第一章 枯草は燃える

第一章 枯草は燃える 1

 仄暗く狭い部屋の中央、床に敷かれた茣蓙ござ胡座あぐらをかく狼族ルナガルの青年がいる。


 ここは住人たちが自嘲を込めて監獄と呼ぶその建物に無数に並ぶ独居房のひとつである。

 彼は囚人ではないが、それに準じるような扱いを受けている。手足は鎖にこそ繋がれてはいないが、外を自由に出歩くことは許されていない。


 彼の身なりは狼族をよく知る人が見れば驚きを隠せないであろうほどにみすぼらしい。


 群れの毛並みの良さを自慢し合う狼族にとって身繕いというものは生活の一部として切り離せないものだ。狼族は自らの毛並みを常に気にかけ、仲間のそれにも気をつかう。


 だがそれは狼族の習性だ。


 ここにいる青年は狼族としての名を奪われて久しい。

 彼の名は枯草かれくさ

 燃えあがる時を待つ、枯れた野草だ。


 部屋には灯りが無かったが、狼族にとっては些細なことに過ぎない。

 星明かりほどでも光が差しているならば、狼族には昼間と大差が無い。他種族より色覚が劣る狼族ではあるが、夜行性の狩猟種族である彼らにとってそれが大きな問題となったことは、ほんの近年までは無かった。


 部屋の中央で瞑想する枯草の耳がピクリと動いた。


 狼族の聴力は他の種族と比べて極めて優秀だ。

 狼族のそれはわずかな音を聞き取れるというだけではなく、雑多な音の中から必要な音だけを聞き分けられる能力でもある。


 足音は二つ。

 ひとつは靴音、歩幅は狭く、ゆっくりとしている。猿族サジャラの、それも年寄りだ。

 もうひとつは素足、狼族の、その中でもこれはレインシーカーの足音だろう。いや今は丁字染ちょうじぞめと呼ぶべきだ。猿族がいるところで狼族としての名で呼びかけるわけにはいかない。


 枯草はその場に膝を突くように上半身を持ち上げた。


 狼族なら来客を座って迎えても良いが、猿族の文化でそれをすると失礼に当たる。相手が自分より立場が上となれば尚のことだ。

 一方で猿族は見下ろされるのを嫌う。枯草が立ち上がると大抵の猿族よりは頭の位置が高くなる。そこで折衷案となったのがこの膝立ちの姿勢である。


 やがて足音は枯草の部屋の前で止まった。

 それもそうだろう。この辺りに部屋を与えられている狼族は枯草だけだ。


 組織は枯草たち狼族が結託するのを嫌い、声も届かないほど遠くの部屋にそれぞれを置いた。

 そして枯草の部屋はどこに行くにしても遠回りになる位置にある。わざわざこちらに来るのはここらの独居房に用事がある者だけで、狼族が見張りを伴ってくるとすれば枯草のところだと考えるのが妥当だ。


「枯草ァ、仕事の話だよォ」


 丁字染は機嫌良く言った。彼は猿族の言葉があまり得意ではない。

 とは言え、それは狼族全般に言えることだ。育ちによるものというよりは、発声器官の違いに原因がある。

 幼い頃から煌土国で育った枯草にしても、煌土の言葉を自在に扱えるというわけではない。


「俺たちにか?」


「全員さァ、二藍ふたあいはなだもだァ。開けていいかァ?」


「構わねぇよ。一緒にいるのは鉛丹えんたん様かい?」


「あァ、そうだァ」


 監獄で見張り役をしている年寄りは何人もいるが、鉛丹の足音はわかりやすい。

 気配を消す歩法が染みついている者があえて音を鳴らしている歩き方だ。彼が本気で気配を消したとすれば、訓練を受けた狼族でも気付くことは難しいだろう。

 扉越しとは言え、これだけ近付かれて臭いを感じないこともそうだ。

 他の見張り役たちにはある体臭を鉛丹からは感じない。

 いることは認識できても気配が無い。まるで幽霊だ。いや、実体がある分、幽霊よりも質が悪い。


 若い頃はさぞかし凄腕だったのだろう。

 いや、今でも現役だったか。

 枯草はこれまで鉛丹と一緒に仕事をしたことはなかったが、彼が老人になるまで生き延びているのは、決定的な失敗を犯したことがないことの証左だ。


 錠前の外れる音に続いて、鈍く耳障りな音を立て、扉は開いた。


 監獄の廊下には古びた裸電球が適切では無い配置でぶら下がっていて、フィラメントが切れかかっているのか、それとも電圧が不安定なのか、どの電球も不安定な灯りを放っている。

 暗がりに慣れた枯草は目を瞬いた。


 丁字染の姿を見るのはしばらく振りだったが、以前と変わりは無いようだ。

 狼族らしからぬ毛並みの悪さも枯草と変わらない。組織からの支給品である単衣を身に纏ってはいるが、きっちりと帯を締めている枯草とは違い、着ているというよりは引っかけているかのようだ。


 その隣に立つ小柄な猿族の老人は鉛丹で間違いなかった。

 品の良い煌土の民族衣装を着流しており、自然と立っているだけだが、隙が無い。大太刀を佩いていて、柄に手をかけていないものの、瞬きひとつの間に抜いて切ることができるように思えるような雰囲気がある。

 顔にはいくつかの傷跡が残っていて、修羅場を潜り抜けてきたことを感じさせた。

 猿族の美醜は枯草には分からなかったが、狼族の基準に照らしてみれば、良い戦士の顔だ。


 鉛丹は現役で仕事を請け負っている中では最年長の男である。

 猿族なのでさらに上の立場になる機会はいくらでもあったのに、現場を望み続けているのだという。

 それゆえに鉛丹の立場は曖昧なところがある。一般の構成員よりは上で、しかし部下はいない。必要な時に必要な人材を徴募する権限が鉛丹にはあった。


黒紅くろべに様に話ぁ、通ってンですよねェ?」


「ちゃんと許可はある。書面にもした。黒紅の署名なら見間違えんだろう?」


 鍵盤印字機で作成された書面には、たしかに枯草にも見覚えのある署名が施され、重なるように印が押されていた。

 偽造かそうでないかの判断は付かなかったが、少なくとも書面があることで、この徴募が直属の上司に話が通っているものだと枯草が認識して受けたことになる。

 細かいことだが、それが組織内で自分の立場と命を守るために必要なことだ。


「狼族を四人も集めるてこたあ、単なる殺しってわけじゃないんスね」


 目標にもよるが、基本的に狼族は単独任務を割り振られる。

 夜に特化した彼らの種族特性は静かな殺しに向いているからだ。

 狼族という種族は集団で狩りを行うが、ここでは違う。


「それほど難しく考える必要はない。任務も殺しではない。とある宝玉を手に入れてくる、それだけだ。手段は問わない。必要経費も用立てよう。伸るか反るかだ」


 それだけとは言うが、簡単な任務なら狼族を四人も集めない。つまり鉛丹もそれなりに情報を集めてきたのだ。


「目標の情報と報酬について聞かせてくれやしませんかね」


「それは全員が揃ってからにしよう。繰り返すのは手間だ」


 それはたしかに鉛丹の言う通りだ。

 枯草はいかにも面倒事が舞い込んできたとばかりに、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がった。まだこの胸に燻る熱に気取られてはならない。誰にも。

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