第30話 抱える事情・2
明くる朝、早い時間に幸のスマホが着信を告げた。
時刻はまだ六時を少し過ぎたばかりだ。しかしなんとなく予感を持ちつつ画面を見ると、はたして予想通り、そこには氷室の名前が表示されていた。
幸は見ていた朝のテレビ番組の音量を下げつつ、受話器に耳を当てた。
「もしもし、佐藤です。おはようございます」
『氷室だ。朝早くにすまん、今大丈夫か』
「はい。ていうか氷室さんが大丈夫ですか」
思わず幸は早々に突っ込んでしまった。
相変わらず氷室は低血圧らしく、今にも倒れそうな声をしている。どうにか振り絞って電話をかけている、といった風情だ。
『……大丈夫だ、目は覚めている。問題ない』
「暖気運転中ってやつですね、分かります」
『お前……』
いつもと違って、鋭い返しは来なかった。やはり半分――いや、八割ほどはぼんやりしているらしい。
「それで、こんな時間にどうしたんですか?」
『ああ、……頼みたいことがあって』
「何ですか?」
『今日は午後から出勤でいい。子供の好きそうなお菓子や飲み物を買ってきてくれ。悪いが一旦立て替えて貰えると助かる。午後に来た時に返すから』
皆まで言われずともピンと来た。
よって、幸は深く理由を訊きもせず「分かりました」と素直に請け負った。幸が何も追求しなかったことに安心したのか、あからさまに気を抜いた息を吐いた後、氷室が「頼む」と言った。
電話は数秒後に切れた。
何とはなしに幸が画面を眺めていると、朝ご飯の支度をしていた恵美子がひょいと顔を覗かせた。
「どうしたの?」
恵美子の言外に、こんな朝早くに、という疑問が混ざっている。
幸は幸で、知恵を拝借しようと思っていたところだ。話しかける手間が省けたので、これ幸いとばかりに幸は口を開いた。
「ねえお母さん、私が小さい時に遊んでた
「ええ。二階の押し入れにしまってあるけど」
「出してもいい? さっき所長から電話だったんだけど、ちょっと借りたいんだって」
事実に多少の脚色を加えたが、それはあくまでも恵美子に手っ取り早く納得してもらうための方便であって、さして重要な部分ではない。
昨日の夜、ただ事ではなさそうだった氷室。
経緯は知らないが、あの少女の面倒を見なければならない状況に陥っているのだろう。長丁場になるのか数日間で済む話なのかは分からない。けれど、できる限り力になりたかった。
だって、氷室は幸の力になってくれている。
幸が「助けて」と縋ったら、氷室はその手を差し伸べてくれた。
最終的には今後の労働で恩返しをしていく形にはなるのだが、できることがあるならば、それは今やるべきだ。
「その辺引っ張り出す時間をくださいって言ったら、今日は午後からでいいって」
「あらそう。じゃあ朝ご飯の後、出してあげるわね」
変な電話ではなかったことを確認し、恵美子がほっとしたように笑った。
* * * *
幸は一人っ子だった為、兄弟間での玩具争奪戦というものはなかった。故に、懐かしい思い出のそれらは比較的綺麗な状態で仕舞われていた。
積木からブロック、人形やぬいぐるみから果ては絵本まで。
段ボール箱三つくらいに保存されていた中から、持ち運べそうでかつ綺麗なものを見繕い、幸は肩掛けのスポーツ用ドラムバッグに一式を詰め込んだ。
「そんなに沢山、重くない? 大丈夫?」
玄関まで見送りに出てきてくれた恵美子が心配そうに言う。
幸はヒールの無い靴を履きつつ、ひらひらと手を振った。
「嵩張るけどそこまで重くないから」
「そう? 気をつけてね」
「うん、行ってきます。ひょっとしたら今日もちょっと遅いかも」
昨日の今日で、普段とは仕事の状況が異なっている。氷室から事情が説明されるか否かは分からないが、心構えはしておくに越したことはない。
恵美子は「夕方になったらまた連絡してね」と物分かりの良い返事で――大らかすぎるだけなのかもしれないが、口うるさいことは言わずに送り出してくれた。
事務所に入る前に、幸はスーパーにも立ち寄った。目的は氷室から頼まれたものの買い出しである。
お菓子と飲み物。
小さい子の好きそうな。
言われたオーダーを頭に思い描きつつ売り場を眺めた時、ふと幸の頭に疑問が浮かんだ。食事はどうするのだろう、と。今日一日だけにしても、あの年齢の子が三食それで良いはずがない。
とりあえず飲み物は買うにしても、嗜好品であるところのお菓子は保留だ。どうしても欲しがるようであれば、また買いに出たって構わない。
それよりもまずはご飯だ。
思考を切り替えたはいいものの、そこでまた幸は壁にぶつかった。そもそも大人と同じ食事で大丈夫なのだろうか、と。世間一般には離乳食という言葉がある。離乳というからには乳児から幼児に成長するタイミングで必要とされることは想像できる。が、それが何歳から適用されるのか、残念ながら母親になったことのない幸には皆目見当もつかなかった。
こういう場合、経験者に訊くのが手っ取り早い。
鞄の中にしまい込んでいたスマホを取り出し、実家の電話番号を検索したところで、しかし幸は次の壁に直面した。
幸を育てた母である恵美子に訊くのはいい。だが訊いたが最後、確実に怪訝に思われる。
下手な受け答えをすれば、心配性の恵美子のことだ、手伝いにくると言い出しかねない。仮にそれを呑んだとして、そうすると事務所に恵美子がいると偽装結婚の段取りや相談がまったくできなくなってしまう。ただでさえ時間が限られているのに、それは歓迎できない状態だ。
駄目だ、実母カードは切れない。
結局幸は電話でのヘルプを早々に諦めて、野菜と肉、魚のバランスを考えた普通の材料を買っていくことにした。行く途中にスマホで調べれば、最低限の知識は得られるだろう。最悪、薄味にして刺激物を入れなければ、多分、乳幼児でもいけるはずだ。
早めに家を出たので、まだ昼前である。急げば昼ご飯は間に合うだろう。
そう考えて、幸は足早に店内を回った。
* * * *
「こんにちはー」
ライオン扉を開けつつ幸が声をかけると、応接に座る二人がいた。
氷室と、予想通り昨日の女の子だ。
絵本を読んでいたらしい二人は、幸の声に同時に振り返った。そして幸は瞠目する。人見知りをするように氷室の影に隠れた女の子が、ちょっと見ないレベルで可愛かったのだ。
隠れてしまった少女の頭を撫でつつ、氷室が立ち上がった。
「随分早いな。急に悪かった」
「いいえ。お昼ご飯作ろうと思いまして」
「昼?」
「はい」
頷きつつ、幸は壁掛け時計を指さしてみる。丁度正午を迎えた時分だ。
「どこか出かけたりする予定でした? それならそれでいいんですけど」
「……いや。考えてなかった」
「だと思いました。朝は食べました?」
「コンビニで軽く」
「予想通りですねえ」
似たようなやり取りを四月の初めにしたことを思い出す。
懐かしさを覚えつつ、幸は遊び道具の入ったドラムバッグ、両手に持った買い物袋をダイニングテーブルの上に置いた。家から寄り道を挟んで背負いっぱなしだったので、さすがに肩が痛む。凝りを解すように腕を緩く回しながら、幸は氷室に向き直った。
「あの子の分も作っていいですか?」
「作れるのか」
「薄味にすればいけると思います。アレルギーがあるかどうか、知ってます?」
「特にないはずだ」
「分かりました。話しかけても?」
「……ああ」
氷室は面食らったように目を瞬いた。
幸が何も詮索しないことに驚いているようだが、幸としては少女を前にしてその話をするべきではないと思うし、まずは体調を気遣ってあげたいのだ。
途中で寝入ってしまったらしいとはいえ昨夜遅くに車で移動していること、泣いていた跡が見えたこと。
小さな子には非日常であろうし、あまり良いこととはとても思えない。
まして、思いつめた表情で、氷室が少女を見つめていたこと。
聞くまでもなく何らかの事情があることは分かる。即座に問い詰めなくても、必要であれば氷室がいつか打ち明けてくれるだろうとも思う。
氷室の了解を得て、幸は応接のソファに座り込んでいる少女の傍に寄った。
床に膝をつき、下から窺うように目線を低くする。極力優しい顔になるよう意識しながら、幸はそっと少女に話しかけた。
「こんにちは」
少女が躊躇うように身体を僅かに引いた。まるで仔馬が見慣れないものを目の当たりにして、竦むようだ。
大きなアーモンド型の瞳が二度三度瞬きを繰り返す。少女はそのまま背中を振り返り、所長机の隣に立つ氷室を縋るように見る。視線を受けた氷室が、「
「結ちゃん?」
呼びかけて少し待つと、少女――結がもう一度幸に向き直ってくれた。
小首を傾げて幸が下から窺うと、結は躊躇いがちに頷いた。
「初めまして、結ちゃん。お姉さんの名前はね、佐藤幸っていうの。さっちゃん、って皆から呼ばれてるから、結ちゃんもそう呼んでくれる?」
「……さっちゃん?」
「そう。幸だから、そのまま、さっちゃんなの」
「保育園にも、さっちゃん、いるよ」
それまで硬かった結の表情が、ぱっと明るくなった。
こんなことで少女が少しだけとはいえ心を開いてくれた。今ほど自分の名前が「幸」で良かったと思ったことはない。
何の変哲もない名前だけれど、童謡にも歌われるほどありふれているけれど、その代わりこうして万人から親しみを持ってもらえる。両親への感謝と共に、幸の頬は自然と緩んだ。
「結ちゃんのお友達?」
「うん」
「そっか。お姉さんさっちゃんも、結ちゃんとお友達になりたいな」
大きな黒目がちの瞳が、瞬きを繰り返した。
「どうして?」
「お姉さん今からお昼ご飯食べるんだけど、一人じゃ寂しいから、一緒に食べてくれる人探してるの。だから、お友達になってくれないかなあって」
「さっちゃん、一人なの?」
「うん。だから結ちゃんがお友達になってくれたら、嬉しいな」
「いいよ?」
「わあ、ありがとう!」
幸は結の小さな手を取って喜んで見せた。一瞬驚いた顔をした結は、次に笑ってくれた。
優しい子だ。
困っている者、助けを求める者に「いいよ」と言える、思いやりのある子。初対面にもかかわらずその聞き分けの良さに、幸は何故か胸が痛くなった。
その後、何を食べたいか幸が尋ねると、結のリクエストは「オムライス」だった。実に子供らしい希望で、幸は二つ返事で了承した。
支度をする間、結のことは氷室にもう一度任せた。ご飯を炊く間に幸が野菜を刻んでいると、「おい」と背中から声が掛けられた。顔だけを給湯室の入口に向けると、そこには氷室が立っていた。
足元に結はいない。おとなしく一人で絵本を読んでいるか塗り絵をしているのだろう。先ほど幸が自宅から持ってきたそれらを、結は目を輝かせて見入っていた。
「すいません、さすがに十五分しか経ってないので、まだ完成してません」
早炊き機能を使ってはいるが、それでも米が炊けるまでにあと十分はかかる。
まさかこんなに早く督促を受けるとは思っていなかったので、幸は若干焦った。が、氷室は無言で首を横に振り「そういう話ではない」と言外に含んだ。
「お前は凄いな」
「……は?」
思わず野菜を刻む幸の手が止まった。氷室相談所あるある、「何言ってんだろうこの人」シチュエーションだ。
藪から棒に、一体何が凄いというのだろう。
凄いというのは氷室みたいな人間のことを指す為にある言葉のはずで、特殊技能も持たず顔も平凡でどこにでもいるような幸に使うもんじゃない。幸が疑問符を頭の上に浮かべていると、氷室が肩を竦めた。
「結は人見知りが激しいんだが」
それがすぐに懐いて驚いたのだと氷室は言った。
成程、言いたいことは良く分かった。そして残念ながら訂正しなければいけない部分がある。
「それはあの子が優しいからですよ」
「何?」
「確かに人見知りっぽいなとは思いましたけど。別に私が凄いわけじゃなくて、『助けて』ってお願いしたら『いいよ』って応えてくれる優しさを結ちゃんが持ってるだけです」
「……そうか?」
「そうですよ」
「そうか」
「それ言う為にわざわざ?」
「あ、いや……」
珍しく氷室が口籠った。
何かを言い出し辛そうというか、言葉を探している風の微妙な面持ちだ。それを見て、何となく幸は氷室がこの状況を説明しようとしてくれているのだろうと察した。
その誠意は素直に嬉しい。
だが戸惑っている様子を目の当たりにして、無理はしないでほしいとも同時に思う。誰しもに、おいそれと他人には打ち明けられない事情はあるだろう。他でもない幸自身がそうだった。言おう言おうと思いながら月日は流れて、ようやく氷室に説明できた時には出会ってから二ヶ月以上も経っていた。
待ってくれた氷室がいたから、幸も待てる。
到底追いつけはしないと分かってはいる。それでもこの二ヶ月で触れた氷室の優しさに、少しでも近づけたのならと思うのだ。
「その内、気が向いたらでいいです」
声に出してみると、驚くほど自然に幸の頬は緩んだ。
「氷室さんが言いたくなった時に。今は何も」
説明も何も今は要らない。
それを伝える為に、幸は首を横に振った。
「気にならないのか」
「まったく気にならないと言えば嘘になりますけど。でもこういうのって、無理に訊き出すものじゃないでしょう? それに自分の中でのタイミングっていうか踏み切りみたいなの、ありますよね」
「……」
「だから、いつか言ってもいいかなと思った時に。いつかが来なくても、それはそれで構いません」
「何故だ」
「なんでって……」
思わず幸は口元を綻ばせた。
これほどに穏やかな心で幸がいられるのは、他でもない氷室がそう在ってくれたからなのだ。待つことを厭わない当の本人が首を捻るとは、何とも可笑しな光景だ。
氷室は怪訝な顔を隠さない。
本当に分かっていなさそうだ。そしてそれが新鮮でもある。
「秘密です」
「あ?」
「内緒です」
「おい」
氷室の眉間に皺が寄った。
幸は聞こえないふりをして、再び調理に取り掛かった。ここはいいから結の相手をするよう言い含めると、氷室は渋々引き下がった。釈然としていなさそうなその後ろ姿を見て、また幸は小さく笑った。
いつも余裕がないのは幸の方だ。
たまには逆転しても罰は当たらないだろう、そんなことを思いながら。
* * * *
その後。
「お前、これ……」
食卓につきながら氷室が絶句した。
「すいません、小さい子の食べる分量がよく分かんなくて」
つい作りすぎてしまった。幸は頭を掻きつつ謝罪を口にした。
ダイニングテーブルに並んでいるのは、明らかに大、中、小と分量が違うことが分かるオムライス三皿だ。卵の上にはケチャップで名前が書かれている。
大に当たった氷室がその物量を目の当たりにして、先の呟きと相成ったのである。
「あの、無理だったら残して下さい」
氷室はそれなりに良い体格をしているが、それでも皿から溢れんばかりのオムライスは厳しいものがあるだろう。そう思って幸は先にタオルを投げ込んだ。
ところが蓋を開けてみると、氷室は完食した。
「あの量が一体どこに入ったんですか」
幸が目を丸くして呟くと、苦しそうに顔を歪めながら氷室が応えた。
「作ってくれたものは食うのが礼儀だろう」
言い終わるや否や、ふ、と息が漏れる。
この人は本当に、言葉は辛辣なのにいちいち義理堅い。
「ありがとうございます。次は……気を付けますね」
「……そうしてくれ」
かろうじて相槌を打った後、「う」とも「ふ」ともつかないため息がもう一度氷室から漏れた。
そんな二人のやり取りを、結が不思議そうに眺めていた。
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