インドに行ったら人生観変わったので妹のヒモになった姉の話
咲樂
第1話
都会の喫茶店はいつだって込んでいる。でも、お客ひとりひとりは他の客のことなんて意にも介さず、自分だけの時間を過ごしている。パブリックなのにパーソナルな空間。それがなんだか、ちゃんと自分が社会の一員いなっているように感じられて、私は喫茶店という空間が好きだった。
ちょっと前までは周りの女子たちの例に漏れず、やれインスタだのなんだのに映えを求め続けていた私は、同じ喫茶店でも個人で経営しているような、ちょっと古臭さすら感じる、いわゆる趣のあるような場所へ好んで足を運んでいた。傍らに携えるなら、文庫本や新書が似合いそうな、そんな喫茶店。でもこの数年はもっぱら、つるつる光沢のファッション誌とか、ページ数だけかさばる割に内容のない啓発本とか、そういうのが似合う全国展開のカフェチェーンが私の城だ。コーヒー一杯ワンコイン以下。ケーキセットなら一〇〇〇円以下。それなら古本屋で一〇〇円セールの適当な本を一冊買ってもおつりがくる。それでいて何時間居ても怒られないし、追い出されないし、そもそも店員が客に興味ないなんて、素晴らしいじゃないか。やっぱり私は、喫茶店というやつが大好きだ。
タイトルだけで買ってみた文庫の小説にそろそろ飽き始めたころ、ふと腕時計に目をやる。そろそろ時間かな。私はコーヒーの残りを一気に飲み込むと、ほとんど着の身着のままと言っていい荷物をまとめ店を後にした。
マンションに戻ると、余計な音を立てないように、できるだけそっと部屋に入る。抜き足差し足忍び足で狭いキッチンを抜けて、かすかに光がこぼれるメインルームの扉をノックした。
「おかえり」
部屋の中から声がする。それが、入って良いよの合図だった。言葉は何だっていい。とにかく、ノックに対して返事を返す。返事がなければ、今は都合が悪いということだ。
無事に許可が貰えた私は、そこでようやく押し殺していた息を吐き出す。扉を開けると、ローテーブルに広げたノートパソコンに向かう我が妹と目があった。
「これ、玻璃(はり)のご要望のドライマンゴー」
帰りがけに寄ったコンビニの袋を差し出すと、彼女は「ありがとう」と短く添えて受け取った。それから無言で反対の手のひら差し出して来たので、私はそこに、お釣りの小銭とレシートを重ねて置いた。玻璃は、テーブルの上にあった財布に小銭をしまうと、それっきりパソコンに集中してしまう。ほっぽられてしまった私は、うんとひとつ背伸びをしてから、部屋の片隅に置かれたベッドに腰かけた。上着のポケットからさっきの読みかけの本を取り出して、壁際の古本の山に放る。雑多に積まれた本たちの中で、どれが読み終わったやつで、どれが途中で飽きたやつなのか、自分でもよくわからない。
すっかり手持無沙汰になって、ごろんとベッドに横たわった。
「瑠璃(るり)姉、晩御飯はコンビニでもいい?」
「いーよー」
返事と一緒にあくびがこぼれた。そこで「じゃあ私が作るよ」なんて言えれば多少は甲斐性を見せられるのだろうけど、残念なことに私の家事スキルは壊滅的だ。ご期待に沿える成果を出すどころか、余計な仕事を増やすことになりかねない。下手なことはしない方が良い。
キーボードのタイプ音が、ちょうどいいリラクゼーションBGMになって頭の中に響く。コーヒーも飲んですっかり気持ちが緩み切った私には、子守歌以外の何物でもなかった。
「あ……ちょっと、瑠璃姉」
玻璃の声で、まどろみから引き戻される。私はゆっくり首だけもたげて、彼女の背中に目を向けた。
「ごめん。急な打ち合わせが入った」
「えー、今帰って来たところなのに……個室でいい?」
「いいよ」
口では文句のひとつも言うけれど、私に拒否権がないのは自明の理というものだ。睡眠の「睡」に入りかけて、すっかり重くなった体に鞭を打って、ベッドから起き上がる。そうして私は、本の山から表紙も見ないで一冊を取り上げると個室――トイレに向かった。
蓋をしたままの便器にどっかり座ると、自然とため息がこぼれる。それは不快なせいでこぼれたものじゃなくって、安心してこぼれるため息だった。トイレって、どうしてこんなに心が落ち着くんだろう。
「そうだ、インドに行こう」
そう思い立ったのがちょうど二年くらい前のことだった。世界的なパンデミックのあおりで務めていた印刷会社がつぶれた私は、突然訪れた余暇を前にして、なんだか気持ちが大きくなっていた。再就職はしなければならないけど、ずっと働きづめだった私の心はバケーションを求めていたのである。だったら素直にハワイなりバリなり行っておけばよかったのに、その時の私は旅行会社のパンフレットに書かれていた「人生観が変わります」の煽り文句を胸に、飛び立ったのである。
初めての海外旅行で多少なり浮かれていた私だったけど、現地についてすぐ、大きな問題が発生した。トイレが汚い。ホテルのトイレはまだいいけれど、それ以外の街のトイレがとにかく汚い。その瞬間、私は日本という国がいかに恵まれていて、安心安全なレストタイムが提供されているのかを理解したのである。ありがとう暖房便座。ありがとうウォシュレット。それまで考えたこともない「気づき」を得て、確かに私の人生観は変わったのかもしれない。タージマハルをありがたがる前に、今すぐ家の便器をピカピカに磨いてあげたい気持ちでいっぱいだった。
それから日本に帰って、便器を磨いて、もう少しゆっくりしようと少し怠惰な日々を過ごしてみて、また便器を磨いて、それに幸せを感じて。そんな毎日を過ごしているうちに、なんだか再就職するのが面倒になっていって、気が付いたころには無職に危機感も感じなくなっていった。
そもそも、根は真面目だと自負している私は、新卒からこのかた、雇ってもらった東京の印刷会社で決してエリートではないけど、まあ安定したキャリアを積み続けていた。だから転職とか考えたこともなくって。どっから手を付けたらいいのかもわからなくって。迷っている間に、すっかり面倒くさくなってしまったというわけだ。
でも人間ってやつは生きてるだけでいろんなものを消費するわけで、貯金はあっという間に底を付き、住んでいたマンションも引き払って、生きる当てを失った。そうして訪れたのが、同じく仕事で東京に出て来た妹のマンションだった。
要するに私は今、妹のヒモとして生活している。
しばらくして、トイレがノックされた。
「終わったよ」
「はーい」
私は読むでもなく、ただ開いていた本を閉じて、個室を後にした。
妹の玻璃は、地元の大学を出た後、東京のデザイン会社に就職した。昔から絵を描くのが好きな子だった。子供のころは、よく玻璃が書いた絵に私が文章をつけて、ふたりで絵本を作ったものだ。今は営業部らしいけど、時々ある社内コンペに参加して、デザイナーの道が開かれるのを待っているらしい。やりたいことを仕事にしようと努力していて、お姉ちゃんとしては鼻が高い。
今は、やっぱりこれもパンデミックのあおりで、彼女の仕事もすっかりリモートワークだった。フレックス制らしいので時間の融通が利くようだけど、お昼から夕方にかけてのコアタイムは、社内や客先との打ち合わせが集中する。だから私は邪魔にならないように、その間の時間は外に出て、時間を潰すというわけだ。彼女からもらったお小遣いを手に。
「明日は資料作りの作業しかないから、部屋にいても大丈夫だよ」
「あ、そう?」
「いなくてもいいけど」
「と言っても、やることないしなあ」
妹の仕事中はすっかり定位置になってる彼女のベッドの上で、さっきもそうしたようにごろりと横になる。八畳一室のマンションは、ふたりで住むには少々手狭だ。それでも、仕事が決まって部屋を探すまでの少しの間――という話で居候させてもらっていたのに、気づけば契約更新を間に挟むくらいの間、すっかり根を下ろしてしまっていた。部屋の間取りも、さっきの古本の山を含む一畳ぶんくらいは完全に私の荷物置き場。姉妹揃って、互いにそれほど物を持たないことが不幸中の幸いかもしれない。
「仕事探しなよ」
玻璃は、完全にあきれ顔でじっとりと私の顔を見た。私は壁の方に寝返りを打って逃れると、わざとらしい寝息を立ててやり過ごした。
仕事、探したくないわけじゃないんだけどな。なんというか、ひたすらに面倒になってしまっただけ。なんでかと聞かれると答えられるものじゃなくって、そういう気分だとしか言えない。受験、受験、そして就活、仕事。これまでノンストップでやってきた人生のツケを払うような、長い長い一回休み。田舎の両親も、とりあえず姉妹一緒にいるなら安心だからと、特に口を出しては来ない。もともと呑気でおおらかというか、適当な人たちだから、事の重大さをよく分かっていないという方が正しいのかもしれない。変に気を使われて、干渉されるよりはいいけれど。
「今日、マンションの管理会社から連絡があったんだけど。同居人居ませんかって」
「なんだって?」
突然の話題に、ごろんと、再度寝返りをうつ。パソコンに向かったままの玻璃の背中が、冷たい拒絶のように感じられた。
「そろそろ、ここにいるのも限界だと思う。一人用物件だし」
「まじかあ」
ここを追い出されたら、私に行くあてなんてない。ひじょーにまずい。とても困る。
「仕事、探したら」
「うーん……うーん!」
唸りながら、私は布団を頭からかぶった。考えたって、気持ちがすぐに動くことはない。できるならもう少し、このぬるま湯でゆっくりぬくぬくしていたい。私ってこんなにぐーたらな人間だったんだなって、自分でもびっくりするくらいに、今の生活を気にいっていた。
「そうじゃなかったら実家に帰るとか」
「それだけは嫌だ!」
蹴飛ばすように布団から脱出して、私は叫ぶ。
「今さら田舎で牧場経営とかできるわけない!」
「別に牧場経営はしなくても良いと思うけど」
「いいや、することになるね。ウチの両親だったら絶対。働かざる者食うべからずとか言い始める。はっきりわかんだね」
「私だって、口に出さないだけで思ってないわけじゃないからね」
妹の辛口コメントは無視をして、広大な北の大地に広がる実家の牧場を思い返す。土、草、動物の香り、そしてのどかな笑顔。そういうのが嫌で、東京まで出て来たのに。今さら戻るのだけは、絶対にありえない。
「じゃあやっぱり仕事、探しなよ」
「そこに戻るのかあ」
仕事、仕事、仕事。働かなければこの社会に居場所はない。受け入れてくれる妹の傍ですら、こうして追い出されてしまうんだ。恨めしい。世間よ、もっと私に優しくなれ。そんな文句で済むくらいなら、悩むことはないのだろうけど。玻璃に迷惑をかけるのは本意じゃないし、そろそろ重い腰を上げないといけないのかもしれない。
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