第31話 抱える事情・3


 オムライスにデザートの苺に満足したのか、後片付けを終えた幸がふと見ると、結は応接ソファの上で眠ってしまっていた。絵本を抱えたままだ。隣には氷室が座っていて、無言で少女を見つめている。いつも通り端正ながら、その横顔は随分と穏やかだった。

 結が寝入っているソファの対に、昨晩使ったタオルケットがかけてある。幸はそれを手に取って、そっと結の小さな身体にかけた。

 眠っていても結の愛らしさは抜群だった。思わず幸は安らかな寝顔に見入る。

「結ちゃん、超絶可愛いですよね」

 この分だと生まれた時から類稀な容姿だったことだろう。

 赤ちゃんモデルや子役をやってますと言われても何ら違和感がない。こんなに可愛い娘ができたのなら、父親はさぞかし心配だろう。悪い虫がつくのもさることながら、将来の結婚式を想像するだけで心が痛くなりそうだ。とりあえず幸ならこんな可愛い娘、絶対に嫁になどやりたくない。

 同意を求めるつもりで幸は氷室に視線を投げたが、氷室からは特に何も――視線も言葉も、どちらも返っては来なかった。

 あれ、と幸は首を捻った。

 普通ならここで「ああ」とか「そうだな」とか同意する場面だろうに、どうして何も反応がないのだろう。

 結は「子供だから可愛い」枠を逸脱している。ふくふくのほっぺたや、青味がちの本当の黒目といった類の、小さい子には大抵備わっている可愛さだけじゃないのだ。さらさらの柔らかくて真っ直ぐな髪、眉は意思が強そうに整っているが、その下にある瞳は二重で大きい。羽ばたけそうな睫毛にも彩られて、所謂とても華やかな顔立ちだ。

 あるいは見慣れているから特に感慨深くもならないものなのか。氷室自身も整っている側の人間であるし、異性でいえば氷室の妹である檀も容姿に大変恵まれている。

 脳内で一人問答を片付けて、幸はあることに気が付いた。

 そういえば、結は檀に似ている。檀の小さい頃と言われて結の写真を見せられても、多分疑わずに信じられそうだ。

「なんだか雰囲気が檀さんに似てますね」

 黒髪の華やかな美人というカテゴリで括ると、完全に方向性は一致している。

「そうか?」

「檀さんが小さかった頃はこんな感じかなって思いますし、結ちゃんが大人になったら檀さんみたいになるような気がします」

「……そうか?」

「なんで疑問形なんですか? ……あれ、でも檀さんに似てるってことは」

 そこで区切って、幸は氷室の顔をまじまじと見つめた。

 初めて檀に会った時、幸の抱いた感想は「氷室によく似ている」だった。迫力あるあの美貌の中で、殊の外似ていたのはその涼やかな切れ長の目だ。

 翻ってみると、結もそれと同じ目だったはずだ。子供特有のあどけなさはあるがそれでも大きな切れ長の瞳だった。今は眠っているから確かめるわけにもいかないが、先ほどまですぐ傍で見ていたのだ、間違いない。

 意外な共通点に驚き、幸は口を手で覆った。

 すると、そんな幸を見て氷室が怪訝な顔をしてみせる。

「どうした?」

「あ、いえ。結ちゃんって、檀さんよりむしろ氷室さんにすごく似てるなあって気付いて」

 言い終わるか否かで、氷室が瞠目した。

 持ち上げられた眉、開かれた目、明らかに驚いている。

 同時に幸も驚いていた。自分で思いついて自分から口に出したことなのに、氷室の反応を見て何故か禁忌に触れたような、落ち着かない心持ちだ。


 似ている二人。

 どうして似ているのだろう。


 眠る結は、見れば見るほど氷室にそっくりだ。それは鈍い幸でさえ、血の繋がりを感じる程。

「氷室さん。結ちゃんって、……」

 最後までは訊けなかった。

 しかし氷室は幸の意図を正確に汲み取ったらしく、次の瞬間にぽつりと呟いた。視線は結にそっと注いだまま。

「……俺の娘だ」

 何を言ってるのだろう、この人は。

 さっき心で呟いたばかりの台詞を、まさかこのタイミングでもう一度呟くことになろうとは夢にも思わなかった。しかし現実の幸は声どころか息さえ漏らせず、氷室の横顔をただ凝視するだけだった。


*     *     *     *


 それは氷室からの提案だった。

 今、幸と氷室はダイニングテーブルに向かい合わせに座っている。氷室は出された茶に手も付けず、ただ湯呑みを漫然と映していた。幸は幸でそんな氷室を目の当たりにして、呑気に茶を啜る気にはなれない。結果、湯呑みから立ち昇る湯気は残念そうに空中に霧散するばかりだった。

 話したいことがある、と。

 思い詰めたような決死の表情で氷室が言ったのは、およそ十五分ほども前になる。

 承諾した幸は、少しでも人心地がつくかと期待してとりあえず茶を淹れてはみた。しかし効果は皆無に等しいようで、氷室はテーブルについてから今の今まで、硬い表情を崩さなかった。


 ずっと言葉を探している。


 こんな氷室を見るのは初めてだ。引き結ばれた唇は、二度と解かれないのではと不安になる。

 こうなったきっかけは、氷室と結が酷似していることに幸が気付いてしまったからだ。

 たまたまだった。幸には問い詰めるつもりなど毛頭なかった。たまたま偶然、連想ゲームの要領で結に似ている人物を思い浮かべていたら、氷室に行き着いてしまっただけだ。

 そこまで辿り着いて尚、二人が親子であるまさにその可能性を、幸は微塵も考えていなかった。

 だから「似ている」と不用意に口に出してしまった。

 幸の感想に近い指摘に、氷室が大きく動揺を見せた。いつもの氷室なら表情一つ変えずに話を逸らすことも簡単だったはずだ。できなかったのかしなかったのは定かではないが、いずれにせよ今更無かったことにはできない。それは氷室も、幸も、どちらにとっても同じことだ。



 幸はせり上がる数々の言葉をひたすら飲み込んで、無言で待ち続けた。

 ともすれば言ってしまいそうなのだ。もういいです、と。それほどに悩むのであれば、何もかも聞かなかったことにしますから、と。

 油断をすれば出そうなそれらの言葉を、しかし幸は言いたくはなかった。氷室が話したいと言っているからには、受け止めたい気持ちが確かにある。

「何から話したものだろうな」

 ようやく氷室が喋った。しかし迷いがありありと見えている。

 相槌に迷った挙句、幸は言った。

「思いつくまま、というのはどうでしょうか」

「思いつくまま?」

「はい。氷室さんが思いついた順番に、話したいことだけ」

 どんな風でも幸は構わなかった。

 真実は既に知った。氷室と結は血の繋がった親子だ。最も大切なその部分を理解さえしていれば、如何なる背景が二人の間にあったとしても、それは些事なのだ。

 受けた方の氷室は「分かった」と言って、テーブルの上に投げ出していた両手を握りしめた。

「俺に離婚歴があることは知っているな」

「はい」

「結は一人目の嫁との間の子だ。四歳になる。今年の誕生日が来れば五歳だ」

「はい」 

「別れた時に結はまだ十ヶ月で、男親の俺は親権を取れなかった。面会は月に三回認められていたから、昨日まではそれでやってきた」

 一度、氷室が区切りを入れた。

 幸は氷室の一言一句を漏らすまいと、目を逸らさずにずっと耳を傾けていた。

「昨日お前が受けた電話。表示された篠原響子というのは結の母親、つまり一人目の嫁の名前で、これまで結が電話口に出たことは一度もない。響子が自分の携帯は絶対に触らせなかった。だから俺は頭から響子がかけてきたとばかり思っていたんだが、伝言内容を聞けば聞くほど不自然だった」

「泣くはずがない、とかですか?」

「残念だがそんな殊勝な理由じゃない。響子が電話をかけてくるのは、金の無心をする時だけだった。ところがそんなことは一言も言ってないとお前が言う。多少の演技で多めに掠め取ろうとしているのかとも思ったが、響子は俺のことを『お父さん』とは絶対に呼ばない。つまり、昨日俺の携帯に電話をかけてきたのは結だ」

「どうして昨日に限って?」

「響子が結を置いて出ていった」

「……え、」

「新しい男ができたらしい。大方、結が邪魔になったんだろう。家はもぬけの殻、古い携帯も置きっぱなし。どんな相手かは知らんが、辿れるようなものは全て置いて身の回りの物だけまとめてついていったようだ。そのお陰で、かろうじて結は俺に助けを求められたわけだが」

 淡々と語られる事実に、幸の胸が詰まった。

 言葉が出てこない。

 なんてこと。

 なんてことをするのだろう。

 胸に渦巻く憤りは烈火のようであるのに、形になる想いはそんなありきたりな憤り一辺倒だ。

 もはや相槌も打てない。幸はただ唇を噛みしめた。絶対に泣くものか、その決心だけは守り抜く為に幸は膝の上で手を握りしめた。

「響子に新しい相手ができたこと自体は、驚くようなことじゃない。離婚の理由がそもそも俺に飽きて別の男を見つけてきたことによる。だからその点は別にどうでもいい」

 氷室の声は温度がなかった。

涼月すずつきに泊まった時、俺が電話口で『いいかげんにしろ』と叫んだのをお前も聞いていただろう。あの時の相手が響子だった。金の無心で、それも今までにない法外な金額だった。だから俺は電話を叩き切った。今思えば、あれが間違いだった」

 氷室が両の掌に顔を埋めた。

「……俺が言う通りにしていれば、結が置いて行かれることもなかったかもしれん」

 深い深い後悔と自責の念に氷室は沈んでいた。

 どれだけ肝を潰したことだろう。想像するに余りある。

 自分で育てたかった娘。やむを得ない事情とはいえ可愛い盛りに別居を余儀なくされて、会えるのも月に数回。きっとしっかり育ててくれていることを願いながら、それがある日突然放棄されていたなど。

 偶然とはいえ、氷室への連絡手段が残されていたのは不幸中の幸いだった。

 しかしもしもそうではなかったとしたら。

 年端もいかぬ少女が、きっと母親が帰ってくるであろうことを信じてたった一人で待ち続けたとしたら。

 その先に待ち受ける結果は想像もしたくない。


 氷室の手が微かに震えている。


 初めて見る氷室の弱さに、幸は「そんなことはありません」とは言えなかった。

 多分そういうことではないのだ。

 氷室が金を渡したとしても、早晩同じ結果は訪れていただろう。少し考えれば分かるはずだ。男を取ると決めたのなら、娘が邪魔になるのは自明の理である。幸が考えても簡単に辿り着く答えで、聡明な氷室がこれに気付いていない訳がない。

 小さなその娘が、ただ本当に大切なのだ。

 大切であればあるほど、危うく毀損されそうになったその事実が許し難いのだろう。



「電話に出たの、間違いじゃなかったんですね。良かった」

 もしもで仮定することが辛すぎて、幸は過去に言及することができなかった。

「良かった。ちゃんと結ちゃんの声、『お父さん』って聞き取れて」

 ふと氷室が顔を上げた。

 張りつめていたのだろう、顔色はいつも以上に白く、蒼白になっている。だが表情は少しだけ呆けたように力が抜けている。構わずに幸は続けた。

「氷室さんが気付いてくれて良かった。結ちゃんに何もなくて、……本当に良かった」

「……」

「ご飯も食べてくれたし、昼寝もできてるし。氷室さんの傍で、安心したんでしょうね」

 氷室がふと背中を振り返った。

 応接のソファの上、あどけない寝顔が見えた。見つめる氷室の目尻が薄く赤いような気がしたが、幸は自分の気のせいだと思うことにした。


*     *     *     *


「すまん」

 少しだけ落ち着きを取り戻したように見える氷室が、小さく言った。

 幸は首を横に振った。

「そんな。謝ることなんて」

「いや、……」

「氷室さん?」

「俺は良かったなんて全く考えていなかったから、目から鱗だった」

「そ、そうですか?」

「ああ。前から思っていた。お前は時々、真に迫る言葉を吐く。鈍臭いと思っていたが、中々どうして」

「……褒められてる気がしないのは何でですかね?」

 さすがに幸の眉間に皺が寄った。

 だがそんな幸を見て氷室がいつも通りに笑ったので、幸はそれで良しとした。

「あの、氷室さん」

「うん?」

「これからどうするんですか……?」

 いつ戻ってくるともしれない母親は当てにはできないだろう。よしんば戻ってきたとしても、はいそうですかと結を手渡す訳にもいかない。また同じようなことが起こる可能性は大きい。

 幸の問いに、氷室は静かな目で応えた。

「俺が育てる」

 絶対に手放さない。続けた氷室の決意は固かった。

 それを聞いてほっとしている自分がいることに、幸は驚いていた。安堵した理由を自問自答して、やがて答えが出た。


 きっと、嬉しいのだ。

 人間として大切な部分を、氷室が持っていることが。


 年下の分際で、まして結婚したこともない子を持ったこともない幸が言うのはおこがましいが、それでも。

 真摯に生きるその姿勢を、とても尊敬している。

 そしてそういうところが好きなのだ。






「……!?」

 幸は飲みかけたお茶を噴いた。幸いにも全て湯呑みが受け止めてくれたが、いきなり噴いた幸を見て、明らかに氷室が驚いている。

「どうした、大丈夫か」

 自分で自分に言いたかった台詞が、タイミングよく氷室からかけられた。

 そう、どうした自分。大丈夫か自分。今、さらりととんでもないことを考えなかったか。

 幸は激しく動揺した。動揺しすぎて、氷室に返事ができなかった。すると何を勘違いしたのか氷室がわざわざ立ち上がって幸の隣にきて、背中をさすってくれた。

 結果、幸の顔は茹で蛸のように真っ赤になった。完全に逆効果だ。

 それを見た氷室が重ねて「大丈夫か」と心配してくれたが、幸は氷室の顔を凝視するばかりで声を出せなかった。そしてそれは重ねて完全に失敗だったことを幸は悟る。至近距離で見る氷室の端正な顔に、幸の熱は更に上がることとなった。


 嘘でしょう、と。


 初めて認識した正直な自分の想いに、幸は信じ難い気持ちで一杯だった。



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