第三章 鴉は舞い降りた 5

 今宵の狂想曲はまだ序章の序盤。音が鳴り始めたところだ。


 鉛丹はすべての手駒に火を放つ場所と時間について念を入れて伝えてあった。

 黄都中の木造家屋が密集した地域すべてに火を放つ。

 彼らはそれがほぼ一斉に行われると知らない。

 町火消なり、定火消がすぐに事態を収めるだろうと高を括っている。


 一か所、二か所くらいならそういうこともあるだろう。

 では十か所同時となればどうか?


 黄都の消防組織はこの十年で大きく縮小された。

 蜥蜴族から持ち込まれた混凝土が、戦後の立て直しに多用され、建物の防火性能が増したからだ。

 また防火用に町を区切る壁が建設され、以前のように失火からの大災害は少なくなったし、起きたとしても政治家たちが住まうような高級住宅地には及ばなくなった。


 防火さえきちんとできていれば、炎ほど便利な物はない。

 料理に、灯りに、暖を取るために。


 煌土国は戦後、民主化に伴い法律が整えられ、失火の罪は以前よりも格段に軽くなった。放火についても、以前よりも軽くなった。終身刑以上とはされたため、軽い気持ちで犯せる犯罪ではないが、失火ならばそうでもない。

 黄都の民が生活に火を使う心理的防壁は非常に低くなった。

 そのため火災自体は度々起きており、定火消ともなれば練度はかなり高い。


 十か所なら鎮火されるかも知れない。十か所なら。


 だが鉛丹の手駒は黄都に百はいる。

 そのすべてが鉛丹の望んだように火を放ったとは限らないが、十で収まることは決してない。

 鉛丹に恩を感じている者、鉛丹に恨みを抱いている者、彼らはその感情を向けるべき相手が鉛丹だとは知らないが、強い感情を身に宿している。

 強すぎて、それ以外が見えなくなるほどに。

 だからちょいと方向性を示してやれば、彼らは簡単に道を踏み外す。

 赤子の首を捻るように簡単だ。


 火消が来ない地域では人々が自分たちで消火活動を始めた。

 黒檀の住まう地域への放火は他よりも少し遅れて行われた。

 火消たちはすでに別の火災で出払っており、この火災へは確実に誰も駆けつけられない。


 そして鉛丹はその町が見下ろせる櫓にいた。


 黒檀と月白も長屋から起き出してきて、消火活動に加わるようだ。

 取るもの取らずと言った様子で、武器は何も持っていない。

 二人は水の張った桶を手渡しで運ぶ係に加わったようだった。

 手際よく水が運ばれていく。


「結構、結構、焼け石に水で大変よろしい」


 木造建造物が密集する黄都で火災を消すには、延焼を防ぐために火事の起きている周辺の建物を壊して撤去してしまうのが基本だ。

 火消がいれば的確な指示の元、それを実行できたかも知れないが、ここに火消はいなかった。

 また黒檀たち一般民衆がしている火に水を掛ける行為は純粋に水量が足りない。

 水を掛けるなら燃えている建物の周囲だ。

 火の粉による延焼を防げる可能性がある。


 つまりこの地域で火災が収まることはない。

 いずれ辺り一帯火の海だ。


「そろそろか?」


 もちろん鉛丹が介入するにはまだ早い。

 今の黒檀は武器を持っていないが、たとえば黒檀が鉛丹をいなしている間に月白が武器を取りに行くかもしれない。

 黒檀は過去に黄都の組織の構成員を二人、無手で撃退しており、武器が無くとも戦えると考えると、時間稼ぎに徹されると殺しきれないのは容易に想像できる。

 そして武器を手にした黒檀と月白、二人を同時に相手できるとはさすがに鉛丹も思っていない。


 だがそれを知らない破落戸もいる。

 沢山いる。


 黄都の各組織にはこう伝えた。

 黒檀は火災が起きればかならず消火や救助に現れる、と。


 そのような場所に刀を持ってこないことは明白だ。

 おっと、もう一つ伝えていることがあった。


 誰を人質に取っても黒檀には一定の効果がある、だ。


「黒檀ってぇヤツはどいつだ! さっさと出てこねーと、このジジイの首を落とす!」


 実際に鉛丹のところにまで声が届いたわけではないが、恐らくはそのようなところだろう。

 さすがの鉛丹もこれには苦笑するしかない。

 火事場に乱入してきた破落戸は、よりにもよって黒檀に後ろから組み付き、その首に刃を当てるように人質にしたからだ。


 さすがの黒檀も火災を前に油断していたと見える。

 その破落戸が血迷っていれば黒檀は死んでいたことになる。


「私が黒檀だ」


「は――?」


 あまりにもわかりやすくて、声が聞こえてくるようだ。


 黒檀は自分を人質に取った破落戸の足を踏みつけた。

 踏みつけたなんて鋭さではない。踏み抜いたというのが正しい。

 痛みで怯ませるとかそういう次元ではなく、普通に骨が折れていそうだ。


 黒檀は勢いよく破落戸の腕に沿って、自らの腕を滑らせた。

 刀の鍔に手を当てて、摺り取るように刀を奪い取る。

 その動きのまま腕を振り上げ、振り返りつつ、振り下ろした。


 最善最短の動きとは言えないが、その場で考え、思いつき、実行し、成功したという意味では正しい。

 結局のところ、戦闘行動など最終的に自分が無傷で、相手が倒れていれば良くて、その過程に最善も最短も無いのだ。


 斬られて倒れ伏した破落戸の仲間が黒檀を取り囲んだ。

 鉛丹には月白がその場から離れるのが見えた。


 連中、人質が有効だと伝えてあるのに、仲間を一人斬られた程度でもう頭に血が上ってすべて忘れてしまったようだ。

 そもそも連中は宝玉の在処を知らなければならないのに。


「下の下だな」


 黄都の裏組織はそれぞれが争い合っている。そのため碧浜の組織のような安定した地盤が無い。その影響もあり引き入れる人員は多ければ多いほど良いと思っている節がある。

 実際には今回のような下の下が組織の存続する危うくしかねないというのに。


 火災を消すために集まっていた群衆が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う中、黒檀とそれを囲む破落戸たちの戦闘が始まる。

 考えてみれば黒檀の正面戦闘を見るのは始めてだ。


 枯草は一刀で両断されたし、香染とは戦ったというほどのことでもなかった。


 背後から斬りかかってきた破落戸の振り下ろしを、黒檀は振り返りもせずに躱す。

 足音を聞いたのだろうが、火災現場でそれができるのは相当に耳が良い。

 そして体を入れ替えるようにしながら、その破落戸の首を切り落とした。

 まるで介錯のように綺麗に首が落ちる。


 黒檀が何かを言い、破落戸共が激高した。

 一斉に黒檀に跳びかかる。


 鉛丹が思うに、周りの群衆を逃がすため自分に注意を引きつけるのが目的で挑発的なことを言ったのだろう。

 もしそうだとすれば、結果は上々であった。


 黒檀の次の一手は鉛丹の考えとは違った。

 鉛丹なら後ろの敵を先に片付ける。

 一斉に掛かってくるとはいっても、大抵の場合は背後の敵のほうが一歩早い。

 そこで後ろに下がりつつ、各個撃破に持ち込むのだ。


 だが黒檀はそのまったく逆を行った。

 少し前に出た。

 一斉攻撃を、本当の一斉攻撃にするように調整したのだ。


 そして加速した。

 正面の敵の横をすり抜ける。


 なまじ最初の一歩がゆっくりだったために、速度差で破落戸共は反応できない。

 振り下ろす刀を止められなかった。

 連中は黒檀しか見えていなかったので、味方の位置にまでは気を配っていなかったのだ。

 彼らは接近しすぎていた。

 お互いがお互いに向けて刀を振り下ろした。


 刀を止めようとはしたため、致命傷を負った者はいなかったが、手負いになった連中は明らかに気勢を減じた。

 怒りを痛みが塗りつぶしたのだ。


 黒檀が勇者の伴だったことを思い出したのかもしれない。

 破落戸共は逃走を選択した。

 真っすぐにこの場から離れようとする。


 その先に一人の娘がいた。

 やや身に余る程の長さの打刀を腰に携えた白き少女だ。


 破落戸共が何かを叫びながら逃走のために少女に向かっていく。

 するりと両者はすれ違った。

 まるで人と幽霊がすれ違うかの如く、まるで目の錯覚であったかのように、両者の位置は入れ替わった。


「え――」


 鉛丹の口から思わず声が漏れた。

 破落戸共も同じだった。


 破落戸共は何が起きたのかを確かめるために振り返ったが、月白は何事も無かったかのように黒檀に歩み寄った。

 そこに黒檀がいることを思い出した破落戸共は逃走を再開した。

 違和感の正体は突き止められなかった。


「ちょっとばかり嫌な感じだな」


 これから黒檀を襲う破落戸の数は鉛丹の駒の数を遙かに上回るはずだ。

 百や二百程度ではない。

 だがこの二人が二人とも一騎当千の強者だとすれば、二千でも足りない。

 どこか黒檀が疲弊してきたところで横からかっ攫うつもりだったが、もしかすると黄都の組織がすべて壊滅するかもしれない。


 それもいい。

 それでいい。


 鉛丹に千の敵を倒す強さは無いが、千の敵を倒した男を殺すことはできるかもしれない。

 強さとは結局のところ手段を問わず最後に立っていることなのだ。


 この答えを突きつけるべく、鉛丹はただ機会を待つ。


 最後に立っているのは己だと信じて。

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