第6話




 緊張が抜けて、どっと疲れが体に押し寄せる。一晩休んだばかりだというのに、翌朝疲れてしまっては、心がもたない。


 体は問題ない。丈夫なネロの肉体は疲労を蓄積しておらず、万全の状態といってもいいくらいであった。


「ほんとに感情に訴えてくるだなんてね……ていうか、この世界が物語だって話は本当? 一度は勢いで信じたけど、改めて考えると証拠が少なすぎるよ」


「本当だ。現にネロじゃ知り得ないことを俺は知ってる。それは全て、本の中で読んだことだ」


「……」


 また、筆舌し難い恐怖と嫌悪感がミリエスタの身を襲う。それは寒気を伴って足先から頭の上まで這い登る。真夏の怪談を耳にした時に似た感覚で。でも思い出してみればやっぱり違っている。


 言葉にできないのだから、それの正体に気付くのは当分先だろう。今を熟慮しても詮無いことだと割り切り、ミリエスタは思考をきりかえた。


「はぁ……手伝うと言ったからには、覚悟しててよね。泣いちゃうくらいに酷使してあげるから」


 依然、ネロに再び会うために利用するという気持ちは変わらない。でも少しは、その中に彼を混ぜてもいいのかもしれないと思う。……生半可な態度では許さないけれど。


 思うより居丈高になってしまったが、伝えたいのはそれだった。


 ミリエスタの宣言に対し、アザミは苦笑で返す。


「どうぞ、満足するまで使い潰してくれ」


「……その身体は、」


「分かってる。ネロの、だろ。体が壊れるまでの無茶はしないさ」


 “ネロ”の帰ってくるべき肉体が無ければ元も子もない。


 全力を尽くすと誓った。使い潰せと言った。それでも、どうしても、これだけは守らなければならない。




 だからそれ以外は、どうでもいい。




 アザミの顔に一瞬暗い影が走ったように見えたが、再度確認すると消えてしまっている。見間違いだったのかとミリエスタは疑問に思いつつ、新たに増えた声に耳を傾ける。


「なんや。お二人さんは早い、なぁ」


「キミが遅いだけだよ、サヤ」


 朝日が姿を現しきった頃、目元を擦りながらサヤが2階から降りて来た。別段、アザミとミリエスタが早起きなわけではない。この世界の感覚でもサヤは遅起きな方だった。


 ダボっとした白いシャツに袖を通し、ボタンを胸の途中までかけているだけで、上は無防備だ。開けた部分からシャツに合う白磁の肌が覗き、鎖骨と谷間がまろびでる。


 なるほどミリエスタほどではないが、自負していたように、確かにデカい。


 見ないようにしてはいるが、それでも不意に視線が運ばれてしまう。目立つものに注目してしまうのは人間の本能である。



 というか


 サヤでさえここまで大きいというのに


 これより大きいミリエスタって一体……



「どうかしたかい?」


「……なんでもない」


 ミリエスタの方は見ずに答えた。


 元々大きいと『TOS』に書かれていて、挿絵からもそれが窺えて。なんなら水着姿も知っていて。


 それでも絵で知るのと現実とでは全く話が変わってくる。厚いローブに覆われている今もハッキリ分かるほどのそれについては。


 これ以上はいけないと頭を振り、ミリエスタとサヤの会話に集中する。


「それでなんや、人格を観測する魔法やったか? ……奥の部屋借りるで。少し籠るわ」


「基盤は作ってるから、黒板に文字書いてってよ。新しい触媒は入るのが少し遅れるみたい」


「無問題や。この前の残りで何とか済ます」


「あっ、なら組成用の銀翠晶を使い切る形で頼むよ。容器を買い換える予定だったし、ついでにね」


「人使いの荒いやっちゃな……まぁなんとかなるやろ。代わりに使用魔力がちょいデカくなるけどえぇな?」


「それくらいなら許容範囲内さ」


 ……まったくわからん。


 ネロにスポットライトが当てられた『TOS』の中で、魔法についての詳しい記述は書かれていなかった。正しく言うならば、読者が知る必要が無いから書くのを控えていた、だ。


 聖術使いのネロに注目が集まれば、自然と意識はネロが使う聖術に向かう。本編でも聖術に関しては詳しく書かれていた。


 神への深い信仰心によって起こす奇跡の領域。魔法に対して絶対的な優位性があり、しかし魔法のように自由に扱えるわけではない。私利私欲の為に動く人間に、神の心は靡かない。無欲と慈愛の果てに発動できるという難しい性質を持つ。


 対して魔法はミリエスタや他の幾人かが使うというだけで、それに応じた少ない記述。元来、神秘を扱う者の数は少ない。その半数のみが魔法士で、更には聖術に注目のウェイトがおかれてしまっては、アザミが魔法の知識が薄いのも仕方がない。


 要するに、この場でアザミに出来ることは殆ど無いということだ。


「じゃ、よろしくね」


「あいさ〜」


 所在なさげに暫くオロオロしていたが、二人の話が終わったようで、サヤは奥の部屋へ向かった。ミリエスタはそれを見送り、アザミに振り返る。


「……さて、彼女の仕事が終わるまでに、私達もするべきことをしておこうか」


「よしッ、なんでも言ってくれ」


「うんじゃあこの部屋を掃除してくれるかな」


「聞き間違えか?」


 やる気に対して随分と気を削がれる単語が飛び出したような。


「言い間違いでも聞き間違いでもないね。いやその、サヤと話してて、魂に関する魔導書の在処が記された地図やら本があったことを思い出したんだけどね。昔、適当に放り投げたら部屋の何処かに消えちゃった」


 流石にテヘペロと言わなかったが、正しく戯けているような顔だった。


 アザミは怒るでもなく失望するでもなく、ただ呆れていた。


「……はぁ。お前が整理整頓に関しては致命的だってのは知ってたけど……まさかここまでとは」


「ボクも今回は反省しなきゃだね。いざという時に見つからなかったら意味がないと実感したよ」


「寧ろ今までよく不便を感じずに生活できてたな……」


 改めて部屋の様相を目の当たりにする。


 散らかった書類、散らばった本、散乱した魔符、などなど……。この中から一つの物を探し出せと命じられるのは、砂漠ほどではないが公園の砂場から一粒を探せと言われるのに等しいくらいであった。


 ミリエスタはニコニコと笑みを崩さない。面倒な掃除を上手く押し付けれたからだ。


 アザミもそれを分かっていながら、何でもすると言った手前、断るわけにもいかない。自分が望んだことではあるが、渋々といった様子で、まずは本を拾って棚に戻し始めた。


「目当ての本が見つかっても掃除は最後までやってくれるんだよね?」


「……もうここまできたらヤケだ。いいぜ、やってやる」


 目はキマり、覚悟に満ちた表情をしている。


 戦場に向かう兵士のようだけれども。


 やる事は単に掃除というだけで。


「そ、そこまでやる気を出されたら……うん、ボクも片付けるよ」


 申し訳なく感じたミリエスタもいそいそと本を拾い上げる。アザミも正直一人でこの部屋を片付け切るのは厳しいものがあったので、助力に対し何も言う事なく受け入れた。



「この赤い石は?」


「右の棚、上から3番目。他の石と混ぜちゃっていいから」


「分かった」



 一人で黙々と作業するより、少し話を交えながら二人で進めた方が早い。先が遥か遠くに思えた掃除も、終わりが見える程度には片付いてきた。


「布は畳んで置いときたいから、このキャビネット開けるぞ?」


「あーうん、いいよー……あっちょ待っ!」


「ん?」


 ミリエスタの狼狽に気づくよりも早く、アザミはキャビネットを開けてしまった。


「おぼぼぼッ!?」


 途端、堰を切ったように溢れ出る紙、紙、紙……部屋を埋め尽くさんばかりの紙に溺れ、アザミの姿は一瞬にして消えた。


 明らかにキャビネットに入りきらない量だろ、と体と共に紙に侵食される思考の片隅で思った。


 濁流に抗った末、だろうか。天井に向けて伸ばした右手だけが、山の頂上に垣間見える。ミリエスタは何度か滑りながらも山を登り切り、右手を握って引っ張り上げる。


「……ゴホッ、溺れるとこだった。死因が紙の溺死とか超絶恥ずいやつじゃんか……」


 一度咳き込み、救けられた命を実感する。


「感謝の言葉は?」


「マッチポンプもいい加減にしろ。ほぼほぼ加害者はお前だからな」


 反省の欠片も見せずに謝意を要求するミリエスタにツッコミながら、一体何に溺れかけたのかと、山を形成する紙の一つを摘み上げた。


「これは魔符か?」


 長方形に切り取られた紙。魔法陣やアザミが読めない謎の文字が描かれ、しかし何処か不恰好な、未完成品のような。


 それが沢山。右にも、左にも。


「まさかこれ、全部……」


 解答を知っているであろうミリエスタの顔を見る。そのミリエスタは苦虫を噛み潰したような、自分の黒歴史を不躾に掘り起こされたような。


 今更大量の魔符を隠すような真似はせず、正直に明かした。


「……ゴミだよ。全て失敗作のゴミ。十分な効果を得られなかったり、軌道がメチャクチャだったり……だから捨てちゃっても構わないさ」


「それなら別にいいんだけど……なんでそんな、辛い顔をしてるんだ」


「うるさいなぁ……話さなきゃダメ? どうせ知ってるくせに」


「……」


「今だけ。今だけは……これを見たのが、キミでよかった」


 ネロだけには知られたくない。


 そうした言外の意に、アザミは咄嗟に言葉を返せなかった。


 知っていたから。ミリエスタが予想したように。彼女の抱える苦悩、懊悩、コンプレックスを。




 “秀才”であるからこその、劣等感。




 何か言わなければと飛び出しかけた言葉を飲み込む。そして逡巡の後に、諭すように。


「……それでも、これはお前が頑張ってきた証拠だ。それを無下に、他でもないミリエスタ自身が切り捨てるのは、」


「ほんっと、余計な事だけ知ってるよね。キミは」


 そのくせ要点を突いてくるので、憎らしい。自分のことを全部分かった上で言っているであろうから、嘘も外聞も、何も取り繕わず、素で話しているのだろう。


 何も知らないくせに、と話を断ち切れないのも。勝負なんてしてないけど、こちらが負けたような気がして妙に小憎たらしい。


 でも反論しないのは、出来ないから。それは自分が一番よく分かっている。その気づきとなったのが、目の前の男だというのは中々に受け入れ難いけど。


 ミリエスタは鼻を鳴らした。


「……じゃ、同じように圧縮してから仕舞っておくことにするよ。今度は開けられないように、鍵を掛けて」


「それがいい。いつ何時か、役に立つか分からないからな」


「失敗作が役に立つことなんて、ないと思うけどね」


「……なんや、そげな近う見つめ合うて」


「「っ!」」


 割り込んた声の主はサヤ。奥の部屋へと繋がる扉に背を預け、二人を怪しげな目で見ていた。


 確かに、アザミはそれどころじゃなかったし、ミリエスタは助けねばと一心で、距離なんて気にしている余裕は無かった。その後すぐにアザミが失敗作の魔符に気付いたから、サヤに指摘されるまで本当に頭になかった。


「み、見つめ合うだなんてそんな。邪な気持ちなんて一切無いし、少し話してただけで、他意はないさ」


「ウチは何も言うてへんけどなぁ。焦ったら必要以上な話してまうの、ミリエっちの悪い癖やで?」


「んぐっ」


 ミリエスタは喉を詰まらせたような音を出す。


 自覚は無かったが、誰より親しい内の一人であるサヤに指摘されれば、それは限りなく事実に近いのだろうと予想できてしまう。


 それに思い返してみれば。


 ネロに思わしげな言葉をかけられた時も。メアリスにネロへの恋心を尋ねられた時も。


「……そうかも、しれないなぁ」


 思考が何処かへ飛んでいってしまったミリエスタに代わり、少し怒るような口調でアザミは言う。


「それで何の用だ」


「おぉ怖い怖い。逢瀬を邪魔する犬は蹴られてまうのが常やけど、そこまで怒らへんでもええやん、なぁ?」


 やれやれといった様子で、肩の辺りに右手を挙げて首を横に振るサヤ。


 まぁ確かに、アザミも見た目ほど怒ってはいない。ミリエスタは動揺が話の中身に出たように、アザミは動揺が口調に出てしまっただけで。


「それで用の話やったな……出来たで。完成や」


「っ、ホントか!? おいミリエスタ、惚けてる場合じゃないぞ!」


 肩を掴みゆらゆらと揺らす。我に返ったミリエスタと共に、掃除途中であるがアザミは奥の部屋へと向かった。



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