第3章 遠征オーバーヒート
第18話 らしくねーな
昨夜は眠れなかった。触れられた唇の感触は消えても、ゼロ距離のときの表情までは薄まらなかった。
満点の星の輝きを奪う月。あるいは朝日を背に立たれた神々しさが、視界にこびりついていた。影にしかなれない俺には、眩しすぎる光。その光を正面から浴びてしまったのだから、体に負荷がかかっていても不思議ではない。目の下には、くまができているはずだ。
ますます陰気臭さを付与された顔なんて見たくない。だが、キスされただけでズル休みする訳にもいかない。のろのろとベッドから下りた。
「珍しいわね。自分から起きてくるなんて」
学校に行く支度を整えた俺を、台所にいた母が唖然と見つめる。びっくりしすぎて、持っている卵にひびが入ってんぞ。フライパンじゃなくて床に落ちたら一大事だ。
俺だって火曜の朝ぐらい起きられるわという罵倒は、心の中だけで言った。出勤前に弁当も用意してもらっているから、強く出られない。
「ちょうどいいところに来てくれて助かったわ。どれでもいいから、棚からお皿取ってくれない? 四枚」
「えぇー」
やだよ。このお皿は昨日も使ったとか言って、文句を言われるのは。勝手に決めたマイルールは、家族にちゃんと説明してくれよ。
目玉焼きを作りながら、母は小言を述べた。
「いつもならメイラちゃんが先に起きて、朝ご飯の準備をしてくれるのよ。あんたも少しは手伝いなさいよ」
「メイラが、まだ寝てる……? いや、俺と顔を合わせたくないだけなのか?」
後者ならショックだ。俺は転びかけたメイラを支えようとしただけで、下心はないのだから。
もし最悪な想定が当たっていたら、俺より早く学校に向かっているはずだ。メイラの席は、最前列の俺と対照的な位置にある。席に着いてさえいれば、俺と関わることは起こりえない。だから、まだ家にいるメイラは、俺を避けていない証明になりうるのではなかろうか。
はぁ。重ねた皿が、コンクリートブロックみたいに重い。
結局、朝ご飯を食べ終えても、メイラは二階から降りてこなかった。
『おはよう、
いつもの挨拶が聞けないまま学校に行くのは初めてだ。
「メイラ! 俺は先に行くからな! 遅刻するなよ!」
◆◇◆◇
次のページには、階段の途中でぺたりと座るメイラの挿絵がある。ずっと前から起きていたものの、拓飛と顔を合わせづらくて下りられなかったのだ。
「あぁーー。この後のメイラ視点、何回読んでも可愛いな! 『学校なんて行けない。普通のクラスメイトなんてしてられないよ』なんて可愛いセリフ、拓飛の前で言ってやれよ! 壁しか聞いてないの、もったいなさすぎる」
俺は左手でリビングのラグを叩く。クッションは絶賛もたれかかっているため使用不可。尊さの過剰摂取による衝動を吸収できなかった。ひんやり素材のラグの下は固いフローリングだから、本気では叩かない。文庫本が持てなくなってしまう。
バイトのない休日の昼下がり。買い物に出かけた両親には同行せず、俺は自分の時間を満喫していた。
「メイラはずっと拓飛のことが好きだからよ。もっとロマンチックな場所でキスする計画を百個以上立てていたんだよな。なのに、よりによって台所の床の上。拓飛を押し倒す形でするなんて、お嬢様の思考回路が追いつくとでも? いいや。いろいろ感情が溢れて、整理するまで顔を合わせられるもんか」
俺が読んでいたのは『義妹が英国美少女なんて聞いてません!』三巻の冒頭。二巻のラストでキスされた拓飛が、メイラを義妹ではなく恋愛対象として意識し始める場面だ。
今の俺の置かれている状況と似ている。柊からファーストキスを奪われてから一週間が経過しても、接吻やチューと近い言葉を聞く度に発狂していた。彼女役って、いつもあんなことするのか? 小森がいない場所でも、偽カノでいなきゃならないのかよ。
柊との連絡は、四日前にしたきり音沙汰がない。それまで放置されることはなく、着信音に飛びついては落ち込むことがストレスになっていた。
彼女役が終わって、俺の価値も見いだせなくなったのかな。俺の知らないところで、本命の彼女ができたのか? じゃなきゃ、こんなに連絡がない理由を説明できない。
ちくしょう。キスされてから連絡の頻度を気にするようになったなんて、俺らしくねーな。ここは愛読書に頼ろう!
参考になるはずだと期待して読んだのだが、新たな問題が浮上した。
「キスを思い出して引きずる回を読んでも、耐久レベル全然上がんないじゃん。カンストしてるはずのメイラの可愛さだけが上がっているような」
柊の心が読めたら、すぐに解決できるのに。
溜息をついたとき、似たことはできそうだと思い当たる。本を机に避難させ、ツブヤイターを開く。ラギとしての柊なら、文化祭前と変わりない生活を送っているかもしれない。
『今日はバイトがお休み。AP回復薬のストックがあるから、ちまちま素材集めしようかな』
ツブヤイターでの柊は顔文字を使わない。そんな小さな情報を、限られた人しか知らないのは鼻が高い。
きゅうナイは夏休み直前キャンペーンとして、強化素材のドロップ率二倍を謳っていた。APが尽きるまで周回はオートモードで進めてくれるものの、回復と戦闘開始ボタンを連打する単純作業は飽きやすい。ツブヤイターで知り合ったプレイヤーの中には、通話しながら数をこなす人もいた。
一緒に周回しないか、柊にメッセージを送ってもいいのかな。文化祭翌日に届いた柊からの返信は『距離感に気をつける( +,,ÒㅅÓ,,)=3フンス!』だった。俺の頼みを素直に聞いてくれた友達を、都合よく振り回すのは気が引ける。
「待てよ。通話しながらゲームするのは、オタク友達として普通だよな。紅葉の彼氏がゲーム配信するのと、あんま変わらなくないか?」
拡大解釈ねと、俺の中の紅葉が言う。だけど俺の決心は揺らがなかった。周回しながらでいいから俺の話を聞いてほしいと、提案してみる。
『相槌が下手でもいいなら、通話してもいいよ(*>ω<)b』
おうよ。ラジオ感覚で聴いてくれや。
大きく息を吐いて通話ボタンを押す。
「こちらスノー。調子はどうだ? ラギ」
くうぅ~。無線のやりとりみたいでテンション上がるぜ。柊にとっては理解不能な展開だろうから、早く説明してあげないとな。
テッテレーと大成功の札を見せる仕掛け人よろしく、ネタばらしをする。
「なーんてなっ! 春アニメを見てたら、あのスパイキャラっぽくしゃべってみたくなるんだよ。困らせて悪かった」
かすかに笑い声が届く。堪えきれなかった笑い声さえも尊いな。
「今日はバイトなかったみたいだけど。柊は何のバイトをしているんだ?」
「うちの玩具屋。家族営業だから、よく駆り出されてる」
いい子。
息子の優しさにつけ込んで、強制的に家業を手伝わしていないといいな。
ファーストフード店やコンビニの忙しなさは合わなそうだと思っていた。こじんまりとした店だと柊の落ち着いた雰囲気に調和しそうだ。
二時間ほど俺が話していると、ツブヤイターの公式きゅうナイアカから新イベントのお知らせが流れた。
「だあああっ!」
興奮のあまり、通話を切ってしまったようだ。柊からメッセージが来る。
『どうしたの? 制限時間つきのステージで、ギリギリ倒しきれなかったとか?』
それぐらいで泣きわめいているようじゃ、心臓がいくつあっても足りない。
「一年ぶりのSSR、ようやく拝めたんだよおおぉ!」
柊からもらったカードの絵柄と同じ水着を、ゲーム内のユイリィがお召しになっている。
肌を焼かないように日傘を持ちつつ、波打ち際で足を濡らすアクティブさも忘れない。開花前のスチルは脱いだローブを肩にかけて、一心不乱にスイカを食べていた。夏は嫌いだって言ってたのに。腕とか脚は露出したくないって言い続けていたのに。公式さんよ、とんでもない爆弾を隠していやがったな。
「今まで素肌はがっつりと見せてこなかったじゃん……どういう風の吹き回しなの? 可愛いとかっこいいの渋滞起きてるよ。海老名ジャンクションから横浜町田インターチェンジかっての。俺、死ぬよ? 死んじゃうよ」
ふしゅう。
水分補給はこまめにしているのに、頭がくらくらする。
柊に公式へのお布施をどうしたらいいか相談した。
『リアルのイベントはあるにはあるよ。きゅうナイ展の地方開催。一月に東京会場に行ったばっかりだから、今回はスルーするんじゃない?』
ちっ。柊は参戦できていたんだな。
「俺は受験が終わるまで待ってたよ。だけど、いざ会期終了間近に行こうと思してたら、インフルエンザになっちまって行けずじまいだったんだ!」
『仙台か名古屋の会場なら、普通の土日でも行けたんじゃないの? でも、観光中スポットもせっかくだから回りたいよね。体力的に大丈夫な長期休みが行きやすいかな。大阪とか福岡もすぐすぐ行けないし(ノシ *,,ÒㅅÓ,,)ノシ』
確かに、ほかの都市の開催は知っていた。軍資金はスライドして使えばいいという考え方が一般的だろう。だがな、インフルエンザに倒れた者の苦しみは山よりも高く海よりも深いのだよ。
「東京会場に行けなかったショックが大きすぎて、情報を追うのが嫌になったんだよ。体調管理ができなかった俺が悪いから、自業自得なんだけどさ。よりによって、次の開催地はここかよ……」
遠い。遠すぎる!
そんな不満をこぼせば、地方から主要都市のイベントに参加するオタクが怒りそうだ。いつも遠征費にひいひい言っている地方民の嘆きはこんなもんじゃないんだぞ、と。自分達の住んでいる地域で開催されるまで、喉から手を伸ばして待っているんだからな、と。
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