「MEN 同じ顔の男たち」(2022)
(本編のネタバレを含みます。未見の方はご注意ください)
何が言いたいのかは分からないのだが、何かを訴えようとしていることはわかる。それも極めて強い口調で――そんな作品がある。A24の問題作「MEN 同じ顔の男たち」もそういった映画のひとつだ。
幻想的な田舎の自然美。神話的なモチーフ。そして同じ顔の男たち。すべてが謎めいている。まるで映画そのものが謎かけであるかのように。
本稿では、散りばめられたヒントを拾いながら、この謎多きこの作品の解題・考察にチャレンジしたい。
本作には、繰り返し繰り返し画面に登場するのに、まったく言語化されないキーワードがひとつ登場する。
「妊娠」だ。
映画の後半で、妊娠はしつこいくらい繰り返し描かれる。ただし、妊娠するのは主に男性である。男が男をはらみ、男を出産するという地獄絵図が延々と繰り広げられる。また、ラストシーンでは、主人公パーシーのビデオ通話相手で親友のライリーの妊娠も明らかにされる。
それなのに、なぜか妊娠は言及されない。パーシーは妊娠を繰り返す男の姿を見てそっとその場を立ち去ろうとする。
さて、本映画は衝撃的なシーンで幕を上げる。マンションの部屋でたたずむパーシー。彼女の鼻からは血が垂れていて、暴力の痕跡がうかがえる。次の瞬間、パーシーは驚愕する。窓の向こうに地面へと落下する夫・ジェームズの姿が見えたからだ。
夫の自殺による心の傷を癒すため、パーシーは田舎町へとやってきて、美しいカントリーハウスで過ごす。
付近の森を散策する。美しい森の木々、苔むした土、鳥の鳴き声。きれいな映像からは、住みきった空気の感触さえ伝わってくる。
パーシーはトンネルを見つけ、そこで「アッ」「オッ」と声をあげて、こだまを楽しむ。ここはひたすらに幻想的で神秘的なイメージに満ちている。だが、途中まで進んだところで、トンネルの向こうから、こちらをうかがう男の影が現れる。男がパーシーに向かって走ってくる――。恐怖を感じたパーシーはその場を逃げ出す。
ここが異世界の導入となる。パーシーは自分のトラウマを探る心の旅に立ち向かうことになる。望むと望まざるとに関わらず。
ところで、創作物においてトンネルは女性器の象徴である。ジークムント・フロイトはこう述べている。
「女性性器は、中に空洞があったり、中になにかを入れることができるのが特徴である物によって象徴的に示される。たとえば、穴、くぼみ、洞窟、容器、瓶、罐、紙箱、小箱、トランク、木箱、ポケット等で象徴される」
フロイト;安田徳太郎;安田一郎.新版 精神分析入門 上(角川ソフィア文庫).角川学芸出版.Kindle版.
トンネルが女性器だとしたら、このシーンは何を訴えたかったのだろうか。
パーシーはトンネルで「こだま」であそんでいたが、恐怖を感じて、途中で引き返す。トンネルが女性器だとすれば、これは、『そこでなされるべき何か』が途中で中断されたことを意味する。
それを『性行為』と断定するのは安易な考えだろうか。後に、繰り返し妊娠が行われるシーンがあるのを鑑みれば、妊娠のために必要な行為として『性行為』が浮かび上がってくるのである。
そういうわけで、私はこう考える。このシーンは、『パーシーの性の拒否』を象徴しているのだと。
後述するが、この田舎町はパーシーの内面世界を表現している。あらゆるものがパーシーの隠喩として現れているのだ。
さらに、先に述べた「妊娠」とセットで考えてみればどうだろうか。
パーシーは妊娠または妊娠にいたる行為=セックスを拒否している。
そういった隠れたメッセージが読み取れないだろうか。
パーシーとジェームズの間の不仲の原因にはそうしたことが理由として持ち上がってこないだろうか。
先にトンネルが異世界の導入になると言った。
このシーンを皮切りに、パーシーの前には「同じ顔の男たち」が現れるようになるのである。カントリーハウスの管理人ジェフリー、なぞの全裸男、仮面の少年、司祭、警官、バーテンダー、バーの客……。パーシーは異世界へと来てしまったのだ。
後に明かされるのだが、男たちはパーシーの夫・ジェームズのアルターエゴである。ラストシーンの男が男を生む妊娠の連鎖の最後に現れるのは、ジェームズである。
なんの関係もないはずの男たちとジェームズがイコールで結ばれたとき、ここがパーシーの作り出した精神世界の中であったことがほのめかされるのである。
そう、異世界はパーシーの心の世界である。
そして、トラウマ経験である「ジェームズの自殺」の記憶がパーシーの中で紐解かれていくにつれて、続々と男たちがパーシーの目の前に現れる。
トンネルシーンのすぐ後に出没し、家までついてくる全裸男。無遠慮な管理人のジェフリー。パーシーをビッチ呼ばわりしてくる仮面の少年。逮捕された全裸男をすぐに釈放した警官。そして、司祭。彼は、ジェームズに殴られたことを打ち明けたパーシーに、こう質問する。
司祭:なぜ彼にそこまでさせた?
パーシー:私がさせたんじゃない
司祭:では、彼が殴った後、謝る機会を与えました?
司祭:与えました?
パーシー:いいえ、わたしは……。
司祭:男はときに女を殴る。よくないが 死罪ほどではない。
司祭:慰めと真実 どちらを望みます?
司祭:真実をいうなら、謝る機会を与えたなら 彼は生きていたかも。
パーシー:ふざけないで(Fuck off)
司祭=ジェームズであるとするならば、ジェームズは『パーシーが自分を殺した』と告発しているのだろうか。いや、ここがパーシーの心の世界であることを思い出してほしい。ジェームズ=同じ顔の男たちは、パーシーの心の中のジェームズであり、ひいてはパーシーの心の一部なのである。つまり、パーシーは自分を責めている。自責の念に駆られているのだ。
そんな心の本音に気が付かず、嫌気のさしたパーシーは、予定よりも早く村を離れることを決意する。
だが、彼女の前に、同じ顔の男たちが次々と立ちはだかる。家に侵入され、脅かされる。
しかし、彼女は果敢にも包丁を手に立ち向かう。特にパーシーが勇猛なのは、郵便受けに突っ込まれた全裸男の腕に包丁を突き刺すシーンだ。刺された男は痛みに喘ぎながらも、手を引っこ抜き、その結果、手は腕の付け根から手のひらまで縦に半分に切り裂かれる。
これはジェームズの飛び降り死体を連想させる。ジェームズは最後の瞬間に、鉄柵の杭の先端に手のひらを突き刺し、足の折れた状態で倒れていた。
※さらに余計なことを言うと、この死に様はどこかキリストを連想させる。さしずめ「ジェームズ=同じ顔の男たち」はパーシーの成長のための殉教者となった、というところか。
次にパーシーの前に現れるのは、司祭である。彼はやはり手が切り裂かれた状態である。彼はパーシーをレイプしようとする。彼女は拒否する。
第二のキーワード『拒否』とつながってきた。パーシーはジェームズを性的に拒否してきたのだ。
つまり、これはジェームズとの性交をパーシーは心のどこかでレイプとみなしていたことを、このシーンはほのめかしているのだ。
さて、身の危険にあったパーシーだが、彼女は司祭の腹に包丁を突き立てる。これにより司祭は死んだのだろうか?
いや、司祭=顔のない男たちは再び登場する。今度は無限に妊娠を繰り返す存在として。本作のスペクタクル・シーンである「妊娠連鎖」のシークエンスは、ここに位置づけられている。
まことに奇妙なシーンである。なぜ、男が妊娠するのだろう? 子を孕んだのだとしたら誰が種を植えたのだろう?
それは、直前のパーシーが司祭の腹に包丁を突き立てたシーンと無関係ではないだろう。
フロイト的に考えるのなら、するどい刃物は男根である。パーシーは自らの男根で同じ顔の男たち=ジェームズを孕ませたのである。
つまり、パーシーは心に男性器をもった女性なのだ。
実は、男根を持つ女性というアイデアはそんなに突飛なものではない。例えば、精神分析医の斎藤環氏などは「戦闘美少女(ファリック・ガール=男根少女)」というコンセプトでオタク文化を読み解いている。横道にそれるが、このコンセプトを説明すると、『男根を持つことで、人間として完全化した女性を表現する』といった意味合いである。
パーシーは、実に男性的な女性として描かれている。頭もよく、仕事では高い地位についているようだ。これまでの分析を鑑みるに、夫婦のセックスの決定権もどうやら持っている。
また、司祭が指摘した「(ジェームズに)謝る機会を与えなかった」点も男性的である。
ユング心理学では、父性原理の特徴を「切断する機能」と位置づけている。これは平たく言うと、物事を独断で決定してしまう性質のことである。パーシーは問答無用でジェームズを罰してしまった。これはひどく「男性的」な態度だ。
さらに、社会的地位も高いことを考えると、パーシーは配偶者を必要とせずひとりだけで生きられる存在なのだということが分かる。
すると、パーシーはジェームズを(意識的にせよ無意識的にせよ)いらないものとして扱っていたのではないか、ということが浮かび上がってくる。
再び目の前に現れたジェームズに、パーシーは問いかける。「私に何を求めているの?」
ジェームズは答える。「君の愛(Your love)」。
つまり、ジェームズはパーシーとの生活で愛を得られなかったことをここにおいて告発しているのだ。それと同時に、パーシーはジェームズに愛を与えてこなかった自分の所業に気づくのである。
映画は、パーシーが笑うカットで終りを迎える。田舎町まで車を走らせてきた親友のライリーが、パーシーのいるカントリーハウスを訪れ、家の惨状を目にし、それからパーシーの姿を見とめるのである。そのライリーに向けられた笑顔である。
ライリーは妊娠している。それはパーシーがジェームズとの間になし得なかったことである。
ところで、ライリーの子どもの父親は誰なのか。
私は、それはジェームズなのだと思っている。
そう思う根拠がある。
・ジェームズは、パーシーから愛をもらえなかった。
・ジェームズは、パーシーがライリーと連絡を取り合っていたことに必要以上に動揺して見せた。
・ライリーは、すぐ駆けつけるといいながら明け方にようやく現れた(パーシーに対して不正直)
最後にパーシーがライリーに見せた笑顔は、すべてを知りながら受け入れて、しがらみから開放された人間特有の感興が込められているのではないだろうか。
以上、見てきたことを総合すると、この映画からは「女性の男性性が強すぎると、配偶者は不要になる」というメッセージが受け取れる。これはいいこととも悪いこととも判断できない。ひとりで暮らせるのならそれでよいと考える向きもあるだろう。
それでも愛がほしいと思う人は自分の中で男性性と女性性のバランスを取る必要があるという教訓が得られるかもしれない。
映画からなにを受け取るかは見る人に委ねられている。
また、本作は歴然としたメッセージも伝えている。「女性でないと妊娠ができない」ということだ。女性が男性を妊娠させても、そこに生まれてくるものはない。少なくとも現代の生物学的には真実だ。
女性は女性にも男性にもなれる。望めば妊娠だってできる。その一方で、男は女性になろうとしても妊娠だけはできない。
女性に比べて、男はなんと哀れな存在なのだろう。
本作の原題「MEN(おとこたち)」は、そんな男たちへ哀れみの視線を向けているかのように私には思われるのだ。
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