第二章 神は救わない

第二章 神は救わない 1

 黄都おうとは眠らない。と、書いた作家は誰だったか?


 香染こうぞめは少しばかり記憶を手繰ってみたが、どうにも引っかかるものがない。

 忘れてしまったというよりは最初から知らないような気分だった。

 もしかすると誰かが言ったことを勝手に作家の言葉だと思い込んでいるのかもしれない。今の仕事に就いてからというもの、ほとんど本を読まなくなった。今の黄都で誰の書いたどのような本が流行っているのかも知らない。


 黄都に瓦斯ガス灯が整備されたのは戦後の話だ。だから作家がそう書いたのであれば、戦後であろう。なら香染が思い出せないのも当然のことだ。


 戦前は黄都の夜は暗く、静かで、人々はなにか得体の知れないものが闇の中に潜んでいるのだと信じ、恐れていた。

 当時の黄都では火を用いた灯りは普及こそしていたが、あまり使われていなかったからだ。

 というのも当時の黄都はほとんどの建造物が木造で、一度火災が起きれば大災害になりかねなかった。

 そのため失火であっても罪に問われたのだ。当然ながら放火の罪はさらに重く、理由の如何を問わずに死罪とされた。

 そして放火の防止、捜査、懲罰までを速やかに行えるよう設置されたのが火付改方ひつけあらためかたという役職である。後に業務が被るとして盗賊改方とうぞくあらためかたと合併し、火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたとなった。


 戦前の火付盗賊改方は黄都民にとっては尊敬と畏怖の対象であった。

 失火を起こせばその場で切り捨てられても文句は言えない一方、人々が恐れる夜の警邏を行っていたからである。

 人々が安心して眠れるのは火付盗賊改方がいるからでもあった。


 それが今はどうだ?


 凝固土コンクリートが普及し、木造の建物が減った結果、失火の罪は改められ、放火の現行犯であっても切り捨てるべからずとの通達が出た。

 深夜でも大通りでは瓦斯灯が夜を照らし、人々は夜を恐れなくなった。結果的に火付盗賊改方は軽んじられるようになった。


 犯罪の総数が減ったわけではないが、放火は減った。

 火口を家屋に放り込めば必ず火災になるというわけでなくなったからだと言われている。

 自然と火付盗賊改方は規模が縮小され、かつては夜警と言えば二人組だったが、香染が今そうであるように一人で回る場合が多くなった。

 その目的が放火犯の即刻処罰から、その防止に変わったからである。


 そして一番大事なことだが、俸給が減った。

 暮らしていけないほどではないが、倹約が必要だ。独り身ならば余裕もあるだろうが、香染は違う。


 自然とやる気もなくなる。


 火付盗賊改方は歩合制ではない。

 犯罪者を引っ立てようが、そうでなかろうが、俸給が変わるわけではない。

 担当区域で放火が発生したにもかかわらず、取り逃がすようなことがあっても、小言はあっても罰則はない。

 俸給の額を考えるとまじめに仕事をする気にはなれない。

 こうして夜歩きしているだけでも放火の予防にはなるだろう。

 それで十分だと香染も、彼以外の火付盗賊改方も考えていた。


 火付盗賊改方がそのように考えているのに、実態として放火は減っているのだから、火付盗賊改方という仕事自体に必要性が薄れてきているのだろう。


 仕事を変えるか?

 もっと意義がある、俸給も良い仕事へ。


 かつての上官に口を利いてもらった仕事だが、十年も務めれば顔に泥を塗るようなことになるまい。

 ではさっそく、明日から仕事を探しに行こう。


 香染がそう決心した時であった。


「お侍様!」


 一人の女が香染をそう呼んだ。

 火付盗賊改方は武官であるのでその呼び方は正確でないが、間違いでもない。


 金髪に碧眼の若い猫族の女は質素な身なりだが美しい顔をしていた。

 夜鷹ではないようだが、見ない顔である。

 息を切らし、その声と表情は切羽詰まっていた。


「どうかしましたか?」


「あちらの長屋に人相の悪い男たちが。見ない顔でしたので、住人ではないと思って」


「案内できますか?」


「はい!」


 走ってきた様子だったのに、女はまだ走れるようであった。

 香染が付いていくと、すぐに長屋に到着した。


「あそこです」


 女が指差した部屋は戸が開いたままになっている。しかし物音という物音はしなかったので、すでに物盗りは撤収した後かも知れない。


「ここで待っていてください」


 最悪の場合、住人の死体が転がっていることも有り得るので、女に提灯を預け、警戒しながら香染は開いた戸に近づいて行く。

 室内は暗く、提灯を持ち歩いていた香染の目はまだ闇に慣れていない。


「火付盗賊改方だ。通報があった故、失礼する」


「ああ、良かった。助かりました」


 中から年老いた男性の声した。

 助かったとはどういうことだろうか?

 裏口があって、今の声を聞いて狼藉者は逃げていったのだろうか。

 それにしては物音がしなかった。


「押し込み強盗ですかな。返り討ちにしましたが、さて、これからどうしようかと困っていたところなのです。今、灯りを付けますね」


 擦過音がして、摺付木に火が付いた。灯りは提灯に移され、室内がぼんやりと照らされる。


 まず猿族の老人の姿が見えた。

 着崩れた単衣を身に着けており、直前まで寝ていたのだろうと推測できる。


 それからその後ろに隠れるように一人の娘が立っていた。

 祖父と孫という感じであったが、あまり似てはいない。娘は雪のように白い肌に、どこか虚ろな瞳をしており、病人を思わせた。猫族のような整った顔立ちだが、毛並みは薄く、耳は猿族のように側頭部にある。衣服に隠れているのかもしれないが、尻尾が確認できない。猿族のような、猫族のような、異種族間に時折生まれてくる忌み子のようだ。


 それから床に倒れ伏した男が二人。

 抜き身の刀が二本落ちている。男たちが出血している様子はないので、これが凶器というわけではないようだ。呼吸はしているようなので死んではいない。


 老人と娘、そして狼藉者たち、いずれにも見覚えはない。

 だが状況からして男たちが押し込み強盗であることは間違いないだろう。


「ご無事でなによりです。怪我などはされていませんか?」


 意識の無い男たちを手縄で捕縛していきながら、香染はそう聞いた。


「はっは、この通り」


 老人は快活な声で答える。

 見た目からは怪我をしている様子はない。刀傷どころか、殴ったり蹴られたりもしていないように思える。まったくの無傷だ。


 ええ、と香染は少し戸惑う。

 寝ているところを二人の、触った感じかなり鍛え上げられている、強盗に押し込まれて無傷で、相手を殺すこともなく制圧?

 なにか無手の武術を習得しているのだろうことは確実だが、男たちも見た感じ戦争帰りの無頼漢に見えた。

 もしこの二人が健在であったなら、検めに来た香染が逆に斬られていたかもしれない。


「ええと、この町には最近?」


「はい。この子の静養も兼ねて、田舎のほうで隠居していたのですがね。元気になってきましたし、都会で学ぶ機会をやりたくて、つい先日からこちらでお世話になっています。しかし都会は怖いですな」


 ハッハと老人は笑う。


「まだ健康とは程遠く見えますが……、あ、失礼。うちにも病弱な娘がおりまして、つい余計なことを」


「お気になさるな。娘さんも早く快復すればよろしいですな」


「ええと、お侍様?」


 戸の外から声がかけられる。

 提灯を持ったさっきの女が覗き込んでいた。


「ああ、お嬢さん、すぐに声をかけられなくてすみません。この通り、あんまり私の出番はなかったようですね」


「いえ、ご無事でなによりです。提灯をお返しいたしますね」


「こちらのお嬢さんは?」


 老人が聞いてきたので、香染は答える。


「この方が、ここに不審者が入っていくのを見たと教えてくださったのです」


「それはそれは。お嬢さん、ありがとうございます。おかげさまでこの通りです。いずれ何かお礼をさせてもらえませんかな?」


「とんでもない。こういう時は助け合いですよ。ところで後ろの、お孫さんですか? あまり顔色が良くないようですけれど」


「元々こういう肌色なのです。それに加えて物盗りに襲われて血の気が引いてしまいましたかな」


「ちょっと失礼しますね。こんばんは。私は露草って言うんだけど、貴方のお名前は?」


 露草を名乗った女は少女の隣に座り込んで目線の高さを合わせた。


「……月白、です」


「そう、月白ちゃん。びっくりしちゃったよね。なにか体におかしなところはない?」


「胸が、……ちょっとだけ」


「少しばかり月白ちゃんに触れてもよろしいですか?」


 露草が老人に聞いて、老人は頷いた。


「月白ちゃん、ちょっと胸の音を聞かせてね」


 露草は月白の胸に頭を当てて、心の臓を確かめているようだ。


「ちょっと鼓動が早いくらいで、その他に異常らしい異常はなさそうですね」


 そう言って女は手にした巾着袋からゴソゴソと紙に包まれた何かを取り出した。

 紙を開くと丸薬がいくつか入っている。


「心を落ち着ける薬です。かと言って見知らぬ私からの薬を飲ませるのは怖いでしょうから、ここからひとつ選んでいただけますか? 毒味代わりに私も飲みますので」


「薬師の方でしたか、そこまでしていただくわけには」


「こんなことがあった後は中々寝付けなくて苦しいものです。月白ちゃんのためにと思って」


「ではお言葉に甘えて」


 老人は丸薬のひとつを摘まみ上げた。露草はそれを受け取って口に入れ、巾着から取り出して水袋を使って飲み込んだ。


「こちらは差し上げます。もし貴方も寝付けないようなら使ってくださいね」


「何から何まで、ありがたく頂戴します。失礼、名乗りが遅くなりました。私は黒檀と申します。しばらくはここに住んでおりますので、後日顔を出していただけますか? 何かお礼を用意しておきますので」


「いえいえ、そんな」


「用意はしてしまうので、受け取りに来ていただけなければ無駄になってしまいますな」


 老人はハッハと笑う。

 露草も釣られて笑みを浮かべた。


「では数日は空けて明るい時間にお伺いさせていただきますね。月白ちゃんの経過も気になりますし」


「かたじけない」


「では失礼します」


 そう頭を下げて露草が退出しそうになったので、香染は慌てて声をかけた。


「露草さん、火付盗賊改方の詰め所はわかりますか?」


「ええ、はい」


「応援を呼んできていただきたいのです。私一人でこいつら二人を運ぶのは無理ですし、かと言って私は見張っている義務があります。黒檀さんに行かせると月白さんが不安でしょうし」


「ええ、わかりました。ではこれは貸しひとつ、ということで」


 露草は蠱惑的な笑みを浮かべて指を一本立てた。


 月白たちには無償で薬まで与えたのに、自分には貸しにするのかと思ったが、そのようなところもこの娘の魅力であるかのように思えた。

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