第5話 分離器。

『ちょっと良いかな、タクシーを呼ぼうと思ったんだけど、ナビが不安定で、大通りに出たいんだけど』

「あぁ、ならココを真っ直ぐで大丈夫ですよ」


『そう、ありがとうお姉さん』


 彼は単なる通行人、後ろの車は大手の有名な運送会社のロゴ入りで。

 全く、関係無いのだと勝手に思っていた。


 この平和な世界で、まさか自分が誘拐されるだなんて本気で思っていなかった。


「んー!」

『もし、君が受け入れなかったら、妹さんも不幸にするよ』


 両親すら、私達の見分けに困るのに。

 彼は、自信を持って私を姉の方だ、と。


「んん」

『うん、君が言う通りにしてくれたら、妹さんも家族も不幸にはならない。大丈夫、君を傷付けたりはしない、大切に扱うよ』


 そう言いながらも慣れた手付きでスマホを無効化し、運転席をノックした。

 そのまま車は動き始め、私は目隠しをされ。


 徹夜で妹と愛し合っていた私は、不覚にも眠ってしまった。

 今思えば、あの場にΣも居たのだろう、女αと言えど火事場の馬鹿力を出せるのがαの特性。


 暴れない様に、私を完璧に誘拐する為に、組織が全てフォローしていたのだと。

 今なら分かる。




「はぁ」


 僕は組織の指示に従い、バンの後方を開け彼女の猿轡を外し、正面へと回り込んだ。

 車内へ差し込む月光に晒された彼女は、とても美しかった。


 猿轡の跡をくっきりと付け、唾液にまみれて。


『ごめんね、さ、先ずは言う通りに遺書を書いて貰うよ』


 彼女は困惑と驚愕の混ぜ合わさった表情を浮かべた後、後ろの複数の気配に怯え、息を呑んだ。


「トイレに行きたい、本当に」


 漏らしてくれても全く構わない、と少し悩んでいると。


《自尊心を削ぐのは、後でも宜しいかと》


 僕の正面、彼女の後方に居る人物の1人が声を発した。

 年齢不詳ながらも成人は迎えている、その落ち着いた女性の声に、彼女は更に息を呑んだ。


 僕の考えがバレてしまったらしい。


『ココで漏らすか、僕に下着を剥され拭かれるか、拭かずに下着を付ける事になるか、どれが良い?』


 困惑の度合いが強まった表情、眉間の皺すら愛しい。

 僕の運命の人。


 良い匂い、早く番になりたい。


「拭かれず下着を履く」

『うん、良いよ』




 私は彼の言う通り死を偽装し、妹の元を去る事になった、それしか選択を呈示されなかったから。


「本当に手出しはしないんでしょうね」

『勿論、僕は、ね』


「ちょっと!どう言う」

『この誘拐は僕だけの力じゃない、組織のお陰、その組織も君と妹さんの幸せを願って手を出しているからね。全く手を出さないと確約出来るのは、僕だけ』


「何よ、その組織って」

『組織は組織だよ、そう自称しているし、そう呼ばれている』


「じゃあ、アンタは」

『あぁ、自己紹介は君がΩ化してからね、僕もそれなりの立場に有る人間だから。でも大丈夫、君だけ、君は僕の運命の番になる子だからね』


 そこでやっと、彼がαだと気付いた。

 そして心地良い体臭だとも気付いてしまった。


 確かに相性は良いかも知れない、けれど私の運命の番は。


「私の思う相手はもう決まってる」

『うん、妹さんだよね、知ってるよ。それに良く匂うしね』


「違っ」

『僕、凄く鼻が良いんだ、尋常じゃない位にね。それが仕事だし、だから組織も協力してくれたんだ、嘘の匂いも分かるんだよ』


 そこで有名なαの調香師に似ていると気付いた時、ゾッとした。


 平和になったからこそ、大金持ちが発生し難い世の中で、一気に財を成した一族の者だと理解したからだ。

 疑似的にαやΩの香りを合成し、販売、そのまま国の認可を受け公式に疑似発情香水を一手に担う企業。


 彼は、その財閥の血族だ、と。


「有名企業のお坊ちゃんが、どうして私なんかに」

『カビの影響分類は血じゃ無いって知らない?』


「なら何が良かったんですかね」

『匂い、君の匂いだよ』


 今思うと、きっと彼はΣが居たからこそ、品行方正だったのだろう。

 とても嬉しそうに微笑み、目を潤ませていた、そして頬は僅かに上気してたのだから。


「なら、正攻法で」

『無理だろう、君らは愛し合ってる。それに妹さんから君を引き離したかった、君を守る為に、君のありのままの匂いを保つ為にね』


 金でも権力でも勝てない。

 しかも謎の組織が完璧なまでに私を誘拐した、完全に、私は終わった。


 もう、言う事を聞くしか無い。

 きっと逃げ出せば本当に妹も、両親も、人を使いコイツは害すだろう。


「あぁ、そうですか」


 私は対話を諦めた。

 そして再び訪れた眠気に負け、縛られたまま、荷台で眠った。




『おはよう』


 ストレスで歯軋りをし、涎を垂らしながらも眠る彼女を眺めているのも良かったのだけど、寝過ぎは体に良くないからね。

 泣く泣く、仕方無く起こした。


「あぁ」

『おはよう』


「おはようございます」


 この気の強さも、きっと妹さんとは違う。

 心地良く感じる匂いの要素の1つ、良い塩梅の気の強さ、それと賢さ。


 賢い者は楽だ、そうした学習からなのか、カビの影響なのか。

 賢い者の匂いは心地良い。


 そして善人であれば尚。


『トイレに案内しようか?』


「はい」


 この家は、僕の家。

 嘗ては別荘地と呼ばれていた、ほぼ廃村状態の場所、軽井沢。


 流行病の影響に加え、カビの影響により人が分散。

 更には公共交通機関の本数が減り、人々の財も減り、別荘を維持する事が難しくなった。


 それは金持ちも同様、絶望的な生殖率の低下に、研究資金を出すしか無くなった。

 それこそ私財を投げ売ってでも、子の為、孫の為に各所に金をばら撒いた。


 そのばら撒かれた先で、先祖が能力を開花させた。


『どうぞ、あ、窓には電気が走ってるから触らない方が良いよ。防犯や害虫、害獣駆除の為に、ほらね』


 バチッと外で網戸に当ったハエを目撃した彼女は、僅かに体を強張らせた。

 可愛い、気丈な所も堪らなく可愛い。


「相当、電気を使うのでは」

『仕方無いよ、君を守る為だからね』


「囲う為では」

『それも有るね』


 遺伝に全く関わりなく、カビの影響分類は無作為に発現する。


 そんなのは嘘だ。

 α予備軍からはαらしい匂いが必ずするし、それはβからも、Σからもある一定の香りがする。


 全く関わりが無いワケでは無い、一定の傾向は必ず存在し、場合によっては促す事も可能だ。

 でも、絶対、と言うワケでも無い。


 人の状態に左右されるのも事実。


「あの、戸を閉めたいんですが」

『健康診断では、何故、朝1番の尿を使用するんだと思う?』


「御託は良いですから」

『君の健康状態をチェックしたいんだ、はい、健康診断の時と同じ様にコレに入れて』


「しないと」

『賢い君なら分かるよね、もしかしたら誰かが不幸な目に遭うかも』


「出しますから、閉めさせて下さい」

『見られてると出ない?』


「はい」

『じゃあ出るまで待つね、はいお水、喉が乾いたでしょ』


 今は雨季を抜けたばかり、しかも寝っぱなしだったからね。

 神経性の過眠だとは思うけど、凄く心配だったんだよ。


「何で、こんな」

『勿論、君が好きだからだよ』




 彼の様な男をのさばらせた国を恨んだ、政治家を呪い、彼を憎んだ。


「まさかコレを、毎日」

『ううん、今日は心配だったから過保護なだけだ。あ、お風呂にする?食事にする?オススメは食事、昨日から何も食べて無いでしょ?』


「じゃあ、食事で」

『うん、一緒に食べようね』


 そして用意された食事は、とても奇妙だった。


 オムレツに白米、それとミネストローネに、豆腐。

 まるでベジタリアンの食事内容。


「コレが調香師の食事、ですか」

『そうだよ、コレは緑茶、今回だけ付き合って』


 食卓には、塩のみ。


「何でお醤油が無いんですか」

『僕は発酵食品と相性が悪いんだ、何種類もの匂いを感じ取ってしまうから、疲れるんだよね』


「味噌、醤油、納豆」

『食べるなら、疲れた週末の夕食か夜食でも、少量かな』


「パン、ヨーグルト、チーズ」

『それに紅茶もね』


「繊細」

『壊しても良いけど、君の生活が不自由するだけだから、最終手段に取っておいてね』


「七味、ネギ、ニンニク」

『冷めちゃうよ、頂きますしようね』


「いただきます」


 そして食後にシャワーを。

 シャンプーも何もかもが無香料、そして服も。


『新品だから最初は着心地が悪いだろうけれど、慣れるまで我慢してね』


「大変ですね」

『寧ろ大変さを回避する為にしているだけだから、ごめんね、慣れて』


「あ、お酒」

『飲む瞬間から二日酔いの状態、と言っても分からないか。頭痛、怠さが出るんだ、目が疲れるのと似た感じだよ』


「一体、何が楽しくて生き」


『そう、良い匂いの番と番う為、君と一緒に居る事だけが僕の全て』


「でも、もしΩ化したら匂いが」

『有り得ないから大丈夫、僕の鼻と本能は間違えない、それに君の方もね。ココ、嗅いでご覧』


 彼の首筋、耳の近く。

 確かに彼は殆ど無香、けれど僅かに甘くて、爽やかで。


 いつまでも嗅いでいたくなる。

 けれど。


「でも、だからって」

『忘れなくても良いし、そもそも僕を愛そうとしなくても良い。ただ僕の傍に居て、いずれ番ってくれればそれで良いよ』


「なら、抱けば良いじゃないですか」

『モノには時期が有る。先ず君は理解すべきだ、どうして、何故なのかを知るべきだ』


 そうして渡されたタブレットや紙の資料には、身内が決して番えない理由、番うべきでは無い理由が詳しく載せられていた。

 それでも私が納得しなければ、更に詳しく、具体的な資料が追加され。


 反論するつもりが、日を追う毎に事実が積み重なり。

 残酷な事実を突き付けられ続け、私の心は折れる寸前だった。


「子供さえ望まなければ」

『彼女の子を見たくは無いの?彼女が君の子を望まない、と本気で考えているのかな』


「だからこそ」

『ココまで引き離されなくても、ちゃんと他を受け入れられた?本当に愛しているなら手放すべき、でも愛しているからこそ、難しいんじゃないかな』


 二卵性ならまだしも、私達は一卵性。

 間違っても番えない、例え番えても、健康な子は望めない。


 何度も何度も流産し、流産すればする程に生殖率は下り、やっと生まれたとしても数日しか生きられない子を望む事すら難しい。


 それでも一緒に居たい、そう思っているのに、本当に離れる事が出来るのか。

 無理だ、安心安全で居られる限り、私達は一緒に居ようとしてしまう。


 彼の言葉は正論で、真実。

 愛しているなら、だからこそ、お互いの為にも離れるべき。


 でも。


「それでも」

『急がなくて良いんだよ、無理はしないで良い。忘れないで良い、僕を愛さなくても良い、先ずは理解し納得する所からで良いんだよ』


 分かっていても諦められない、愛しているのに、諦めるしか無いのに。




「抱いて下さい」


 機は熟した。

 彼女は成人となり、内包された悩みが成熟し、諦めを受け入れた。


『本当に良いんだね』

「はい」


 組織の予想通り、この行為はお互いに不本意なままに終わるだろう。

 彼女は僕の番となる事を受け入れたワケでは無い、完全に諦める為に、苦痛から逃れる為に僕を一時的に受け入れるだけ。


 でも、それで良い。

 Ωには、性的刺激が無ければ転嫁はしない。


 コレからやっと、本格的にΩ化する。

 僕の番となる為、体を変化させる為の下準備がやっと完了する。


『はい、今日はコレで終わり』


「まだ、大丈夫で」

『嫌悪感が少しでも出たら転嫁は遅くなる、変化は徐々に、良いね?』


「はい」


 やっと、今日からちゃんとマーキングが出来る。

 僕の為に、更に僕の好きな匂いに変化する。


 触って、舐めて味わって。


 やっと、僕の番になる。

 やっと。



『やっとだね、嬉しいよ、ありがとう。好きだよ、愛してる』


 私は諦める為にも、彼に身を委ねた。

 それから胸が痛む度に私は彼を要求した、けれど彼は直ぐには抱かず、先ずは話を始めた。


 諦めるしか無い、忘れなくても良い、自分を愛さなくても良いからと。

 彼は必ず私に言い含める様に話してから抱き、Ω化させた。


「はぁ」

『暫く会えないから、ごめんね』


「お仕事ですか、どうぞ」

『来月までは必ず帰って来るから、ちゃんと食べて眠って、良い子にしてるんだよ』


「はい」


 Ω化したお陰なのか、妹を思ってもさして胸は痛まなくなっていた。

 それよりも、彼と離れる事の方が辛くなってしまった。


 私の為に敢えて離れたり、甘やかしたり、時に嫉妬させたり。


『ただいま』

「近寄るな、他の女の匂いがする、しかもΩの匂い」


『ふふ、良く分かったね』


「良く分かったねじゃない、何で」

『嫉妬して欲しくて、少し仕事で近くに居ただけだよ。ちゃんと嗅いでみて、特に下半身』


「それが狙いか」

『それも、ね。ほら、一緒にお風呂に入ろう』


 全ては私の気を逸らす為、私の為に、彼は言葉も行動も何もかもを尽くしてくれた。

 そうして私は、愛される事を受け入れた。


 番ってしまったからか、理解してしまったからか。

 私は彼を許してしまった。


「浮気してたら噛み千切るから」

『良いよ、愛してる』


 私も。


 だからこそ、妹にも幸せになって欲しかった。

 例え恨まれても、憎まれても、いつかコレこそが正しいのだと理解してくれる筈だと。


 きっと、早くに彼らと出会っていたとしても、この道は無かった。


 私達は2人で完成され、完璧な存在だと思っていたから。

 だからこそ、他人を受け入れるなど。


 今は、引き離してくれた彼に感謝している。

 私だけでは無く、妹も幸せにしてくれたのだから。

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