第6話 11年目 その1

 さらにそれから何年か経った年の、ある蒸し暑い日の朝、男は激しい土砂降りの音で目を覚ました。南の島は、今朝もひどい雨だった。男は僅かに開いていた窓を閉めると、2階へ上がって、まだ眠っている少年を起こしに行った。


 ついにあの監獄が襲撃を受けてから、早4年が経つ。2人で命からがら逃げ出してきたときはまだ幼児だった少年も、10歳の誕生日を迎えようとしていた。男は起きてきたばかりの少年におはようと声をかけたが、やはり無反応であった。男が粥を持ってきても、そちらをぼんやりと見つめるだけで、自分からは食べようとしない。仕方がないので粥は男が1人で食べることとなった。少年は知らんぷりして昨日男が近くの森で採ってきた赤い果物を食べている。相変わらず可愛くない奴だと男は思った。


 朝の細々した用事を終えると、男はスケッチブックと鉛筆とを持って、普段通り海の方へと出かけていった。呼んでもいないのに少年もついてきた。男は身振り手振りで帰るように促したが、少年は黙ってついてくる。できれば1人で行きたかったのだが、帰らせたら帰らせたでそれはまた面倒なことになりそうだったので、男はそれ以上少年を追い払おうとはしなかった。


 男は、海を描くのが好きだった。途方もなく広い、真っ黒な水の塊を見ていると、日々の憂鬱も、過去の辛い経験も、何でもないことのように感じられた。

2人の家だった監獄が焼き討ちに遭った4年前、何1つ戦う手段を持たなかった男と少年は、燃えさかる炎の中、必死に逃げ回るしかなかった。自らもひどい火傷を負いながらも、男は少年をおぶって懸命に逃げた。当時6歳だった少年はまだ歩けなかったのである。男は少年を背負ったまま、見知らぬ貨物船に飛び乗り、物陰に息を潜めて密航した。途中で少年がぐずり始めたせいで乗組員に見つかったときは、生きた心地がしなかった。そのまま甲板へと走り出て、真っ暗な海へと飛び込んだ。途中で何度も眠りそうになって、溺れそうになりながら、男はどことも知れぬ南の島へと流れ着いた。


――まさかこんな最悪の形で夢が叶うことになるなんてな…


 男は自嘲気味に笑った。着の身着のまま焼け出されてきたので、監獄に住んでいた頃の財産は何も手元に残っていない。幸い命だけは助かったが、その時に負った火傷の後遺症は今も男の体をむしばみ続けている。


 スケッチブックを開き、その上に愛用の黒鉛筆を走らせる。逃げてきたときは1箱丸ごと、1ダースあった鉛筆も、これが最後で、しかもだいぶ短くなってしまっている。隣では少年がそのまねをして枯れ枝を手に取り、それで砂の上になにやら線を引いている。ただそれだけのことなのに、男は何だかおかしくなって笑ってしまった。少年は怪訝そうにこちらの様子をうかがっている。男は何でもないと言って自分の作業に戻った。男の絵がまだ半分も完成しないうちに、少年は早くもお絵かきごっこに飽きて、近くにいたカニを枝でつつき、指を挟まれそうになっていた。男はまだここに残っていたかったのだが、だれてきた少年に勝手にけがをされても面倒なので、帰ることにした。

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