第2話

 翌日、玻璃の仕事の開始と一緒にたたき起こされた私は、ぼんやりとした頭のまま街へと出た。ポケットには、彼女から貰った今日の生活費一〇〇〇円。たいていそれで一〇〇円の中古本一冊を買って、残りのお金でどこそのカフェチェーンに居座って、夕方のコアタイム終了まで時間を潰すのが日課となっている。

 だけど、今日は時間を潰すだけじゃない目的があった。職安で仕事を探すという、人生を左右する大きな目的が。

「先の仕事を退職されてから間がありますが、何をしてらしたんですか?」

「インドに行って知見を広めておりました」

 相談窓口のお姉さんにそんなことを聞かれたので、適当にそう返しておいた。お姉さんは納得――というよりは、これ以上触らんどこといった様子で、それ以上触れることはしなかった。

「前職は印刷会社に勤めていらっしゃったんですね」

「はい。名刺やポスター、パンフレットのようなものから、少数ですが本の印刷も請け負ってました」

「なるほど。同業者さんとは言いませんが、類似の職種の会社さんでしたら、いくつかご紹介可能だと思います。ちなみに、ざっくりとでいいので、希望年収と、いつごろから働きたいかなど聞かせていただけますか?」

「働かなくていいなら働きたくないですね」

「え?」

「あ、すみません。すぐにでも働きたいです」

 いけない。素で間違えてしまった。窓口のお姉さんは、ちょっとびっくりした様子だったけど、すぐに対応をお仕事モードに切り替えて、いくつかの求人票をピックしてくれた。その全てが広告会社で、どちらかと言えば玻璃が務めているような会社に業務形態が近い。中には印刷部門も兼ね備えているところもあったけど、募集内容は総合事務だった。

「もしご興味があれば、選考の取次を進めますが」

 私は求人票をじっと見つめて、それから静かに首を横に振る。

「ちょっと考えさせてください」

 残念ながら、応募したいと思えるほどの動機が今の私にはまだなかった。

 職安を後にして、コンビニのおにぎりで昼ご飯を済ませる。ついでに店に並べてあった求人誌を手に、結局いつもと同じように、その辺にあったカフェチェーンに足を踏み入れた。カウンターでコーヒーを注文して、品物を手に席につく。平日昼間の店内は、オフィス街の近くだからか、仕事の合間の休憩をしているような、もしくは玻璃と同じようなリモートワークをメインとしているような、社会人の姿が多く見受けられた。いつも向かう、マンションの近くの店舗のとは全く客層が違う。そんな中で求人情報誌を手にコーヒーを啜る私は、どれだけ滑稽な存在だろうか。それに恥ずかしさを感じないくらいには、私の感覚はとっくにマヒしていた。

 飲食、飲食、福祉、製造。求人誌に並んだ定番企業の上を目が滑って、ページが次々とめくられていく。そう言った仕事に偏見があるわけじゃなく、どうせなら印刷とか出版に携わる仕事がしたい。選んでられる立場ではないのだろうけど、それでも、仕事に私の存在意義を求めたっていいじゃないか。

 カップ麺も出来あがらないくらいの時間で求人誌を眺め終えた私は、テーブルの隅にそれを放って、ぐったりと椅子に背中を預けた。こんなことなら古本を買ってくるんだった。求人を吟味して時間を潰せるつもりでいた私は、すっかり手持無沙汰になって、でもコーヒーを飲み終えてしまうと店を出なければならないので、何をすることもできず、ただ天井の幾何学模様を目で追うように眺めていた。

 そう言えば、今の若い子たちは――という私も十分若いつもりだけど――転職エージェントやらを駆使して仕事を探すと聞いたことがある。というか、玻璃から聞いた。それがどんなサービスなのかもよく分からないけど、とりあえずポケットからスマホを引っ張りだして、駅とかでよく見る名前のサイトにアクセスしてみた。登録してみるくらいはいいかもしれない。それだけでもなんかひとつ、前に進んだような気になれそうだ。ただいかんせん、よく分かってない私は、とりあえず「ご利用の流れ」とかいう項目を見つけたので、読んでみることにした。

 なるほど。登録して、職歴なんかを打ち込めば、エージェントとやらが合いそうな仕事を探して紹介してくれるというわけか。なんなら、その「仕事を紹介する仕事」を私に紹介しなさいよ。そんな理不尽な思いを抱きながら読み進めると、登録後の流れを記した項目で目が止まった。登録後、まずはエージェントとの面談を行いますだって。それで希望職種や求人提案の方向性を一緒に考えますだって。

 私は、つい今しがたの職安でのお姉さんとのやり取りを思い出す。なんだか、一気に登録すら面倒になってきた。私は、求人情報誌の上にスマホを放り投げた。

 ダメだな。やっぱり私、働くということに対してのモチベーションが全くない。働きとうない。このまま妹のヒモとして生きていきたい。それなら、求人誌なんか眺めるより、料理本のひとつでも眺めたほうが良いんじゃないか。家事ができるようになれば、ヒモとしての私の存在価値が上がるはず。盲点だった。追い出されることに怯えるのでなく、追い出すのが惜しい女になればいいんだ。

「ふ、ふふっ」

 起死回生の逆転の発想に、思わず変な笑いが漏れた。そうと決まればいつもの古本屋の一〇〇円コーナーから料理本を探して、余ったお金で食材でも買ってこうじゃないか。合ったお金で――ポケットをまさぐると、そこに入っていたのは五〇〇円そこらの小銭だけだった。これでも何かは買えるだろう。調味料ならマンションに一通りそろっているし。土井義春先生だって言っている。一汁一菜で良いのだと。

「斎藤さん……?」

「はい、斎藤です」

 突然声を掛けられて、私は振り返るよりも先に返事をしていた。声に遅れて顔を上げると、そこにはふんわりしたオフィスカジュアルに身を包んだ女性がひとり立っていた。どこかで見たことあるような気がする。というか、私のことを知ってるみたいだし。

 それからほんの少しの間を置いて、目の前の光景と在りし日の記憶が合致した。

「もしかして高寺さん?」

「そうです、高寺です!」

 私がその名を口にすると、彼女は嬉しそうに頬を緩ませた。高寺さん。私が以前勤めていて、そして潰れた印刷会社で働いていた同僚だった。同期、という方が正しいか。

「すごい偶然ですね! 家、この辺りなんですか? あ、それとも職場がこの辺りで?」

「ああ、まあ、そんなところで」

 元同僚の手前、つい、無職ですとは言えなかった。だからぼかすような言い方になってしまったけど、彼女にはそれで充分だったようで、うんうんと頷いてくれていた。

「お互い、あんな形で退職になりましたからね。うわあ、本当にうれしい。今度、良かったらご飯でも行きませんか? 連絡先、変わってないですよね?」

「ああ、うん。ラインはそのまんまだけど」

「分かりました。じゃあ、それで連絡しますね。それでは私、打ち合わせがあるのでこれで!」

 そう言って彼女は、突風のように去って行ってしまった。あっという間のことで、本当に彼女と出会ったのかどうかも、定かではないような感覚。取り残された私は狐につままれたような気持になりながら、コーヒーの残りをぐびぐびとあおっていた。


 それから、家に帰ったころにはいつもの時間だ。習慣ってのは恐ろしいね。玻璃の仕事のコアタイムが終わって、私の帰宅が許される。結局、料理本も食材も買わないまま家路についてしまった私は、部屋に入るなり妹のベッドに倒れ込んだ。

「ねえ、玻璃。人間って何のために生きてんだろうね」

「帰って来るなり何? 今、企画資料の作成で忙しいんだけど」

「妹も冷たい……寂しい」

「ヒマならトマト缶とケチャップ買って来てくれる?」

「はーい」

 泣き言も軽く流されてしまって、私は帰って来たばかりだけど、再び身支度を整える。と言っても放り出したスマホと部屋の鍵をポケットにしまうくらいだけど。と、思ったら、スマホにメッセージが一件入っているのが目に付いた。

「あ……ごめん玻璃」

「今度は何事?」

「そんな、いつもやらかしてるみたいに言わないで」

 無職でも清廉潔白に生きてますし。それに、今回に関しては私の落ち度は全くない。はず。

「今日は私、ご飯いらないわ」

 メッセージの内容は、お昼に会った元同僚からの、さっそくのお誘いだった。私は「よろこんで」と返事を打ちながら、もう片方の手を玻璃に差し出す。

「ん」

「今度こそ何事?」

「お金ちょうだい」

 振り返った玻璃は、すっかり怪訝な表情を浮かべていたけど、痛む心なんてとっくになくなっていた。ほんと習慣って恐ろしいね。

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