第二章 神は救わない 8
悪党たちの中には予備的に黄都に残った者もいる。
どう足掻いても香染がしたことは表に出る。
金を得た後に逃げ切る予定だったが、金を得る算段もなくなってしまった。
残されたのは借金と、火付盗賊改方の職位を犯罪に利用した罪だけだ。
つまり死罪だ。
「こうなったら、いっそのこと」
「馬鹿もんっ!」
黒檀の怒声が山腹に響き渡った。
自らの死を宣言された時も、月白に危害を加えると宣言された時も、ほとんど感情を露わにすることのなかった黒檀が、いま香染の自らの死を望む言葉に激怒している。
何故だろうか?
黒檀にとって香染は敵である。
敵が自ら死を選ぶのだから、送るべきは喝采だ。
「お前さんは親であろう。親というのは子に大人の姿を見せなければならん。子の手を引くというのはそういうことだ。正しく生きる姿を見せよ。罪を犯したのならば、償う姿を見せよ。そうやって精一杯生きて、その後に死を教え、親は役目を終えるのだ」
「私のしたことは死罪に相当する。償いは死になる」
「法を守れとは言っておらんぞ」
法の番人たる火付盗賊改方としては聞き捨てならない意見だった。
「法は守らなければならない。法を守ることによって結果的に多くの人が救われるからだ」
「法は法だ。人の制定したものだ。過ちも、過不足もある。守るべきなのは確かだが、自分や娘の命と比べられるものでもあるまい。真に守るべきは、自分の、そして周りの人々の善意だよ。そのためにであれば法とでも戦うべきだ。娘のためとあれば尚のこと。そもそもお前さんのそれは逃げだ。それは子に見せる親の姿かね?」
「だがしかし、私は、私は……」
「お前さんはすでに罪を犯したではないか。今更何を迷うことがある。お前さんの本当の望みを言うてみい」
「私は――」
一度喉元まで出かかった言葉がそこで引っかかった。
言えない。
言えるわけがない。
その望みを叶えるために香染は黒檀たちを殺害するつもりだったのだ。
恨まれ、詰られ、殺されるが道理。
間違っても彼らに救われるなどあってはならない。
そして自らが発しかけていた言葉を顧みて、香染は自分自身の欲深さに絶望した。
霞さえ助かれば、他には何もいらないと思っていた。
自分の命さえいらないという前提があるから、他者の死を許容できていたのだ。
俺も死ぬから許してくれ。
そのような手前勝手な感情だ。
だが香染の本質はもっともっと欲深く、醜悪で、邪悪だった。
それでも願うことは止められない。
それが叶わぬとあらためて知り、涙が零れ落ちた。
「私はあの子が元気になるのを見たい。あの子が大人になるまで成長するのを見たい。あの子が幸せになるのを見たい。生きて、この目で見たい」
涙は堪えられなかった。
泣きながら命乞いをしている己を恥じたが、本当はそうだったのだ。
香染が真に欲しいのは健康な霞と共に生き、彼女が幸せになれるように見守っていくことだった。
些細な、普通の人生。
笑うなら笑え。
香染と霞が手に入れられないものなのだ。
もしも霞が健康でありさえすれば叶えられた夢であろうか。
香染が火付盗賊改方でなければ、このような結末を迎えずに済んだであろうか。
だがそれらは夢物語だ。
現実に霞は病気で死にかかっており、香染は火付盗賊改方にならなければ破落戸であったかもしれない。
救いはどこにもない。
「霞を連れて逃げ、看取り、償って生きろ、というのか?」
「そうだ。娘が死ぬのであればお前さんは尚のこと生きねばならん。その娘を知っている者がこの世に誰一人いなくなることほど悲しいことはあるまい」
「黒檀、会ってみたい」
唐突に月白が言った。
会いたい?
霞に?
なぜ?
月白は目線を香染に向けたままだ。
あの虚ろな瞳で香染を見下ろし、いつでも突き刺せる姿勢だ。
「月白はこう言っておるのだ。霞という娘を覚えている者がいなくなるのであれば、自分が覚えておく、と」
「何故そんなに? 私は……」
「お前さんは月白をわずかであっても気に掛けた。それだけのことよ。たったそれだけの親切心が気まぐれを生むこともあるのだ」
「感謝を」
「受け取ろう」
香染は刀から手を放し、黒檀に向けて伸ばした。
黒檀は血の付いた刃を一振りすると、それを鞘に納め、香染の手を取って起き上がらせた。
「……他の連中はどうなりますか?」
「捨て置け。私にとっては縁も所縁も無い者共だ。止めを刺して回らないのは情けと思え」
「これ以上は過剰防衛になりかねないですね。行きましょうか。到着は夜半になりそうですが。明日にしますか?」
「いや、お前さんらは一刻でも早く黄都を出るべきだ。時間が惜しい」
「そうですね……」
賽が投げられた今、元の生活には戻れない。
三人は陽が沈む前に山を下り、黄都の明かりを頼りに夜道を進んだ。
やがて市街地に入り、夜を告げる鐘が鳴ってから香染は自分の住む長屋に戻ってきた。
「少しお待ちください」
中の様子を確認するため、香染はそっと戸を開ける。
暗闇の中、手探りで摺付木を使い、提灯に火を灯した。
霞は眠っているようだったが、一方で呼吸は苦しそうだ。時折咳もしている。だが今夜はまだマシなほうだ。
一安心するが、一緒にいるかと思っていた紅梅がいない。
説明が面倒なのでいないほうが楽ではあったが、奇妙でもあった。
「大丈夫です。お入りください」
「むぅ」
部屋に入ってきた黒檀は霞の姿を見るなり顔を顰めた。
おそらくは彼が想像していたよりずっと霞の容態が悪かったのだろう。
「少し診てもいいか?」
「医術の心得が? しかし無駄ですよ。どの医者も匙を投げたのです」
「良いか悪いかを聞いている」
「お願いします」
黒檀は霞のそばに膝を突くと、瞼を押し上げたり、口を開いてみたりして、一通り医者がやりそうなことをやってみせる。
手際からして、この手の診察には慣れているのだろう。
「月白。露草さんを呼んできておくれ。急ぎだ」
「分かった」
月白が駆け足で部屋を出ていく。その後ろ姿に迷いはない。
「露草さんに関係が?」
「私よりは彼女のほうが専門だな」
「ということは薬ですか?」
「毒だ」
「は?」
その言葉は簡単には飲み込めなかった。
意味を理解してもわからない。
「町医者が分からんのも仕方がない。これは暗殺に使われる毒の症状に良く似ておる」
「そんな、まさか、なぜ霞が?」
「分からん。食事や水に毒を混ぜられるような者に心当たりは?」
「医者は何度も変えましたし、その間もずっとそばにいた者は……」
一人いる。
その考えに至った時、香染の背筋が凍り付いたようだった。
まさかとは思うが、三年前から突然始まった霞の症状が毒だというのなら。食事だろうが、水だろうが、混ぜられる者が一人いる。
香染は提灯を引っ掴んで部屋を飛び出し、長屋の二件隣の部屋に飛び込んだ。
「紅梅!」
部屋はもぬけの殻だった。
手荷物さえ残されていない。まるで初めから誰も住んでいなかったかのようですらあった。
つまりは彼女だったのだ。
だとすればいつから?
紅梅がこの長屋に住み着いたのは五年以上前であった。
そう言い切れるのは、その頃はまだ香染の妻がおり、二人の間に交流があることを香染は知っていたからだ。
紅梅の行いは彼女が姿を晦ませたことでほぼ確定している。
ではその理由は?
そしてなぜ三年前から突然?
混乱しながら自分の部屋に戻った香染を黒檀が待っていた。
「犯人はおらんかったか。荷物は?」
「何も……」
「そうか、毒の使い手ならば解毒薬も持っておったはずだが……。応急処置をするよりも露草さんを待つ方が良いな」
「水を飲ませて毒を薄めるとかはできないのですか?」
「水を飲むことで毒が回るかもしれん。私は症状こそ知っておっても対処法までは知らんのだ。せめて背中でも擦ってやれ。今できることはそれくらいだ」
幸いにして、月白が露草を連れて現れるまでそれほど時間は掛からなかった。露草は寝間着姿で、髪もボサボサだったが、背嚢を持って現れた。
「緊急だと聞きました。患者は?」
「そこの娘だ。私の知っている暗殺用の毒での症状に似ておる。瞳孔は開いており、口内に発疹。肺の音に異常がある」
「わかりました。失礼します」
そう言って露草は黒檀のしたことを器具を使いながらほぼ繰り返した。
「患者の食生活について教えてください」
露草はその他にもいろいろと香染を質問攻めにした後、お湯を用意するように指示すると、自らは調合器具を取り出し、何種類かの材料を混ぜ合わせ始めた。
「咳を止め、排尿を促します。今はまだ血行を良くするべきではありません。薬はお湯に通して上げます。長く浸けすぎると薬効が強くなりすぎます。加減を必ず覚えてください。咳は本来止めるべきではありませんが、今は体力の回復を優先します。合併症の危険がありますので、患者に触れるときは必ず手を洗ってからにしてください。体力が回復してきたら、薬をこちらに変えてください。咳が出るようになるかも知れませんが、あんまりにも酷い場合以外は咳をさせてください。毒を盛った犯人は分かっていますか?」
「霞の身の回りを任せていた紅梅という女が姿を晦ませました。おそらくは。だが荷物も何も無く」
「ではこれ以上毒を盛られる心配は無いということですね」
「それで、霞は助かるんですか?」
声は震えた。
答えを聞くのが怖い。
露草はその化粧もしていない髪の乱れた顔を香染に向けた。
「薬さえちゃんと飲ませてあげれば大丈夫です。よく頑張りましたね。霞ちゃんも、お父さんも。必ず元気になりますよ」
「あ、ああ、ああああ……」
嗚咽では収まらなかった。香染は声を上げて泣いた。
男としての威厳も何も無かったが、父としての喜びがすべてに勝っていた。
「霞、元気になるの?」
月白が言った。
「ええ、そうよ」
「お友だちになれるかな?」
「ええ、きっとね」
その未来が来ないことを香染は知っている。
この後、香染は露草に事情を話し、薬の調合についてを教えてもらわなければならない。一刻も早く黄都を発たなければならないからだ。今にも火付盗賊改方が香染を確保に動いているかもしれない。
故郷を捨て、国を捨て、何処か遠くへ行かなければならない。
だがその旅路は娘と一緒で、それは先々まで続いていくのだ。
いま希望が、未来が拓けた。
霞が健康を取り戻したら、残された人生は誰かを救うために、救い続けるために使うと香染は誓う。
いつかすべてを話し、償い続ける姿を霞に見せよう。
それが親として生きるということなのだ。
☆★☆★☆
「で、なんでその娘を救った?」
鉛丹は刀の鍔を弄びながら訊いた。
「紅梅は尻尾を巻いたんでしょう? 放っておいても娘は助かるもの。どちらにしてもあの男は使い捨てる駒だった。それに利用できる余地を残したのだから、むしろ褒めて欲しいくらいなのですけど」
殺気を撒き散らす鉛丹に露草はクスクスと笑う。
「何処へ行くとも知れぬ男に貸し一つか。収穫無しよりは善しとするしかないな」
チンと音を立て、刃は鞘に収まった。
「宝玉は失われた、か」
「ええ、黒檀の言葉には真実味があり、香染の調査がそれを裏付けていますね」
露草の報告に嘘は感じられない。
少なくとも露草はそう判断したし、鉛丹は露草の嗅覚を信用している。
「状況からして嘘を吐いたりはしていないだろうな」
「今ならまだ損失で済ませられますね」
鉛丹は深くため息を吐いた。
「潮時だな。組織の仕事としては」
「と、言いますと?」
聞き返され、鉛丹は口の端を歪めて笑みを浮かべた。
「ここからは俺の仕事だ。俺の個人的な、復讐だ。付き合ってもらうぞ、露草。どのような結果でも、お前への貸しはこれでなかったことにしてやる」
「まあ、それは楽しみですが、あの人を殺すのは私にやらせてはいただけませんか?」
「やり方は俺が決める。それでいいなら好きにしろ」
「やった」
露草は手を叩いて童女のように喜びを全身で示す。猫族の愛らしさが全身から吹き出しているようだった。
「愛していますわ。黒檀様。貴方は私を愛してくれるのかしら? 楽しみだわ。本当に楽しみ」
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