第29話 抱える事情・1
その日に限って氷室の帰りは遅かった。
戻らない氷室にやきもきしながら幸は昼食を作り、食卓を整えた。食卓といっても、応接を使うわけではない。この相談所には一般家庭にあっても遜色ない、四人掛けの立派なダイニングテーブルがある。給湯室に入る手前の広いスペースに鎮座ましましていて、しかし幸が雇われた当初は完全に物置場になっていたという可哀想なテーブルだ。
幸が昼食を作るようになってからは、ダイニングテーブルはめでたく本来の役割を毎日しっかり果たしている。
それなりに余裕のある卓上に食事を並べ終わった時、ようやくライオン付き扉が音を立てて雇い主の帰還を告げた。
「!」
背中で音を拾った幸は、高速で振り返った。そして入口に立つ人物を凝視して検める。
良かった、氷室だ。
多分幸の唐突な動きの所為で面食らって立ち竦んでいるが、雇い主で間違いない。認識するが早いか、幸は氷室に駆け寄った。そう広くはない事務所だ、ものの五秒もかからない。
「おかえりなさい。あの、氷室さんに電話が」
「電話?」
首を傾げつつ、氷室があちこちのポケットをぱたぱたと確かめた。当然出てくるはずもなく、あ、という顔になる。
「忘れてたか」
「はい。電話がかかってきて、すみません、代わりに出ました」
スマホを差し出しながら幸は正直に言った。
受けた氷室は咎めるでもなく、むしろ不思議そうに眉を持ち上げた。それを見た幸は画面に視線を落としつつ説明を付け足す。
「すごく長く鳴ってたんです。それで、ものすごく困っている新しい相談者さんなのかもって心配になって」
「新しい相談者?」
「えっと、より厳密にいえば私が知らないだけの相談者さん、でしょうか。名前が出てたので」
既に手渡したスマホを指さすと、氷室が持ったままだったスマホをそこで初めて操作した。
着信履歴はボタン一つの操作で表示されるはずだが、氷室はすぐには口を開かなかった。代わりに眉間にものすごい皺が刻まれる。どう見ても歓迎してなさそうな雰囲気に、幸は息を呑んだ。
そのまま画面を眺めて熟考の後、氷室がやおら顔を上げた。
「本当に響子と名乗ったか」
「え?」
「この電話。どうせお前のことだ、俺が留守にしているから代わりに出たとか説明をしたんだろう」
「あ、はい。一時間くらいで戻るから、折り返しでもいいか聞きました」
「何を言ってきた」
「何をって……」
先ほどの電話を幸は思い返した。
何かを言われたというようなことはない。むしろ相手の要求が汲み取れず、中途半端さが残る電話だった。
どう伝えたものかと幸が思案を巡らせていると、氷室がため息交じりに所長机へと歩み寄った。買ってきたらしい分厚い本三冊を机の上に置き、ついでにスマホも放り投げる。その扱いはいつも以上にぞんざいだった。
そのまま氷室は椅子に腰を下ろしつつ言った。
「遠慮する必要はない。どうせ金を寄越せと叫んでいただろう」
「……お金?」
「悪かったな。耳に悪いことを言われただろう」
単純に話の流れが読めず首を傾げる幸だったが、氷室は幸が口に出せないほど憚っていると踏んだらしい。
氷室の口から続いたのは衝撃的な言葉だった。
「そうだな……どうせ俺の金目当ての情婦、あたりか。わざわざ気にして電話に出てもらったのに、悪かった」
言うが早いか、氷室は一度立ち上がり、机に手をついて幸に頭を下げた。
「え……え、氷室さん!?」
「俺からよく言い聞かせておく。不愉快だっただろうが、すまん、この通りだ」
「違います、氷室さん、違うんです! 誰と間違ってるのか知りませんけど、氷室さんの予想してる電話とはかけ離れてます、多分!」
さながら立ち土下座のような氷室に、幸は慌てて取りすがった。
多分、完全に何かを勘違いされている。
しかしその方向性が幸には皆目見当もつかないので、とりあえず受けた電話を詳細に説明するしかなさそうだ。幸は机につかれた氷室の手を揺さぶり、「顔を上げてください」と必死に頼み込んだ。覚えのないことに謝罪を受けても、困惑するしかない。
ようやく顔を上げた氷室は半信半疑の顔をしている。
もう一度幸は「違うんです」と断りを入れて、何があったのかを伝えた。
「あのですね、氷室さんが心配されているような電話じゃないと思います。とりあえず響子さんは名乗りませんでした」
「名乗らなかった? じゃあ、『あんた誰よ』とか『稜のなんなのよ』とか言われては」
「ないです。むしろほとんど無言でした」
「無言? 響子が? 俺をどこに隠したとか、俺の女になったからっていい気になるなとか」
「断じてありません」
そんな物騒な台詞、一つもなかった。
むしろここまでくると、氷室が一体誰と間違っているのか甚だ心配になるレベルだ。このままいけば無関係の相手にとんでもない名誉棄損になりかねない。
誤解を解くべく、幸は慌てて続けた。
「多分、泣いてました。電話越しだったんではっきり聞き取れたわけじゃないんですけど、すごく堪えてる様子で」
幸の言葉を聞いた瞬間、氷室が目を丸くした。
力一杯「想定外だ」と顔に書いてある。「まさかそんなはずはない」とも読み換えることもできるが、幸にしてみれば氷室の言う内容の方が「まさか」である。
「響子さん、最初に『お父さん?』って言ったんです。私が聞き間違えたかと思って、氷室さんの電話だってことと、氷室さんが留守にしてて代わりに私が出たことを説明したんですけど、特に何も言われませんでした。無言のまま。それで、折り返しでもいいか聞いたらすごく迷ってました。その後もう一回『お父さん』って言われて、掛け間違いか訊いてみたんですけど、泣いちゃったみたいで何も……会話らしい会話はできなくて、結局、氷室さんが戻ったら必ず折り返しますから、とだけ伝えました」
そういう経緯なので、できればかけ直して欲しい。そう幸が伝えると、氷室が難しい顔で黙り込んだ。
沈黙が降りる。
氷室が何かの判断を迷っているように見えるので、幸は些細なことも漏らすまいと口を開いた。
「最後は向こうから電話を切られました。間違い電話の割には、最後まで私の話を聞いてくれました。私は氷室さんの知っている響子さんだと思って話をしましたけど、氷室さんが言うようなことは何一つ言われませんでした。むしろびっくりしてます。別人じゃないかって思うくらい」
別人、と言った瞬間、氷室がはっとした顔で幸を見た。そして画面を見て、もう一度幸に視線を戻す。それまで考え込む風だった顔が、今は険しくなっていた。
「響子とは名乗らなかったんだな? そして、お父さん、と言った」
「はい」
幸が答えるが早いか、氷室が勢いよく立ち上がった。
「氷室さん!?」
動きの早さと勢いに圧倒され、思わず幸は仰け反った。
しかし氷室は何も答えず、そのまま机の上に置いてある車のキーを引っ掴み、勢いのまま踵を返し、あっという間に事務所を飛び出していった。
今日はもう帰っていい。
出ていく間際に振り返って、氷室はそれだけを言い残していった。重ねて何かを訊けるような間はなかったし、それが許されるような雰囲気でもなかった。
* * * *
静けさが戻った事務所の中で、幸はとりあえず作った昼ご飯にラップをかけた。
氷室の分は言わずもがな、自分の分も手を付けていないが、さりとて今は食べる気になれない。壁掛け時計の音が小さく響く部屋の中、幸は応接のソファに座り込んだ。
何も言わずに出ていった氷室を、責める気にはなれなかった。
どちらかといえば心配が募る。氷室は明らかに血相が変わっていた。それまでに交わしたやり取りの行間を読むに、篠原響子という人物は氷室にとってあまり好ましい相手ではないようだ。しかし深そうな仲であることも同時にまた知れる。
お父さん、と言って言葉に詰まった彼女。
もしかすると、彼女の父親に何かあったのかもしれない。事が起こるのはいつも急だ。幸の父、雄三が倒れた時もそうだった。
氷室との関係性がどのようなものかは分からない。けれど、一大事に頼るような仲だ。氷室は悪し様に言っていたが、何かが引っかかる。帰っていいと言われたが、幸は残ることにした。
定時になっても氷室は戻ってこなかった。
いつもならば五時になれば幸は片付けをして帰宅するが、今日はそうしなかった。帰りが遅くなるという連絡は、恵美子にメッセージを入れておいた。まだ病院にいる時間だ。晩御飯は要らないと打ったから、これに気付けば長居してくるきっかけにもなるだろう。
連絡はものの五分で片付いた。ついでに掃除や整理整頓はやり尽くしたので、幸は書架から本を引っ張り出して読むことにした。
以前から目をつけていた、読みたかった本だ。
しかし今日はあまり頭に入ってこなかった。いつもならばページを繰る手は規則正しいのだが、今日は行を読み飛ばして戻ったり、一度では文章が頭に入ってこず読み返したりで、遅々として進まなかった。集中できていないことは間違いなかったが、かといってこれを投げ出しても他に時間潰しはないので、少しずつ読み進めることに徹した。
そうこうしている内に室内が暗くなり、字面が読み辛くなって、幸は事務所の電気を点けた。明るくなった室内で時計を見上げると、夜の七時を回っていた。
ひょっとして、今日はもう戻ってこないのだろうか。
そんな不安が幸の胸をよぎった。だがその可能性を考えてすぐ、幸はそれを否定した。氷室のマンションの鍵が置きっぱなしなのだ。事務所に戻らず直接帰ったとしても、部屋に入れないだろう。遅かれ早かれ、氷室は戻るはずなのだ。
多分、きっと。
* * * *
待ちわびた音は、三時間後に訪れた。
氷室が戻ってきた時、幸はダイニングテーブルで本を読んでいた。顔を上げると、氷室は凄く驚いた顔をしていた。
「良かった、おかえりなさい」
「お前、……帰っていいと言ったのに」
「すいません。でも、心配で」
幸は本に
そして今度は幸が驚く番だった。
「その子……」
不機嫌そうな顔の氷室は、小さな女の子を抱えていた。
氷室は何も言わず、応接のソファにそっと小さな身体を横たえた。余程疲れているのか、女の子は少しも身動ぎせず眠り続けている。年の頃は四、五歳くらいか。明らかに未就学児だろうことは、その身体の小ささから幸にも分かった。
氷室は床に膝をついた状態で、女の子をずっと見ている。
その目には複雑な色が滲んでいた。どうとも形容し難い。ただ、氷室がその子を大切に思っていることは痛いほど伝わってきた。
無言でいる氷室にはしばらく構わない方が良いような気がして、幸は事務所の二階に上がった。
二階にはあまり使わないが八畳の畳部屋があり、押し入れの中には仮眠用の布団一式が仕舞われている。その中から、幸はタオルケットを一枚引っ張り出した。
多分氷室は自分のマンションに帰るだろうが、眠っている幼児をそのまま運ぶと風邪をひいてしまう。
移動中の車でも、これ一枚あれば大分違うはずだ。
そんなことを考えながら幸が階下に降りると、氷室はまだ同じ体勢のままだった。
小さな身体に合うように折り畳んだタオルケットを、幸はそっとかけた。
「……すまん」
氷室はたった一言そう言って、眠る小さな頬を見つめていた。
幼い頬には涙の跡があった。
ただならぬ様子の二人に、幸は声をかけることができなかった。
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