように、少年はリリスに向き直る。
「あの時、ヴィオレットさんは『半分は吸血鬼』って言ってたよな? 『本調子』じゃないとかも。
気になっていたんだが、聞くタイミングが無くて……訊いても良い話か?」
「……それ、ですか」
気まずそうに顔を背けるリリス。
噴き出す藍。
「ちょっと一条さま! わたくしだって困っているのですよ!」
「……いえ、すみません。てっきり話しているものだと思って……」
「話せるわけないではありませんか殿方に!」
抗議するリリス。
彼女の反感を買ってしまったのかと、少年はおずおずと申し出る。
「……不快にさせてしまったなら、すまない。
オレの配慮不足だ」
「いえ、いえ。良いのです、良いのですけれど……言い難いのですわ。
かなり、結構」
頭を抱えるリリスは、不快というよりも困っているように見える。
答え方を悩んでいるようだ。
「リリスが言わないのなら、私が言いましょうか?
彼女は──」
「良いです、自分で言ますわ!
ええ、言って差し上げましょう!」
藍の言葉を遮って、リリスは頬を紅潮させながら腕を組む。
「わたくしは、ただの吸血鬼ではありません。
──
「サキュバス……?」
思わず、少年は彼女の身体を見てしまう。
細身でありながらも、めりはりのついた肢体。
露出の少ない服装の上からでも分かる、魅惑的な身体。
そこで確かにあったものが無くなっていることに気付く。
「こう思われるから言いたくなかったんですの……!
ふしだらな女だと思われるではないですか……!
自分で成りたくてこうなっているわけではありませんのに……!」
「それはそれとして、翼はどこに?」
「『それはそれとして』?!」
「あっいや違くて……違わないのか?
オレは別に気にしてないっていうだけです、すみません!」
耳まで赤くして顔を覆うリリスの背に、あった筈の翼が今更無いことを指摘する少年。
しかし、タイミングが悪い。
タイミングというか、デリカシーがない。
コミュニケーションが慢性的に足りない少年は、他人を気遣う方向性がおかしかった。
「……本当、あなたっていう人は……『あの人』とは全く違う」
溜息と共にリリスが何かを呟いた。
頭を下げていた少年は彼女の言葉を咄嗟に聞き取れ無い。
聞き直そうとしたが、その前にリリスが話す。
「良いですわ、許します。
わたくしは優しいから許しますが、他の人ではこうは行きませんからね?」
「……ご忠告ありがとうございます」
少年は深々と下げていた頭を上げた。
彼女が呟いた言葉は気になるが、許してもらえたならばそこまで気にすることでもないのだろう。
「二つ目の質問と合わせてお答えしますわ」
リリスは、吸血鬼と女夢魔の混血である。
伝承通り吸血鬼は血液、夢魔は精液が主食であり、人間と同じように食事を摂る必要がない。
必要はないが、食事からエネルギーを取ることも出来るため、リリスは基本人間と同じように食事を摂ることにしている。
その理由は、『体液の味が苦手だから』。
不味いというか、不思議な味がするからだそうだ。
しかし、種族としてはそれらを摂らなければいけない。
摂取不足の状態では、本来の力が出ないのだ。
《魔力》──《神秘的エネルギー》不足、筋力低下、体調不良。
細かいことを言えばまだまだあるが、メルクリウスとの戦闘で障害であったのはこれらだ。
また、あの蝙蝠の翼は神秘的エネルギーで構成されているらしく、出すだけで消費してしまう。
それを抑えるためにも、普段は出さないようにしている。
単純に邪魔で
「……これでよろしいですか?」
「ああ、ありがとう」
「では、やっとわたくしの番ですわね」
「へ?」
予想打にしていなかった彼女の返しに、少年は素っ頓狂な声を上げて驚く。
「当たり前ではありませんか。
人に訊くだけ訊いて自分は何も答えません、なんていけませんわ」
「それは分かるけど……オレに訊くことあるのか?」
「ええ、たくさん」
にっこり笑うリリス。
それに、少しだけ含みがあることを察してしまう。
「先ず訊きたいのは、あなたの力のことです。
あの光、あれは何ですの?」
「オレの異能だよ。
光の剣を作るだけ……だと思ってたんだが、今日のことを踏まえたら少し違うみたいだ」
少年の異能。
五歳の時に発現してからずっと『光の剣を作り出す力』だと思っていたし、検査をした時も『創造系』の異能だと診断された。
だから、何の疑問もなく使っていた。
しかし、あの言葉で形状を変えたところを鑑みるに、本当はもっと別の力なのではないか。
そんな思考が少年の頭を巡っていた。
「えっと……『イェソド・ガブリエル』だったか。
ヴィオレットさんはどうして知っていたんだ?」
「それ、は──」
リリスは言い淀む。
『あの人』の存在は、一般市民に秘匿されている。
あの時は緊急事態であったため仕方なかったが、本来ならば教えていい情報では無かったのだ。
ちらり、と車の天井部に備え付けられた鏡を通して藍を見る。
彼女の目は『何とかして誤魔化してください』という気持ちが込められていた。
「何となくですわ。そう言えと、神がお告げしたのです」
「何となく……? 絶対嘘じゃ──」
「乙女の言うことが信じられないのですか?」
「いいえ、全く。信じます」
全力で首を左右に振る少年。
今までの流れから、追求させないように誘導出来たのは幸か不幸か。
「……いずれ、どうしてか分かったらお教えします」
「ああ、分かった」
まだ何も知らない少年の純粋な瞳が何だか辛くて、リリスは目を背けた。
外は都心から少し離れたからか、緑がよく目に入る。
「……次に行きましょう。
二つ目です、答え難いのならばスルーしていただいても構いません。
かなりパーソナルな質問になりますので」
「オレも結構ずかずか入っていったから、何でも答えるよ」
自覚があるなら直してくださいな、と言いたい気持ちをぐっと抑えて、リリスは話を続ける。
「……あなたの
こちらの世界ではそれが普通……何てことはないのでしょう?」
「……ああ、そうだ。気になるだろ、これ」
リリスが指で指し示したのは、少年の右目と右頬。
長い前髪で隠された、その先のこと。
「……今から十年前、《第二次全世界侵攻戦》の時。
オレは、まだ両親と一緒に東京に住んでいたんだ。
中心は中国だったけど、日本にも沢山W.E.が来ていた」
少年は髪ごとそれらを掴む。
思い出すと、ずきずきと痛むのだ。
あの光景を、あの地獄を。
「……知ってるか、『千代田区大規模火災』って」
「……名前だけなら」
それは、とある世界喰らいによって生み出された炎の海。
空も、建物も、草木も。
辺り一面真っ赤に燃えて、そこにいた人間も真っ赤に燃えて。
赤以外、何見えなくて。
肉を焼く臭いとか、ゴミを焼く臭いとか、そんなものでは例えられない。
人が焼ける臭いがして。
呻き声と悲鳴と怒号。
『熱い』、『苦しい』、『痛い』と叫んで。
涙なんて流せないのに、みんな『涙』を流していて。
その涙も全部全部焼けて。
嘆きながら、みんな死んでいった。
「これは、その時出来た傷。目の色も、そこで変わった」
書き上げて見せるのは、赤褐色色の火傷痕。
色を失った右目。
ずっと遺り続ける、あの地獄を生き抜いた証。
「奇跡的に、オレだけ生き残っていたらしい。
両親が最期まで守り切ってくれたからだって、皆言ってた」
「……それ、は──」
「あまり気にしなくて良い、いつものことだから」
リリスが続けようとした言葉は、もう要らなかった。
何度も言われたし、何度も聞いた。
同情されるのに、疲れてしまうくらいに。
「異能が使えるようになったのも、この後くらいからかだった。
もっと早く使えるようになっていたら、お父さんやお母さんだけでも助けられたんじゃないかとは思うけど……多分無駄だ。
指を一振りするだけで、炎の海を生み出した世界喰らい。
あれは、通常の世界喰らいとは異なる容姿をしていた。
「──『人型』の世界喰らい。
《特級》の中でも、最上位の個体」
隣から、息を呑む音が聞こえた。
「一条さんなら知ってますよね」
「……はい、勿論。
あのようなW.E.は、私たち戦闘員の中では絶対に倒すべき存在と言われています。
例え、己の命と引き替えにしてでも」
《特級》の世界喰らい。
それは、一日で世界を滅ぼすことが出来るという厄災そのもの。
世界喰らいは人型に近付くほど知性が高くなり、形が既存の生物に近くなるほど強力になる。
一部の例外は存在するが、大体はそうだ。
そうなれば、自然と等級も高くなる。
完全な人型は、機関の戦闘員でも同等の《特級》でしか相手にならない。
「再三になりますが、当時のことは本当に申し訳無いと思っております。
中国に戦力の殆どを注ぎ込んでいたせいで、国内の守りが薄くなっていたのは確かです。
すみませんでした」
「……人手が足りなかったのは理解していますから、お気になさらず。
そもそも、当時の一条さんはまだ中学生でしょう。
貴方が謝る義理はありませんよ」
「それでも、私たちは謝罪しなければいけません。
過去を見て見ぬ振りをするだけは、絶対にしてはいけないのですから」
真面目な人だ。
取調室でも、藍は少年に謝った。
彼女自身は何一つ悪くないというのに。
「今度こそ、あんなことは繰り返させない。
私は、そう心に決めているんです」
ルームミラーに写った藍の目の奥には、轟々と炎が燃えている。
正義感と責任感と、何かが混ざった炎の色だった。
「……オレも、もっと強くならないと」
思わず呟いた言葉は、隣の少女に聞こえてしまっただろうか。
「……わたくしは、敢えてもう何も言いません。
訊かなければいけないことは、大体訊けましたので」
「そろそろ到着しますし、丁度良かったですね」
話を終わらせたリリスに続けて、藍が少し明るい口調で言葉を重ねた。
重くなった車内の雰囲気を取り戻そうとしてくれたようだ。
元凶である少年は、仕方のないことだったとはいえ、尻拭いさせてしまったことが申し訳なかった。
外はすっかり夜の帳が降りており、空には星が輝いておる。
今日はずっと騒動に巻き込まれてばかりだったことを思い返せば、身体が少し重くなった気がした。
窓から星を見上げていると、とある疑問が頭を過る。
「……ヴィオレットさん。
ふとした疑問なんだが、あっちの世界の星はどうなっているんだ?」
「ご想像通り、全て鏡写しになっていますわ。
占星術なんてしようものなら、慣れてない者は失敗します」
「結構居ますよ。
あっち側の常識のまま、こちら側で暮らそうとして失敗する人たち」
田舎から上京してきた少年が困るくらいだ。
異世界からやって来たならば、その文化のギャップに戸惑うことは間違いないだろう。
「あら、わたくしは大丈夫ですわよ?
予習はばっちりですし」
「そういう方ほど失敗するんですよ。
街中で神秘使おうとして」
「しませんわよそんなこと!」
そういえば東京初日に、街中で飛行していた鷹が機関隊員らしき人物に取り押さえられていた。
今思えば、あれは幻想生物の一つであったのだろう。
この世界で暮らす幻想生物は、人型以外もいるのだ。
「本当ですか?
移動が面倒になって咄嗟に蝙蝠になったりとか、お腹が空き過ぎてその辺の動物狩ったりとか」
「しません! 流石に偏見が過ぎませんこと?!」
反論するリリス。
空気は、すっかり賑やかになっていた。
やがて、車は動きを止める。
どうやら、目的地に着いたらしい。
「到着しました。どうぞ、お二人も降りてください」
「……一条さん、ここで合ってるんですか?
だって、ここは──」
「答え合わせは、もう少しお待ちください」
降りた先の景色。
そこは、どう見ても少年の家。
学生寮や教員宿舎として使われる、機関所有の多棟マンションであった。
「どういうことですの?
わたくし、家に案内するとしか聞いておりませんが」
「オレも、家に送り届けてくれるとしか……」
エレベーターで上昇しながら、二人は藍に問う。
特徴的な機械音と共に開かれるドア。
十階建ての最上階。
その階の入居者は、少年しかいないはずだった。
「嘘は言っておりません。どちらも真実です」
「待ってください。
つまり、ここはオレの家であり、ヴィオレットさんの家ということですよね?」
「はい。ついでに私の家でもあります」
「……はい?」
ずんずん進んでいく藍色のポニーテールの女性に、ただ付いていくことしかできない少年とリリス。
二人の頭の中は、思いもよらなかった結論が導き出されていた。
「はい、ここですね。
貴方はここで、リリスはこちらになります」
「……嘘ですか?」
「……冗談でしょう?」
このマンションには、一階あたり十戸ある。
少年の部屋は、一一〇八号室。
左を向けば、扉の前に立つ二人。
リリスは一一〇九号室、藍は一一一〇号室に。
妙だとは思っていた。
機関側から部屋を決められるこのマンションで、何故か番号を詰めずに二部屋空いていたことを。
誰も居ない部屋ならば、
しかし、説明されなかったこともあり、何か都合があったのだろうと納得していたのだ。
そんな不思議なことも都会ならあるのかもしれない、と。
その答えは今、唐突に提示されてしまったのだが。
「何故そんなに拒んでいるのです? 当然でしょう」
「どこが『当然でしょう』ですか!
当然になる道筋が全く提示されておりませんのよ、わたくしには!」
「説明したじゃないですか。
『機関本部は学校から遠いので、別に住まいを用意させていただきます』と」
「していましたが、知りたいのはそちらではなく──」
二人の言い合いの中に、少年の耳は聞き捨てならない言葉を拾う。
「……今、『学校』って言いました?」
「言いました」
「……ここ、学生寮兼教員宿舎ですよね?」
「そうですね」
絡まっていた糸がすっと解けるように、少年の思考は整理されていく。
少年とリリスの家は、このマンション。
ここは学生寮兼教員宿舎であり、学校関係者しか住むことは出来ない。
導き出される答えは──。
「まさか、ヴィオレットさんも入学生?!」
「あなたもですの?!」
「言っておりませんでしたね、これは失礼」
絶対わざとだ、この人。
この光景を見るためだけに隠していたな。
二人の心はこの時、一つになっていた。
「因みに私、教員の一人です。今年からですが」
更に投げ出される情報。
ここに居る時点でそうであることは分かっていたが、実際に言われると流石に混乱するものだ。
「……昨日まで空き部屋だったと思うんですけど」
「今日のうちに搬入完了していますよ?
貴方はずっと出突っ張りだったようで、知る機会は無かったと思いますが」
ここの業者は仕事が早い。
少年の時も随分驚いた記憶は、まだ新しかった。
「……嫌なのですか?」
「いや、嫌というより……ただ凄い驚いているだけです」
「それなら良かったです。リリスもそう思いますよね?」
「わたくしは、どちらかと言うと彼よりですわ……予め教えてくれませんこと……?」
「それでは面白……ではなく、失念していたのです。
いやあ、私忘れっぽくて」
この気に及んで、藍はまだ白を着るつもりらしい。
あまり動かない表情筋のままうるうると瞳を潤ませる謎の技術は、今までも散々好き勝手やっていたことを示していた。
「……わたくし、もう休みたい気分ですわ」
「オレも……」
左手を電子機器に載せ、少年は生体認証で施錠を解除する。
隣では、藍からカードキーを受け取ったリリスが同じく鍵を開けていた。
「では、私はこれで。
リリス、必要なものは全て揃えてあります。
不明な点があればお呼びください」
「……本当に助けてくれますの? 面白がって見ているだけなのでは?」
「……そんなわけ無いではないですか。
では、また明日」
「一条さま!
……逃げ足の早いお方なんですから、もう……!」
核心を突いたリリスの言葉を雑に返し、逃げ帰る藍。
それに呆れる二人。
同時に吐いた溜息に、思わず笑ってしまう。
「……わたくしたちも帰りましょうか。
また明日、学校で」
「ああ、また明日」
手を触り合って、二人はそれぞれの部屋に入る。
オートロックであるが、しっかりチェーンを掛けてから照明を点け、靴を脱いだ。
「……ただいま。お父さん、お母さん」
少年は、玄関に飾られた写真立てに挨拶をする。
桜の下で撮った家族写真。
もう一度迎えることのなかった春。
──愛しているよ。
大きな背中で包み込んでいた、父の言葉。
──幸せに生きてね。
背中から抱きかかえてくれた、母の言葉。
「……大丈夫だよ、二人とも。オレは今も
持ち上げた写真立てに、こつりと額を当てる。
忘れるわけがない。
忘れてはいけない。
あの地獄を生き抜いたのは、少年だけなのだから。
憶えているのは、少年だけなのだから。
だから、だから。
「──オレは、全部殺すよ」
全ては、復讐のために。
みんなを殺した、あの怪物を殺すために。
全てを焼き尽くしてやるのだ。
あれが、あれらがしたように。
焔は未だ、燃え続けていた。
数度のコールの後、彼女は電話に出る。
「どうしました、リリス?
お風呂の入り方が分からなかったのですか?」
「それくらい分かりますわ。馬鹿にしていますの?」
「おっと、失礼いたしました」
本当、人の神経を逆撫ですることが得意な女だ。
そんなことを考えながら、リリスは要件を話す。
「わたくしが言いたいことくらい、お分かりでしょう。
……彼のことです」
「どこまで感じ取りましたか?」
携帯電話を耳に当てたまま、背面からベッドに倒れ込んで天井を見上げた。
「……『解らない』というのが、正直な感想ですわ。接触時間がまだ短過ぎます」
「そうですか。ですが、それだけではないのでしょう?」
リリスは腕で目を覆う。
巡る今日の思い出。
突然結界の中に引き摺り込まれて、傭兵から逃げ回って、その先で彼に出会った。
とても失礼で、デリカシーが無くて。
優しくて、弱くて、少しだけ強くて。
けれど、確かに『あの人』とは違かった。
「力は恐らく、同一のもの。変質もしていないと見ていいでしょう」
「人格の方は?」
「……見たままです。全く違いますわ」
電話越しにメモか何かに書き込んでいる音が聞こえる。
タイピングより、そちらのほうが早いタイプなのだろう。
「こちらも事情聴取の体で色々観察しましたが、貴方と同意見です。
「……良いのか悪いのか」
あの少年、そして彼が宿す力。
あれは、『異能』なんて生易しいものではない。
「──《
Angel》》、その憑依体。
彼には、その力を解放していただかなければいけません」
「……分かっています。
わたくしは、そのためにここに来たのですから」
リリスは、彼を知っていた。
名前だけではあるけれど。
だから、あの出会いはただの偶然。
偶然、出会っただけなのだ。
「……報告はここまでです。おやすみなさい、一条さま」
「はい、おやすみなさい。寝坊しないでくださいね」
赤い受話器のマークを押して、通話を切る。
今日の中で、一番大きな溜息を吐いた。
「……ああ、アルバさま。あなたに会いたいです」
それは、ずっと昔共に居た『天使』の名前。
少女の愛おしく、大切な人。
会いたくて逢いたくて堪らない。
けれど、それは酷く困難である。
ほろりと、頬を雫が伝った。
空は雲一つない晴天。
太陽は曇ることなく輝いている。
今日は、絶好の式日和だった。
二〇四〇年、四月十日。
桜が舞い、春風そよぐ暖かな日。
『私立神秘管理機関附属神楽高等学園』の第四十期生が入学した。
生徒数六十七名、二クラス。
この学園では、少なくも多くもない普通の人数だ。
四階の突き当り、一年一組の教室。
初めてのホームルーム後で、そこは少し騒がしい。
担任が美人で若い女教師だった、あの先生がイケメンだった。
連絡先を交換しよう、この後遊びに行こう。
そんな会話が繰り広げられる中、少年は独りぼっちで居た。
唯一の知り合いと呼べる少女は、その珍しさから既に周囲を囲まれていて、とても話し掛けに行ける状態ではない。
他の人に話し掛ける勇気もない。
だから、もう帰ってしまおう。
そう席を立とうとした瞬間だった。
「──よお、こんにちは」
頭上から降り注いだ男の声。
初めて聞いたようで、聞き覚えがあるような声だ。
少年は見上げる。
少し着崩した制服のポケットに、手を差し込んで立つ彼を。
「
お前は?」
「……オレは──」
『初めまして』。
彼はそう言うが、何故かどこかで会った気がする。
そう言いたくなる衝動を押し込めて、少年は自分の名を告げた。
「──オレは、
握った彼の手は、やはり一度触れたことがある気がした。
──〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
〝
十二月二十五日。
それは救世主が生まれた日、英雄が生まれた日。
紡がれる言葉は、キミに向けて。
酷く不似合いなそれ。
けれど、確かに想いは込められている。
ああ、我が友よ。我が英雄よ。
キミの旅路に希う。
──〝
と。
Benedictio heroi! 四月朔日燈里 @LotfdoA
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