第二章 神は救わない 2
気を失ったままの男たちを詰め所の留置所に放り込んだ後、調書を作成し終えるともう夜が明けていた。
同じく夜警に勤しんでいた同僚から労いの言葉をかけられる。
香染がここで働き出してもう十年だ。
香染の事情はよく知られている。
調書の作成は他人が肩代わりできないので、先に帰る連中が薄情だというわけではない。
その代わりというわけではないが、夜勤後は丸一日の休みが定められている。
普段相手をあまりしてやれない娘との貴重な時間だ。
足早に香染は自分の住む長屋へと向かった。
火付盗賊改方は基本的には自分の住んでいるのとは違う町の警邏を行う。
過去、その権限が大きかった時代に近所の顔見知りが放火犯だった場合に切るのが難しいと判断されたからだ。
だが香染の場合、娘の事情を斟酌され、住んでいる町の警邏を行っていた。
いざという時すぐ駆けつけられるようにだ。
良い職場だ。
上司も同僚も悪くない。ただ稼ぎが悪いというだけで。
帰り道に黒檀と月白の住む長屋の通りが見える。
前述の事情から香染は黒檀や月白とご近所さんだ。
とは言っても隣り合うほどに近くではないので、これまで顔を知らなかったのもそれほど不自然ではない。
「ただいま」
自分の部屋ではあるが、香染は戸の前で一度足を止め、一声かけてから戸を開ける。
「おかえり。香染さん」
返事をしてきたのは彼の娘ではなかった。
同じ長屋に住まう
仕事が丁寧で長屋では重宝されている。
夫を大戦で失った女寡で、年の頃は香染と変わらないくらいに見える。頼まれては洗濯以外の家事も引き受けており、香染も夜勤の夜は娘の面倒を見てもらっている。
「霞は?」
布団で眠っているのは見える。
だが香染が聞きたいのはそういうことではない。
「昨晩は咳が多くて、眠りが浅かったね。今は落ち着いてるけど」
「そうか」
つまりいつもよりはマシだということだ。
酷いときは血を吐いたり、呼吸が止まりかける。
「世話になった」
紅梅に四文銭を十枚握らせる。
一晩面倒を見てもらったというには気持ち程度の額だが、紅梅はこれで良いと言っているし、香染の懐事情的にもこれくらいが限度だった。
紅梅は受け取った銭を数えもせずに懐に入れると、
「しっかりしなよ」
と、香染の肩を叩いて出て行った。
自分の部屋に戻るのだろう。
霞のことを考えると後妻に入って欲しいくらいだが、香染側の事情がそうさせない。
霞を起こさぬように慎重に戸を閉めた香染は、草履を脱いで畳に上がる。
敷かれた布団の横に膝を突いて座った。
霞は齢十二になる香染の娘である。香染が戦争に行っている間に生まれた子で、戦地から戻ってくると乳飲み子の泣き声がしていて驚いたものだ。
香染は妻が妊娠したことすら知らなかったが、逆算するとどうやら戦地に行くその前の夜に当たったとも考えられた。
霞は幼い頃から病弱で、その看病のために付きっきりになった妻は常日頃から不機嫌になり、香染とは喧嘩が絶えなくなった。
そのような折りについ香染は、本当に俺の子か? というようなことを言ってしまい、それ以来妻は塞ぎ込むようになったかと思うと、ある日、貯金のすべてと共に姿を消した。娘を置いたままで。
それ以来、香染は霞を一人で育てている。
いや、一人で、ではない。周りの人々に助けられながら、霞はなんとか育ってくれている。
病弱とは言っても寝たきりというほどではなくて、ちょっとしたことですぐ体調を崩しては、それが長く続くのだ。
しかしそれが急激に悪化したのがここ三年ほどのことだ。
咳が止まらなくなり、血を吐いた。立ち上がれなくなり、食事の量が減り、今では自力で上半身を起こすことすら難しい。
医者を頼りもしたが、匙を投げられては、また別の医者を探さなければならなかった。
そのようなことをしていると、今度は民間療法を勧めてくる者や、霊媒師が香染の家を訪ねてくるようになった。
藁にも縋るような思いで、手を出したこともあるが、霞の体調が良くなることはなかった。
やがてはそういった連中すら寄りつかなくなった。
今では拝み倒して近所の町医者に、症状を緩和する薬を出してもらっている。緩和であって治療ではない。しかもこの薬は長期間の服用は推奨できないと言われていた。できれば二週間で服用を止めるべきで、どんなに長くとも半年、それを越えると薬で体を壊すとまで言われており、もうすぐその半年になろうとしている。
そのことを考えると目の前が真っ暗になる。
自分の命が終わるなら良い。分け与えられるものなら、すべて持って行って欲しい。
霞の症状は珍しい疾患だが、治療法が無いわけではないと聞いた。
ただ最低でも五百円、余裕を見れば千円を都合しなければならないとも言われた。
かつてあった貯蓄はすべて妻に持ち逃げされたし、その後は俸給の減少で貯蓄する余裕が無かった。
金貸しに相談したこともある。二百円までなら都合できると言われた。
俸給が低いとは言え、お堅い仕事をしていることで、高く見積もってもらってそれだった。
生きる上で金が一番大事ではない。香染はかつてそう思っていたし、今でもそういう気持ちが無くなったわけではない。事実、霞が助かるのであれば金などいくらでも惜しくなかった。
だが金が無くては生きられないのだ。
霞はとくにそうであるし、香染自身も最低限の収入が無くては住む場所も食う物も手に入らないのが現実だ。
香染が検挙した犯罪者には戦争から戻ってきたものの、職にあぶれ、犯罪に手を染めたという者が少なくない。
火付盗賊改方に就けた香染は運が良かった方なのだ。
だがしかし、霞が生きるために必要な金額には程遠い。
職を変えると決意をしたが、すぐに千円を稼げる職などあるはずもない。
「……おと……さん……」
歯を食いしばり、自らの不甲斐なさを悔いていると、そのような小さな声が聞こえてきた。
「おかえ……さい」
蚊の鳴くような声であった。
香染は霞に顔を近づけ、少しでもはっきりその声を聞き取ろうと努めた。
「ああ、ああ、ただいま。今日は一日一緒にいられるよ」
霞はほんの少し嬉しそうな顔をした。
そのような気がしたが、それはすぐに激しい咳によって遮られた。
香染は霞の体を横にして、背中をさすってやる。
肉の薄いその体は、骨が浮き出たようになっており、その感触は死を容易に連想させた。
香染はそのような悪い想像を振り払う。
「お腹は空いてないか? 粥なら食えるか?」
咳が止まるのを待って、香染は聞いたが霞は弱々しく首を横に振った。
「昨晩は食べたか?」
と、問うと霞はわずかに頷く。
嘘を吐く子ではない。少量にせよ、何かを食んだのは本当のことだろう。
それなら無理に食べさせなくとも良いかも知れない。
粥の汁だけでも飲ませたいが、香染がお願いすると霞は無理にでも頷くだろう。結果的に苦しい思いをさせてしまうかも知れない。
愛する娘だ、苦しませたくはない。だが霞にとっては生きるとは苦しいと同義だ。例え苦しくても生きていて欲しいというのは親の勝手な押しつけだろうか?
馬鹿なことを考えるな!
香染は自分の弱い心を叱責する。
霞は一度でも生きたくないと言ったか?
終わらせたいと望んだか?
生きていればいつか良いことがあるなんて言えないが、死ねば終わりだ。
あの世はあるかも知れない。
だが香染は戦争で死に触れすぎた。
一緒に食事をした戦友が翌日には肉の塊になっている。
あの世の救済など、この世では何の救いにもならないと知ってしまった。
それで救われるのは心だけだ。気持ちだけだ。
生きているこの肉は、死ねば終わりだ。
「おと……さん……、だいじょ……から」
いつの間にか仰向けになった霞が香染の頭を撫でている。
「……れさま……、いっしょ……ねよ、……わた……まだ……から」
「ああ、おやすみ。霞。ゆっくりおやすみ……」
神よ、神でなくとも誰でも、何でもいい。
どうか、この子を救ってください。
なんでもしますから。
この子以外ならなんでも差し上げますから。
この命を捧げます。
この人生を捧げます。
この魂を捧げます。
だから――、霞を救えよ!!
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