第三章 鴉は舞い降りた 7
露草の裏切りによって鉛丹の計画は大きく狂った。
黒檀一人が自由に動けるというのなら、話はまったく変わってくる。
黒檀にとってこれはもう防衛戦ではない。
相手の陣地深くで生き延びて脱出することにかけて、黒檀より長けている者は世界を探しても数人しかいないはずだ。
それは彼らが、勇者一行が、ずっと行い続けてきた行為なのだから。
黒檀が移動を開始する。
櫓から見える範囲からいなくなる可能性が高くなった。
鉛丹も櫓を降りて追わなければならない。
これまで言葉通り高みの見物を決め込んでいたわけだが、ここから先は当事者だ。
黒檀を追うと、火災現場の傍を通ることになる。
バチバチと木材の爆ぜる音に、焦げた臭いが鼻を突く。
空気が熱されていて、熱いというよりは痛みを感じる。
また何処かで家屋が倒れ、瓦がガラガラと音を立てて落ちて割れた。
この近辺に火消はいない。
そうなるように鉛丹が計画を進めたのだ。
黒檀を多くの刺客が襲い激しい争いになったため、一般人の姿はほとんど見えない。あるのは地面に転がっている死体ばかりだ。
いや、案外生きているヤツもいる。黒檀は状況が許せば、無力化に留めているようだ。手足の腱を切り飛ばして放置されている連中の嘆き声が、怨嗟の声がまるで歌劇のように舞台を盛り上げている。
そしてついに黒檀が目視できるまでに接近した。
鉛丹は露草の裏切りで自分が激高していることを自覚していたので、軽挙には走らなかった。
今すぐ斬りかかりたい気持ちを抑えて、見に徹する。
黒檀に気付けたのも、激しい戦闘音が聞こえてきたからだ。
とはいっても、聞こえてくるのは破落戸共の怒りの声、悲鳴、そして嘆きの声。
それから人の体が切られて地面に落ちる音と、それに付随する刀や銃が地面に落ちて鳴る音だ。
黒檀自身は一切音を出さない。
さらに鋭さを増したその剣戟は、無駄を極限まで削ぎ落とした芸術に昇華されている。
おそらくこれを見た百人中九十九人は地味だと思うだろう。
最小限の動きで切り、最小限の傷で無力化する。
しかも速くない。
すぅと霧が上がってくる時のように、速度を感じさせずに足下に迫っているような、そのような速さだ。
力もほとんど使っていないようだ。
月白の剣術が拍を外すものであったのは当然黒檀の教えなのだろうから、黒檀も同じことができるに違いないが、まだ使ってはいない。
どちらかといえば拍子と裏拍子を切り替えながら戦っているような、心地よさを感じる戦い方だ。
見た目ではわからないが、疲労は蓄積しているはずだ。
無理して平気な顔をしているだけだ。
必ずどこかで崩れる。
だがそれはいつだ?
もう五百は倒れた。
きちんと数えたわけではないが、かなり近いと確信している。
しかしそれは鉛丹が確認できた数だ。
実際にはずっと多いはずだ。
七百?
八百?
月白の倒した分もあるとはいっても、本当に一人で千人を斬るつもりか?
黒檀が何をしているのかは大体想像が付く。
月白と露草が黄都を脱出できるくらいの時間は最低限稼ぐつもりなのだ。
だから敵の多くやってくる方に向かって進んでいる。
死体より負傷者を増やしているのも、その一環なのかも知れない。
味方の死体は最悪放置できるが、味方の負傷者は放置できない。
人手を、時間を割かれる。
そして凄まじいことに黒檀はほとんど返り血を浴びていない。
ここまでずっと返り血を浴びないように斬っている。
血は衣服に付くと濡れて重くなり動きにくくなる。
一飛沫くらいならなんてことはないが、五百人も斬れば話は別だ。
普通に戦っていればもうまともに動けないくらいに返り血を浴びているだろう。
刀も奪いながら戦っている。
これが敵地で戦い続けるための技術か。
周囲の建物に火の手が回る中を、黒檀は斬って斬って斬って斬りまくっていた。
月白という枷から解き放たれたこの男は、狼族に、鴉族に迫る何かだ。
だが猿族だ。
狼族でも鴉族でもない。
種族差というものは歴然と存在する。超えられない壁だ。
だから、ここ、だ。
鉛丹は武器には手を掛けずに黒檀の前に飛びだした。
両手を上げ、敵意の無いことを示す。
鉛丹は一度も黒檀の前に姿を見せていない。
あの幼い日の一度を除いて。
今ではもうお互いに老いた。
あの頃の面影はまるでない。
黒檀は鉛丹があの時の男だとは思わないだろう。
「あんた、黒檀さんだろ。俺は伝言役だ。露草って猫族の姉ちゃんから、無事に黄都を出たとあんたに伝えてくれと頼まれたんだ」
「そうか――」
「よく分からんが、あんたが斬ったのか? こんなに? 何モンだよ」
「――」
黒檀は返事をせずに息を吐いた。
長く、深く、息を吐いた。
その瞬間、鉛丹は居合で黒檀の首を斬りつける。
黒檀は警戒していたのだろう。
咄嗟に刀で受けた。が、鉛丹の刃はその首筋、表皮一枚に届いた。
やはり限界だった。
そして鉛丹の嘘によって張り詰めた緊張の糸が切れた。
今の黒檀はこれまでに蓄積した疲労が一気に襲いかかっている状態だ。
もうさっきまでのようには戦えない。
「なんてな。まあ、実際そろそろ脱出してる頃合いじゃないか?」
「何者だ?」
「お前になるはずだった男だよ」
この男が勇者に選ばれなかったら、鉛丹が黒檀の名を授かっているはずだった。
そういう意味で鉛丹は自分の言葉を真実、信じていた。
二人は切り結び合う。
剣風が吹き荒れる。
ここまでして実力は伯仲。
だが黒檀は限界を迎えており、鉛丹はここから調子が上がってくるはずだ。
「お前が黒幕か」
「残念ながら、悲しい中間管理職でね。“宝玉”を手に入れるように命じられている」
「“宝玉”はもう無い。お前のしていることは無駄だ」
「意味はあるんだよ。阿呆」
斬って、受けて、振り払って、斬って、受ける。
双方の技術が高いため、一種の演舞のような形になった。
まるであらかじめ決められた型を進めているような、そのような立ち合いが続く。
だが徐々に形勢は鉛丹に傾いていった。
黒檀の手は震えており、もう刀を握るのも限界という頃合いだ。
「遺言を訊こうか」
「この火災もお前の仕業か」
「最後の言葉がそれか。断末魔はみっともないのを期待するぞ」
一拍の一閃。
鉛丹の奥義とも言うべき、全身の拍を合わせて行う一閃は、黒檀の刀を弾き飛ばした。
一閃は止められたが、もはや黒檀に次の攻撃を防ぐ手段は無い。
「ではさようなら。過去の亡霊」
鉛丹は黒檀の胸を貫くために刀を引いた。
末期の叫びを聞くために、致命傷の後、一瞬だけ生きていてもらわなければならない。
そして鉛丹が刀を黒檀に胸に突き入れようとした時、その刀を踏み折る様に天空から、
鴉が舞い降りた。
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