第一章 枯草は燃える 8
何もかもがおかしい。
と枯草が気付いたのは黒檀たちの追跡を始めてすぐのことだった。
夜を迎える時間に外出する目標。
不自然な量の荷物。
気配の異常な娘。
それに加え、
ここに至る道は獣道と見紛うような山道が一本だけだ。翠嶺郷周辺に人里はひとつしかない。
黒檀たちが荷物をまとめて移動するのだとしても、翠嶺郷に行くと考えるのが自然だ。しかしそれならば黒檀たちは枯草たちの潜む場所に向かってくるはずだった。
それなのに今、枯草たちは道無き森の中で黒檀たちを追跡している。
「どこに向かってるんだ?」
囁き声に加え、狼族の言葉だ。猿族が聞いても野犬がなにか唸っているくらいにしか感じないだろう。
「翠嶺郷でないことだけは確かだけど、どこに向かっているかまではわからないね」
縹の答えは枯草の助けにはならない。
枯草も縹と同じ程度のことまでしか分かっていない。
黒檀たちは真っすぐ歩かずに、不自然なほど頻繁に方向を変えながら進んでいた。まるで町中で追跡者を気にする目標かのような動きだ。
これでは先回りもできない。
「今すぐ確保しちゃ駄目なのか?」
「それもひとつの手ではあるが……」
黒檀たちの不自然な行動が枯草を躊躇させる。
黒檀の行動はまるで、
「迫ってくる敵がいると知って逃げているかに見えるだろ」
「まあ、たしかに?」
「俺たちは気付かれるようなヘマをしていない。だとすると他の手勢がヘマをした可能性がある」
「藍墨茶の件がある」
二藍の指摘は間違っていない。枯草は訂正する。
「たしかに、俺たちはともかく、組織はヘマをしたと言えるな。連中には警戒するだけの理由があり、準備するだけの時間があった。そう考えるとまだ逃げていなかったのも不自然な気だが……」
鉛丹は迅速に動いた方だ。
藍墨茶からの手紙が届いて翌々日には枯草たちを招集、翌朝に出発している。
その日のうちに錦繍藩に到着したものの、車の手配が間に合っておらず、そこで一泊。翌日に牛車で柿木村へ向かった。柿木村についたのが夕刻、鉛丹たちはここで一泊。枯草たちは森の中で眠った。
翌早朝に出発。山道に不慣れな鉛丹が遅れ気味になったため、予定より遅れ野宿で一夜を過ごした後に、翠嶺郷に到着。情報収集後、枯草たちに先行するように命じた。
藍墨茶から手紙が届いてから七日。
黒檀たちが藍墨茶に襲撃され、始末したのだとして、住処を捨てて逃げる判断をするなら、直後だろう。
これだけ日数が空くにはそれなりの理由があるはずだ。
「他に黒檀たちを追っている気配は無いと思う。空はちょっと自信が無いな」
「こんな森の中だ。空から追うのは不可能だろう」
決断の時だ。
違和感を押し殺して黒檀を確保するか、違和感の正体を追うか。
枯草は大きく息を吸って、新鮮なら空気を体に取り込んだ。
時間は状況を変動させる。
良くなる時もあれば、悪くなる時もある。
客観的に見れば今の状態はかなり理想的だ。変化があるとしたら悪い方にだろう。
「よし、決行だ。散開して囲む。絶対に逃がすな。あと殺すな」
「よし来た」
「うん。了解」
「承知した」
枯草たちは足音が立つのも構わずに疾走を始めた。
黒檀たちの後ろ姿は森の中とは言え、かろうじて見えている。十秒かもうすこしあれば、囲んでしまえる。
そのとき、ざくん、と、夜の森に相応しくない、耳に馴染みのない音がした。
縹の姿が消えている。
いや、音を追って見上げれば縹は見上げるような位置にいた。
体の上下が逆になっている。足を紐に繋がれて吊り下げられている。
罠!?
罠の気配など無かった。
猿族の仕掛けた罠など臭いですぐにわかる。とくに縹は罠に敏感だったはずだ。
「たすげぶびっ」
縹はまともに助けを呼べなかった。
木の上に逆さに吊り下げられた先で、剣山のようになった板が二枚、勢いよく縹を挟み込んで音を立てた。噛み合った板の隙間から大量の液体が流れ落ちる。
「罠に気を付けろ!」
もう隠れる理由は無い。枯草は声を張り上げた。
「うおっ、ぐべ」
二藍の姿が地面に消える。
吊り上げ罠にあれだけ凶悪な確殺の仕掛けが施してあったのだから、落とし穴の先がどうなっているのかなんて考えるまでもない。
罠に敏感な縹、一行の中で一番強い二藍が先に罠にかかったことが枯草を混乱させた。
獣用の罠で無いことは確かだ。
獣を捕らえるのにこのような大仰な罠は必要ない。
罠を仕掛けるときに、臭いには気をつかうのは当然だと言えるが、だがそれでもわかるのが狼族なのだ。
そのはずだった。
「ひ、ひぇぇ」
ほんの数秒で仲間が二人死んだ。その事実に耐えられなかったのであろう。丁字染が情けない声を上げて、反転した。
すでに通った道なら罠はない。いま確実に安全だと言えるのは後退だけだ。
枯草も迷った。
丁字染が逃げ帰ったら、鉛丹にどう報告するだろうか? 阿呆だからすべて話すに違いない。枯草の計画も、すべて。
殺すか?
そう思って振り返った枯草は、丁字染が矢に撃たれるのを見た。太い矢には紐が括り付けられており、別の仕掛けによって丁字染を引っ張った。
「いだいいだいいだいぃ! たすげて! いやだ! 死にたくな」
丁字染があげる懇願の声は、彼の姿が藪の中に消えてすぐに止まった。
これだけの仕掛けだ。その先に凶悪な何かが用意されているのは間違いない。罠にかかった者を確実に殺せる何かだ。
俺たちは誘い込まれたのか?
藍墨茶も同じような方法で始末された?
ぐるぐると枯草の思考は回る。
なぜ。なぜ。なぜ。
どうしてこうなった、という思考は事態を乗り越えた後であれば必要だ。
失敗を振り返り、改善できるからだ。しかし事態が進行中であれば話は変わる。
いま必要な思考はどうやって生き延びるかだ。
黒檀はこの森にかなり複雑で凶悪な罠を張り巡らせていたようだ。それも他の仕掛けが発動することで、他の仕掛けを有効にするようなものも含まれている。つまり安全だと思っていた場所が、今は安全じゃない可能性がある。
ことがここにいたっては、枯草の最善手は命乞いであった。
情報をすべて渡すから命だけは助けてくれと懇願するべきであった。
命以外のすべてを失うが、いま一時は命を長らえる可能性があった。
だが枯草の思考はそこにまで辿り着かなかったし、気付いたとしても選べなかっただろう。
目標があり、そのために犠牲を払うと、人は引き返すのが難しくなる。
故郷再興の夢はあまりにも魅力的で、枯草は元々犠牲を払う覚悟があった。そのことがより枯草の選択肢を狭めたのだ。
もはや枯草に見える選択肢は、この場に留まるか、黒檀に迫るかの二択にまで減っており、前者が良くない選択肢であることは明確であった。
「ウオオオオォォッ!」
枯草は咆哮と共に地を蹴った。地面はどこが安全か皆目見当が付かない。
枯草は鍛え上げられたその跳躍力で木々の幹から幹へ跳び移りながら、黒檀の背中に迫った。
相手は猿族の老人。触れさえできればどうにでもできるという確信があった。少なくとも黒檀のいる場所に罠はあるまい。
最後の跳躍をもって、黒檀に跳びかかろうとした時、娘が振り返った。
その目が枯草を見た。枯草も娘の目線に気付いた。目と目が合った。
その瞬間にわかった。
この娘は人ではない。
世界に散らばる八大種族のいずれでもない。
何か違うモノだ。
この世界に存在していてはいけないモノだ。
恐怖が、嫌悪感が、あるいは人類としての使命が、運命が、枯草の行動を変えた。
枯草は娘を狙って跳躍した。
ここで絶つべきだ。
狼族のためだけではなく、この世界に生きとし生けるものすべてのために。
鉄板にすら食い込む狼族の爪が娘を切り裂こうとする瞬間、月光の煌めきが枯草の目に入った。
狼族を守護する月の女神が齎す祝福の光を見た。
それを最後に枯草の意識は途絶えた。
☆★☆★☆
「あーあ、あいつらやられちまったかぁ」
遙か遠く、高く伸びた木の天辺で遠眼鏡を覗き込んでいた鉛丹はそう呟いた。
年齢を感じさせない動きで木を降りた。
そこには周辺に気を配っていた露草がいた。
「死にました?」
艶っぽい笑みを浮かべ、露草は言った。
「一人残らずな」
「せいせいしました。私が愛するにも値しない連中でしたので」
「とは言え、まあまあ面倒だな。思っていたより手強い」
「強いですか?」
露草はこてんと首を傾げて聞く。
鉛丹はため息を吐いた。
「強い。一太刀しか見えなかったが、それでもわかる。俺よりは強い」
「まあまあ」
露草は指先を唇に当てて吐息を吐くように笑った。
「では、次の一手は……」
「お前にも動いてもらう。追跡は桑染に任せ、俺たちは仕込みに入るぞ」
鉛丹はそう言って木の葉に覆われて見えない空を見上げた。
月はまだ昇っていない。
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