第3話

 新宿三丁目の駅前で待ち合わせていると、通りの向こうから、先ほどと同じ格好の高寺さんがやって来るのが見えた。仕事を終えて来たらしい彼女は、喫茶店で会った時よりもどこか開放的な表情で、余裕のある笑みをたたえている。

「すみません、待ちました?」

「いや、今来たところだよ」

 本当は何もやることがなくて一時間前くらいについていたけど。でも「待ちました?」って聞かれると、つい反射的に「今来たところ」と口にしてしまうものだ。それは映画やドラマの見過ぎじゃなくって、遺伝子レベルで刷り込まれた社交辞令というやつなのかもしれない。

 それから、彼女が以前利用したことがあると言う肉バルに連れて行ってもらい、優雅なディナータイムを満喫することになった。薄暗い店内で低音調理のローストビーフに、ちょっぴり酸味のあるバルサミコのソース。駆けつけにデカンタで頼んだサングリアが、オレンジの爽やかな甘みが染みて美味しい。こういう場所での食事は、ずいぶん久しぶりだ。働いていたころは同僚や、時にはひとりでふらっと、それこそ映えを求めて来たものだけど。今では写真を撮ることも忘れて、たまの贅沢に舌鼓を打つので忙しい。日々のお小遣いで生きてる私にとって、飲みに行くなんて言うのは一大イベントだ。

「会社がなくなったあと、斎藤さんだけ連絡が取れなくなったので、心配してたんですよ。と言っても、他の子たちも今はほとんど連絡を取り合ってませんけど」

「みんな、ちゃんと再就職できたんだね」

「斎藤さんは、辞めた後は何をしていたんですか?」

「インドに行ってたかな」

 そう言うと、高寺さんは「ほー」と感心したようなため息をついた。単に旅行に行っただけだから、あんまり持ち上げないで欲しい。逆に恥ずかしくなってしまうじゃないか。

「高寺さんは何の仕事してるの?」

「私ですか? 今は、小さいですけど出版社に勤めてます。業界誌がメインで、ちょっと専門色が強いですが」

「へえ」

 口にできたのはそれだけで、私は場を取り繕うみたいにサングリアのグラスを傾けた。あれ、なんか思ったよりショックを受けてるな。私が無職でぐーたらしてる間に、彼女はちゃんとキャリアを積んで、出版社に勤めているのだという。本に携わる仕事。私はそれをやるために、田舎から東京までやってきたんだ。

 でもそんな初心はもう過去のもので、今はもうすっかり、日々を生きることで人生に満足している。寝て起きて、ご飯を食べて、綺麗なトイレがあって。それでいい。生きるってそういうこと。重ねるのは年月ばかりで、あっ、でもそろそろ、歳は数えるのが嫌になってきたかも。

「斎藤さんは、今はどこにお勤めなんですか?」

「私? 私は無職です」

 開き直ってみると強いもので。私は見栄を張るのもやめて、当てつけのように口にしていた。

「え……無職って、働いてらっしゃらないってことですか?」

「読んで字のごとくだね」

「あっ……ああー、なるほど。また別の職場へ移行する前の、準備期間とか」

「前の会社がつぶれてからこの方、一度も働いてないですね」

 高寺さんは、なんだか必死に美化してくれようとしていたけど、その行為を気の向くままにぶった切る。流石に彼女も話を振った手前、ちょっと気まずい様子で、引きつった笑顔を浮かべていた。

「じゃあ……お仕事辞めてから、ずっと何をしてらしたんですか?」

 おお、それでも果敢に攻め込んでくるのね。その意気やよし。私も少し興が乗って来たので、今では妹くらいしか知らない私の無職戦記をかいつまんで語ってあげた。アルコールが入っているせいか、思ったよりするすると言葉が出てくる。他人の不幸を肴にする趣味はないけど、自分の不幸で飲む酒は結構おいしい。何かと言えば、悲劇のヒロイン体質の私である。

 高寺さんは、そのひとつひとつを静かに、時に頷きながら聞いてくれた。

「――で、妹のところにいるのも限界かもって感じで。そろそろ住むとこ探さなきゃなあとか、それ以前に仕事を探さなきゃなあとか、重い腰を上げ始めたのでした。おわり」

 語り終えると思に、グラスの中身がちょうど空になった。デカンタの中身もいつの間にかすっからかんになっていたので、私は店員さんを呼んで、おかわりを注文する。

 高寺さんは、しばらく何もしゃべらないまま、自分のグラスの残りを、舐めるように口にしていた。お酒が欲しいというよりは、口さみしさを紛らわすような飲み方。どこかアンニュイな表情と相まって、妙に色っぽいとさえ感じられた。

「流石に引くでしょ。私なら引く」

「そんなことは……」

 居たたまれなくなって尋ねてみると、彼女は慌てて首を横に振る。でもすぐに口元をきゅっと結んで、視線を落としてしまった。空気が重い。でもその空気の重さも、今は心地いい。

「あの……良かったら、ウチに来ますか?」

「はい?」

 だから、その返答は全く予想してなかったもので。上ずった声がこぼれた。

「今、ほとんど使ってない部屋がひとつ余ってるんです。駅からは少し距離がありますけど、ファミリー層も住んでるマンションなのでルームシェアも問題ないはずです」

「待って待って。なんでそんな話になるの?」

「だって、妹さんのマンションを追い出されるかもしれないんですよね?」

 それは、まあそうだけど。そのことと、代わりに元同僚の家に厄介になるのとは全く別の話だ。

「そもそもルームシェアって言ったって、私、家賃も何も払えないよ」

「いいんです! なんなら、妹さんの代わりに私が養います!」

「ええ……」

 そこまで言われると、なんか逆に怖い。

「そんな、あからさまに引かないでください……へこみます」

「ごめん……いや、すごく魅力的な申し出ではあるんだけどさ」

 こういうのって、条件よりも、誰からっていうのが大事なのであって。私と高寺さんなんて、元同僚以上の接点なんてないわけで。だからその、結論から言えば、なんか裏があるんじゃないかと勘繰ってしまうわけだ。

「そこまでしてもらう理由がないなって」

「理由ならあります!」

 高寺さんは、テーブルに身を乗り出す勢いで食い下がる。

「私が今、出版社で頑張ってるのは、斎藤さんのおかげだから」

「おかげって、そんな大げさな」

「大げさじゃないです!」

「失礼します。サングリアのデカンタです」

 ちょうどいいタイミングで店員さんがお代わりのボトルを持ってきてくれた。梯子を外された高寺さんは、落ち着くように咳ばらいをしてから椅子に座り直す。それからぽつりぽつりと、訳を語ってくれた。

「私、以前の会社に入ったのは特に理由なんてなくって。就活で何十社も受けて、ようやく受かったからって理由だけで就職を決めたんです」

「それはまあ、みんなそうじゃないかな」

 新卒就活で希望の企業に入れる人なんて、一握りのエリートか、よっぽど運の良い人だけだ。私だって、希望していた出版社は軒並み落ちて、ようやく引っかかったのがあの印刷会社。広告や印刷業界にそれほど興味があったわけではなく、事業の一部に製本業務もあったから……というだけの理由で、当時の自分を納得させて入った会社だ。

「だとしても、本当に入社した当時から働くモチベーションなんてなくって。そんなに長く続かないだろうなって、自分でも思ってました」

「私の記憶してる限りでは、高寺さん、楽しそうに仕事してたと思うけど」

「そうさせてくれたのが、斎藤さんなんですよ」

 高寺さんは、優しい笑顔を浮かべる。

「自費出版の請負で、一緒に仕事したことがあるのを覚えてますか?」

「ああ……入社して二年目くらいの時だっけ」

 確か、一年目の終わりごろに、何でもいいから本に携わる仕事をしたいって飲み会の席で上司に愚痴をこぼして、それで回してもらった仕事。その時、流石に一人ではということでサポートに入ってくれたのが彼女だった。今ではもう懐かしい記憶だ。

「あの時の斎藤さん、本を出したいお客さんのために沢山資料を作って、紙とか、インクとか、そういうのまでパターンを組んで提案して……熱量たっぷりって感じでした」

「そういうのは若気の至りっていうんじゃない。初めての仕事だから、知識も何にもなくって、とにかく手あたり次第調べて提案するしかなかったから」

「それでも、その熱量を出せることがすごいって思ったんです。だから私、聞いたんですよ。そのモチベーションはどこから来るんですかって」

「そんなことあったっけ」

「ありました」

 ごめん。まったく覚えてないや。質問を覚えて無ければ、何て答えたのかも覚えてない。口から火を吐きそうなほど恥ずかしいことを言ってなければいいけど。

「斎藤さん、たった一言だけ答えてくれました。自分が思わず手に取りたくなる本を作りたいって」

「そんなこと言ったんだ」

 当時の気持ちなんて一切覚えていないけど、当時の自分が言っていることは、今こうして聞いても理解できる。個人出版の本は、ろくに宣伝を打てないのがほとんどだ。そりゃ自費出版するだけで安い車が買えるくらいのお金を使うわけだから、広告費用なんてかけられるわけがない。だから基本的には本屋に出たとこ勝負。実際に並んでいるものを見て、思わず手に取りたくなる。それを考えるのがあの日の私たちの仕事だと思う。

「私は、注文してくれたお客さんが納得してくれれば、それで良いと思ってました。でも、斎藤さんは、実際に本を手に取るお客さんの気持ちまで考えてた。それって他の印刷物でも同じことで、ポスターでも、チラシでも、なんでも、実際にそれを見るお客さんがいるってことを全然考えてなくって。それを意識し始めたら、実はすごく面白い仕事なんじゃないかって思うようになったんです」

 そんな風に言われると、ちょっぴり恥ずかしいじゃないか。確かに考えてたこと自体はその通りかもしれないけど、そんなエピソードトーク風に聞かされちゃうと、むず痒いものがある。

「それから会社がなくなったり、いろいろありましたけど……今こうして、仕事にやりがいを感じていられるのも、あの時に斎藤さんと一緒に仕事ができたからです」

「出版社に入ったのは?」

「印刷業界も続けてみたかったんですけどね。それも斎藤さんの影響というか……本づくりそのものにも興味を持ったと言いますか」

 そう言って、彼女はバツが悪そうにそっぽを向いて、口元をハンカチで覆った。

「とにかく、斎藤さんには恩があるので、そのお返しができればと思ったんです。住むところがなくて困ってるなら、部屋を貸します。希望の就職先が決まるまでの面倒も見ます。斎藤さんの人生を立て直す、お手伝いをさせてください」

 そんなこと考えてくれてたなんて、当時も今も思ってもみなかった。そんなことなら、もうちょっと飲みに誘ったり、交流を深めればよかったかな。あれ、思い返してみたらちょくちょく誘われたような記憶もあるようなないような……何で断ってたんだっけ。ただひとつだけ言えるのは、これだけだ。

「なんか重い」

「ええっ!?」

 そんなに驚かれても、ふつーに重い。無職のヒモってのは、もっとこう、どこ吹く風みたいにふわっと軽やかでなくてはならない。ヒモにはヒモの矜持がある。

「でも、ホントにどうしようもないときは頼るかも……」

 それもまたヒモの矜持。使えるものは何だって使う。それが生きるということだ。高寺さんも、その返事に納得した様子で頷いてくれた。

「分かりました。必要な時は、いつでも頼ってください」

 彼女の気持ちはどうであれ、逃げ場所がひとつできたということは喜ぶべきことかもしれない。

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