「TAR/ター」(2022)

 物語というものはかならず、主人公が混乱に飲み込まれる構造を持つ。これは物語の不文律のようなもので一切の例外はない。古代の神話から最新のサブカル作品まですべてがそうなっている。

 本作も例外ではない。リディア・ターという女性が混乱に巻き込まれる話である。彼女の成功した人生に、ちょっとずつ異物が侵入してくる。なにかが彼女をおとしめようとしている……。この混沌状態でリディアがどのように振る舞ったかが、本作の勘所かんどころなのだ。


 リディアは、ベルリン・フィルの首席指揮者。ほかにも名だたるオーケストラで指揮者をつとめた華々しい経歴の持ち主である。押しも押されぬ人気者で、雑誌の取材に講演会にといそがしい毎日を過ごす。レズビアンであり、妻のシャロン、それから養子のペトラとともに豪邸で過ごしている。優秀なアシスタントのフランチェスカのサポートを得て、順風満帆な日々を過ごしている――かに見えた。


「まだ彼女を愛しているのね」。

 不穏な雰囲気のオープニングシーン。LINEみたいなコミュニケーションアプリで、リディアをめぐって何者かがやりとりしているのだが、その中で交わされるのがこの一言である。

 これは裏を返せば、「愛するに値しない人間である」という評価をリディアについて誰かがしていることになる。そいつは一体なにものなのか?


 リディアは有能な指揮者であると同時に、自我の強い人間として描かれている。ジュリアード音楽院で教鞭を取るときは、生徒の自尊心を傷つけることも辞さず持論を展開する。ワンマンな性格で、投票で決めることになっているルールを破り、自分の一存で副指揮者をクビにする。養子のペトラがいじめられたと聞けば、その子どもを相手に脅すこともする。それだけに、対人関係に数々の軋轢あつれきを生んでいることはいうまでもない。

 物語の中盤では、クリスタと呼ばれる若き女性指揮者の自殺に関し、リディアはその両親からの告発を受ける。彼女は信頼に値する人物なのか? 当初はリディアを魅力的に思っていた我々としても、そのころになると信じるに足る人物なのか判断がつかなくなっていることだろう。


 本作には、どこか妄想的・陰謀論的な雰囲気が横溢おういつしている。忠実な助手・フランチェスカはスマホで誰かとしきりに連絡を取り合っているし、妻のシャロンもリディアと話した直後に誰かと目配せするような様子を見せる。リディアのいる部屋に誰かが忍び寄ってくる。真夜中に誰もさわっていないはずのメトロノームが鳴らされる。

 一体誰の仕業なのかを見るものに想像させる点で、本作はミステリー的であり、サイコスリラー的である。丹念に見ていけば真相にたどり着くこともあると思うが、一見しただけではおそらく謎は解けないだろう。

 そんなミステリー要素よりも興味を引くのが、リディアのキャラクターそのものである。タイトルにもなっているように、この作品の本質はリディアの人となりを描くことにあるのだ。混沌状態に陥ったとき、彼女がどう生きたか。そして彼女はどこに行くのか。その足跡を最後まで見つめ通してほしい。


 なお、本作はオーケストラ楽団を舞台にしているため、コンサートや練習のシーンが多々ある。バッハやマーラーをはじめ、フルトヴェングラー、カラヤンといった歴史的な指揮者への言及もあり、音楽家の華々しい世界をのぞくような楽しさがある。音楽ファンは必見である。

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