第三章 鴉は舞い降りた 8
黒檀と鉛丹の間に割り込むように落下してきたのは鴉族だった。
猿族の鉛丹には鴉族の見分けはほとんどつかないが、この鴉族がかなり年老いていることは分かった。
鴉族は鉛丹の刀を地面に叩きつける。
鉛丹は握っていられなかった。
刀を拾おうと思ったが、鴉族が翼を扇ぐと、突風が吹いて、鉛丹はたたらを踏んだ。
数歩後退した。
「助けに来たぞ。友よ」
「ネブロン様」
「心配は要らん。一族総出で黄都の消火活動に回っている。直に火は収まる」
ネブロン。ネブロンだって。勇者ネブロンか!?
まさかまだ生きていたとは!!
鴉族の寿命は四十年程だ。
彼が勇者として選ばれた時にはもう五歳だったはずだから、四五歳となり、鴉族としてはかなり長命だ。
どんなに調べても勇者のその後についての情報は無かったので、鴉族が勇者の死を隠しているのだとばかり思っていた。
「遅くなって済まなかった、友よ」
「むしろどうやって? まるでこうなることをご存じだったようですが」
「情報提供があったのだ。黒檀、君を害するためだけに黄都を炎で包もうとする企みがあることを。我々は急いだが、間に合わなかった。無念である」
情報が漏れていた? いや、それはそうだろう。露草が裏切っていたのだ。
当然そうなる。
だがなぜ鴉族に?
黄都の火付盗賊改方に通報すれば済んだ話のはずだ。
いや、違う。
露草の立場で考えてみろ。
あのイカれた女は何を望んでいる。
鉛丹は露草のことを良く知っている。
彼女が望むのは単なる殺害では無い。
殺し合いだ。相手に自分を殺せる機会も必ず与える。
あの女ならそうする。
あの場の黒檀を殺すのは彼女の本意では無かった。
彼女なりに状況を整えるためには、この火災も必要だったのだ。
だから火災を未然に防げるような情報提供は避けつつ、黒檀に恩を売るために鴉族に情報を流した。
つまりこれはすべて露草の計画通りだ。鉛丹に黒檀は殺せないと露草は判断したのだ。
ふざけるな!
お前の計画などすぐにおしまいだ。
俺が黒檀を殺してそれでしまいだ。
「こやつが元凶か?」
勇者の真っ黒い瞳が鉛丹を見据える。
かつては美しかった濡羽色の羽根は、艶を失い、かなりの数が抜け落ちている。
勇者が鉛丹や黒檀以上に老いているのは見るからに明らかだ。
だがその瞳には力があった。
持つ者の強さだ。
それは枯れるどころか、今なお強く、かつてより強くなって鉛丹を見据えている。
鉛丹は恐怖を覚えたが、そのような自分を叱責した。
相手は自分以上に老いさらばえた半死人だ。
よくもその翼で飛んで来られたものだ。
むしろこれは勇者を殺害する千載一遇の好機だと言える。
勇者を殺せれば、それを成し遂げた自分の価値が勇者以上である証明になる。
さあ、どうやって勇者を殺す?
まずは武器が必要だ。
「恐らくは」
「黒檀、友よ。君は彼を許すか?」
「いいえ、許すべき時と、そうでない時は弁えております。我欲のために無辜の民を犠牲にしたこの男は、法の裁きを待つまでもありませぬ」
「そうだな。さようなら、名も知らぬ悪党よ」
「お待ちください。ネブロン様。これは私の戦いです。私の手で決着を付けます」
黒檀がネブロンの前に出る。
まるでいつかの再演のようだった。
あの日、勇者の後ろに引いた少年は、いま勇者の前で刀を構えている。
つまりはようやく殺すに値する男になったというわけだ。
さっさと殺して、勇者を殺す。
それから露草を殺す。
ついでに月白も殺そう。
「お前は前座だ!」
鉛丹は懐から引き抜いた指で四文銭を弾く。
暗器として鍛えたこの技は、殺傷力こそ無いものの、意表を突くには十分だ。
鉛丹は黒檀が腕を上げて指弾から顔を守ろうとしたその隙をついて接近した。
刀の攻撃範囲より内側に潜り込む。
腕が上がったことによって腹への打撃が、通る!
だが最高の打撃にはならなかった。
黒檀が拳に向かって突っ込んできたからだ。
最も効果の高い打点より先に自らの体を当ててしまうことで、威力を吸収したのだ。両者の位置が入れ替わり、鉛丹の目の前に勇者がいた。
勇者は後ろに下がった。
黒檀に場を譲るために。
そして勇者の立っていた場所から鉛丹は刀を拾い上げた。
勇者は刀を持って下がることもできたはずだ。
だがそうしなかった。黒檀の意を汲んだのだ。
だがそれは間違いだ。
鉛丹は黒檀を殺すためにこの舞台を整えた。
そうだ。黒檀への殺意こそが元凶であるとお前たちは考えた。
だが違う。
初めから鉛丹は
優先順位など無い。
どちらも殺す。
だからどちらから殺しても良い!
勇者からは鉛丹に対する殺意が消えていた。
戦闘態勢になっていなかった。
この場で彼は傍観者のつもりでいた。故に――、
一拍の――、
斬れる!
――一閃!
人生で最善の、最適の、最高の一閃であった。
鉛丹の剣は限界に到達した。
まさしく歴代一位の技であったと言っていい。
だがそれは猿族の一位であった。
勇者は避けた。
予備動作無しの猿族最高の一閃を、悠々と、易々と、軽々と、あたかも児戯の縄でも跳ぶかのように、飛んだ。
そして一瞬止まった。
まるで反撃してもいいのかを迷ったかのように。
「友よ。どうしたものだろうか」
迷っていた。
その程度だと突きつけられ、鉛丹の人生すべてが燃え上がったかのように熱を持った。
この鴉族の存在は鉛丹には許容できない。
だがどうしたって敵わないことも分かった。
「ネブロン様、お下がりください!」
背後から黒檀の強烈な斬撃が来た。
鉛丹は咄嗟に刃で受け止めたが、黒檀の刃が左肩に食い込む。
黒檀は迷わず刀を引いた。
押し切るのではなく、手傷を負わせることを優先した。
鉛丹には止める術が無い。
鋭い痛みが左肩に走る。
右利きの鉛丹にとって刀を振る時、力を込めて握るのは左手だ。
つまりこの時点で鉛丹に勝ちの目は無くなった。
黒檀の連撃を鉛丹は致命傷になるのを防ぐので手一杯だ。
傷だらけになりながらも鉛丹は機会を待った。
黒檀の攻撃を食らいながら致命傷だけは受け流しつつ、返す左手で黒檀の目に握り込んだ血を投げつけた。
反撃のための小技ではなかった。
欲をかいていれば、それを見抜かれていただろう。
これは逃走のための一手だった。
血飛沫は黒檀の目を捕らえ、視界を奪った。
次の瞬間、鉛丹は刀を捨て、踵を返して逃げ出した。
今は生き延びる。
生き延びれば次がある。
経験を活かせる。
戦いに過程は問題ではない。
最終的に相手が死んで、自分が生きていれば勝ちなのだ。
だからここで退くのが正しい判断だ。
刀を捨てたのも、あの二人であれば丸腰になった背中に追撃はしてこないだろうという打算に基づいての判断だった。
燃えさかる黄都を走って、逃げて、走って、走り続けて、ようやく追ってこないことを確信して、鉛丹は歩き始めた。
血が足りない。
とにかく何処かで治療をして休まなければならない。
しかし町中に火を放たせたことで、何処が安全か判断がつかない。
ふらふらと鉛丹は見知った、自分の屋敷に辿り着いていた。
幸いと言っていいのかわからないが、そこは火災を免れていた。
火消が間に合ったのだろう。
取り壊しも避けられている。
霞む視界の中、ふらつきながら鉛丹は屋敷の中に入った。
「おかえりなさいませ」
そこには長春がいた。
血塗れの鉛丹を見ても眉の一つも動かさず、いつも通りだ。
鉛丹は思い出した。
「……そうだ、長春よ、傷の手当くらいは学んだだろう。俺を治療しろ」
「お断りさせていただきます」
血塗れの主人を前に、長春は即答した。
「なんだと」
「だって、手が血で汚れてしまいますでしょう?」
そうだ。長春はそういう女であった。
ではこの血塗れの手で縊り殺してくれよう。
そうすれば幾ばくかは気も晴れるであろう。
そう思って鉛丹が長春に近付こうとした時であった。
「ところで、人伝に聞いたのですけれど。貴方の手筈で、私は賭博を覚え、紅梅が霞に毒を盛ったと。真でありますか?」
今から殺される女だ。最後にどんな顔をするのか見てやろう。
そう思って鉛丹は正直に答えた。
「そうだ。俺の指示だ。それがどうした?」
その瞬間、濡れた布を勢いよく振って叩いたような音がした。
「あ……」
腹が、熱い。
体はどんどん冷たくなっているのに、突然腹に焼けた鉄を押しつけられたようだった。
痛みの元を見ると、服が破れ、血が溢れ出していた。
顔を上げると、長春がいつも通りの無表情で硝煙の上がる拳銃を鉛丹に向けていた。
「銃はいいですね。手が汚れませんから。もっと早く知りたかったです」
こ! の! 女! ァ!
腰から下に力が入らず、鉛丹はその場に膝を突いた。
だが血塗れの手は長春の頸を求めて伸ばされた。
その指の先で、長春は拳銃を折って薬莢を捨て、新しい弾丸を込めた。
「貴方は私の人生を滅茶苦茶にした」
肩へ。腕が落ちた。もう長春を縊り殺すことはできない。
再装填。
「貴方は私の娘に毒を盛った」
右の胸へ。肺に穴が空いた。ヒューヒューと音がした。
再装填。
「貴方は私の夫に罪を犯させた」
左大腿部へ。動脈が傷ついて血が溢れ出した。致命傷だった。
再装填。
「三人分の贖いを一つの命で済ませてあげるのだから感謝なさい」
そして銃口は真っすぐ鉛丹の顔に向けられた。
鉛丹が人生最後に見たのは暗い穴の奥にある自分を殺す鉛の塊だった。
☆★☆★☆
「追わなくていいのか?」
鉛丹の背中を見送った後、ふわりと黒檀の隣に降り立った勇者ネブロンが問う。
「今は捨て置きます。黄都はお任せしても?」
黒檀は明らかに疲労を滲ませつつ懐から取り出した手ぬぐいで顔に着いた血を拭き取った。
「構わぬ。しかし、友よ。我は後悔している。このような結果になるとは思わなんだのだ」
「私は感謝しております。ネブロン様。私は家族を得たのです」
「しかしアレは……」
「この手ぬぐいは――」
鉛丹が今まさに顔を拭うために使った手ぬぐいを勇者ネブロンに見せた。
「あの子が洗濯してくれたのです」
「そうか。では友よ。我が認めよう。君の娘は九番目だ」
「ありがとうございます。心から感謝を」
手ぬぐいを懐に仕舞った黒檀は、自らの体を確かめるために幾つかの動きを試してみる。
万全とは行かないが、失った部位や運動機能は無いようだ。
「では行って参ります」
「君が娘といる限り、これが生涯の別れとなろう。友よ。君と出会えてよかった。あの日、我を信じてくれてありがとう」
黒檀が皺くちゃの顔で笑った。
ネブロンはかつての少年の笑顔を思い出した。
「当たり前だろ。君は僕の勇者なんだ。離れていても気持ちは一緒だ。ネブロン。あの日、僕を選んでくれてありがとう」
翼と拳が合わせられ、二人の男はお互いに背を向ける。
二人は二度と向かい合う日が来ないことを知っていた。
だが同じものを見ることはできる。
九番目のいる世界を。
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