第二章 神は救わない 5
香染が準備を整えるのに五日の時間が必要だった。
火付盗賊改方の身分が必要だったので、仕事はいつも以上に熱心に務めた。
そしてそれ以外の時間をすべて準備に充てた。
霞のことは紅梅に頼らなければならなかった。
紅梅は霞に聞かせないために、わざわざ香染を外に連れ出してまで、彼のことを罵ったが、最終的には引き受けた。
金は受け取ってもらえなかった。
そして香染は黒檀の住む部屋を訪ねた。
荒々しく戸を叩き、返事のある前に開けた。
黒檀は月白と朝食を囲んでいた。
銀シャリに漬物だけの質素な食事だ。
黄都の民としては一般的な水準の朝食ではあるが、かつて人々の希望を背負って旅立った男の末路だと考えるとあまりにも侘しい。
だがそれも世を忍ぶ仮の姿だ。
彼は金を持っているはずだ。あるいは金に換えられるだけの何かを。
黒檀は突然の乱入者にもとくに慌てる様子は見せずに、ゆっくりと箸を置いた。
「おやおや、香染さん。今朝はどうされましたかな?」
「黒檀。お前には暴行と身分詐称の容疑が掛かっている。大人しく付いてきてもらおうか」
黒檀は一匙ほどの動揺も見せなかった。
ただゆっくりと香染の言葉を噛みしめているように見える。
「……確か罪人でも連行には令状が必要だったと記憶しておりますが」
「令状ならある」
香染は黒檀にも見えるように令状を広げて見せた。
もちろん偽造である。
黒檀には何の容疑も掛かってはいない。
だが黒檀は令状を見慣れてはいないだろう。
香染の目から見ても違和感の無いよくできた偽造令状だ。火付盗賊改方の同僚であっても一目ではわからないに違いない。
「黒檀」
「大丈夫だ。月白。何かの間違いだよ。すぐに戻ってこられる。お前はいつも通りにしていなさい」
焦茶のところに知らせに行かれることを危惧していたが、予想通り黒檀はことを荒立てない。
火付盗賊改方のような逮捕権を持った相手の意向に逆らうのは難しいものだ。
どうせ何かの間違いなのだから、すぐにそれは明らかになって、何一つ変わらないいつもの生活に戻れる。
冤罪をおっ被せられる奴は大抵最初だけそう思っている。
「手縄はどうされる?」
「任意での同行に応じるのであれば、手縄は勘弁してやろう。さらし者になるのは嫌だろう」
「わかりました。ではそのように」
黒檀はその場で立ち上がった。
「月白、すまないが後始末を頼むよ」
「はい。そうします」
月白は何食わぬ顔で食事を再開した。
不思議な娘だ。家族が連行されるというのに、動揺する様子もない。
だが何もわかっていないだけかもしれない。
霞よりいくらか年下に見える娘だ。
容疑や令状が何を意味しているのかわかっていないのだろう。
「では参りましょうか」
黒檀はわずかな抵抗も見せずに香染に付いてきた。
恐らくは月白を動揺させないためだろう。
道すがらも黒檀は何かを言ってくることはなかった。
容疑について問いただされると思っていたので、拍子が抜けたというよりは、不安になった。
本来不安になるのは黒檀のはずであるのに。
そう黒檀は落ち着きすぎている。
突然の異常事態に心がそれを認められないことがあるのは香染も知っているが、黒檀のそれは、そういった逃避を感じさせない。極めて自然体だ。
香染はその姿を恐れた。
そのような自分を叱責し、奮い立たせる。
自分が破滅すれば、霞に未来は無い。
鞭に打たれようが、縛り首になろうが、その首を晒されようがどうでもいいが、霞には未来が必要だ。
そのために香染は悪鬼の道を選んだ。鬼は恐れなど知らない。
引き返せる最後の機会だとは気付いていたが、香染は決意を胸に一線を越えた。
彼が向かったのは火付盗賊改方の詰め所、ではない。
二つ隣の町に借りた破産した元商家の店舗だ。
戦争で大儲けし、手を広げすぎて破産したその店舗は戦後に建てられた綺麗なもので、混凝土造りの頑丈なものだ。
買うのは無理だが、借りたのはこの数日間のみで、香染は費用を捻出するのに金貸しを頼った。
入り口は強面の男たちが守っている。
実際の火付盗賊改方の詰め所も警備に人が立っているので、それに似せた形だ。
人員は黒檀を襲った男たちの伝手を使った。
つまり悪党どもだ。当然ながら一億円の話も知っており、ことが終われば山分けできると信じている。
火付盗賊改方の看板も掛かっている。
このようなものを常時掲げていたら大問題だが、黒檀の家を見張っていた悪党がひとっ走り先回りして看板を掛けさせる手筈になっていた。
どうやら間に合ったようだ。
看板は黒檀が中に入り次第下ろす予定だ。
本物にバレたら最後、即座に踏み込まれる。
ある意味、この計画で最も危険な瞬間だった。
なお悪党たちの人相の悪さは問題にならない。
本物の火付盗賊改方も同じくらいに凶悪な顔付きの者が多いからだ。
町人の中には看板を見た者もいるだろうが、少し看板を出していたところで通報するような物好きはそうそういない、はずだ。
どちらにせよ、この建物を借りているのは今日までだから手早く済ませる必要はある。
なお借りるのに香染は金しか出していないので、そこから香染に辿り着くことはできない。
建物の中もいろいろと手を入れてあり、店だったようには見えない。
とにかく取調室っぽくした個室までの順路さえ繕えればそれでいいのだ。
香染は予定通りに部屋に入った。黒檀も付いてきた。
詰ませた。
王手まで揺るぎない道ができた。
後は手順さえ間違えなければいい。
「椅子に座れ」
黒檀は香染が顎で示した椅子に深くしっかりと座った。
香染の不安は杞憂であった。この男は何も分かっていないだけであった。
香染が部屋の戸を叩くと、抜き身の刀を持った男たちが何人も部屋に入ってくる。
その中には黒檀が叩きのめした強盗二人も混じっている。
「なるほど。どうやら事情があると見ましたが、私に何を求めていらっしゃるのですか?」
黒檀はあくまで香染に向かって語りかけてきた。
刀を抜いた悪党どもに囲まれているというのに落ち着き払っている。
椅子から立ち上がりもしない。
「勇者が持っていた宝玉の在処について聞きたい」
「
「ふざけるな! そんなわけあるか! 売って金に換えたんだろう! 言え! これが怖くないのか!」
悪党の一人がそう叫んだ。
「怖いですとも。ですが、嘘を吐いても仕方ありますまい。勇者が持っていた宝玉はたしかに私が受け継ぎました。そして役目を終え、この世から消滅したのです。どこをどんなに探しても見つかりませんよ」
「宝玉の特徴は? 持っていたんなら言えるだろう?」
「生き物が直接触れれば、その命を喰らい尽くす見た目だけは美しい石ころですな。相手に投げつければ、肉に触れるだけで殺せる。魔王に対する必殺の手段として勇者が受け取った代物です」
香染が悪党たちから聞き出した特徴と一致する部分が多い。
むしろあやふやだった宝玉の特異な点についてより明確だと言える。
魂喰いの宝玉という言葉は初めて耳にしたが、物自体はヴァルメルクスの求めている宝玉のように思える。
「役目を終えたとはどういうことだ?」
「さあ? ある日、宝玉は砂のようになって崩れ落ちておりました。私に言えることはそれだけです」
「砂はどうした?」
「どうということもない普通の砂に見えましたからな。庭に撒いてそれでしまいです」
黒檀の言葉には真実を語っている重みがあった。
幾多の罪人を取り調べしてきた香染には分かった。
黒檀は嘘を吐いていない。だが認められなかった。
心が、現実が、それを認めるわけにはいかなかった。
「このジジイ、ふざけやがって。死にたくなけりゃさっさと宝玉か金のありかを答えろ!」
「ですから、私は本当のことしか口にして――」
「黒檀さん」
黒檀の言葉を遮って香染が彼の名を呼んだ。
声音の違いに気付いたのか、黒檀が言葉を止め、香染を見た。
「私の仲間が間違ったことを口にして勘違いさせていたのであれば申し訳ありません。私が正しくお伝えします」
香染の言葉に悪党どもは色めき立ったが、香染はそれを手で制した。
これは香染の計画だ。それは彼らも分かっていた。
「貴方は死にます。殺します。宝玉の在処を喋ろうが、黙っていようが、それは変わりません。代わりの金を差し出そうと同じことです。これだけは決定事項です。覆りません」
「ふむ」
黒檀はわずかに頷きを返してさえ見せた。
こうなった以上、香染たちがそう考えているのは、修羅場を潜っていればわかることだ。
だから香染は彼に思いつく最も効果的な手札を切った。
「貴方に選べるのは月白さんが殺されるか、否か。どう殺されるか、あるいは死んだ方が良かった、死なせてくれと懇願するような目に遇わされるのかどうか。これはそういう取引です」
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