第三章 鴉は舞い降りた 3
鉛丹は処刑を免れた。
勇者やあの少年からの助命嘆願があったことに加え、勇者が煌土国で新しい仲間を迎え入れた記念の日を血で染めたくないと黒将軍からも命令があったという。
命は救われた。
しかし罪人であることは覆しようがない。鉛丹の腕にはその証である墨が入れられ、半年間の服役が命じられた。
それは熟成の半年であった。
燃えさかる炎のようであった鉛丹の怒りは、この半年を掛けて粘性の泥が如き呪いへと変化した。
憎い。
勇者が、あのガキが、黒将軍が、侍が、民衆が、この国が憎くて堪らない。
いっそ魔族がすべてをぶち壊して、自分以外のすべてをみなごろしにしてくれればいいのにと鉛丹は願った。
だが現実には勇者に鼓舞された各国によって魔族への反攻戦が始まろうとしていた。
熱狂は囚人たちにも伝染した。人類の領域がひとつ解放されたという知らせが入る度に、囚人たちは犯罪者であるのに歓喜した。
鉛丹はまったく喜べなかった。
それは勇者とあのガキが順調に仕事をこなしている証左に他ならなかったからだ。
そうだ。滅茶苦茶にしてやろう。
ここから出られたら、実家の力と金を使ってあいつらの足を引っ張ってやる。
そして引き釣り込んでやる。この憎しみの泥沼に。
それだけを願って鉛丹は刑期を終えた。
出所の迎えには誰も来なかった。
囚人に与えられる服のまま、鉛丹は別邸へと向かった。
帰り道では人々が鉛丹を見ては声を潜め、道を譲った。
腕に墨の入った少年に関わり合いになりたくないという思いが透けて見えた。
だが構わなかった。
どうせ連中は鉛丹の企みによって滅茶苦茶にされるのだ。
「帰ったぞ!」
別邸の前で声を張り上げたが、誰も迎えには出てこない。
仕方なく鉛丹は中に入ろうとしたが、すると中から見知らぬ使用人と思しき猿族の男が出てきて言った。
「どうぞ、お引き取りください。ここはもう私の主人の家でございます」
「聞いてないぞ」
「貴方の家から連絡は戴いております。どうぞ本邸へお帰りください」
「オレには何の文もなかったのにか!」
鉛丹は声を張り上げたが、その使用人に一切引く様子はなかった。
「そちらの事情は存じ上げております。少しの想像力があればどうしてこうなったのかはおわかりでしょうに」
哀れんだような物言いに鉛丹は激高したが、使用人は頑としてその場を譲らなかった。もしも鉛丹の腰に刀があれば間違いなく抜いていただろう。
運がよかった。使用人も。鉛丹も。
地面に唾を吐いて、鉛丹は場所だけは知っている本邸へと向かった。
そちらでは歓迎とは行かなかったがとりあえず迎えられ、一室へと案内された。
質素な応接間のような洋風の部屋だ。
調度品の類いがまったく無い。
椅子や机は品こそ良いが、それほど値の張る物ではないようだ。
息子を迎え入れるような部屋ではない。
まるでどうでもよい客の対応をするための部屋のようだった。
やがて用心棒を二人伴った父が部屋に入ってきた。
父の顔なら知っている。年に一度くらいは別邸に顔を出すことがあったからだ。
「何故帰ってきた」
父は開口一番そう言った。
「家に帰ってくるのに理由がいるのか?」
「普通の子であればいらぬ。だがお前は黒将軍の前で刀を抜いたのだ。この半年の間にそれがどういう結果を生むか一度も考えなかったのか? 一度も?」
何やら訳の分からぬことを父は言っているが、そのようなことはどうでもよかった。鉛丹にはまずやるべきことがあったのだ。
「そんなことより父上、金がいるんだ。あいつらに一泡吹かせるための計画があるのだ」
「そんなことより?」
鉛丹の父親は深くため息を吐いた。そこで鉛丹は気付く。
父はこれほど老いていただろうか?
以前は若くないが活力はあった。だが今の父はまるで枯れた木のようだ。
「あいつらというのは誰だ?」
訊ねられ、鉛丹は父の見てくれなどどうでもいいことだと放り捨てた。
「決まっている。勇者とあのガキだ。父上も知っているだろ? あいつらがオレを嵌めやがったんだ」
「なるほど。どうやらお前は思慮が足りないだけでなく、愚か者で、しかも阿呆だ」
さっきから父の言うことが鉛丹には理解できない。
思慮が足りず、愚かで、阿呆だと。この鉛丹が?
「それが子に言うことか!?」
「そうだな。私は自分を恥じるよ。どうせ家を継ぐこともできぬ妾の子だ。せめて好きに生きさせてやろうと思った結果がこれだ」
「妾の子? 家を継げない?」
鉛丹は呆然と言葉を繰り返すことしか出来ない。
そんなの聞いていない。そんなの誰も教えてはくれなかった。
「お前のしでかしに対する当家への処分は、勇者様と黒檀様の申し入れにより無しとされた。だがそんな商家と取引をしたいと思う客が、店が、卸がいると思うか? ごみのような取引を掻き集めて家を維持しているが、売れる物は全部売った。もう金貸しすら見向きもせん。この家も抵当に入っている。わずか半年でこれだ。だからお前の出所を待っていた」
待っていたと言われ、鉛丹はようやく気持ちが晴れたような気分になった。
「そうだ。父上、オレなら家を立て直せる!」
鉛丹は自分のことを特別だと思っていた。
武力も、知力も、そして人間として位が高い存在だと認識していた。
自分が命ずれば、誰でも従い、思い通りになると思っていた。
だが父の言葉はそういう意味ではなかった。
「鉛丹。お前を勘当し、当家とは一切関わりの無いものとする。二度とこの家の敷居を跨げると思うな」
「え……、あ、ならせめて金を。支度金をくれよ。無一文で放り出されたら野垂れ死ぬだろ」
鉛丹の父は懐から一枚の貨幣を取り出し、鉛丹へと放った。
鉛丹が受け取ってそれを見ると、四文銭であった。
価値の程は鉛丹には判断が付かなかった。
生まれてこの方、金を自分で使ったことなどないからだ。
だがそれでも少ないだろうことはわかった。
金と言えば金で出来た小判か大判で、それがいっぱいに貰えるものだと思っていたのだ。
「受け取ったな。これで取引は成立した。ではさようなら。見知らぬ子」
「父上ッ!」
鉛丹は激高して躍りかかろうとしたが、用心棒がそれを制した。
肩を押さえつけられ、鉛丹は身動きができなくなる。
そのまま腕を決められて、歩かされ、本邸から叩き出された。
鉛丹は飛び起きて、本邸に戻ろうとしたが、用心棒たちが刀に手を掛けて威圧してくる。さすがの鉛丹も無手ではどうにもならない。
どうにもならない悔しさだけを胸に、鉛丹はあてもなくその場を離れるしかなかった。
腹が減っていた。
大通りには蕎麦の屋台があって、鉛丹は匂いに釣られてその一つに寄っていった。
「兄ちゃん、俺は墨入りでも別にどうってこたぁないが、金はあるんだろうな。金は」
鉛丹は懐から四文銭を取り出して見せた。
「そんだけか。まあいいか。量は減らすぜ。寄越しな」
半ば強奪のように金を奪われ、手際よくかけそばが提供される。
鉛丹は無心で蕎麦を啜った。
ただのかけそばだったが、牢獄の飯よりは幾分かマシだった。つゆまですべて飲み干して、器を置く。
「行くあてはあるのか?」
「いや……」
「あっちの通りで連合軍が募集してるから行ってみたらどうだ? 今は一人でも兵隊が欲しいんだとよ」
「そうだな。それもいいかもな」
立ち上がり、鉛丹は歩き出した。
従軍すれば勇者に近い場所に行けるかもしれない。場合によっては殺せるかも知れない。
だが向かっているうちにそれがあまりにも細い糸であることに気が付いた。
しかもそれまでの間、連合軍の一員として従軍しなければならない。
鉛丹がやりたいのはそれではない。
自由にできる力がいる。
暴力と、資金力の両方だ。
しかしそれを獲得するには黄都ではマズい。鉛丹は黒将軍の前で刀を抜いた男だ。せめてほとぼりが冷めるまでは別の地にいなくてはならない。そしてそこで力を蓄えて凱旋するのだ。
黄都を火の海に沈めるのだ。
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