第2話  彼女の心


「よっ!」

 驚いた楓の肩がビクッと動いてゆっくりと振り返った。

「……藤原くん?」

 楓はいぶかしげな顔をする。


 要は掌をひらひらと振りながらニコニコと楓に近づいていく。

「一人で掃除してんの?」

 近くにあった机の上にひょいと座り、要が尋ねた。楓は俯いてしまい何も応えない。


「……おまえさあ、よく一人で掃除してねえ?」

 ぴくりと楓の眉が動いた。

「そんなことない。何か用事?」

 動揺を読まれないように目を逸らしながら楓が返す。要を警戒しているのが目に見えてわかった。


 楓と要は隣のクラスで、たまに校内ですれ違ったり、要が楓に話しかけてくる以外に接点はなかった。

 要は友達も多く、人気者で、いつも楽しそうに生きている……ように楓には見えた。そんな彼がなぜ、正反対の楓に声をかけるのか、楓には見当もつかなくて戸惑うばかりだった。


「嫌なことは嫌って言えよ。いつもみんなの言うこと聞いてるだろ? 疲れない?」

 なんで要がそのことを知っているのだ、と不思議に思いつつ楓が言い返す。


「……関係ない」

「関係なくない、俺はおまえが心配なんだよ」

 要の表情は真剣だった、からかっているようには見えない。


 楓は不思議に思う。なぜ私にそんなに構うのか、なんで心配するのか……でも、そんなに嫌な気持ちはしなかった。


「それは……疲れるけど……嫌だけど」

 楓の言葉が途切れる。何か思案しているようだ。

「みんなの言うこと聞かないと、私、……意味ないし」

 楓の言葉は重みを増し、瞳に影がよぎった。


 彼女の中に見た深い悲しみの根源はこの陰にあるのではないか、要は逃さなかった。

「何? どういう意味?」

 要はわからない、だから知りたかった。


「……なんの役にも立たない、何の利用価値もない、そんな私だったら誰も必要としない。近づいてこないっ」

 楓の口から出た言葉に要は愕然とした。楓がそんな風に思っていたことがショックだった。


「おまえ、マジで言ってんのか……それ」

 要の声のトーンが落ちる。その声音は楓の心をざわつかせた。

「……そう。私はずっとそうやって生きてきた」

 楓はずっと下を向いているので、要がどんな表情をしているのかわからない。


「なんで……なんで、そんな悲しいこと言うんだよ!

 お前がお前のままで必要としてくれる人がいないなんて、そんなわけないだろ?

 そんなわけっ……」


 要は怒っているのか泣いているのかわからなかった。

 楓は混乱していた。なぜ彼がそんなことを言うのか。

 突然、要の両手が楓の手を包み込んだ。

 楓は突然のことに驚き、要の顔を凝視し一歩引く。


「今までおまえのこと必要だって言ってくれる奴がいなかったのか? 大切にしてくれる奴はいなかった?

 そうなら……そうだったなら自分だけは自分を大切にしてやれよ……っ」


 握られた手に力が込められる。要が楓の両手を自分の額に当てる。まるでお祈りしているような恰好だ。

 楓はなぜだかわからないが、だんだん気分が悪くなってきた。

 この空気感、心地よさを全身で拒絶している。心も拒否反応を示していた。


 ダメだ、こんなの慣れてない、吐きそうだ、耐えられない。

 楓はおもいきり要の手を振りほどく。


「言ってる意味が分かんない! いいの、私は。今のままで、いいの」

 楓は要から距離を取った。


「お前は傷つきすぎて心がマヒしてんだ!

 今からでも自分を大切にしろ、でないとお前は一生自分を殺しながら生きていくんだぞ! ……それでいいのか?」


 要は必死に楓を引き留めようとする。

 しかし楓の心が悲鳴を上げ、警鐘を鳴らしていた。


 これ以上、心を荒らすな、踏み込むな……と。


「やめて! やめて! あなたに何がわかるの!」

 楓は要を突き飛ばし、教室から走り去っていった。



 一人教室に残された要はぐったりと下を向き、「ああーっ」と呻き頭をガシガシと掻きむしる。


 悔しかった、楓を傷つけてしまったんじゃないかと、そんな自分が許せなくて。

 大きなため息をついたあと、窓の外に赤々と煌めく夕日を背に要は目を伏せた。


 




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