第二章 神は救わない 3

 優しく肩を揺さぶられて、香染は夢から現実に戻ってきた。


 霞の手かとも思ったが、娘は腕の中で眠っており、彼の肩を揺さぶったのは紅梅であった。


 香染は何用かを尋ねようとしたが、紅梅は自分の唇に人差し指を立てて、黙っているように示してくる。

そして家の戸を指し示した。


 香染がそちらに目線を向けると、同僚が困ったような顔で立ち尽くしている。

 休みの香染に用事だが、病気の娘と寝ているところを起こしていいか分からなかった、という辺りであろう。


 さほど緊急性のある案件ではないのだと推測できる。

 だがわざわざ呼びに来ているのだから、対応はしなければならない。

 休日を潰されるのは業腹だが、辞める意思を伝えるのにはちょうどいいと思い直した。


 香染は霞を起こさぬようにそっと手を解いた。

 霞の体温は寝ている子どもであることを差し引いても高い気がした。

 食欲の無さも気にかかる。


 着物を着換えて刀を腰に差した。

 時間は朝と昼の間くらいのようだ。

 あまりきちんと眠れたとは言えないが、頭の中ははっきりとしていた。


「紅梅さん、私が留守の間、霞の様子を見ていてやってくれませんか? これから悪くなる気がします」


「分かった。見ているよ。ただし早く帰ってくるんだよ。霞ちゃんが起きた時にあんたがいなかったら寂しがるだろうから」


「ええ、可能な限り。では行きましょうか」


 霞の傍で仕事の話はあまりしたくなかった。

 火付盗賊改方の仕事には常に犯罪者が関わってくる。


 詰め所に向かって歩きながら、同僚から呼び出された事情を聞く。


「私でなければ話をしない、と? なぜ? 調書にも書きましたが、私が到着した時には連中のびてましたよ」


「理由は分からんが、二人ともとにかく自分を引っ立てたヤツを連れてこいの一点張りだ。それ以外には何も話す気はないらしい」


「明日では駄目だったんですか?」


 香染のもっともな問いに同僚はばつの悪い顔をした。


「拘留期限の問題があるからな。早めに調書を取ってしまいたいって頭からの命令だ」


「休日出勤手当は出るんでしょうね?」


「頭の命令だから大丈夫だろ」


 香染は深々とため息を吐いた。


 せっかく霞と過ごせる貴重な休日を、あと何回あるかもわからない大切な時間を奪われたのだと思うと、怒りと悲しみが押し寄せてくる。

 だが仕事だ。

 辞めると決めていても、最後の俸給をきちんともらえるようにしていなければならない。


 詰め所に着いた香染は、火付盗賊改方頭である萱草のところへと向かった。


「休みのところを悪いな、香染。娘さんはどうだ?」


「あまり良くはありません。できるだけ傍にいてやりたいんですが」


「連中から供述を引き出して調書が作れたらすぐに帰っていい。押し入りの未遂みたいなもんだ。こちらとしてもなるべく早く済ませてしまいたい。時間外手当が出るように取り計らう」


「わかりました。さっさと終わらせてしまいましょう」


 香染は同僚を伴って取調室に向かった。

 昨日の強盗未遂犯から一人ずつ別々に調書を作成しなければならない。

 取調室に入ると、昨日の男の片方が後ろ手に椅子に縛り付けられていた。こうして見ると、押し入り強盗というには体格が良すぎる。


 いくつかの疑問が浮かぶ。


 この男なら力仕事で引く手数多だったのではないだろうか?

 刀を持ったこの男を無手で制圧した黒檀という老人は一体?

 そしてなぜ自分が指名されたのか、という疑問だ。


「そいつか?」


 男が同僚に向かって聞いた。


「そうだ。昨日、お前に手縄を掛けたのはこの男だ」


「分かった。じゃあ、あんたは出ていきな」


「どうしてだ? 俺がいたら困る話でもあるのか? どうせ調書になって他の目にも触れるぞ」


「何度も言わせんな。俺はそいつにしか話さねえ。その後、そいつが誰にどう報告しようがそれは知ったこっちゃない」


 香染と同僚は目を見合わせる。

 取り調べは二名で行うのが基本だ。

 容疑者が暴れた際には確実に取り押さえられるように、数的優位を確保しておきたい。だが明確に定められているわけではないので、ここで香染だけが残ってもなんらかの処罰があるわけではない。


「ずっとこの調子だ。強盗未遂くらいだと、あんまりキツいお仕置きもできないからな」


 取り押さえるときにであれば多少の暴行は仕方がなかったと言える。

 だが拘束され、身動きできない相手となると犯罪者とは言え、手荒に扱うことはできない。

 罰を与えるのは司法の領分になった。

 今の火付盗賊改方にその権限は無い。


「まあ、この状態ではなにもできないでしょう。念のため銃と刀は預けておきます。外で待っていてください。おかしいと思ったらすぐに踏み込んでくださいね」


「分かった。悪いな。多少は見なかったことにするから、さっさと終わらせちまえ」


 香染から武器を受け取ると、同僚は取調室を出て行った。

 香染は空いている椅子に腰掛ける。


「さて、お望みの一対一だ。お前さん、名前も喋ってないって聞いたぞ。偽名でもなんでもいいからさっさと喋ってくれ」


 男はにぃと唇を歪めて笑った。

 外に聞こえないようにだろう。声を潜めて話し始める。


「あんた、現場に来たんだよな。あのジジイの様子はどうだった? なにか隠そうとしてなかったか? 金か、宝か、他人に見られたくないなにかだ」


「聞いているのはこっちだ。まず名乗れ」


 取り調べの基本は相手に言いたいことを言わせないことだ。

 こちらが聞きたいことだけ答えさせるのが肝要だ。

 容疑者から自白を引き出すのに自由に喋らせることはあるが、今は違う。


「少々のモンなら隠すけどよ、あまりにも価値があるものだと、隠すのも怖くなるのが人間ってもんだろ」


「入れ墨は無いようだな。人相書きとも一致しないようだ」


 これまでに重い罪を犯した男ではないようだ。

 あるいは捕まったのが初めてというだけのことかもしれないが。


「絶対に手元に置いているはずだ。なあ、ジジイはなんかを隠すような素振りはなかったか?」


「黙秘を続ければ釈放もないぞ。押し入り強盗未遂なら、刑罰はさほどでもない。さっさと喋ったほうが早く出られる。さあ、名前を」


「あんたが教えてくれりゃ代わりに答えるさ。だからそっちが先に答えろよ」


「名前はなんだ?」


「手がかりでいい。ちょっとしたことでいいんだ。思いついたことをぽろっと口にする。それだけで俺の口が蝋を塗ったように滑らかになる」


 なるほど。と香染は思った。

 この調子でずっと何も喋らなかったというわけか。

 頑なに沈黙を保たれるよりやりにくい。


 向こうはずっと取引を持ちかけてきているのだ。

 つい返答をしそうになるが、相手にしないのが鉄則だ。


「名前を言え」


「答えてもいいが、一つには一つだ。あんたが聞きたいことを答える。あんたも俺の聞きたいことを答える。それなら教えてやってもいい」


 分かったと言えば名前は聞き出せそうだ。

 だがそこから先には進みそうにない。


「名前だ」


「……動機なら答えてやってもいい」


「最近やってきた余所者の年寄りと子ども。押し入っても近所付き合いもそれほどできていないから、他の住人は見て見ぬ振りをする確率が高い。そんなところだろう。聞くほどのことでもない」


「どうかな?」


 男は不気味な笑みを浮かべる。

 ほんの少しでも肯定するような素振りを見せればそれを調書にするつもりだったが、そう甘くはなかった。

 男の引き延ばしに香染は苛立ちを感じる。

 ただでさえ娘と過ごせるはずの休日に呼び出されているのだ。

 なぜこのような男の相手をしていなければならないのか。


「はぁ……」


 香染は大仰にため息を吐いた。


「時間を無駄にするな。もう一人は喋ったぞ。金目当てなのは分かっている」


「そうかね?」


 男はくつくつと笑った。

 香染の嘘はお見通しと言わんばかりだ。


「もしも相棒が全部ゲロっちまってるってなら、あんたは俺に取引を持ちかけてくるはずだ。少なくとも今の態度はありえないね」


「あのなあ、お前自身が聞いてきたことだぞ。金か宝を隠してる素振りはなかったか、と。金目当てなのは明白なんだ。大体、あんな年寄りと子どもから奪ったところで何になる?」


 言ってから失敗したと香染は思った。

 さっきの誘導尋問とは違う。相手の言葉に応えてはいけなかったのだ。


「なるほど。なるほど。あんた、なんも分かっちゃいねえんだな」


 男は椅子が揺れるほどに体を揺らして笑う。


 香染自身が思っていた以上に動揺していたのだろう。

 男の言葉に頭がカッとなって、左の腰に手が伸びたが、そこに武器は無かった。

 あれば抜いていたかも知れない。同僚に預けたのは正解だった。


 香染はゆっくりと呼吸する。

 香染は頭に血が上ることも少ないし、すぐに冷静になれる性格である、というのが、彼の自己分析であった。

 戦争を生き延びられたのも、この性格に起因するものが大きいと思っている。

 そしてそういう時ほど頭が回る。回りすぎた。

 気付いてしまった。

 男の言葉と態度から、ことの次第について。


「おい、大丈夫か?」


 男の笑い声が聞こえたのだろう。

 扉の向こうから同僚が心配して声をかけてくる。


「大丈夫です。今のところは。さっさと済ませることにします」


「なら、いいが」


 香染は椅子からすっと立ち上がった。


 彼は冷静だった。それは血が凍り付くほどに。

 彼は落ち着いていた。星が映るほど凪いだ湖面のように。

 歴戦の戦士でも怯むような表情と仕草は計算の上で行われた。香染は無造作に縛られた男のところまで歩いて行くと、その胸ぐらを掴んで顔を近づけた。


 そして囁くように言った。


「幾らだ?」


「あ?」


「あの男は幾ら持っている?」

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