第28話 体感、段取り八分



「それで、週末一杯考えても考えは変わらないか」

 六月第二週目の月曜日。朝の掃除に一区切りをつけ、幸が氷室にお茶を淹れた時のことだった。

 所長机に湯呑みを置くと同時、氷室が幸に声をかけてきたのである。前述の内容で。幸は思わず湯呑みを持ったまま氷室の顔を凝視してしまい、二秒後に悲鳴を上げることとなった。

「……あっつ!」

 慌てて手を離すがもう遅い。痺れた指先に息を吹きかけつつ、幸は涙目になった。

「相変わらずだな。大丈夫か」

「氷室さんて、ほんといっつも冷静ですよね」

 何食べたらそうなれるんですかと幸は続けて尋ねてみたが、あっさり「そういう問題じゃないと思うぞ」と返された。さすが、その回答さえも冷静だ。

「えっと、気持ちは変わりません。氷室さんには申し訳ないですけど」

 言葉遊びをしている段ではないので、幸は真面目に答えた。

 そう、たかが二三日でこの決意が揺らぐはずもない。元より、氷室に相談を持ち掛けた時点で一世一代の覚悟は決まっていた。

 ここにきて「やっぱり辞めた」と言われると非常に困る。天界から降ろされた蜘蛛の糸がぷつりと切れるに等しい絶望だ。必然、幸は窺う視線で氷室を見た。

「あの、十年で足りなければ十五年でも二十年でもただ働きしますから、そこを何とかお慈悲を」

「時代劇に出てくる百姓か。安心しろ、約束は守る」

「ありがとうございます後光が差して見えます」

「とりあえず座れ」

 米つきバッタのように頭をぺこぺこ下げる幸を見つつ、氷室が所長机の横を指さした。

 幸は脇に寄せておいた木の丸椅子を引っ張り、言われた通り氷室の隣に腰かけた。大き目の所長机に、L字型に座る格好だ。何事かと幸が首を傾げると、氷室が真正面から幸を見つめてきた。

 瞬間、幸の心臓が跳ねた。

 よくよく考えてみれば、この至近距離で対面する機会などそうない。切れ長の氷室の目は横目だと迫力があるが、正面からだと優しく見える。二重に縁取られているせいだろうか。双眸は夜を思わせる漆黒で、吸い込まれそうになる。

 そんな幸の心境を当然知らないであろう氷室は、無造作に頬杖をついて言った。

「やると決めたのなら、色々とやらねばならんことがある。分かるな」

「えーと、はい」

 鈍い幸でもそれは理解している。黙っていて偽装結婚が勝手に成功するはずがない。

 ただし。

「色々やらなきゃいけないことがあるのは分かるんですけど、具体的に何をどうしたらいいのかはちょっと自信がないです」

 知ったかぶりをしてもしょうがないので、幸は正直に打ち明けた。

 氷室が顎に手を添える。指が長い。

「だろうな」

「す、すいません」

「そこは気にしなくていい。経験者は一人いれば事足りる。とりあえず、今後の具体的な流れを説明してやる」

 氷室が机上に置いてあった何かの書類を手に取り、裏返した。右手にはペンが握られている。

「最短ケースで行くぞ」

 言いながら氷室は紙の左端から右端へ一本の横線を書いた。

 次に、それを四等分する形で縦線を引く。そうして出来上がった簡単なマス目の一番上、表題の部分に、左から順番に一から四までの数字を書き込む。週単位の簡易カレンダーだ。

「今日がここ」

 左端、第一週のマス目の左端に三角形が追記される。実態としては六月は既に二週目に入っているが、結婚準備のカレンダーとしては今日が始まりだから、第一週として間違いではない。

「今月中には、と言ったな。ということは、式は最大限待ったとして」

 氷室がカレンダーに視線を投げた。今年の六月三十日は平日だ。

「ここ」

 右端、第四週のマス目の真ん中に、同じように三角形が書き込まれる。

「いいか。普通に結婚しようと思ったら、普通は大体一年はかかる」

「そんなに!?」

 初っ端から幸は度胆を抜かれた。自然と驚きに目が見開かれる。

 一年。結婚は人生の一大イベントとよく言われるが、それにしても一年。幸自身はいかんせん結婚したことがない身である。それ故未知の領域であるのは承知しているが、それでも唖然とするしかない。

 そんな幸を見て、氷室が半目になった。

「普通というのは結婚に付随する標準イベントを一通りこなすと仮定した場合だ。面倒だぞ、聞いて驚け」

 言い切った氷室は、続けて立て板に水の如く関連イベントを羅列した。

 曰く、

 まずは互いの両親に、自分達だけで挨拶に行く。その後、男側の親が女側の親へ挨拶に行く。次に結納。この時までに婚約指輪を用意する。そして披露宴の為の式場を選ぶ。結婚式は何式でやるのか、披露宴で何を着るのか、色直しは何回か、誰を呼ぶか何人呼ぶか、料理は、引き出物は、途中の余興は、両親への贈り物は、二次会会場は。決めなければならないことは枚挙に暇がない。

 今時仲人がいなくてもそれなり真面目にやろうとすれば大筋でもこうなる。その中で式場でも式服でも自分の希望を叶えようと思えば、早々に動いてそれらを予約していかねばならない。まして色々な人間のスケジュール合わせを勘案すると、ある程度まとまった時間の確保が必要不可欠となってくる。

「だが俺達はそういう普通のやり方は選べない」

 そこで氷室が言葉を区切り、確認するように幸の瞳を覗き込んできた。

 幸は、神妙に頷いた。

「……はい」

 覚悟の上だ。

 結婚式への憧れがないと言えば嘘になる。願わくば綺麗なドレスを着てみたいと思うし、できれば沢山の人から祝福されてみたいとも。何より、隣に立つ人は「この人と生きていきたい」と心の底から思った相手がいい。

 けれど今それは叶わない。

 幸が決めたことだ。これはあくまでも父を安心させたい一心からのお芝居という位置付けであって、多くを望むべきではない。本来であれば本当の結婚式を見せてあげられれば良かったが、ここまでが今の幸にできる精一杯だ。できることをやるしかない。

 幸の覚悟が伝わったのか、氷室は一つ頷いてくれた。

「今週末、俺がまず挨拶に行く。来週中に俺の両親に挨拶兼ねて上京させる。簡易だがこれで顔合わせとして、結納は飛ばす」

 二週目までのスケジュールが埋まった。

「そして、三週目までにお前の式服を選ぶ。悪いが教会式で決定だ。洋装――所謂ウェディングドレスというやつになる。これを決めて、あとは四週目に式だ」

「……お願いした立場で言うのもあれなんですけど、壮絶に申し訳ない単語が幾つも聞こえた気が……するんですけど……」

 顔色一つ変えない氷室に対し、幸の声は消え入りそうになった。

 氷室がまず挨拶に来てくれるという。それは病院に、だろう。そして氷室のご両親にまでわざわざ出向いてもらう。この時点で既に申し訳なさが臨界突破しそうだ。

 ところが、である。

「気にするな」

 やはり顔色が変わらないままで氷室は言い放った。

「この程度、大した労力じゃない」

 標準一年が僅か一ヶ月でしかない、よって比べるべくもない。氷室はそう続けた。

 この忍耐強さというか動じなさは事だ。人生の一大イベントを二回も経験すると、閾値が常人より遥かに高くなるのだろうか。

「すいませ」

「それはもういらん」

「え」

「俺が好きで請け負ったことだ、一々謝らなくていい。相槌の度にそれだと、一生分のすいませんをこの一ヶ月で使い果たすぞ」

「す、」

「……」

「……何でもありません」

 氷室からの激烈な視線に晒されて、反射で喉から出かかった「すいません」を幸は気合で飲み込んだ。

 このまま話を続けると開口一番「すいません」が飛び出そうなので、休憩がてら幸は良い頃合いに飲みやすくなった緑茶を口に含んだ。それを見て満足そうに頬を緩めつつ、氷室も同じように湯呑みを手に取った。

 幸は心で誓った。

 全てが終わったら、誠心誠意この人にお礼を言おうと。

 助けてくれるとこの人は言ってくれた。約束を違えるような人ではないことは、短い付き合いながら信じられる。だから、全てが終わるまでは、この人に全てを任せようと思った。

 そうと決めれば、幸は自分の気持ちに正直になることにした。つまり、疑問に思ったことや訊きたいことは率直に口に出す、という意味で。

「あのう、教会って?」

 幸の疑問に、ああ、と氷室が相槌を寄越してきた。

「実家の縁で懇意にしている神父がいる」

「そうなんですか」

「式を挙げるだけならその教会を貸し切ればいい。融通は利かせられる。この際、キリスト教信者かそうでないかは目を瞑るしかない……そういえばお前、イスラム教徒だったりするか」

「大丈夫です違います、普通の日本人らしく普通に無宗教です」

 お盆もクリスマスも初詣も平等に楽しんでいる。幸がそう付け加えると、氷室がほっとしたように頷いた。

「そうか。典型的日本人だな、ある意味安心した」

「漢字は若干怪しいですけどね……」

「そういえばそうだったな」

 思い出したのか、氷室が不意に笑った。

 今まで見たことがないような柔らかさだった。

「それと式服の業者にも伝手はあるから、基本的にお前は何もしなくていい。何もしなくていい代わりに、何も選ばせてやれないが」

 精々が式服――ウェディングドレスを選ぶくらいしかできない、と氷室は続けた。表情が曇っている。あなたがそんな顔をする必要はない、そう伝えたくて幸は慌てて首を横に振った。

「そんなこと。ドレスを選べるだけでも夢みたいです」

「選ぶといっても白しか着れないぞ? ……親父さんの体力的に、おそらく披露宴はできないだろうから」

「分かってます。白だけでも嬉しいんです。だって花嫁の色じゃないですか」

「……そうだな」

「……氷室さん、珍しい」

「何が」

「そうだな、って」

 いつもなら「そうか」と言われそうな場面だった。氷室が殊の外よく使うその言葉は、同意というよりは相槌の意味合いが強いと幸は認識している。

 どういう風の吹き回しか。まさかここで同意が来るとは思っておらず、幸は単純に驚いて目を瞬いた。

「そうか?」

 氷室が小首を傾げた。

「あ、いつもの氷室さんです」

「……そうか」

 幸は声を上げて笑った。

 一つの言葉でこれほど豊かに相槌を使い分ける人もそうはいないだろう。


 こんな話で笑い合う日が来るなんて、休学を決めたあの日には想像もできなかった。

 そして、この人が力を貸してくれるのなら、きっと大丈夫な気がした。


*     *     *     *


 一通り話し終えた後、氷室が所用で外出した。欲しい本があるらしく、そういうわけで幸は留守番と相成った。

 待つ間に湯呑みを洗おうと幸が手を伸ばすと、電話の呼び出し音が事務所内に鳴り響いた。音楽ではなく至って普通の呼び出し音だ。ということは鳴っているのは幸のではなく、氷室のスマホである。

 幸は顔を上げて事務所内を見回した。

 所長机の上、いつもの場所には無い。だが近辺で音が聞こえる。耳で出所を辿りつつ探ると、書類の下で着信を告げるスマホを見つけた。隠していた犯人は、先ほど氷室が手書きしてくれた簡易スケジュールだ。一通りの説明が終わって脇に除けた時、たまたまスマホの上に置かれたのだろう。その結果、氷室はそれを忘れて外出した。

 着信は鳴り続けている。

 捜し当てるまでにそれなりに時間を費やしたにも関わらず、だ。

 コールにして十回以上は優に超えている。普通なら、きっと電話にでられない状況だろうと察して切ってもおかしくない頃合いだ。それでもスマホはまだ持ち主を呼び続けている。

 幸は迷った。

 プライバシーのこともあり、他人のスマホを勝手に見るのは気が引ける。だがこれだけ呼び出し続けるということは、相手は余程切羽詰った状況にあるのかもしれない。そうであれば、氷室が不在にしていること、一時間もしない内に戻ってくることくらい伝えてあげれば、相手は一先ず安心するか。

 躊躇いつつ、幸はそっと携帯の画面を見た。

 表示されているのは知らない名前だった。女性。少なくとも、幸が知っている相談者ではない。

 以前、氷室が言っていた。この相談所に来れるかどうか、氷室を捉まえられるかどうかは縁なのだと。新規の相談者だろうか。そうであれば、これほどまで電話をかけ続けるその心中はいかばかりか。繋がらない電話に、今まさに絶望しているかもしれない。

 そう思うと居ても立ってもいられず、幸は通話ボタンを押した。

「もしもし、お待たせしました。あの、氷室さんは今」

『おとうさん?』

「はい?」

 予想外の呼びかけに、思わず幸は聞き返した。

 しかし相手からは何も返ってこない。

「あの、もしもし? この電話は氷室さんのですが、今ちょっと外出してます。私は従業員です。氷室さんは一時間もすれば戻りますので、折り返しでもいいですか?」

『え……』

 受話器の向こうで戸惑いの声が漏れた。

『おとうさん、』

「もしもし?」

『……』

「ええっと、……これは氷室さんの番号ですけど、かけ間違ってはいませんか?」

 極力丁寧に優しく、幸は見ず知らずの相手に語り掛けた。相談者かもしれないのだ、下手な応対はできない。

 ところが待てども相手は無言のままである。かといって、通話を切るわけでもない。幸の方も切るに切れず怪訝に思っていると、受話器から微かな音が聞こえることに気付いた。

 嗚咽だ。

 押し殺すようにして、泣いている。時々堪えきれずにしゃくり上げる音が漏れ聞こえてくる。

 思わず幸は眉を顰めた。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

『っ、う……』

「相談者さんですよね? 氷室さんすぐに戻ってきますから、心配しないで下さい。折り返すように必ず伝えますから」

 言い終わるか否かの内に、電話は切れてしまった。通話終了の音が無性に寂しく耳についた。

 ゆっくりと幸は受話器を降ろし、画面を見た。かけ直そうと思えばできる。明らかに電話の相手――篠原響子しのはらきょうこという女性は、とても切羽詰った様子で泣いていた。単純に心配になる。

 だが心配だからといって、幸がかけ直してもあまり意味がないように思えた。


 僅かな焦燥感を覚えつつ、幸は氷室の帰りを待つことにした。


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