第5話
逃げる――と言っても、私の行く当てなんてそんなに選択肢はない。そう言えば、今日は一日全部、玻璃にお金を出してもらうつもりでいたから、お小遣い貰ってなかったな。ポケットをまさぐると、なけなしの小銭が数枚出て来た。しめて六〇〇円ほど。今さらふたりのところには戻れないし、マンションに戻るのも気が引ける。ほとぼりが冷めるまでどこかで時間を潰すとなれば、自ずと選択肢は限られた。
大通りから一本裏に入って、その先にある行きつけの古本屋へ向かう。半ボケのお爺ちゃんが老後の道楽でやってるような小さな個人店舗で、値段設定もボケ対策なのか大雑把。中でも一〇〇円セールのワゴンは私の生命線だ。
今日も今日とて、綺麗に並んだ棚の商品ではなくって、雑多に積まれたワゴンからこれだという一冊を探す。とは言っても所詮一〇〇円に設定されてるような本なので、当たり外れは激しい。今日はどれにしようかと目移りさせていると、一冊、その大きさから真っ先に目に付いた本があった。
「うわっ。これ、懐かしい」
手に取ったのは一冊の絵本。小さい頃によく、両親が牛の世話をしてる間に、木陰でチーズをつまみながら絵本を読み聞かせあっていた。その中でも特にお気に入りの一冊で、何度も何度も、表紙がボロボロになるまで読んでいた。
同じくらいボロボロになった目の前の本は、これまでどれだけの人の手を渡って来たんだろうか。そう思うと、ここで出会ったのは何かの縁のような気がして、私は今日の一冊を決めた。
それからいつものカフェチェーンにて一服。さっきはせっかくのコーヒーの味が分からなかった分、大量生産のコーヒーでもずいぶん美味しく感じられた。カフェインのおかげもあってか、ほっと一息つく。手は自然とテーブルの上に出した絵本に伸びたけど、いざ買ってみるとなんでか気乗りがしなくって、結局コーヒーのカップを手に取った。
「せっかく買ったのに読まないの?」
声が降ってきて顔を上げる。玻璃が、汗ばんだ額をハンカチで拭いながらそこに立っていた。
「見つかったか。てか、当たり前か」
いつもここに居るんだから、玻璃がそれを知らないわけがない。自分でも分かっていたはずなのに、それでもここを選んだのは、もしかしたら見つけてほしかったからなのかもしれない。
「座ってもいい?」
尋ねる彼女に、私は注文カウンターを指さす。
「ここでは一人一杯注文するのがルールです」
腰を下ろしかけた玻璃は、しぶしぶカウンターに行って、やがて私と同じカップを手に席に戻って来た。
「これで文句ない?」
私は笑顔で頷き返す。ひと様の金で何を偉そうにと思うかもしれないけれど、ここは私の城だから。地の利は我にあり。
「懐かしいね、これ」
「でしょ。だから買ったんだけど」
なんでか読めない。そんな私の代わりに、玻璃は躊躇なく本を手に取って自分の前に開いた。
「瑠璃姉が行きたいなら、行ってもいいんだよ。高寺さんのとこ」
「行きたいとか、そういうんじゃないけど」
どっちにしたって、私が養われているという身分に変りはない。選ぶ権利なんて、そもそもないんだ。
「今さらこんなの持ち出して来たから、約束思い出してくれたのかと思ったけど」
「約束?」
心当たりがなくって聞き返すと、玻璃はちらりと私を見て、それから大きなため息をついた。
「やっぱり、忘れてると思った」
「ごめん。ほんと何だっけ」
「私が絵本を書いて、瑠璃姉がそれを本にしてくれるって話」
玻璃はそう言って、絵本をぱたりと閉じた。
「そんなんしたっけ……いつの話?」
「それこそ、一緒にこの絵本を読んでた時くらいの話」
「そんな昔のコト」
覚えてるわけないじゃない。でも、言われてみれば何となく、そんなこともあったような気がする。
「私はずっと、有効のつもりでいたんだけど」
むしろ、玻璃が覚えてたことの方が驚きだよ。こっちなんて、毎日生きているだけでもありがたがっているっていうのに。
「じゃあ、なんで養ってくれてたのさ。私が無職でいるうちには、絶対に実現しないことでしょうに」
「全く関係ない仕事で適当に生きていくくらいなら、ちゃんと望みの仕事に就けるまで養った方が良いって思ったの。ただでさえ衝動的にいろいろ決めちゃいがちなのに……瑠璃姉がインドから戻って来た時、第一声に何て言ったか覚えてる?」
「えっと……日本のトイレってサイコー?」
「違う。『私、トイレットメーカーに就職する!』だよ。結局しなかったけど」
「あっ、そんなこと言ってた?」
それは、なんというか、面目ない。じゃあ何か。玻璃はずっと、私が便器にうつつを抜かさないようにしていてくれたというわけだ。半ば飼い殺しだったけど。結果的には、それが正解だった。何度でも言うけど、私は根は真面目のつもりだから……たぶん、玻璃のところに転がり込めなかったら、なんだかんだで適当な仕事について、何となく生活していたと思う。
「絵本、みして」
私は玻璃から本を受け取る。表紙を開いて、最初の一ページを目にしただけで、絵本の中の世界が頭の中に蘇る。それは玻璃と一緒に過ごした記憶でもあって、同時に約束も――確かに私は、彼女と約束をした。彼女の書いた絵を、私が本にする。そうやって、世界中の子供たちに届けるんだって。それがきっと、私が本に携わる仕事をしたいと思った最初の気持ち。
「思い出しちゃったら、やるしかないよねえ」
古くなったページを撫でながら、私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「あとさ、瑠璃姉。ひとつ勘違いしてることもあるよ」
「勘違い?」
「瑠璃姉が逃げてから、少しだけ高寺さんと話したんだけど……瑠璃姉、彼女に『妹の部屋から追い出される』って言ったんだって?」
「そりゃまあ、管理会社に言われちゃったらそうなるでしょ」
「そういうとこが衝動的だっていうの。なんで引っ越すって頭がないのかな」
「ああ……なるほど」
それは確かに私の早とちりだった。でも、そこまで迷惑をかけるわけにはいかないし……と思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
「ああ、やられた……」
不意に、高寺さんの声が聞こえたような気がした。つられて目を向けると、息を切らしながら、こちらに歩いてくる彼女の姿が見えた。そのままテーブルにつくなり、玻璃に食い掛る。
「気安く勝負を引き受けちゃいましたけど、思えば玻璃さんに有利すぎますよ。この辺はあたなたちのホームグラウンドじゃないですか」
「それでも、引き受けたのなら勝負は勝負ですよ」
「何? なんの話?」
「玻璃さんに賭けを持ちかけられたんです。どっちが先に瑠璃さんを見つけられるかって」
「勝った方が瑠璃姉を養うって条件で」
玻璃があっけらかんとして言う。そんな約束、私のいないところでしないでくれるかな。逃げたのは私だけどさ。
「でもいいよ。約束を思い出してくれたみたいだし。瑠璃姉に選ばせてあげる。どっちに養われたい?」
玻璃の言葉に、ふたりしてじっと私を見る。結局こうなるのね。無言の圧に気おされながら、私はひとまず、注文カウンターを指さした。
「高寺さん、ここは一人一杯注文がルールです」
「え?」
一瞬の気が反れた隙に席を立ちあがる。
「私、仕事探してきます!」
それから脱兎のごとく、やっぱり私は逃げ出した。選ぶって言うのはね、対等な関係だからこそできるんだ。少なくとも私が何かを決めるためには、職を持つことが自分の中での絶対条件だった。
まどろみの中で音が聞こえる。それはずいぶんと久しぶりに聞いた、自分のスマホのアラームの音だった。ぼんやりとした頭で画面を操作して、アラームを解除する。今日、何か予定入れてたっけ……たぶん大した用事じゃないなと決め込んだ私は、そのままもう一度目を閉じた。
「はい起きる」
と思ったら、布団を無理やり引っぺがされた。不躾な対応に不満を持ちながらも目蓋をあけると、玻璃のじっとりとした視線が私を見下ろしていた。
「あと一時間~」
「なに言ってるの。今日から仕事でしょ」
「あ、そうだった!」
仕事――そう言われて、頭の中が一気に冴えわたった。あれからようやくまともに就職活動を始めた私は、紆余曲折の末、都内の編集プロダクションへの在籍が決まった。と言っても待遇はひとまずパートだけれど。そこは二年の空白期間がある私を雇ってくれただけで、ありがたいと思いたい。
住まいに関しては結局、玻璃と一緒に少し広めのマンションをルームシェアすることになった。仕事が決まってひとり暮らしの再開も検討したけれど、いかんせん私には、部屋を借りて引っ越しをするだけの初期資金というものがなかった。そこで目先の餌として彼女がちらつかせてきたのが「ルームシェアをするなら、引っ越しの資金は全部、玻璃が持ってくれる」というもの。私は結局もうしばらくの間は妹の懐で生きていくしかないらしい。姉としては情けないが、背に腹は代えられない。
もっと言えば、編プロへの就職だって、高寺さんの口添えがあって実現したものだった。彼女の出版社と契約をしている会社らしく、知り合いのツテということなら――と、快く受け入れてくれたのだ。社会復帰は決まったけれど、なんだか結局、自立というよりは彼女たちに生かされているような気がする。
顔を洗って着替えを済ませて、化粧なんかの身支度も整える。一連の流れがなんかもう久しぶりすぎて、微妙に手間取ってしまったのはご愛敬だ。その間、玻璃が作ってくれていた朝食をいただいて、一緒に一〇〇〇円札を一枚頂戴する。
「はい、今日の分」
「ははー、ありがたき幸せ!」
私は恭しくそれを受け取って、おさがり(おあがり?)で貰った財布に大事にしまい込んだ。仕事は始めるけれど、最初の給料が出るまでの間は、相変わらず無一文である。この関係もまた、もうしばらくは続くことになりそうだ。具体的には、来月末くらいまで。
初めての給料が入ったら、今度こそ料理の本でも買ってみようかと思った。今度は少しずつ対等な関係にしていくんだから、私だってちゃんと家事をできるようになりたい。そうやってふたりで生きていきながら、いつかきっと約束した夢を実現させるんだ。せめてものしるしに洗い物を済ませた私は、手についた水気を振り払って、鞄を手に取った。
「じゃあ、いってくる!」
「いってらっしゃい」
これから日課になるだろう挨拶を交わして家を飛び出す。人生のリスタートは、ここから始まる。
インドに行ったら人生観変わったので妹のヒモになった姉の話 咲樂 @369sakura39
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